二つで一つ

 その日、校内はいつにも増して騒がしかった。今日は年に一度のバレンタインデーなのだ。
 居心地の悪さを覚えた氷上は、校内の喧騒から逃れるようにして、屋上へ出てきた。屋上にも人がいないではなかったが、校内の騒がしさに比べれば、まだましであった。
 フェンスに寄りかかり、思わずため息をつく。いつもならば生徒会執行部の立場を利用して、やたらに騒ぎ立てる生徒や、お菓子を持ち込む生徒を取り締まれるのだが、今日は特別措置を取るようにとのお達しだ。
 今までの氷上は、こんな浮かれた行事に全く関心がなかった。女子からチョコレートをもらえるわけでもないし、恋愛だなんだと騒ぎ立てるほど、意識している相手がいたわけでもない。だからこそ、容赦なく浮かれた者たちを取り締まれたし、そうしたいとも思っていた。
 だが、今日は違った。少しばかり、騒いでいる彼らの心境が分かるような気がしていたのだ。
 氷上は真っ青な空を見上げ、ある一人の女子の顔を思い浮かべた。
 ――彼女もやはり、この行事に参加しているのだろうか?
 彼女とは、最近親しくしている海野のことだった。参加しているとして、彼女は誰にチョコレートを渡すのだろうか。それが自分であれば良いのにと一瞬考えたところで、氷上は慌ててその思考を断ち切る。急に気恥ずかしくなって、これ以上考えていられなくなりそうだった。
 だが、ならば自分以外の誰かなのか、と考えると、燃えるような嫉妬心が自分の中に湧きあがってくるのを感じた。こんな感情を今まで抱いたこともない氷上は、思わず戸惑った。
 最近は、いつもそうだ。彼女のことを考えると、氷上の思考が負のスパイラルに巻き込まれる。こんなことは初めてだ。嫌なことを考えているならまだしも、好意を抱く相手のことを考えて、思考が暗い方向へ行くだなどと――


 その時、屋上への扉が音を立てて開いた。続いて重い鉄扉の軋む音が響き、何気なくそちらに視線を向けていた氷上は、心臓を鷲掴みにされたかと思うくらい、驚くはめになった。屋上の扉を開いて出てきたのは、氷上が思い浮かべていた張本人、海野だったのだ。
 海野は氷上の姿を認めると、笑みを浮かべて駆け寄ってきた。氷上は思わずごくりと唾をのんだ。
「氷上くん、ここにいたんだね。教室に行ってもいないから、探したよ」
「あ、あぁ! そ、それはすまなかったね……」
 思わず、声が裏返る。氷上はごまかすように咳払いをして、海野に尋ねた。
「コホン、それで、僕に何か用かい?」
「うん。はい、これ。今日、バレンタインデーでしょう?」
 そう言って彼女が差し出したのは、淡い桃色の包装紙でラッピングされたチョコレートだった。包装紙に包まれたチョコレートは、はっきりとそのハートマークを浮かび上がらせていた。
「あ、ああ、ありがとう」
 心臓が早鐘を打つ。おそるおそる、氷上は手を伸ばした。手の先が震えていることを、氷上は認めざるを得なかった。
 受け取ったチョコレートを、手を受け皿のようにして眺める。よくよく見ると、それは僅かにいびつな形をしていた。市販品ではないのか、と氷上は疑問に思った。はっと顔を上げると、彼女は微笑みながらも、幾分か疲れた表情を浮かべていた。
「まさか、これ、君の手作りなのかい?」
「うん、そうなの。気付いた?」
「だって、君、すごく疲れた顔をしているよ。もしかして昨日、あまり寝ていないとか?」
「うん……バレちゃった?」
 小さく舌を出して笑う彼女を見て、氷上は何故か申し訳ない気持ちになった。彼女が自分のために、睡眠時間を削ってまでチョコレートを作ってくれた。この上なく嬉しいことのはずなのに、自分が彼女にそうさせてしまったのだと思うと、少し心が痛んだ。
「僕のために……すまなかったね」
 思わず、謝罪の言葉を口にしていた。海野は慌てたように、首を横に振った。
「ううん! いいの。だって、今日は特別な日だから。ね?」
「あ、ああ……そうだね。ありがとう」
 氷上は彼女の笑顔につられるようにして、思わず微笑んでいた。心の中に火が灯ったように、温かい気分になった。
 彼女はふふと笑うと、氷上の手の中のチョコレートを指差した。
「ね、氷上くん。良かったら開けて、食べてみてくれない?」
