新たな始まり

 殺風景な家の中で、レテは頬杖をついて考え込んでいた。窓から外を見つめ、まだ空が赤くなっていないことに気付いてため息をつく。アイクが帰ってくるまで、まだしばしの時間があるだろう。
 木目の残る天井を見上げ、小さく息を吐く。この家は、アイクと共にハタリに来た時に女王ニケが用意してくれたものだ。二人の新居にと言われた時は気恥ずかしいことこの上なかったが、レテはこの家が気に入っていた。家の中には最低限生活できるだけのものしか置いていなかったが、それでも生まれ育った家と同じくらい、安心できる場所だった。
 だがしかし、今日に限ってはこの場所にいても安心できなかった。もやもやとした気分が心を覆っていて、とてもすっきりとした気分にはなれなかった。
 ややぼんやりと天井の木目を見つめ続けるレテの頭の中に、もう何度も反芻した言葉が蘇る。
「子供……か」


 あれは、今朝の出来事だった。
 買い物をしに市場に出かけた帰り、近所に住んでいる虎の夫人に出会った。彼女の夫はベオクで、彼女たちはアイクとレテと同じ、異種族の夫婦である。ここに住み始めた頃から何かと世話を焼いてくれる、優しいおばさんだった。
 会って挨拶を交わし、少しばかり世間話をしていたのだが、その途中で、彼女が思いがけないことを口にしたのである。
「あんたたち、子供は作らないのかい?」
 レテの心臓が飛び跳ねた。目を見開いたまま、言葉を失った。彼女はその様子を見て、あらあら、と笑った。
「そんなに驚かなくても良いのに。あんたたちは夫婦なんでしょう?」
「そ、それは」
 レテは思わず赤面した。夫婦、と言われることに、まだ慣れていなかった。確かにアイクとは夫婦の契りを交わしたが、それを意識したことなどほとんどなかった。恋や愛などという感情や、女として見られることにさえ、まだ慣れていなかったほどだ。
「お節介だと言われるかもしれないけどねぇ。もう考えてもいい頃だと思うよ」
 レテは動揺を隠せないまま、夫人に言われたことを頭の中で考え始めた。
 子供。それはもちろん、レテとアイクの間に生まれるはずの子供のことを指しているのだろう。二人はベオクとラグズという異種族の者だから、二人の間に子供が生まれるとすれば、それはいわゆる"印付き"になるはずだ。
 彼女たち夫婦には子供がいる。この子供も"印付き"なのだが、ここハタリの地でそのことを気にする者はほとんどいなかった。レテがここへ来て、まず驚かされたのがそのことだ。アイクにさんざん聞いて知識としては持っていたものの、実際に印付きが何の差別も受けることなく暮らしているのを見ると、心の底から驚いた。自分の今まで立っていた土台が、全てひっくり返されたような気分だった。
 だが、それを目の当たりにしていてもなお、抵抗があった。ベオクの彼と子を成すということは、レテたちが今まで生きてきたテリウスでは全く考えられなかったことだ。幼い頃から刷り込まれた印付き――レテたちラグズは親無しと呼んだが――への感情も、妨げとなっているのは間違いなかった。
「で、でも、私は……」
「あんたの旦那がベオクだから、気にしているのかい?」
 図星を指されて、レテはどきりとした。夫人は首を横に振って、優しく微笑んだ。
「だけど、だからこそ子供を作る意味があるんじゃないかと、私は思うんだよ」
「だからこそ……?」
「そう。私たちラグズとベオクでは、寿命が違う。あんたは、旦那と自分が確かに結ばれていた証を、旦那と自分が生きていた証を、残したいと思わないかい?」
 指摘されて、レテは思わず俯いた。そう思う気持ちがあったからこそ、夫人の言葉を即否定することが出来なかったのだ。
 アイクと自分が生きた証。アイクと自分が、確かに繋がっていた証。二人の間に子供がいるというだけで、これらのことが一気に証明されることになる。
 更に、寿命の違いも気にかかっていた。レテたちラグズは、ベオクの何倍もの年月を生きる。あまり考えたくはないことだが、アイクの方が先に逝ってしまうことは否定できない事実なのだ。
「まあ、これはあんたたち夫婦の問題だからね。よく考えてから、決めた方がいいよ」
