フィーリアが倒れたと聞いたとき、イリヤはたまらず王城に向かって駆け出していた。つい先日、ポンパドールでの探索任務からロザーンジュへ帰ってきたばかりであった。
「お、お待ちください、王子!」
ハウゼンが止めるのも聞かず、イリヤはただひたすら走っていた。街行く人々が何事かとイリヤの方を振り返ったが、気にもとめなかった。ただフィーリアはどうしているのか、それだけが気がかりだった。
イリヤとフィーリアは、騎士とその主という関係である。だが近頃イリヤは、それ以上の感情を、フィーリアに対して抱くようになっていた。
フィーリアは強く、そして優しい少女だった。初めて会った時、侍女エクレールはぶっきらぼうなイリヤの物言いに眉をひそめたが、フィーリアだけは気にしないと言って微笑んだ。イリヤは戸惑った。大抵の人々はエクレールのような反応をしたのに、彼女は違っていたからだ。
度々彼女の召喚に応じて王城へ向かったが、フィーリアの対応は変わらなかった。イリヤの瞳を真っ直ぐに見て、イリヤと話がしたい、と言った。フィーリアと話すことが見つからず、イリヤは逃げるようにして部屋を出た。それでもフィーリアは愛想を尽かすことなく、何度もイリヤを呼び出した。イリヤは強い戸惑いを覚えながらも、次第に彼女に心を許すようになっていた。
そんなフィーリアが、倒れた。王の試練は厳しい。その厳しい試練を、フィーリアは十五歳という若さで行っているのだ。耐え切れず倒れてしまっても、おかしくはない。
彼女が無事なのか、イリヤは気がかりでならなかった。
城前に控えている門番をやり過ごし、王城の中を駆けた。だがその時、イリヤは、向こうから歩いてくる少女の姿に気付かなかった。
「きゃっ!」
甲高い声が響く。イリヤは短くすまない、と謝り、先へ進もうとした。だが、聞き覚えのある声が、イリヤの足を止めた。
「イリヤ殿! そんなに急いで、一体何事なんですの?」
イリヤは振り返った。改めて相手の姿を確認すると、それはフィーリアのお付きの侍女、エクレールであった。エクレールは明らかに怒った顔をしていた。
だが、言い訳をしている暇などない。イリヤはこれ幸いとばかりにエクレールに詰め寄った。
「侍女殿! 殿下は……フィーリアは、無事なのか!?」
エクレールはイリヤの勢いに圧され、驚いたように目を見開いた。だが、それも一瞬のこと、エクレールはイリヤを安心させるかのように、すぐに微笑んだ。
「姫様はご無事ですわ。ここのところ毎日政務に追われていらっしゃったから、その疲れが出ただけです」
「そうか、良かった……」
イリヤは安堵のため息をついた。ついた息と共に、全身の力が抜けていくような感覚があった。
エクレールはそんなイリヤを見ながら、くすくすと笑った。
「姫様を案じてくださっていたのですね、イリヤ殿。私に気付かずぶつかってしまうほど、必死に走って来られるなんて」
「それは、当然のことだ。オレはフィーリアの騎士なのだから」
「うふふ、それだけの理由ではないような気もしますけれど」
意味ありげに視線を送るエクレールに対し、イリヤは彼女の言葉が聞こえないふりをした。
「……まあ、それはそれとして。これから、姫様に会われるおつもりですの?」
「ああ、できればそうしたい。会えるだろうか?」
「ええ、もちろん。姫様、きっと喜びますわよ」
エクレールはそう言うと、イリヤが向かっていた方向へ歩き始めた。イリヤは黙ったまま、それについていった。
フィーリアの部屋の前に立つと、エクレールが木の扉をこつこつと叩いた。イリヤは緊張した面持ちで、それを見つめていた。
「姫様、イリヤ殿が来られましたわ。開けてもよろしくて?」
「ええ、構わないわ」
扉越しに聞こえたフィーリアの声はくぐもってはいたが、普段の彼女の声と同じ調子に聞こえた。エクレールの言うとおり、それほど心配するほどでもないのだろうか、とイリヤは安心した。
エクレールが扉を開け、後ろからイリヤも続いた。フィーリアはベッドの中にいたが、上半身を起こして、二人を笑顔で迎えた。
「姫様、お加減はいかがですか?」
「大丈夫。昨日からずっと眠っていたから、だいぶ楽になったわ」
「それは良かったですわ」
エクレールとの軽いやりとりの後、フィーリアはエクレールの後ろにいたイリヤに目を向けた。
「イリヤ、来てくれたのね」
イリヤはゆっくりとフィーリアの方へ歩み寄った。では私はこれで、とエクレールは礼をし、部屋を去って行った。気を利かせてくれたのだろう。
