Starlight Night

 星というものはどうしてこうも自分を強く引きつけるのか、氷上は常に考えていた。幼い頃からそうだった。両親と手を繋いで夜道を歩いた時、父親が指差す方へ視線を向ければ、そこにはいつも小さな星々が無数に光り輝いていた。その光に目を奪われ、両親に手を引かれるまで、その場に立ち止まっていたこともある。満天の星空を見ていると吸い込まれそうになり、星たちが自分を、物語で読んだ神秘的な世界へ連れて行ってくれるような気がした。
 やがて氷上は星座というものを知った。ただ点在しているだけのように思える星たちを、あらゆるものの形に見立てようとした過去の人間たち。氷上はその歴史に感銘を受け、ますます星というものに強い興味を抱くようになっていた。夜ベランダに出て、小学校の理科の授業で使った星座盤と交互に空を見上げ、多くの星座を覚えた。いつしか星と一緒にいられる時間が、氷上にとっての何よりの癒しであり、楽しみとなっていた。
 氷上が星に興味を抱いていると知った両親が、誕生日に天体望遠鏡をプレゼントしてくれた。その時の氷上のはしゃぎようったらなかった。同級生たちがその姿を見れば、仰天して言葉を失ってしまうのではないだろうか――それくらい、氷上の喜びようは尋常ではなかったのだ。
 それ以来、天体望遠鏡は氷上の大切な宝物になっている。毎日丁寧に磨き、機会さえあればマンションの屋上に置いてもらって星の観測をしている。天体望遠鏡で星を眺めている時、氷上はいつも幸せを感じていた。
 高校生の頃、氷上に初めて好きな女の子ができた。ある日、ちょうど天体望遠鏡を出している時に、彼女をマンションの屋上に誘ったことがあった。彼女にも星を見てもらいたい、星の神秘を知ってもらいたい――そんな思いから出た行動だったが、彼女はとても喜んでくれた。そんな彼女の姿を見ると、自分まで幸せな気分になった。その時氷上は初めて、自分の嬉しさを他人と共有する幸せを知ったのだった。
 二人は恋人関係になった後も、何度か一緒に天体観測をした。夜、彼女と二人きりで大好きな星空を見上げる――それは氷上にとって、至福の時間だった。


 ある冬の夜。氷上は彼女に電話をかけていた。数回のコールの後、彼女が電話に出る。
「はい、もしもし」
「海野君、僕だ」
「氷上くん、どうしたの?」
 氷上は卓上カレンダーを片手に、話を続ける。
「来週の土曜日の夜なんだが、何か予定はあるだろうか?」
「ううん、何もないよ。どこかへ出かけるの?」
「ああ。天体観測にね。冬の星座、君と一緒に見に行きたくて」
 途端に、彼女の声が興奮したように高くなる。
「わあ、楽しみ。冬の星座っていうと、クリスマスに氷上くんに見せてもらった――」
「ああ、冬のダイヤモンドかい?」
「そう。それがすっごく綺麗で、忘れられないな」
 覚えていてくれたのかと、氷上は思わず笑みをこぼす。高校三年のクリスマス、彼女を外に誘い、一緒に空を見上げたことがあった。果たして彼女は喜んでくれるだろうかと心配したが、杞憂に終わった。あの時の嬉しそうな彼女の顔を、氷上は今でも忘れられない。
「僕も忘れられないよ。だからもう一度、見に行こう」
「うん。じゃあ、楽しみにしてるね」
「ああ。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 挨拶を交わして、電話を切る。氷上は携帯電話を机の上に置くと、窓辺に行きカーテンを開いて空を見上げた。
 まずはじめに目に飛び込んできたのは、澄んだ夜空に浮かぶ青白い月だった。今日は満月か、と呟く。屋上に天体望遠鏡を出していたら観察しに行くのにと、少しばかり残念な気持ちになった。
 満月は明るいから長時間の観察には向かないが、それでも一度見ておくだけの価値はある。
 海野は今日が満月だと知っているだろうか。氷上はもう一度電話をかけたい気分になった。だが先程切ったばかりだし、迷惑になるかもしれない。氷上は迷った後、メールをすることにした。
『今日は満月が綺麗だ。海野くんもまだ起きていたら見てみるといい』
 一分ほどで、すぐに返事が返ってきた。
『本当。すごく綺麗だね。教えてくれてありがとう』
 携帯電話の画面を見ながら、氷上の唇が横一杯に広がる。再び空を見上げ、彼女も同じ月を見ているのだと思うと嬉しくなった。
 天体は氷上を惹き付けるばかりではない。幸せな気分まで運んでくれる。週末彼女と行く天体観測に思いを馳せながら、氷上はいつまでも明るい月を見上げていた。