 悩んでいる様子のレテを見て、夫人はそっと肩を叩いた。レテは顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「おかあさーん!」
 その時、元気な声が夫人の家の中から聞こえてきた。扉が開いて、子供が飛び出してくる。子供は夫人の足下にまとわりつき、にこにこと笑いながら母親の顔を見上げた。
「あら、ルイ。一体どうしたの?」
「あのね、できたんだよ、おかあさんのかお!」
「お母さんの顔?」
「そう。きのうから、ずっとかいてたの!」
 子供――ルイの顔には、微かに染料の色が残っていた。夫人は嬉しそうに微笑んで、ルイを抱き上げた。
「それは嬉しいねえ。今から見に行くよ」
「うん!」
 夫人はルイの体の横からそっと顔を出し、レテに目配せした。
「それじゃあ、またね」
「え、ええ」
「レテさん、ばいばーい!」
「ああ……またな」
 レテに気付いたルイが手を振り、レテもそれに応えた。自然と口元が緩んでくるのを感じた。
 ルイは誰にでもよく懐く子のようで、初対面であるにもかかわらず、アイクやレテにじゃれてきたこともあった。レテは突然のことに戸惑ったが、決して悪い気はしなかった。ルイの笑顔を見ていると、自然とこちらまで元気が湧いてくる気がした。
「子供……か……」
 レテは小さく息を吐いて、家へ帰ることにした。


 夕飯の支度をしながら、レテはまだ今朝のことについて考えていた。思考が終わることはなかった。結論が出ないまま、その考えたちはゆっくりとレテの頭の中で回り始める。野菜と肉を切り、火を付けて、食材を炒め始める。だがあまりにぼうっとしていたせいで、その間にアイクが帰ってきたことに、全く気付かなかった。
「――レテ? レテ、どうした?」
 レテははっと我に返り、フライパンを見た。
「うわっ!」
 危うく焦げるところだった。レテはフライパンを火から遠ざけながら、大きくため息をついた。
「どうしたんだ、レテ。ぼうっとしていたようだが」
 レテはそこでやっと、アイクの方を振り返った。
「あ、ああ……帰っていたのか、アイク。おかえり」
「ただいま。それで、何かあったのか」
「いや、何でもないんだ。ただ少し、考え事を……」
「あんたが? 珍しいな」
 それはどういう意味だ、と尋ね返す余裕もなく、レテはもう一度ため息をついた。野菜と肉の焼けた香ばしい匂いが漂い、食欲を刺激したが、あまり食べる気は起こらなかった。
 野菜と肉の炒め物を皿に盛り、先程の夫人に分けてもらったパンを食卓に載せる。簡素な食事だが、二人にはこれで十分だった。レテは昔からこういう食事に慣れていたし、アイクは肉さえあれば満足してくれた。
 向かい合って木の椅子に座り、二人は食べ始めた。アイクは一仕事終えてきたせいか言葉も発さずに食べていたが、レテはパンを手にとってひとかけら口に入れたきり、食べなくなった。
 その様子に気付いたらしいアイクは、食べるのを止めて怪訝そうな目でレテを見た。
「レテ、食べないのか?」
「いや……あまり、食べる気がしないんだ」
「体調が悪いのか? なら、休んでいた方がいい」
「いや、そういうわけではないんだが……」
 言葉を濁すレテを、さすがに不審に思ったらしい。アイクは立ち上がって、レテの額に手を当てた。突然のことに驚き、レテはそのまま固まってしまっていた。
「熱はないようだが……」
「だ、大丈夫だ。体が悪いわけではないから……」
 気恥ずかしさも混ざって、アイクの手を振り払う。アイクはなおも不審そうな目を向けていたが、それ以上は何も言わなかった。
 レテはそっとアイクの様子を窺った。話してみるべきだろうか。口から出かかって、止まった。内容が内容なのと、気恥ずかしさが相まって、レテを躊躇わせていた。
「な、なあ……アイク」
「何だ?」
 レテは視線を彷徨わせながら、口ごもるように言った。
「その、お、お前は……」
 アイクの視線がレテの方を再び向いた。発言を引っ込めるわけにもいかず、レテは何と続けるべきか迷いながらアイクに尋ねた。
「お前は、その……こ、子供は、好きか」
 突然の問いに、アイクも驚いている様子だった。いつも険しい目を見開き、レテをじっと見つめていた。
