ハタリへの旅立ちの準備は、驚くほど滞りなく進んでいた。
ガリアを旅立つにあたって、レテはガリア王スクリミルの前で膝を折り、ガリアを離れる旨を告げた。スクリミルはあまりに突然のことに驚いていたが、傍らのライに言われるまま、構わぬ、と許可を出した。スクリミルの言葉に対し、レテはありがとうございます、と頭を下げた。
レテがガリアを離れるという話が広がり、ガリアの戦士たちも驚きを隠せないようだった。レテの下にいた彼女の部下たちの中には、何故ここを離れるのか、と尋ねてきた者が何人かいた。ベオクと共に他国へ行くなど理解できない、と言ってきた者もいた。レテは彼らの言葉にきちんとした答えを返さず、これが私の決めた道なのだと、ただそれだけを言った。それは、どうあってもレテの決意が覆ることはないということを意味していた。
アイクの方は、片付けておくべきことは何もなかった。元々グレイル傭兵団はボーレとミスト夫妻に任せていたし、後はレテを待つばかりなのであった。忙しそうに旅の準備をしているレテを見ながら、アイクは剣を振るい、己を鍛えて日々を過ごしていた。
そうして、いよいよ旅立ちの前日となった。
レテはガリア城の外へ出て、アイクがいつも己を鍛えている訓練場に向かった。アイクはなおも剣を振るっていた。前日だというのに、何かを準備するということはないらしい。レテはそんなアイクを見て、声をかけた。
「アイク、お前は何も持たなくて良いのか?」
「ああ。俺はこの剣さえあれば十分だ」
アイクは剣を止めてレテの方を向いた。レテはお前らしいな、と微笑む。
生活する上で多くの道具を扱うベオクが、こんな発言をするのは珍しい。だが、と思い直す。彼はベオクではあるが、全くベオクらしくないベオクであった。そのことを失念していた。
大抵のベオクがレテたちラグズと出会うと、半獣と呼び、怯えたような目で見たり、汚らわしいものを見るかのように顔をしかめたりする。しかしアイクはそれらのうちのどの反応も見せなかった。まるでこの世に生まれ出たばかりの赤ん坊のように、曇りのない瞳でじっとレテたちを見つめてきた。その目には、未知の者に対する好奇心が宿っていた。
改めて、思う。自分はそんなアイクと出会って、どれほど自分を変えられてきたか――。
その男にいつの間にか惹かれ、一度は離ればなれになり、そして再会して、今度は二人で共に人生を歩もうとすらしている。
二人は近くの木陰に行き、木の根に腰を下ろした。
「ハタリまでは、だいぶ長くかかるのだろうな」
レテがぽつりと呟くと、アイクはああ、と頷いた。
「一度クリミアを通って、デインに入る。そして、砂漠へ向かう。砂漠を越えるのはかなり厳しいが、俺とあんたならなんとかなるだろう」
「私たちだけで、砂漠を迷わず越えることはできるのか?」
「それは問題ない。狼の女王とラフィエルが、ハタリまでの道しるべを立ててくれた。それを辿っていけばハタリに着ける。実際俺はそうやってハタリまで行って、そして帰ってきた」
「そうか。ならば問題はないのだな」
道しるべさえ見落とさなければ迷うことはないようで、レテは少し安心した。
「ハタリはどんな場所なのか、楽しみだな。お前がそこまで惚れ込んだ場所なのだから、素晴らしい場所には違いないのだろうが」
「ああ。まさに別天地と呼ぶべき場所だ。住むのにもとても居心地がいい」
アイクはそう言って微かに笑った。いつもしかめ面をしている彼が笑みを見せるほどだから、余程気に入っているに違いないとレテは思った。
訓練場のすぐ横は森になっていて、常に視界は緑で満たされていた。ガリア王国は一面森に囲まれた国だ。集落のある場所など以外はほとんどが森と言ってもいい。森は生命を育み、人々の心を和ませ、常にガリアの者と共にあった。
レテは、その森が急に恋しくなった。明日、生まれ育ったこの故郷を離れることになるのだ。自分が望んだこととはいえ、故郷を離れるというのは辛いものだ。新しい土地、新しい生活を望む一方で、故郷を離れがたく思う心があるのもまた事実だった。
「なあ、アイク」
レテはアイクに話しかけた。水分補給をしていたアイクは、水筒から口を離してレテを見た。
「お前は、故郷のクリミアに未練はなかったのか?」
アイクが目を見開いた。この質問を意外だと思ったらしかった。その後で、しばし考える仕草をする。レテは少し緊張しながら、アイクの答えを待った。
「なかったといえば、嘘になるかもしれん」
「そうなのか?」
否定しないアイクを少し意外に思う。アイクは何かに執着するような男ではない。旅に出ると言い出したのも女神との戦が終わってすぐのことだったと聞いているから、何かに迷う時間もなかったはずだ。
目をぱちくりさせているレテを見て、アイクは笑みを浮かべた。
「そんなに驚くほどのことか?」
「あ、ああ。なんとなく、お前らしくないと思ってしまった」
「旅に出るというのは、前々から考えていたことだったんだがな。いざ出るとなると、傭兵団の砦がとてつもなく居心地のいい場所に思えた。ミストたちが手入れをしてくれているものの、この宿舎と比べたら快適とはとても言えん場所なのに、だ」
「そうか」
レテはアイクから視線を逸らし、再び森の方を見つめた。今、まさにレテはその心境だった。共にあるのが当たり前だったこのガリアの森を離れる。それがどんなに寂しいものか、レテはそれを痛いほど味わっていた。
「もしかして、あんたもそうなのか」
言い当てられ、レテはびくりと肩を震わす。
「い、いや、私は別に……」
「今更、俺に隠すようなことでもないだろう」