扉が閉まる音が聞こえた後、イリヤは口を開いた。
「フィーリア、大丈夫なのか?」
「平気よ。少し無理をしてしまっただけ。自分の限界を考えないで動くなんて、王失格ね。……まだ、正式な王ではないけれど」
そう言って笑うフィーリアを、イリヤはベッドに横たわらせた。
「……とにかく、今は寝ていた方がいい」
フィーリアは大人しくそれに従った。ベッドに体を沈め、イリヤを見て微笑む。無理に笑っている様子ではないとわかって、イリヤは少しほっとした。
こうしてベッドに横たわっているフィーリアを見ていると、彼女が年相応の少女であることを改めて感じさせられるのだった。いつも立って騎士たちに命令を下している彼女は、とても年相応には見えないのだ。彼女はイリヤより年下であるはずなのに、どうしてもそう思えなくなる。
その違いにイリヤは時折戸惑っていたが、今の彼女を見ると、何故か安心した。
「ねえ、イリヤ。一つお願いしてもいいかしら」
「何だ?」
「私の手を握っていてほしいの」
そう言うと、フィーリアは布団の横から左手を出した。イリヤは頷いて、その手を握った。フィーリアの手は温かく、イリヤが包むように握っているはずなのに、イリヤの方がそうされているような気がした。
フィーリアはふっと目を閉じた後、幸せそうな表情をした。
「イリヤの手、とても温かいわ。安心する」
「……お前の手も、温かい。オレの手で温める必要なんて感じられないくらいに」
イリヤが何気なくそう言うと、フィーリアはイリヤの手を強く握ってきた。まるで、イリヤが手を離してしまうのを恐れるかのように。
「温めてほしいわけじゃないわ。ただ……安心したいだけなの」
「フィーリア……」
イリヤは無論離すつもりなどない、とでも言うように、フィーリアの手を握り返した。するとフィーリアが微笑んだので、イリヤはほっと息をついた。安心したのだ。
――安心、した?
イリヤははっと目を見開いた。改めて手に神経を集中させ、フィーリアの温もりを確かめた。イリヤは、その温もりが心に安らぎをもたらすことに気付いた。フィーリアが言うようにイリヤの心も、こうして相手の温もりを感じることによって安らいでいるのだ。
「イリヤ?」
フィーリアの声で、イリヤは我に返った。慌ててフィーリアの顔を見ると、フィーリアはくすくすと笑っていた。
「貴方のそんな顔、初めて見たわ。すごく安心したような顔」
「あ……」
イリヤは気恥ずかしくなって、思わずフィーリアから目を逸らす。
「……お前と手を握っていると、安心するんだ」
「えっ?」
「な、なんでもない!」
イリヤは怒ったように首を振った。すぐに、そんなふうにふるまってしまった自分に嫌気が差したが、フィーリアはいつものように、さほど気にしていないようだった。
「でも本当に、イリヤが来てくれて良かった」
「そうなのか?」
はっきりと確かめるように尋ねると、フィーリアはゆっくりと頷いた。
「イリヤと一緒にいる時は、王女フィーリアにならなくて済むから」
「え?」
今度は、イリヤが疑問符を浮かべる番だった。一瞬、どういうことなのか、意味が分からなかった。
「イリヤが傍にいると安心して、本当の自分になれる気がするの。王女なんかじゃなくって、ただの、十五歳のフィーリアでいられる気がする」
フィーリアは目を閉じて、微笑みながらそう言った。
イリヤははっとした。今度は強く、彼女が十五歳の少女であったことを思い知らされた。フィーリアがイリヤに向けてくれる微笑みは、純粋な少女としての微笑みであり、それはイリヤの心を癒すものだった。
何かがすとん、と心に落ちた気がした。初めて、自分の気持ちを理解できた気がした。
イリヤも同じだ。彼女の手を握って安心できるのは、彼女を近くに感じられるから。イリヤをグラニの王子や、騎士としてではなく、イリヤという十六歳の少年として受け入れてくれる彼女がいるから。
そうだ、と気づいた。彼女は初めから、イリヤのことをそう見てくれていたのだ。だからこそ、戸惑った。自分をそういうふうに見てくれる人が、今までいなかったからだ。
けれど、今は違う。今は、フィーリアが自分をそういうふうに見てくれることが、何よりも嬉しい。
「オレは……」
イリヤはもう、目を逸らさなかった。
「お前と一緒にいたい。叶うことならば、ずっと……」
フィーリアは微笑んだ。それが彼女の答えだと、イリヤは知った。