お互いの思い揺れて

 大陸全土を揺るがし、人間たちの生存をかけて戦うことになったあの戦から、五年の年月が流れた。
 ガリアの女戦士レテは祖国に戻った後、その功績が認められて戦士長となった。
 大陸の国々は全て同盟を結び、友好を築いていたが、戦士たちが鍛錬を欠かすことは一日もない。戦いこそ、獣牙族の本能である。無論自分たちから戦争を起こしたりするわけではなく、彼らは試合という形でその戦いを行っていた。
 前ガリア王カイネギスとその腹心ジフカが主審を務め、一週間に一度、その試合は行われる。ガリアの獣牙族の者たちは、それをとても楽しみにしていた。獣牙族の者だけではない、たまに鳥翼族の者たちや、なんとベオクまでがその戦いに加わることもあった。
 そして今日、一週間に一度のその試合が行われる日であった。
 朝からレテは部下たちが訓練をしている様子を見回っていたが、その試合の日であるからだろう、そわそわと落ち着きのない者も大勢いて、レテはいつもより多く怒鳴らなければならなかった。楽しみにしている気持ちはよく分かるが、日々の鍛錬を欠かせばその試合が命取りになることもあるのだ。鍛錬を欠かして、後悔するのは自分以外の何者でもない。
 そうしてレテがまた一人、気の抜けていた戦士を怒鳴った後だった。後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。
「よう、レテ。相変わらず大変そうだな」
 レテが振り向くと、そこにはライがいて、笑みを見せながら軽く手を振っていた。レテは少し表情を緩め、ライの方に体を向けた。
「今日は試合の日だからな。誰もがそわそわしているが、こういう時にこそ気を抜くべきではないだろう」
「そりゃ、同感だ。細かいルールがあるとはいえ、手を抜いたら死ぬ可能性だってあるんだからな」
 ライは同意するように何度も頷いた後、そうだ、と話題を変えた。
「さっきカイネギス様とジフカ様が、スクリ――おっと、王のところにいらっしゃったんだが」
「ほう、珍しいな。試合のことで何か相談か?」
「いや、というより、今日はスペシャルゲストが来るから楽しみにしているように、とおっしゃっていたぞ」
 レテは目を丸くした。
「スペシャルゲスト? 誰なんだ?」
「さあ、そこまでは。ただ、そのスペシャルゲストはレテと戦いたがっているらしくてな。カイネギス様とジフカ様は、その希望通りに試合を組んだそうだ」
「何?」
 レテはますます驚いて目を見開いた。
 レテを指名してきたということは、少なからずレテと何らかの交流がある人物だと思われる。スペシャルとつくからにはかなりの実力者なのだろうが、まさか各国の王族が直々にレテを指名してくるはずはない。となると三年前の戦で共に戦った者たちになるが、思い当たる人物は一人もいなかった。
「一体誰なんだ、それは……」
「俺も聞いてないからよく分からないけどな。ただ、カイネギス様もジフカ様も、どこか楽しそうにしておられたな。ま、とにかく、相対してからのお楽しみってやつだ」
 ライは自身も楽しそうにそう言い、じゃあな、と手を振ってその場を去っていった。
 レテは再びその相手のことを考えようとしたが、その間に気の抜けた戦士たちが何人かいるのが目について、その方へ駆けていった。
 後で、自分も十分訓練しておかなければと思った。そんな実力者が来るからには、決して手を抜く訳にはいかない。


 その日の昼、試合は王城の敷地内にある広場にて行われた。ここは普段の訓練の中で、戦士たちが手合わせをする場所でもある。
 戦士たちは誰もが殺気立ち、会場内には熱気が満ちあふれていた。その熱気のせいか、いつもより砂塵が舞っている。レテでさえ、自分の内なる本能に火がついてしまっているのを認めずにはいられなかった。戦いたいという、その欲求だけが頭の中を占めてしまうのだ。
 いつものように、カイネギスが前へ出て始まりを告げる。それだけで、会場内の熱気が更に増し、雄叫びを上げる者たちも大勢いた。
 ここからは、あらかじめ決められた対戦相手との試合が開始される。レテと、ライが教えてくれたスペシャルゲストとやらの対戦は、かなり後の方になっていた。レテは広場でめいめいに対戦する者たちを見つつ、自分の気の高まりを静めておこうと思った。
 この試合は確かにある種のゲームともいえるが、そんなことは関係なく、双方とも本気で戦う。そのため、負傷する者が大勢出る。そこで救護係を務めているのが、戦士をやめたモゥディとリィレだった。二人がいつもいる方を見ると、早速負傷した兵士たちに傷薬を塗ったり、包帯を巻いたりと大忙しである。その時、レテの視界に見知った顔が二人も現れた。レテはあまりに驚き、思わずそちらの方に向いて走り出していた。