アイクは微かに声を立てて笑う。レテはなんだか悔しくなったが、素直にこくりと頷いた。
「お前の言う通りだ。何故か、ここを離れるのがとてつもなく寂しいような気がする」
「そうか」
アイクは相づちを打った後で普段の表情に戻り、念を押した。
「まさかとは思うが、今からここに留まると言うんじゃないだろうな」
「な、何を馬鹿なことを。私を子供扱いしているのか?」
レテが怒ったような声を出すと、すまん、とアイクは謝った。
「少し、冗談を言ってみただけだ」
「お前の冗談は冗談に聞こえない。そんなしかめ面で言われても困る」
レテはふん、と鼻を鳴らしてアイクから顔を逸らした。アイクに言い当てられたことで、心の中で悔しさと恥ずかしさが混ざり合った。他人に心の隙を知られるのは好きではなかった。それはアイクとて、例外ではない。
あさっての方向を向いてしまったレテに対して、アイクが小さく溜息をつくのが聞こえた。
「これが地の顔なんだが」
「な、なら、笑って冗談を言え。同じ冗談を言われるなら、ライの方がまだましだ。あいつは分かり易いから」
レテがまだ顔を背けたままそう言うと、アイクも言い返した。
「それはあんたも一緒だろう、レテ。あんたも地の顔のままだと、怒っているように見える」
「なっ……」
レテは言葉に詰まった。まさかそう返されるとは思ってもみなかった。普段は意識することのない自分の表情が、急に気にかかってくる。自分は普段、そんなに険しい顔をしているのだろうか。
「私は、そんなに怒って見えるのか」
「俺はもう慣れたから何とも思わないが、初めてあんたを見た奴は、怒っているように見るかもしれん」
アイクははっきりとそう言った。そうか、とレテは少し落ち込む。明るく見られたいわけではないが、思ってもいないのに怒っていると見られるのは気分の良いものではない。
少し顔を俯けたレテを見て、アイクは言った。
「だが、あまり深く考える必要はないだろう。他の奴からどう見られたって、レテはレテなんだから」
「それは、励ましているつもりなのか?」
「一応、そのつもりだが」
レテはまじまじとアイクを見つめた。そのうちに嬉しくなってきて、自然と口元を緩めていた。レテはレテなんだから、という言葉が妙に心の中に残った。
口元を緩めたレテを見て、アイクは言った。
「やっぱり、あんたは笑っている方がいい」
「え?」
レテはそこで、思わず笑みを浮かべてしまっていたことに気付いた。対するアイクも笑みを浮かべ、レテをじっと見つめていた。レテは急に恥ずかしくなって、目を逸らす。
するとアイクがレテの頬に手を当て、顔を再び自分の方に向けた。レテは慌てたが、アイクから発せられている何かの力のせいで、レテは抵抗することができなかった。
「あんたの笑った顔、もう少し見ていたい」
「アイク……」
レテは笑顔を既に崩し、戸惑ったような表情で顔を赤らめていた。
アイクはそうしてしばらくレテを見つめていたが、急にレテの顔に迫ってきた。レテはまたしても、逃げる時間を与えられなかった。目を見開くと、視界いっぱいにアイクの顔が映る。あまりに近いので、アイクの顔がぼやけてよく見えなくなった。
そうして三秒ほど経ってから、アイクの唇が自分の唇に重ねられたのにようやく気付く。不思議な気持ちが、レテの心の中に流れ込んできた。焦りに似た感情がありながら、一方で安堵の気持ちを持つ自分がいた。何か大きなものに包まれたような気分だった。
アイクの顔が離れた後、レテは放心したようにアイクの顔をじっと見つめていた。何がなんだか、自分でもよく分からなかった。そんなレテを見て、アイクは申し訳なさそうな顔をした。
「すまん。嫌だったか」
「あ、い、いや。わ、私はその、別に」
自分でも驚くほどうろたえていた。アイクの唇の感触が、まだはっきりと自分の唇に残っている。レテはそっと、自分の唇に触れる。ここにアイクの唇が押し当てられていたのだと思うと、急に心臓の鼓動が速くなった。
「さて、そろそろ宿舎の方に戻るか」
アイクはそう言って、何事もなかったかのように立ち上がった。レテも慌てたように、つられて立ち上がる。
ふと、アイクとの背丈の差が気にかかった。アイクはレテよりも背が高い。だがそれを、強く意識したことはあまりなかった。今こうして立ってみて、その背の違いを改めて認識する。
ベオクはラグズに比べて成長が早い。三年前の戦で再会した時は、あまりの成長ぶりに驚いてしまったほどだ。彼に微かに残っていた幼さは消えていて、もう立派な一人の男だった。その更に三年前の時から密かに抱いていた思いが、この時レテの中で少し具体的な形になったような気がした。
そうして、今。その思いを遂げて、レテはこうしてアイクと立って並んでいる。
自分はやはり、アイクを愛しているのだと思わずにいられなかった。その想いは強く、そしてはっきりとレテの心に迫ってきた。先程の口づけだって、そうだ。あまりに突然のことだったので何が何だか分からなかったが、今ならその行為を素直に受け止められる。アイクが示してくれたように、自分も想いを示すべきなのかもしれない。
レテは迷ったが、アイクの隣へ行き、彼の手をそっと握った。たちまちレテの手にアイクの手の温もりが伝わってきて、レテの緊張が最高潮に達する。アイクは一瞬驚いたようにレテに視線を向けたが、すぐに手を握り返してくれた。その握り方は力強く、レテはまた新たな安堵を覚えた。
「早く、明日になれば良いのにな」
レテが呟くと、アイクもああ、と頷く。
「そうだな」
二人は互いの手を握りしめたまま、宿舎の中へと入っていった。