ガリアでは、一週間に一度武術試合が行われる。
試合といっても皆本気で戦うため、油断の許されないものだ。アイクはその試合に、カイネギス直々に呼ばれており、先程戦いを終えてきたばかりだった。
その試合の後、アイクは自分たちに用意された部屋へと戻ってきた。ガリア城の客間の一室である。
部屋の扉を開けると、中からミストが笑って迎えてくれた。
「お兄ちゃん、おかえり」
「ただいま。ボーレは?」
「キサさんに誘われて、城の中見学だって」
ふうん、とアイクは納得しながら、試合に出るまで自分を覆っていた黒マントが部屋にかけてあるのを見つけた。マントは砂埃にまみれ、ドロドロになっていた。
「それにしても、引き分けなんてすごいね」
ミストが先程の試合の感想を言った。
「お兄ちゃんも、レテさんも、一歩も譲らないんだもん。思わず試合に見入っちゃったよ」
「ああ、レテは強かった」
自分も旅をしている最中に腕を磨き、更なる高みへと登ったつもりでいた。しかしそれは、どうやらレテも同じだったらしい。楽に勝てると考えていたわけではないが、少なくとも自分の剣技には自信を持っていただけに、レテの実力には圧倒された。
「そういえば」
ミストはまた、話題を変えた。
「お兄ちゃん、レテさんにあのこと言った?」
アイクは何かを言おうとして言葉に詰まった。その様子を見て、ミストは怪訝そうな顔をした。
「どうしたの? もしかして、言ってないの?」
「いや、言うことは言った」
「じゃあ……」
期待の目で見つめてくる妹の視線が辛くて、アイクは思わずミストから目を逸らした。
ミストの言った“あのこと”とは、レテをハタリに誘うというものだった。
ハタリは、この間までアイクが滞在していた場所でもある。かつての戦争でハタリの女王であるニケに出会ったアイクは、彼女からハタリについての様々な話を聞いた。そこではベオク、ラグズ、印付きなどの種族の差別なく暮らす国だと聞き、アイクは大変興味をそそられた。元々ラグズに対する偏見も全くなく、テリウス大陸に昔から存在する種族同士のいがみ合いを見て、こんなことはおかしいと感じていたアイクにとって、その国は理想の国であるように思えた。
実際、その通りであった。その国では、誰もが楽しそうに生活を送っていた。ベオクとラグズの夫婦もたくさんいたが、決してその関係を隠されることはなく、堂々と暮らしていた。無論、その子供にあたる印付きもそうだ。
まさに理想郷とも言うべき場所が、砂漠の向こうにあったなんて――アイクは大いに感動し、その国に移住しようと考え始めた。ニケやその伴侶ラフィエルに相談すると、喜んでアイクを迎える、という答えが返ってきた。
そこで真っ先に考えたのが、家族ともいえる傭兵団のこと、そしてレテのことだった。
傭兵団の者たちのことはともかく、何故そこでレテのことが浮かんだのか。それは、この国の様子をレテに見せたいと思ったからだった。かつてベオクを毛嫌いしていた彼女。その態度はアイクたちと接することで徐々に変化していったが、そのレテがこの国の様子を見たら、一体何と言うだろうか――アイクはそんなことを考え、思わず笑った。きっと驚くことだろう。
そんな思いがあって、レテを来るよう誘ってみたのだが、断られてしまった。
それでも、どうしても行けない理由がありそうな様子ではなかったから、もう一度強く誘ってみた。するとレテは怒ったように、何故自分をそこまで強く誘うのだ、と尋ねてきた。アイクはその答えが浮かばず、こうして部屋に帰ってきてしまったのだ。
何故、レテなのか。そのはっきりした答えは、未だにアイクの中にはない。自分の抱いている気持ちが、分からない――そんなことは初めてで、アイクは正直なところ戸惑っていた。
アイクの様子が嬉しそうなものではないので、ミストも不審に思ったようだ。もう一度、アイクに尋ねてきた。
「もしかして、駄目って言われちゃったの?」
駄目、という言葉が、アイクの心に重くのしかかる。アイクはふと顔を上げ、ああ、と頷いた。
「ガリアを離れられないから、と言われてしまった」
「どうして?」
「どうしてって、それは……あいつもガリアの戦士長だから、色々とあるんだろう」
ふうん、と言ったミストだが、まだ納得できない様子で続けた。
「お兄ちゃん、ちゃんと理由言った? お兄ちゃんが、どうしてレテさんに一緒に来て欲しいのかって」
「理由?」
「そう」
アイクは口をつぐみ、その理由について考えてみた。
「レテに、ハタリを見せたいから……か?」
ミストは呆れたような表情になった。
「そんなのじゃなくて、もっと大きな理由があるじゃない。もしかして、理由は何も言ってないの?」
う、とアイクは言葉に詰まった。確かに自分は、レテに「どうして私を誘うのか」と尋ねられ、何も答えられなかった。これは理由を言わなかったことになるのだろう。
ミストに向かってああ、と頷くと、ミストは信じられないというような表情になった。
「どうして言わないの!? お兄ちゃん、レテさんのこと好きなんでしょ!」