 救護係のいるテントに向かうと、リィレが真っ先に気付いてレテに声をかけてきた。
「レテ、どうしたの? 試合はまだなんでしょ?」
「あ、ああ。それより、お前の後ろにいるのは……」
「ああ――」
 リィレが一歩退いて彼らを紹介しようとした時、その後ろにいた少女が笑顔を輝かせてレテの方に駆け寄ってきた。
「レテさん!」
 それは、まぎれもなくミストだった。グレイル傭兵団の元団長アイクの妹であり、その傍らに立って笑みを浮かべているボーレの妻でもある。
 久々の再会は確かに驚くべきものであったが、最も驚いた点はそこではなかった。
「ミスト、ボーレも……何故、ここに?」
 すると、ミストがあからさまに動揺した。
「あ、えっと。えーっと……そう、カイネギス様に誘われたの! そうよね、ボーレ?」
「ん、あ、ああ、そうだ。ミストの杖も役に立つだろうしって言ってな」
 同意を求められたボーレも一応は頷いていたが、その慌てた様子は隠せていなかった。ミストはその話題を避けるようにして、別の話題に変えた。
「ボーレも、試合に出るんだよね」
「ああ、そうだ」
「ボーレも出るのか?」
 レテが尋ね、ボーレは頷いた。
「腕ならしにちょうどいいと思って。確か、キサが相手だったかな」
「そうか、キサか」
 レテは納得したように頷いた。レテとあたる対戦相手がもしかしたらボーレではないかと思ったのだが、違ったようだ。どうやら、そのスペシャルゲストはボーレとミストのことではないらしい。
 その時、試合展開を見ていたリィレが、ボーレの方に振り返って言った。
「ボーレ、もうそろそろだと思うよ。準備してきたら?」
 ボーレはそうかと頷き、傍らに携えていた斧をがしと持ち上げた。
「じゃ行ってくるぜ、ミスト」
「行ってらっしゃい。頑張ってね!」
「おうよ。勝ってくるぜ!」
 ミストとボーレの会話が終わった後、レテはボーレに声をかけた。
「キサは強いぞ。油断せずに戦って、勝ってこい」
「おう」
 ボーレはにやりと笑み、レテも笑みで彼を見送った。
 自分の試合はまだまだ時間がある。その間、レテは手当てを手伝いながら、ミストと話をした。ミストは様々なことをレテに話して聞かせてくれた。傭兵団の仲間のこと、今のクリミアのこと、そして自分の子供のこと。子供がいると聞かされた時は、レテは目を丸くして驚いた。
「子供ができたのか?」
「うん。まだ一歳なの。今日はこんな場所に来ることになったから、ティアマトさんとキルロイに見てもらってるけど」
「そうか、そうだったのか」
 えへへ、とミストは照れくさそうに笑った。まるでその笑顔から幸せが溢れだしているような気がして、レテは彼女がうらやましくなった。
 愛する人と結婚し、愛する人の子を産むこと――それは女性にとって大きな幸せだろう。レテは今こうして戦士として戦いに身を置いているが、その幸せを全く考えなかったわけではない。
 そうした幸せを共にと考えたのは、ただ一人――
 その男のことがふと思い出されて、レテの胸は少し痛んだ。
 過去の思いとして処理したはずであるのに、その男のことを思い出すと今でも胸が痛む。ただ、その男を追って国を出て行くなどということは微塵も考えたことはなかった。たまに思い出して、あの時は良かったと振り返るだけでいい。レテは今までそうしてきたし、今後もそうするつもりだった。
 二度と会えないだろうその相手。しかし、下手に会ってまた未練が残ってしまうよりはいい。このまま思い出の中の人物として、ずっと大切にしていけるからだ。レテはそう考えていた。
 そうしているうちに試合の終わったボーレが帰ってきた。ところどころに傷はあったが、ひどい怪我はなく、ミストは安堵の溜息をついていた。
 いよいよ、レテの試合の時間が近づいていた。レテは緊張した面持ちで、ミスト、ボーレ、リィレ、モゥディたちに「行ってくる」と告げ、その場を離れた。対することになる相手。それが誰だか全く見当がつかなかったが、レテの心にある思いはただ一つだった。勝つということだけだ。
 そうしているうちにレテの番になり、レテは広場の中央に向かって静かに歩いていった。大勢の観衆が見つめる中、レテはやや緊張しながら相手が来るのを待った。ざっと風が吹き、砂塵が舞う。その砂塵の向こうから、全身黒いマントで包まれた男が現れた。
 ――あれか?