「何故、そんなことを?」
「いや、ただ、知りたいと思っただけだ」
 苦しい言い訳だったが、アイクはそれ以上追及してこなかった。しばし考えた後、呟くように言葉を発した。
「そうだな。嫌いじゃない。ルイのことは、好きだな」
「ああ……ルイは、私も好きだ」
 レテは頷いて同意した。素の顔がやや厳しめなせいで、他人から近寄りがたいと思われがちなアイクとレテにも、ルイはよく懐いていた。
「じゃ、じゃあ……もし、お前に子供ができたら、どうする?」
 今度は、質問を直球でぶつけた。敢えて自分とアイクの子供とは言わなかった。アイクは再び驚いたように目を見開いて、少しばかり考え込む仕草をした後、答えた。
「きっと、可愛がると思う。俺の親父と母さんが、俺にそうしてくれたように」
 レテはそれを聞いて、アイクらしい答えだと思った。
 アイクは両親を亡くしている。母親はまだ物心ついていなかった幼い頃に、父親は先の戦いの中で、だ。両親の死を経験しているアイクにとって、親への思いは人一倍強いに違いなかった。だから、そういう答え方をしたのだろう。
「あんたがさっきから悩んでいたのは、そのことだったのか?」
「え?」
 突然そんなことを言われて、レテはどきりとした。
「あんたは、子供が欲しいのか」
「え、わ、私は……」
 図星を指されて、レテはうろたえる。恐らく鈍感の部類に入るであろうアイクが、レテの真意に気付いていたことが意外だったことも相まって、レテの心はかなり動揺していた。
 アイクは、じっとレテを見つめている。レテの次の反応を窺うかのように。だがレテは反応することができなかった。ぴくぴくと、自分の尻尾が揺らぐのが分かった。
「この間、狼女王に言われた。お前たちは子供は作らないのかと」
 レテは目を見開いた。アイクもレテと同じようなことを、ニケに言われていたらしい。
「俺は……考えたこともなかった。だが、お前と俺は契りを交わした仲だ。そう他人に言われても、おかしくはない」
 だが、とアイクは首を振った。
「言えなかったんだ。お前には」
「何故だ?」
「子供を作ることで、一番負担がかかるのはお前だ。何ヶ月もお腹に子供がいる状態で過ごさなければいけないし、何より、レテの力は……ラグズの力は、失われてしまう」
 レテは何年か前の戦いを思い出していた。アイクと再会した、あの戦い。そこでレテは、何人もの印付きと、印付きを産むことによって力を失ったラグズの姿を見てきた。
 あの虎の夫人もそうだ。身体的な特徴は残っているものの、もう化身することはできないのだと、彼女は笑って話していた。
 かつて戦士であったレテにとって、ラグズの力を失うということは、死にも値する事だ。アイクは同じように戦ってきた者として、そのことさえ見抜いていたに違いない。
 レテは何故だか泣きそうになって、こらえた。アイクがそこまで、自分のことを考えてくれたなんて知らなかった。
「私は……迷っていたんだ。お前と生きた証を残したいとは思っていた。だが、お前が子供を欲しいと思っているかどうかなんて、分からなかった。それに」
 すう、と息を吸い込んで、レテは吐き出すように言った。
「私とお前から生まれる子供は、親無……"印付き"だ」
「それがどうした?」
 アイクは事も無げに言った。その返答があまりにあっさりしていたので、レテは全身から力が抜けていく感覚がした。
「印付きかどうかなど、関係ない。俺とお前の子供は、紛れもなく、俺とお前の子供なんだから」
「アイク……」
 胸につっかえていた何かが、とれていく気がした。アイクはそのまま歩いてレテの隣に行くと、レテの体を抱きしめた。レテの目から、涙がこぼれた。
「私は、いいのか。お前の子を、生んでも」
「ああ。お前がいいなら、俺は構わん」
 涙でぼやけた視界に、アイクの顔が映る。
 レテは涙に濡れた顔を見られたくなくて、思わず顔を俯けた。だが、アイクはレテの顔を上げると、そのまま口付けを落とした。
 それが濃厚な色へ変化するのに、さほど時間はかからなかった。
(2009.6.26)
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