星に願いを

「こんなものを置いていったのは誰だ!?」
 学校の中庭で、氷上の怒った声が響いた。だが早朝の羽ヶ崎学園に人気はなく、彼の声を聞いた者は誰もいなかった。
 今朝、誰よりも早く学園に着いた氷上は、教室に鞄を置いた後、ふとあの場所に立ち寄ってみようかという気になった。あの場所というのは学校の中庭に植えられている大きな木の下のことで、たまに眠気に耐えられなくなった時、そこへ行って眠ることがあった。人気がなく、こっそりと昼寝をするにはもってこいで、氷上のお気に入りの場所でもあった。
 朝日を浴びてすがすがしい気分になりながら、氷上はその場所に向かった。するとその巨大な木の下に、何かが立てかけられているのが目に入ったのだ。
「何だ、あれは?」
 氷上は木に近寄った。そして、その立てかけられているものの正体を知ったのだ。
 その正体は、笹だった。正確に言えば、たくさんの短冊がつるされた笹だった。ピンク、水色、黄色――色とりどりの短冊が、緑の笹に彩りを添えている。
 だが、今の氷上はそれを美しいと思うことはできなかった。何より、生徒会会長として強く根付いた規律心が、それを許さなかった。
「こんなものを校内に持ち込むなんて……一体誰なんだ!」
 氷上は誰もいない裏庭で、怒りを込めて叫んだ。声は空しく校舎に反射するばかりだったが、氷上の怒りは収まらなかった。
 校内に、学習と関係のないものを持ち込んではならない。どこの学校にも共通して存在する規則である。この笹はそれを平然と破るかのように、中庭に置いてあった。しかも、氷上の一番お気に入りの場所に、断りもなく、だ。
 まあ、この場所は氷上が勝手にお気に入りとした場所なのだから断りも何もないが、そんなことより、規則を破った生徒がいるという事実が、氷上の頭を怒りで沸騰させていた。
 確かに今日は七月七日。何の日か、それくらい氷上にも分かる。この笹の意味も、もちろん理解している。校内以外の場所でこれを見かけたならば、風流と思うこともできたろうに――氷上は怒ると同時に残念な思いをした。
「全く。明日の全校集会で、皆にこのことを注意しなければ……」
 氷上は立てかけられた笹を片手で持ち、それを眺め回した。あらゆる枝という枝につるされた、たくさんの短冊。ペンや鉛筆で、めいめいに願い事を書いているようだ。『お金持ちになれますように』『好きなあの子が振り向いてくれますように』『○○先生の宿題がなくなりますように』――ありがちな願い事もあれば、個性的な願い事もある。さすがに欲望の塊のような願い事には、氷上も嘆息した。氷上とて欲望がないわけではないが、あまりに幼稚ではないか、と。
 今日は一日晴れと聞いているから、おそらく夜もよく星が見えることだろう。氷上は青空を仰いで再び嘆息した。一年に一度しか会えない織姫と彦星が、この願い事を全部叶えなければならないとしたら――なんと辛い作業だろうか。あまりに可哀相だと、氷上は知らず知らずのうちに彼らに同情していた。
 もちろん、全ての願い事が叶えられるなんて、そんなうまい話があるはずはないのだが。


「とにかく、これをここに置いておくわけにはいかないな」
 氷上は笹の処理に困った。さすがにそのまま捨てておくわけにはいかないが、かといって良い処分方法が思いつくわけでもない。全ての短冊を外し、短冊は燃えるゴミへ、笹は山へ持っていって捨てるという方法も思いついたが、あまりに骨が折れるし、何故自分がそれをやらなければならないのかと思った。させるなら、罰の意味も込めて笹を校内に持ち込んだ生徒にさせるべきだろう。
 氷上がしばらく思案していると、突然肩を叩かれ、氷上はあまりの驚きに情けない声を出してしまった。
「うわっ!」
「あ、ご、ごめん。驚かせちゃったかな」
 後ろを振り向くと、そこには少しすまなそうな顔をした海野が立っていた。
 氷上はそこでもう一度心臓が跳ね、暴れ出しそうな心臓を抑えるように胸に手を当てながら、彼女に応対した。