アイクははっとした。一瞬、ミストが何を言ったのか分からなかった。
確かに、人間としてのレテのことは好きだ。好意を持っていると言ってもいい。だがミストの言った「好き」は、もっと違う意味であるような気がした。
「俺が、レテのことを?」
ミストは溜息をついた。
「レテさんと一緒にハタリに行きたいって言うから、お兄ちゃんとレテさんは結婚するんだと思ってた。お兄ちゃんは、レテさんのことが好きなんだと思ってた。なのに、お兄ちゃんは何も考えてなかったの? お兄ちゃんは何にも気付いてなかったの?」
「俺は……」
何かを言おうとして、その先の言葉が思いつかなかった。
ミストの口から出てきた、結婚という言葉。結婚とは、愛し合った男女が一緒になることだ。そんなことは、考えてもみなかった。以前から色恋沙汰に全く関わらず、自分には関係のないものだと思っていたアイクにとっては、その言葉は十分衝撃的なものだった。
自分がレテに抱いていたものが、恋心からくる好意だと言うのだろうか。
「だが俺は、そんな気持ちがあったわけじゃない」
その思いは、恋とは違うものだろう――そういう意味で発言した。だがミストは、言葉を止めなかった。
「じゃあ、レテさんと一緒にいたいと思ったことはないの? レテさんのことを守りたいって思ったことはないの?」
「確かに、そういう思いを抱いたことはあった。だが――」
「なら、それで十分じゃない! 相手を大切に思うってことが、愛するってことなんだよ!」
ミストに再び怒鳴られて、アイクはまた考えた。
ミストの言葉の通りだとするなら、自分はレテを愛していたことになるのだろうか。しかし愛という言葉に、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。家族に抱くものとも、数多くの友人たちに抱くものとも違う、“愛”。それは今までのアイクの人生にとって、あまりにも無縁すぎたのだ。
――否、無縁だったのではない。無縁だと思いこんでいたからこそ、気が付かなかったのだ。自分がレテに抱いていた思いの正体に。
アイクはそこまで思い至って、思わず深呼吸をした。何か重い物を背負ったような感覚がした。しかし同時に、すっきりしたような、温かい気持ちが心の中に芽生えたのも確かだった。
「ありがとう、ミスト。気付かせてくれて」
そう言ったアイクに、ミストは柔らかな笑みを見せた。
「いいの。怒鳴ったりして、ごめんね」
「いや。そうでもしてくれないと、俺は一生気付けなかっただろう」
その後、二人で笑い合った。
「じゃあ明日、ちゃんと言わなくっちゃね、レテさんに」
「ああ」
アイクは頷いた後で、ミストに尋ねた。
「そういえば、ボーレもお前に言ったのか? そういうことを」
途端に、ミストは頬を赤らめ、アイクの肩を軽く叩いた。
「もう、ないしょ。恥ずかしいから、教えてあげない」
「おい、今更隠すことはないだろう」
少しためらいを見せた後、ミストは照れくさそうに笑いながら頷いた。
「言ってくれたよ、ちゃんと」
そうして見せるミストの笑顔がとても幸せそうに見えて、アイクは温かな気持ちになった。
妹とボーレは、こうして幸せな生活を手に入れた。自分たちの思いを通わせ、愛し合ったからこそだ。そしてその気持ちは、言葉にしなければ伝わらない。
レテも、ミストのような笑みを自分に見せてくれるだろうか――アイクはそんなことを考えた。まだ分からない。分からないが、そうであることを願わずにはいられなかった。
明日の朝、必ず伝えることを決め、アイクは戦い疲れた体を休めることにした。
その日の夜、レテは眠れずにいた。何故自分をそこまで強く誘うのかと尋ねた時、アイクが何かを言いかけてやめてしまったからだ。アイクは一体何を言おうとしたのか、それを考えると全く寝付けなくなった。自分で答えが出るものではないと思っていても、考えずにはいられなかったのだ。
「はあ……」
その夜何度目かの、溜息を吐いた時だった。
「レテ、眠れないの?」
背中合わせにして眠っているはずの妹の声が聞こえ、レテは驚いた。
リィレは試合の後、森に帰らずにレテの部屋に泊まりに来たのだ。これは武術試合の日には珍しいことではなく、レテはいつも喜んでそれを受け入れていた。やはり血を分けた双子の妹が一緒にいると、安心感があるというものである。
そのリィレは、とっくに眠ったものと思っていた。溜息が聞こえていたのだろうと思い、レテは恥ずかしくなった。
「リィレこそ、まだ眠っていなかったのか」
「だってレテが溜息ばっかりついてるから、気になって」
そう言い訳した後で、リィレはレテに尋ねてきた。
「何か悩み事でもあるの?」
「いや、別にそういうわけでは……」
「アイクのこと?」
ずばり核心を突かれ、レテはうっと言葉を詰まらせた。
レテのアイクに対する恋心のことは、リィレにはとっくにばれていた。というより、レテはリィレに知られていたからこそ、自分の思いに気付いたと言ってもいい。
