美しい人

 ザクソンを一度は制圧したシグルドたちだが、祖国帰還に向け、息つく間もなく次の戦いを迎えなければならなかった。
 最後の戦いということを意識してか、ザクソン城で次の戦いを待つ軍の者たちもどこか緊張気味だった。その緊張をあからさまに顔に出している者、それを隠すかのようにへらへらと笑う者、むっつりと難しい顔をして黙り込む者、それぞれいた。
 そして今、ブリギッドがこれから訪ねようとしている相棒――ホリンは、間違いなく難しい顔をして黙り込むタイプだった。
「ホリン、ちょっといいかい?」
 ブリギッドは、ザクソン城でホリンにあてがわれた部屋の前にいた。その扉を少し開けて尋ねると、ホリンはああ、と頷いて扉を開けてくれた。
「これからのことなんだけどね」
 そう前置きすると、ホリンはなんだ、と言いたげに視線を送ってきた。
「私とあんたは、これまでずっと一緒に戦ってきた。ホリンが先行して、私が後ろから弓で援護するってのに慣れてきたから、もう離れがたくなったんだ。だから、次の戦いでも一緒に戦ってくれるかい?」
 じっ、とブリギッドはホリンの答えを待った。ホリンは真っ直ぐな瞳でブリギッドを見返し、次の瞬間には軽く頷いていた。
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
「そうか。なら、良かった。後でシグルド様に伝えてくるよ」
 ブリギッドは安堵の息をつき、微かに笑った。
 その後、ホリンはベッドの上に座って黙り込んだ。ブリギッドはそれを横目で見つつ、窓の外を見る。そこには数人、同じ軍に所属する仲間たちがいて、それぞれに決意を固めているように窺えた。
「しかし、どうも落ち着かないね」
 ブリギッドが独り言を言うと、ホリンは顔を上げてブリギッドに眼差しを向けた。ブリギッドはその視線を受け止め、ホリンに言う。
「あんたも緊張しているんじゃないの?」
「俺がか。そう見えるか?」
「想像だよ。あんたのその無表情じゃ、分かるものも分かりゃしないね」
 ブリギッドは皮肉った後、ふふと笑った。同時に、緊張という名の糸で固められていた心が、糸の束縛を失っていくように感じた。
 そして心なしか、ホリンの表情も少し緩んだ気がした。
「お前は笑っている方がいいな」
「え?」
 ブリギッドは思わず目をぱちくりさせる。まさかあのホリンから、そんな言葉が飛び出そうとは思ってもみなかったからだ。しかし当のホリンは本気で言った言葉のようで、じっとブリギッドに視線を注いでいた。
 ブリギッドは内心焦りに似たものを感じ、慌てて笑顔を取り繕った。
「冗談にしては、なかなか面白いことを言うじゃないか」
 ホリンの言葉をかわした。しかしホリンは首を横に振って、言った。
「いや、冗談じゃない」
「本気?」
「ああ」
 あまりにもあっさりとした答えに、ブリギッドは拍子抜けする。同時に、心に妙な気持ちが湧いた。
 ホリンは真っ直ぐにブリギッドを見つめながら、言葉を続けた。
「初めて見た時、お前を美しい女だと思った」
 一体何を言い出すのだ――ブリギッドは焦った。いつも自分から話すことは少なく寡黙だったホリンが、告白ともとられかねない言葉をブリギッドの前で吐いている。
「ホ、ホリン、一体何を――」
「ブリギッド、俺はお前を愛している」
 決して避けられぬ言葉だった。まるでホリンが放つ月光剣の軌跡の如く、その言葉はブリギッドに迫ってきた。
 ホリンは、おかしい。ブリギッドは咄嗟にそう思った。あのホリンが自分の前で愛の言葉を吐くなんて、どうかしている。これも、大きな戦が目前に迫ったことが影響を及ぼした結果なのだろうか。