 レテはその黒マントの男を睨み付ける。
 黒マントの男はレテと相対する位置に来てから、その黒マントを乱暴に脱ぎ捨てた。
 途端、レテの目は大きく見開かれ、観衆たちが一斉に息を飲んだのが分かった。信じられないのも無理はない。その男の正体を知っていれば、誰だって驚くはずだ。レテでさえ、未だに目に映るその男の存在が信じられなかった。唇がわなわなと震えているのが分かった。
「アイク……!」
 蒼く透き通った瞳、瞳と同じ色の髪。筋肉質な腕に剣を携えた、強面の男――。
 それは蒼炎の勇者と呼ばれた男、アイクだった。


 観衆は大いに盛り上がっていた。無理もない。先の戦いで既に伝説となったはずの男が、今この場にいるのだ。元々熱気のあったこの会場は、更なる熱気に包まれていた。歓声が飛び、誰もがこれ以上ないくらいの興奮状態にいた。
 アイクはまだ驚きの表情のままのレテを見据え、腕をならすかのように静かに剣を振る。ひゅん、と風を切る音が聞こえそうなくらいだったが、その音は会場の音に消し飛ばされた。
 ――アイクが、何故。
 その疑問が頭の中に浮かんだ途端、カイネギスの吠えるような「始め!」の声が響き渡った。
 その合図と共に、アイクはこちらに向かってきた。レテはまだ、化身もしていなかった。アイクの最初の一撃をすんでのところでかわし、レテはここが戦いの場であったことを再度意識した。
 しなやかに体を折り曲げ、その姿を獣牙特有のものへと変化させてゆく。レテは猫である。力は虎や獅子に遠く及ばずとも、その特有の身軽さ、素速さはその二つの種を遙かに超える。その二つの能力にかけては、レテは誰にも負けない自信があった。
 アイクもああいう性格の人間だから、旅をしていた間も鍛錬を欠かすことはなかったのだろう。だが、それはこちらも同じ。レテはアイクに負ける気はなかった。これだけの観衆がいるのだから、戦士長としても無様な姿は見せられない。
 レテが構えたところで、アイクも再び剣を構えた。アロンダイトという名のその剣は、普通のものよりもかなり大きい。軟弱なベオクなら持つことすらできないだろうが、アイクは三年前も見事にそれを使いこなしていた。今もそれは変わらず、まるで自分の体の一部であるかのように、自由に扱いこなしている。
 先程と同じく、またアイクがアロンダイトを振りかざしてきた。レテは素速くそれを避け、アイクの体を狙う。キィンと剣が鳴ったかと思うと衝撃で飛ばされ、二人は離れた位置に立った。アイクが咄嗟に剣でレテの爪の攻撃をかばったのだ。
 その後、今度はレテの方から爪を立て、襲いかかった。アイクはそれに反応しきれずに、腕の皮膚を切られる。鮮血が飛び、レテの顔に微量かかったが、気にしているどころではなかった。
 アイクもやられぱなしではない。瞬きする間もなく、レテの体を剣の衝撃が襲った。レテは地面に倒され、砂に顔を押しつけた。痛みが全身を走ったが、レテはすぐに起き上がる。目の前には、剣を構えたアイクがレテを見下ろしていた。
「変わらないな」
「ああ、お前も」
 短い言葉のやりとりの後、二人はまた戦闘態勢に入った。その間も観衆たちが何かをうるさく叫んでいるはずなのだが、二人の耳にはその声は全く入ってこなかった。
 剣がキィンと鳴く音、爪が衣服や皮膚を切り裂く音、力のぶつかりあいによって生じた衝撃の音、それらが二人の耳を占めていた全ての音だった。
「そこまで!」
 その声が聞こえるまで、どれだけアイクに向かい、どれだけアイクに傷を与え、どれだけこちらが吹き飛ばされたか分からない。それほどまでに、レテはこの戦いに集中していた。試合などではない、二人の間では命がけの戦いがここで繰り広げられていた。
 アイクは荒く息を吐きながら剣を下ろし、レテは化身を解いて立ち上がった。しばし見つめ合った後、二人は同時に頭を下げた。


「久しぶりだな」