 幸いなことに土曜日の夜は雲がほとんどなく、黒いインクをこぼしたような夜空に星が無数に瞬いていた。冬の空は七つも一等星が輝いていて非常に華やかだ。星座を知らない者が見ても、あっという間に心を奪われるに違いない。氷上はこの冬の空が大好きだった。
 はばたき山から流れてくる川の土手で、氷上はゆっくりと腰を下ろした。続いてその隣に、スカートを直しながら海野が座る。寒い冬の夜ということもあってか、周りに誰もいないのが幸いだった。
「寒くはないかい?」
「ううん、大丈夫。氷上くんは?」
「僕も平気だ。今日は着込んできたからね」
「私も。寒くないように、下に何枚も重ねてきたよ」
「そうか。それなら大丈夫だな」
 氷上は頷いて、続いて空を見上げる。つられるようにして、海野も顔を上げた。
「――じゃあ、もう一度おさらいだ。あそこに三つ並んだ星が見えるかい?」
「うん、見えるよ。あれがオリオン座だよね」
「そう。で、その北に見えるのがベテルギウス。三つ星を挟んで反対側にあるのが、リゲルだ。それで――」
「この二つの星は対立しているみたいに見えるから、平家星と源氏星って呼ばれてたんだよね」
 突然氷上の言葉を遮り、海野が言葉を発した。
 氷上は思わず海野の顔をまじまじと見つめた。数秒後に海野はその視線に気付き、あっ、と言って、やや不安そうな顔をした。
「ご、ごめんね、氷上くんの邪魔しちゃって……」
「い、いや、そうじゃないんだ。それより海野くん、それは何かで調べたのかい?」
「うん。インターネットで、少しだけ。間違ってたかな?」
 氷上は大きく首を横に振る。
「いや、合っているよ。だから驚いたんだ」
「そっか、良かった。今回は初めて行くんじゃないのに、何も知らないままなのは氷上くんに失礼かなって思ったから……」
 海野は照れたように笑った。
 氷上は急に彼女がとてつもなく愛おしくなった。氷上のために、海野は知識を蓄えてきてくれたのだ。氷上の話にきちんとついて行けるようにと。
 氷上自身がそうなのだが、知らないことを知らないままにしておくのは耐えられないし、話す事柄が事前に分かっていれば、きっちり調べた上で会話に臨むことにしているから、海野も同じようにしてきてくれたと知って感動し、しばらくその場に固まっていた。
「――くん、氷上くん?」
 海野に名を呼ばれてやっと我に返る。ややずれた眼鏡の位置を直し、すまない、と一言謝ってから続けた。
「嬉しかったんだ。君が星のことをいろいろ調べてきてくれて。ありがとう」
 礼を言うと、海野は首を振った。
「ううん。だって、氷上くんがせっかく説明してくれてるのに、理解できなかったら嫌だし」
 それにね、と言いながら海野は夜空を見上げる。
「好きなんだ。氷上くんの顔」
「えっ?」
「氷上くんが、星について話している時の顔。氷上くんの目、星みたいにきらきら輝いてるんだもん」
 氷上は目を見開いていた。同時に、顔が熱くなる。ずれてもいない眼鏡を再び直して、海野から視線を逸らした。話に熱中している時の自分は、なかなか客観的には見られないものだ。好きだと言われて嬉しい反面、氷上の心の中では恥ずかしさの方がやや勝った。
「ごめん。こんなこと言われるの、嫌だった?」
 顔を背けてしまった氷上を、海野が気遣ってくれる。今すぐにでも振り向いて、違うんだと思い切り否定したくなった。恋人に好きな点を言われて、嬉しくない者などいない。だが気恥ずかしさが勝って、肩を震わすことしかできなかった。
 二人の間に沈黙が流れた。痛々しいほどの静寂。止まってしまった空気を再び動かすのは勇気が要ることで、氷上はなかなか第一声を発することが出来なかった。
 やがて、自分の背にある空気が動く気配がした。
「氷上くん、ごめ――」
「違うんだ、海野くん!」
 海野の謝罪の言葉を遮り、氷上は思い切り振り返った。思った以上に大きな声が出てしまい、静かな河原に反射して響く。海野は口を開けたまま、氷上を見つめていた。
「違うんだ。その、嫌なんじゃない。……嬉しかったんだ」
 え、と海野の口から息が洩れる。氷上は眼鏡の位置をしきりに直しながら、言葉を発した。
「ただ、驚いたんだ。その、君がそんなところを見ていたんだ、って」
「わたしは……いつも、氷上くんを見てるよ」
 微笑みを浮かべながら恥ずかしがることもなく言い放つ海野を見て、氷上の心臓が高鳴る。
「い、いつも?」
「うん。いつもだよ」
「そ、そうか」
 照れを隠すために、氷上は眼鏡の位置を直す。それを見て、海野はくすくすと笑った。
「氷上くん、緊張してる時、いつも眼鏡を弄るよね」
 やはり彼女はよく見ているのだ。氷上はまた動揺を隠すために眼鏡を弄ろうとして、慌てて手を止める。
「そ、そうかい?」
「うん。今も、緊張してる?」
「……いや、そうじゃない、ただ」
「ただ?」
 海野の目を見つめながら、氷上は唇に微笑みを乗せた。
「嬉しいんだ」


 至近距離で見る彼女の瞳はきらきらと瞬いている。ああ、星と一緒だ、と氷上は思った。自分を引きつけて離さない、それどころか自分を幸せな気分にしてくれるのだ。
 氷上はいつの間にか、彼女の愛しい瞳に吸い込まれていた。
(2009.12.7)
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