 ホリンは変わらず、ブリギッドを真摯な瞳で見つめている。彼の瞳は澄んだ色をしていた。嘘をつく時に見せるような瞳ではなかった。ただしっかりと、ブリギッドを離すまいととするかのように視線を注いでくる。
 その絡みつくような視線に耐えられずに、ブリギッドは目を逸らした。
「頼むから、冗談はやめてよ」
「冗談などではない。俺は本当に、お前を愛している」
 それが本気の言葉であることは、ホリンの様子からも十分に理解できた。しかし頭で理解できたからといって、心までついていけるとは限らない。ブリギッドはどう対処したらよいか分からないまま、視線を彷徨わせていた。
 それから少しの間の後――ブリギッドは何を思ったのか、苦し紛れに言葉を吐いていた。
「あんたは私がエーディンに似ているから、私を好きになったんじゃないか?」
 それはブリギッドの心を知らず知らずのうちに蝕んでいた考えだった。
 ブリギッドとエーディンは姉妹である。当然ながら、その容姿は酷似している。故に、初めて出会った者は必ずといっていいほど、ブリギッドを「エーディンと似ている」と表現した。口には出さなくとも、表情がそう物語っているような者も多かった。
 姉妹が似ているのは当然であり、自分がユングヴィ家の者だという証を持っているようなものだから、初めは嬉しかった。しかし時が経つにつれ、それは苦痛でしかなくなってきた。皆は自分を、エーディンの影武者のようにしか考えていないのではないか、そんなことを何度思ったか知れない。
 すると、ホリンはすっと目を細め、静かにその表情に怒りを浮かべた。ブリギッドはぞくりとした。
「今の話に、ユングヴィ公女は一体何の関係がある?」
「それは、私とエーディンが似ているから――」
「俺がしているのは、お前の話だ。ユングヴィ公女は、関係ない」
 ホリンはきっぱりと言い切った。ブリギッドは思わず、安堵の溜息をついていた。
「ごめん。私、いつの間にか卑屈になっていたみたいだね」
 ブリギッドが謝ると、ホリンは先程よりは幾分か優しい目を向けた。
 自分は本当に卑屈だったと、ブリギッドは反省した。自分が勝手に抱いた思いを理由に、ホリンの真剣な思いさえ否定しようとした。ただ自分が逃げるために、ホリンやエーディンに全てをなすりつけようとしてしまった。
 ブリギッドはホリンを真っ直ぐに見つめて、言葉を続けた。
「ホリンが、私でいいと言うなら」
「お前がいい。お前以外の女など、考えられない」
 ホリンは静かにそう言い、ブリギッドは涙ぐんだ。それは、はっきりと自分に向けられた言葉だった。それが今のブリギッドには、たまらなく嬉しかった。
「ホリン、愛しているよ」
「ああ、俺もだ」
 ブリギッドがホリンに体を寄せると、ホリンはブリギッドを抱きしめてくれた。力強い腕だった。それは育ての父も、周囲にいた海賊たちも、この軍にいる者も持っていないような強さと、包容力を兼ね備えているようだと思った。まるでここが、自分の居場所であるようにさえ感じた。
 これから迎える戦は、想像以上に厳しいものになるだろう。しかし今のブリギッドには、何も怖いものはなかった。何故なら、愛する者――ホリンが、常に傍にいてくれるからだ。
 今まで軍の中で芽生えている恋や愛情を、ブリギッドは幾度となく目にしてきた。だが今、ブリギッドはそれを実際に体で感じている。愛情を交わした者が隣にいるということが、これほどまでに自分の心を落ち着かせてくれるものだとは思わなかった。
 ホリンの温もりを逃すまいとするかのように、ブリギッドはホリンの背に回した手に力をこめた。それに応えるように、ホリンも強くブリギッドを抱きしめた。
「ずっと、こうしていたいくらいだよ。ホリンと、ずっと……」
「ブリギッド……」
 時間が止まればいいとこれほど切実に願ったのは、これが初めてだった。
Page Top