「えっ? 今、ここでかい?」
「うん。だめかな?」
 生徒会執行部として、菓子類を校内で食べることは気が咎めた。だが、他でもない彼女の頼みを断るわけにはいかないし、何より、心の底では、氷上も早くそうしたいと考えていた。
 氷上は頷いて、全体を包むリボンに手をかけた。
「じゃあ、いいかい? 海野君」
「うん!」
 彼女の声を合図に、氷上は包装を解いていった。
 彼女はにこにこと笑って、氷上がチョコレートの包装をはがしてゆくのをじっと見つめている。それがあまりに至近距離で、氷上は二つのことに悩まされなければならなくなった。綺麗な包装紙が誤って破れないかという不安。もう一つは、あまりに心臓の鼓動が早すぎて、爆発してしまうのではないだろうかという、考えてみればくだらない不安。
 なんとか上手く包装を解き、氷上はチョコレートを手にした。それは手作り感を残しながらも美しい形で、実においしそうだ、と氷上は思った。海野は少し照れたように笑って、僅かにいびつな部分を指差した。
「ごめんね。ここ、なんだか歪んじゃってるね」
「そんなことはいいんだよ。僕なんかのために作ってくれて、とても嬉しい」
 心からの言葉だった。海野は心底ほっとしたような表情になった。
「じゃあ、どうぞ。食べてみて」
「ああ、ありがとう」
 氷上は礼を言って、チョコレートと向き合った。さすがにこのままかじりつくわけにもいくまい。細かく割って食べようと、氷上はチョコレートの左右に手をかけ、力を入れた。
 直後、ぱきん、という音がした。割れたチョコレートを見てみると、なんとそれは、真っ二つに割れていたのだった。
「わっ、綺麗に割れたんだね」
 海野が感動したように言う。氷上は思わずその一方を、海野に差し出していた。
「せっかく綺麗に割れたんだ。君も、食べるかい?」
「えっ? でも、それは全部氷上くんのだから……」
「僕は、君さえよければ、構わないけれど」
 海野は戸惑ったようにチョコレートを見ていたが、やがておずおずと手を差し出した。
「いいの? 本当に」
「ああ、いいとも。二人で食べよう」
「うん、ありがとう!」
 海野は嬉しそうに微笑んで、それを受け取った。
 ハートマークの真ん中で割れてしまったチョコレート。ともすれば、ハートが割れたように見えるかもしれないけれど、氷上は大して気にしなかった。彼女も気にしているふうには見えないので、氷上は少し安心した。
 だがその後、彼女が放った一言で、その二つに割れたチョコレートは重要な意味を持ち始めたのだった。
「これ、二つで一つ、だね」
 そう言って、氷上が持つチョコレートの割れた部分に、海野はぴたりと自分のチョコレートを寄せた。そうすると、チョコレートの元の形が浮かび上がった。元々一つだったものを割ってこうしたのだから、そうなるのは当然なのだが、何故そんなことをわざわざ言うのか、氷上には最初わからなかった。
「ああ、それはそうだろうけど……どうして?」
「ふふ。わたしのチョコレートと、氷上くんのチョコレート。二つで、ハートが完成するんだなあと思って」
 微笑みながら言われた彼女の言葉が、氷上の心臓の鼓動を速めた。
 氷上は思わず眼鏡の位置を直し、まじまじとチョコレートを覗き込んでいた。このチョコレートを、もし、自分たちの気持ちに置き換えたとしたら? 自分の気持ちと海野の気持ちが、このチョコレートのように同じくらいあったなら、それはぴたりとくっついて、完成された美しい形になってくれるのだろうか。
 氷上の全身の体温が、急激に上昇していくのを感じた。
「どうしたの、氷上くん。顔、赤いよ?」
「あぁ! い、いや、なんでもないんだ、なんでも……」
 ははは、と乾いた笑いを洩らす。海野は少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃ、一緒に食べよっか?」
「ああ、そうだね」
 頷いて、二人は一斉にチョコレートを口にする。
 甘くて、ちょっぴりほろ苦いチョコレートの味が、口いっぱいに広がるのを感じた。
(2009.2.11)
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