「あ、や、やあ、海野くん。おはよう」
「おはよう、氷上くん。早いんだね」
 氷上は驚いた衝撃でずれてしまった眼鏡を直し、海野の方へ向き直った。
「君こそ、早いんだな。まだ生徒は誰も来ていないようだけれど?」
「うん。なんか、早起きしちゃって。氷上くんの教室を覗いたら鞄しか置いてなかったから、ここに来てみたの。当たりだったね」
 海野はにっこりと笑った。
 彼女には以前、ここで眠っているのを発見されてしまったことがある。氷上は大いに焦ったが、彼女と自分の秘密とすることで、その場を収めた。だから、彼女は氷上のお気に入りの場所を知っているのだ。
 ふと、海野は氷上が持っている笹に目をやった。たちまち、彼女の目は無邪気な子供のように輝き始めた。
「それ、七夕の笹だよね? 氷上くんが持ってきたの?」
「まさか! 僕がこんなもの、学校に持ってくるわけがないだろう?」
「そ、そうだよね。ごめん」
 氷上が少し苛々した口調で言うと、海野はまた申し訳なさそうに謝った。少し言い過ぎたかと反省し、氷上も眼鏡の位置を直しながら謝った。
「す、すまない。君を責めるような言い方をしてしまったな」
「ううん。そうだよね、氷上くんが持ってくるわけないよね。でも、だったら、誰が?」
「それが分からないから困っているんだ。全くこんなものを学校に持ち込むなんて。みんなは規則を何だと思っているんだろうか?」
 氷上は怒りを吐き出すように言った。こういう規則を破る生徒は山のようにいるけれど、なんとなく、今もそれを許せない気分だった。
 目の前にいる海野と出会って、自分はだいぶ柔らかくなったと思うし、人にもそう言われるようになった。だが、小さい頃から心の中に埋め込まれた、規則破りを許せない思いが未だに残っている。それがたまに頭をもたげ、離れなくなるのだ。
 あまり良くないことだとは思っていたが、どうしても止められないのだった。


「あっ!」
 その時、今まで黙っていた海野が突然声を上げた。何事かと思っていると、彼女はスカートのポケットをごそごそと探る仕草をし、氷上の目の前に何かを出してきた。氷上は一瞬それが何か分からなかったが、眼鏡を直して落ち着いて見ると、それは二枚の短冊だった。
「こ、これは?」
「氷上くんも書かない? 願い事」
 突然のことに、氷上は戸惑った。自分たちはこの笹を置いた犯人の話をしていたはずだが、それがどうして、短冊に願い事を書くという話に至るのだろうか。
「海野くん、これは一体どういう……」
「さっき、思い出したの。クラスの子たちが、七夕に笹を学校に飾るって話をしていたこと」
「君のクラスの生徒だったのか? これを持ち込んだのは……」
 氷上は嘆息した。思いがけないところで犯人は判明したが、怒ると言うよりも呆れていた。そんな規則破りの話が、堂々とクラス内で行われていたとは。
「ごめんなさい。でも、せっかく七夕なんだしと思って。いけないのはわかってたけど」
「海野くん、君も生徒会執行部の人間だろう?」
「だけど、みんなすごく楽しそうだったの。その顔見てたら、止めなよなんて言えなくて……」
 氷上は再び嘆息した。だが、彼女の気持ちはよく分かった。自分ももしこれを彼女が楽しそうな表情で持ってきたなら、面と向かって注意することをためらっていたことだろう。楽しいことを封じられて、気持ちの良い人間なんていない。それは封じる側も同じ事だ。
「この短冊、昨日もらったんだ。願い事書くといいよ、って言われて」
「これを、僕に書け、と?」
「嫌なら、いいんだけど。せっかくの七夕だから、氷上くんもどうかなと思って」
 海野は微笑む。まるで氷上に選択肢を与えないかのように。
 彼女に少なからず好意を抱いている氷上にとって、彼女の誘いを断るのは苦痛だった。生徒会長の規律心と、彼女への好意の間で、氷上は揺れた。手を伸ばそうとして、ふと、それが止まる。そうしてなかなか動こうとしない氷上を見て、海野は怪訝そうな顔をした。
