制圧したばかりのリューベック城のある一室で体を休めながら、ブリギッドは溜息をついていた。壁に寄りかかり、顔を少し上げて、先程の戦いを思い出す。
先程自分に向かってきたのは、確かに自分の弟アンドレイだった。ブリギッドは彼の幼い頃の姿しか知らないが、その面影は今でも残ったままだった。
あの弟は父を殺し、敵側についた。それを聞いた時、決着は自分でつけねばならないとブリギッドは固く決意した。ユングヴィ家に背いた者には、聖弓イチイバルの制裁を与えねばならない。そして今それを与えられるのは、聖痕のあるブリギッドだけだ。
イチイバルから放たれた矢は、真っ直ぐにアンドレイのところへ飛んでいった。少しのずれもなかった。その矢がアンドレイの心臓を深々と貫き、真っ赤な鮮血がどくどくと溢れだしたのを、ブリギッドは今でも鮮明に思い出す。
あの時は何の迷いもなかった。これが天から与えられた使命のようにすら感じていた。だが今になると、何故か胸の奥が痛む。たとえどんなに救いようのない悪者であろうと、身内を手にかけるのは気持ちの良いものではない。そのことを、ブリギッドは今更ながらに感じていた。
ブリギッドはその矢を放った手に視線をやり、その手をぎゅっと握りしめた。
「ブリギッド、辛いのか」
その時、低い男の声がかかった。ブリギッドは顔を上げて男を見、弱々しく笑った。
「ホリン……」
ホリンは静かにブリギッドの方に近づいてきた。
「あの、お前の弟のことか」
「気付いていたんだね」
ホリンは無言で頷く。それを見た後で、そうだよ、とブリギッドは肯定した。
「何故なんだろうね。あの時は何も思わなかった。ただ、弟は私の手で葬らねばという思いでいっぱいだった。でも、決して、気持ちいいものじゃなかった」
「当然だ。お前の反応は、何も不思議なものじゃない」
ブリギッドはホリンの言葉を嬉しく思いながら、まだ処理し切れていない思いが心の中にあるのを感じていた。それはすなわち、自分は間違っていたのか否か、ということだった。アンドレイは葬るべき者だったと強く思う気持ちがある一方で、自分がしたことはやはり間違いだったのではないかという思いも押し寄せている。もしかしたら説得するという方法もあったのではないか。もしかしたら、自分が手にかけるべきではなかったのかもしれない。
返事を恐れながらも、ブリギッドはぽつりと言った。
「ねえ、ホリン。私がしたことは、間違っていたんだろうか」
口にし終わった途端、心の中が急にひやりと冷たくなった。ホリンは何と答えるだろう。少なくとも、同情心だけで軽々しく「そんなことはない」と答えてくれる男ではない。
そんなホリンの次の言葉に、ブリギッドは目を大きく見開いた。
「お前は、間違っていない。お前はお前自身でけりを付けた。あれは、誰かが成さねばならないことだった」
そう言われた途端、ブリギッドは目から涙がこぼれ落ちるのを感じた。
ブリギッドは自然とホリンの方に寄り、ホリンの胸に顔を埋めていた。涙が目から、声が口から溢れ出て止まらなかった。そして、改めて自分はなんて幸せなのだろうと思った。
こうして胸を貸してくれる愛しい夫がいる。そして、その夫との間に生まれた愛しい子供たちがいる。家族のためにも、ブリギッドは早くこの戦を終わらせねばならないと強く思った。こんな思いをするのは、自分だけで十分だ。
ブリギッドは顔を上げ、涙に濡れた頬をぬぐった。そして、ホリンに笑みを見せた。
「ありがとう、ホリン。少し楽になったよ」
「そうか、良かった」
ホリンはそう言って微かに笑った。滅多に見せない笑顔だった。満面というには程遠いが、ブリギッドにはそれだけで十分だった。
「そういえば、ホリン」
一通り心が落ち着いたところで、ブリギッドは話題を変えた。ホリンは何だ、とブリギッドに向かってわずかに首を傾げた。
「ホリンは一体、どこの生まれなんだい?」
ホリンは微かながら驚いたような表情をした。
「何故、そんなことを訊く?」
「そうだね、多分……私がさっきのことで、本当の身内のことを強く意識したから、かな。ちょっと気になっただけだよ」
本当の身内とわざわざ言ったのは、ブリギッドには特殊な生い立ちがあるからである。ホリンもそれを知っていたので、納得したような顔になった。その後で、ホリンはブリギッドを見つめた。
「お前は、どこだと思う?」
尋ね返されて、ブリギッドは答えに詰まった。
ホリンの姿をしげしげと眺める。眩しいくらいの金髪、精悍な顔立ち。その腕はたくましく、大剣を振るっていても違和感のない体つきだった。
髪の色だけを見て判断するなら、アグストリア人のようにも思える。だがその剣さばきは、アイラと同じイザークのものだ。月光剣という特殊な技を扱うことができる点も、アイラと似ている。