 救護係のいるテントに運ばれた二人は、それぞれの妹に治療を受けていた。レテはアイクの言葉を聞き、ああ、と頷いた。だがそんな挨拶よりも、聞きたいことがあった。
「アイク、何故お前がここにいるんだ」
 アイクは動じる様子もなく、質問に答えた。
「ついこの間帰ってきた。ハタリから」
「ハタリ? ハタリといったら、砂漠の向こうにあるという、あの国か?」
「ああ、そうだ。狼の女王の話に興味をそそられてな」
 狼の女王とは、そのハタリ王国の女王であるニケのことだ。先の戦では共に戦うことになり、レテも何度か言葉を交わしたことはあった。アイクはどうやら、その国のことも色々と彼女から聞かされていたらしい。
 確かにハタリに行ったのならば、誰もが行方を知らなかったのも納得できる。
 治療が済み、二人は人のいない場所へ移動することにした。もう日が暮れかかっていたが、傍らに立つアイクの横顔は夕日に照らされてはっきりと見えた。
「ハタリは、俺の理想の国だった」
 呟くように言ったアイクの横顔を、レテはまじまじと見つめた。
「ベオクも、ラグズも、そして印付きも、分け隔てなく暮らす国なんだ。かなり自由な雰囲気の国だと、俺は感じた」
「そうなのか」
「ああ。俺はああいう国で暮らしたい」
 あまり他人に流されることのないアイクがこう言うのだから、そのハタリという国はよっぽどアイクの理想に適っていたのだろうと、レテは思った。暮らしたいとまでいうのだから、余計にだ。
 すると、アイクがレテの方を向き、真剣な表情で言った。
「レテ、あんたもハタリへ来ないか」
 レテは心臓を素手で掴まれたかのような感覚がした。驚きすぎて、しばらく声が出なかった。
 その言葉は、一体何を意味しているのだろう――普通に考えれば分かりそうなことを、レテは改めて考えなければならなかった。そうでもしなければ頭が混乱して、今の状況がよく掴めなかった。
 しばらく呆然とした後、レテははは、と笑いながら言った。
「興味はあるが、私は無理だ。私はガリアを離れられないのだから」
 正直なところ、アイクからそんな誘いを受けられたことが、レテはとてつもなく嬉しかった。かつて、アイクに恋愛感情を抱いていたこともあったからだろう――レテはそう思った後で、なんとなく違和感を覚えた。
 その後で、違和感の訳が分かった。その感情は決して、過去形になり得ないものだったのだ。レテがどんなにその思いを過去のものとして処理しようとしても、時折蘇ってきてはレテの心を痛ませた。過去のものとできないくらい、その思いは強いものだったのだ。
 アイクはレテを見つめ、言った。
「俺がどうしてもと言っても、駄目か?」
「何故、何故だ」
 レテは首を振った。自分の中に膨らんできた想像の中身を必死に否定しようとした。否定しようとして、思わず次の言葉を叫びながら言ってしまった。
「何故、そこまでして私を誘う!」
「俺は、あんたを――」
 その勢いに合わせて言いかけた言葉を、アイクは途中でやめた。もう日が暮れそうだ。アイクはそう言って、勝手に城の中へ帰ろうとした。
「アイク、何を言いかけたんだ?」
 レテの問いにも、アイクにしてはめずらしく言葉を濁すばかりだった。
「すまん、俺は少し疲れた。先に休む」
「あ、ああ……」
 城の中に入ったところでアイクがそう言い、レテも強く言及することはできなくなってしまった。アイクはそのまま、客人用の間へと去っていった。
 アイクが何を言いかけたのか、レテはそればかりを考えていた。しかし、いくら考えてもその答えは出なかった。考えても無駄なことは分かっていたが、考えずにはおられなかった。
 何故、アイクがあそこまで自分を強く誘ったのか――答えは見えそうで見えず、まるで暗闇の中に閉じこめられたような気がした。
 その日、レテは眠れない夜を過ごした。
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