「氷上くん、どうしたの?」
「ああ、いや……」
 氷上はああ、もうどうにでもなれと思った。規則より彼女を優先した自分は、短冊に願い事を書いた生徒たちと全く変わらないではないかという思いが手を止めようとしたが、氷上はそれに逆らい、短冊を一枚受け取っていた。
「……僕も、書こう」
「良かった!」
 海野は嬉しそうに言い、氷上はその笑顔のあまりの眩しさに視線を逸らした。
「これで、氷上くんも共犯だね」
「……物騒な表現はやめてもらいたいものだな」
 やりとりの後、二人は小さく微笑みを交わした。


 黒いサインペンをポケットから出すと、海野は手のひらに短冊を載せて願い事を書き始めた。書きにくいね、と苦笑しながら、彼女は迷うことなく願い事を書き上げたようだった。
「なんて、書いたんだい?」
 氷上が尋ねると、氷上が再び大木にもたせかけた笹に短冊を吊しながら、海野が嬉しそうに言った。
「『今日は好きな人と一緒にいられますように』って書いたの」
 氷上の心が冷めていくような気がした。やはり、彼女には思いを寄せている男がいるのだろうか。それが自分だとしたら、もう飛び上がりそうな程に嬉しいけれど、もし、自分でなかったら、そんなことを考えて、氷上は首を横に振る。
 ――僕は一体何を考えているんだ……
 海野はその様子に気付かなかったらしく、はい、とサインペンを渡してきた。
「氷上くんもどうぞ」
「あ、ああ」
 戸惑いながら受け取り、氷上は悩んだ。何と書くべきだろうか。
 例えば、『もっと成績があがりますように』。確かに現実的だが、今ここで書くべきことではないような気がする。かといって、ここに書くほどの強い金銭欲や物欲は、今の氷上の中にはほとんど存在しない。
 悩んだ末、氷上はペンのふたを取った。悩みながら書いたせいでインクの染みを作りながら、氷上は願い事を書き上げた。氷上が悩んでいるのを書きにくそうにしているのだと受け取ったのか、「ね、書きにくいよね、手の上」と海野は言った。
 いけないことをしているような思いに駆られながら、氷上は短冊の先の紐を笹に結んだ。後ろから海野が覗き込むようにして、尋ねてくる。
「氷上くんは、なんて書いたの?」
 氷上はすう、と息を吸い込んだ。緊張しながら、後ろにいる海野を振り返る。
「君と、一緒だよ」
 海野は相当驚いたようだった。目を見開き、口を開けてそれを手で覆った。
「氷上くん、好きな女の子がいるんだ?」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
 言葉を濁す。海野はそれ以上追及することなく、そうなんだ、と頷いた。
 改めて、笹を眺める。どこからか吹く微風によって、笹の葉がさらさらと揺れていた。氷上は幼い頃幼稚園で聴いた童謡を思い出していた。笹の葉さらさら、歌詞はそこまでしか思い出せないが、メロディーは焼き付いているらしく、氷上の頭の中でぐるぐると回り始めた。
「でも、もっと違う願い事にすれば良かったかな」
 突然、隣の海野がそんなことを言い出すので、氷上は驚いた。
「え? どうしてだい?」
「だって、もう叶っちゃったから。願い事」
 海野はにっこりと笑い、氷上はその言葉の意味を懸命に理解しようとした。もう願いが叶った? 一日は始まったばかりだというのに、彼女はもう、意中の人物と会ったのだろうか。
 氷上はそこまで考えて、ああ、と気付いた。嬉しそうに笹の葉を眺める海野に向かって、氷上は呟くように言葉を発する。
「僕も、もう願いは叶ってしまったな」
 ――今、さっき、君が来たから。
 後の言葉を呑み込んで、氷上は何事もなかったかのように笹の葉を眺める。
 海野がその言葉に気付いて、え、と小さく言葉を発したが、氷上は聞かなかったふりをして、温かい気持ちで願い事の吊された笹を見つめていた。
(2009.7.11)
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