しかしこれだけで断定することはできず、ブリギッドは両手を軽く挙げた。
「降参するよ。一体、どこなの?」
ホリンはブリギッドの隣まで来て、近くの壁にもたれかかった。ブリギッドは寄りかかっていた柱を離れ、ホリンを斜めから見た。ホリンは目を閉じて大きく息を吐き出すと、目を開けて言葉を発した。
「俺は、ソファラの領主の子だ」
聞き慣れない地名だった。ブリギッドは首を傾げた。
「ソファラ? それは、一体――」
「イザークだ」
ブリギッドは目をぱちくりさせた。ホリンの剣の扱い方、その技からイザークと推理したのは間違いでなかったようだ。だが驚いて、ブリギッドは何も言えずにいた。
「どうした?」
ホリンが声をかけてくる。ブリギッドはああ、と我に返った。
「驚いたんだ。まさか本当にイザークだとは思わなくて」
「だろうな。俺は元々、イザーク人のような風貌ではなかったからな」
そう言って、ホリンは自分の髪に触れる。確かにこの金髪がなければ、ブリギッドもホリンをイザーク人と断定していたかもしれない。ブリギッドが知る限り、イザーク人は黒髪だった。アイラやシャナンもそうだ。
訊いてはいけない質問かもしれないと思いながら、ブリギッドは尋ねた。
「どうして、国を出たの?」
「そうだな……領主の座というのにも興味はなかったし、外の世界で己の剣を磨きたいという思いがあったからな」
「そうか……」
「あるいは、逃れたかったのかもしれないが」
「え?」
「いや、何でもない」
ホリンは首を横に振った。ブリギッドはそれ以上何も聞かなかった。
重い沈黙がその場を支配する前に、ブリギッドは再び口を開いた。
「思えば私は、ホリンのことを何も知らなかったんだね。貴方がどこの人か、そして、どんな人生を歩んできたのか」
「そうだな。だが、そんなことはどうでもいいことだ」
「うん、確かにどうでもいいことかもしれないね。でも、私は知りたいよ。ホリンのことを」
ブリギッドがホリンを見つめると、ホリンはその視線を静かに受け止め、頷いた。
「お前がそう言うなら、また今度話すことにしよう」
「本当に? いいのかい、ホリン?」
「ああ。別に隠すようなことじゃないしな。まあ、今は時間がない。また落ち着いてからだ」
「うん、そうだね。早く、この戦を終わらせないと」
ブリギッドはそう言って、ホリンの後ろにある窓を通して外を見た。外はもう夕暮れ時だった。今日はここで一旦体を休め、身の回りの装備品などを整えてからイード砂漠に入ることになっている。
ブリギッドはもう一度ホリンの方を見て、言った。
「ホリン、もし戦が終わったら、私の故郷に来てくれないか」
「ユングヴィに?」
「うん。私も帰るのは何十年ぶりだけど、是非一緒に来て欲しいんだ」
ホリンはしばし考えるように俯いたが、顔を上げてブリギッドを見据え、頷いた。
「分かった。俺もお前の故郷を一度見てみたい。ユングヴィに行くことにしよう」
「良かった。じゃあ、決まりだね」
ブリギッドは笑った。ホリンもつられたように笑みを見せる。
その時、ベッドの上に寝かせていたパティが泣き出した。ブリギッドは慌てて駆け寄り、パティを抱きかかえる。
「パティ、ほらほら、泣きやんで」
しきりにパティをさするブリギッドを見て、ホリンは目を細める。そうしてブリギッドと同じようにベッドに歩み寄り、体をかがめてパティの隣に寝ていたファバルの頬をそうっと撫でた。ファバルはなおも眠り続けている。シレジアで生まれた頃と比べるとだいぶ大きくなったが、まだまだ幼いことには変わりない。
明日、オイフェとシャナンは子供たちを連れてイザークへ逃れる予定になっていた。当然、ファバルやパティも一緒にイザークへ避難させないかという話も上がっていたのだが、二人はそれを敢えて断った。最後まで子供たちを守り戦いたいという思いがあったし、いざという時には自分を放っても子供たちと逃げるよう、ホリンはブリギッドに言い聞かせていた。ブリギッドはそれを聞いて頷いた。ただ、ホリンを放って逃げることだけは了承しなかったけれども。
ブリギッドはやっと泣きやんだパティをベッドに寝かし、その隣に座ってパティの頭を撫でた。パティは安心したように、すやすやと寝息を立て始めた。
「可愛いね、二人とも」
「ああ、そうだな」
「この子たちにも、私の故郷を見せてやりたい。気に入ってくれるといいけれど」
「気に入るだろう。お前の故郷は、子供たちの故郷でもある」
そうだね、とブリギッドは笑った。
「ホリン、生きていてね。私たちが故郷に帰るその日まで」
「もちろんだ。お前も必ず生きろよ、ブリギッド」
「ええ、必ず」
二人は強い思いのこもった視線を交わし合い、生きて帰ることを強く誓うのだった。