レテは一度別れたその想い人と、今日再会したのだ。リィレが何かあると勘ぐっても不思議ではない。
「わたしに相談できるなら言ってよ。レテの力になりたいから」
リィレはずいと体をレテの方に寄せてきて、レテも答えないわけにはいかなくなった。
レテは今日のアイクとの会話の内容を、全てリィレに打ち明けた。リィレはいちいち反応を示していたが、レテが全てを言い終わると、あっさりと言った。
「じゃあ、アイクと一緒にハタリへ行けばいいじゃない」
「いや、だがそれでは――」
「レテは、一体何をそんなに迷ってるの? どうしても行けない理由があるの?」
リィレに改めて聞かれ、レテは言葉に詰まった。
確かに誘われた時は、涙が出そうになるほど嬉しかった。アイクと共に、ハタリへ行きたいと思った。
だが、何故アイクが突然そんなことを言うのか疑問に思った。その答えの一つとして、自分に都合の良いある一つの可能性が浮かびはしたものの、そんなことは有り得ないと、自分の中で切り捨てた。
「どうしてアイクがそんなことを言ったのか、分からなかったんだ」
知りたかったのは、アイクの気持ち。そして、アイクがその発言をするに至った、理由だ。
「レテはもう、薄々分かってるんじゃないの?」
リィレに言われ、レテははっとする。まさか、いや、でも。肯定と否定の言葉がそれぞれに打ち消し合っていたあの可能性が、その答えだというのだろうか。
「なんでもない相手と一緒に別の国に行こうなんて、普通言わないよ」
確かに、そうは思う。だが、相手はあのアイクだ。全ての常識を覆さんばかりのあの男が、はたしてその“普通”の枠にいるかどうか。レテがそう言うと、リィレは大笑いした。その後で、レテに言った。
「でも、きっと今回は違うよ。何も言わなかったのは、自分の気持ちに気付いてなかっただけ。昔のレテみたいにね」
昔の、と言われて、レテは少し恥ずかしかった。
だがリィレと話して、少しは自分の心に余裕ができたらしい。次第に心が楽になっていくのを感じ、レテは大きく深呼吸した。
「ちょっと、楽になった?」
「ああ、ありがとう。リィレのお陰だ」
「良かった」
リィレはにっこりと笑った。レテも嬉しくなって、思わずリィレの頬を撫でた。リィレは心地よさそうに目を瞑り、大人しくレテに顔を撫でられていた。
「じゃあ、レテはハタリへ行っちゃうのね」
「寂しいか?」
「寂しくないってのは嘘だけど、でも、レテが幸せになるのなら、それでいいよ」
それに、と、リィレは付け加えた。
「レテが戦いをやめてくれて、それで幸せになるなら、これ以上のことはないじゃない」
「リィレ……」
レテはリィレの頬を撫でながら、妹をじっと見つめた。
本来戦いの嫌いだったリィレ。だがレテが戦うならと、ガリアの戦士になった。そのことで一度はいがみ合ったこともあるが、やはり姉妹、そんなに長くは続かなかった。戦の後、リィレは元来の望み通り戦士をやめたが、本当は自分にも戦士をやめて欲しかったのかもしれない。
レテは目を閉じて眠ろうとしながら、心の中でリィレに向かって呟いた。
すまない、ありがとう、リィレ――と。
次の日。
朝、城の敷地内にある池で顔を洗っていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、レテ」
レテはびくりとして慌てて立ち上がり、後ろを振り向いた。そこにはアイクがいて、微かに笑みを浮かべながら立っていた。
「アイク……」
ぽたぽたと顔から雫が落ちているのも気に留めず、レテはアイクを見つめていた。それを見て、アイクは白い布を差し出した。
「顔、拭いた方がいいんじゃないか」
「あ、ああ。すまない」
布を受け取り、レテはそれで顔を拭く。布はあっという間に水分を吸い込んで重くなった。
顔を拭き終わった頃に、アイクが口を開いた。
「昨日言えなかったことを、言いに来たんだ」
えっ、とレテが言葉をもらした後、アイクは言葉を続けた。
「レテ、俺はあんたのことが好きだ。だから一緒に、ハタリに来て欲しい」
心臓が止まるのではないかと思った。何度、聞き返そうと思ったか分からない。
だがその言葉は、レテが想像し望んだ言葉そのものであった。
「本当に、か?」
「ああ。俺は嘘は言わん。レテと一緒に、ハタリで暮らしたい」
その言葉がどれほど嬉しかったか分からない。レテは思わず、アイクの方に寄りかかっていた。そんなレテの体を、アイクはしっかりと受け止めてくれた。
「アイク、私もずっと、お前のことが好きだったんだ」
言いたくても言えなかった三年前。過去の思い出にしようと努力した三年間。そして、三年後、やっと思いは叶った。
アイクはそうか、と言って、ますます強くレテを抱きしめた。それが答えだとでも言うように。
「これからは、ずっと一緒にいよう」
アイクの言葉を聞いて、レテの目から不意に涙が溢れ出た。レテはこくこくと頷き続けた。今やっと掴んだこの幸せを離すまいとするかのようだった。
二人の笑顔は、朝日に照らされてきらきらと輝いていた。