その手を取った時から

「……っつ!」
「どうした、アイク! これがお前の本気ではないのだろう!」
「……ああ、当たり前だ!」
 ガリア城の敷地内にある、戦士専用の訓練場。
 砂塵が舞い、他の観衆が息を飲んで見守る中、アイクとレテは対峙していた。
 レテはラグズであるため、変化しないと戦うことはできない。だが現在、彼女は変化していなかった。アイクはいつもの服装をして、両手で剣を構えている。訓練用の剣で、当たったとしても大したダメージはない。二人とも息は荒いが、まだまだ表情には出していない。
 そう。二人はこの場所で鍛錬をしていたのであった。 
 テリウス大陸全土を巻き込むことになったあの戦争があって、クリミア王国が再興されてから一年後。アイクはレテと取り付けた約束を果たし、ラグズの一種族である獣牙族の住まう王国・ガリア王国にやって来た。ガリアはアイクが生まれた地であり、またアイクの父とも関係の深い地でもある。更にラグズにとって住みやすい条件の場所であるため、ベオクにとっては厳しい条件の揃った土地だ。
 そんな場所で鍛錬すれば、お前の剣の腕も更に磨くことができるに違いない――レテはそう言って、アイクをガリアに誘ったのだ。アイクはレテが鍛錬の相手をするという条件で、こうしてガリアにやって来た。そして、毎日欠かさず鍛錬を行っている。
 二人のことはすぐにガリア中で評判になり、戦士専用の訓練場だが、毎日のように一般市民も見物にやって来る。アイクもレテもそんなことは気にしないので、何も言わなかった。
 二人はしばらく黙って見つめ合っていたが、レテは彼に向けて言葉を放った。
「どうした、アイク! かかってこい!」
「……くっ!」
 アイクはそう短く叫ぶと、剣を振りかざしてレテに迫った。レテは得意の身のこなしでその剣を避けようとしたが、剣が狙っているのはレテが避けた、まさにその場所だった。予想外の場所を突かれ、レテは鋭い一撃をくらい、倒れてしまった。


 レテが腰をついた途端、観衆からおぉ、と感嘆の声がもれた。アイクは荒い息づかいのまま腰に剣を差し、レテに手を差し伸べた。
「すまん、手加減できなかった。立てるか?」
 レテはふん、と顔をそむけ、手をついて自分の力で立ち上がった。
「この程度、さしたる問題はない」
 冷たくて淡々とした口調だが、レテはこれが普通なのだ。無愛想だと言われることもあるが、本人は気にしないし、彼女をよく知る者たちも気にせずに接する。もちろんアイクもそうだったのだが、鍛錬中、彼女が絶対に自分の手を借りて立ち上がらないことを少し気にしていた。彼女は絶対に人の力を頼ったりしない。自分のことは自分でやるし、与えられたものが少々重荷であっても、人に手を借りるということをしないのだ。単に負けず嫌いなだけなのかと思っていたが、やはり気になった。
「もうすぐ飯の時間だ。アイク、行こう」
 レテはそう言うとくるっと背中を向け、訓練場の出口へと足を進めた。
 その背中に向かって、アイクはずっと気になっていた疑問をぶつけようと思った。
「なあ、レテ。訊いてもいいか?」
 レテはその言葉に足を止め、再びアイクの方を振り向いた。
「なんだ?」
「ベオクは、やはり嫌いか?」
 本当は、アイク自身がベオクであるために手を取らないかと思い、そのことを直接訊こうかと思ったのだが、そのほとんどが省かれた質問になってしまった。レテはその質問に、ふっと軽く息をついて答えた。
「頭では理解できても、心を許せる人間は一部だ」
「そうか。いや、余計なことを訊いて悪かったな」
 レテの思った通りの答えに、アイクは少々安堵した。
 彼女は自分たちと共に戦うまで、ずっとベオクを毛嫌いしてきたのだ。こうしてクリミアも再興され、ベオクとラグズの友好が以前より深まったとはいっても、やはりまだベオクを嫌っているラグズはいるし、同じようにラグズを嫌っているベオクはいる。レテもクリミア軍として戦ってきた仲間にはある程度心を許していたようだが、やはりベオクそのものを好きになるということはできないらしい。
 アイクは少しだけ考える素振りをしてから、そのまま背を向けて歩き出したレテを追った。


 ある朝のことだった。
 ガリア王に従えられている戦士達が全員、ガリア王宮に集められることとなった。
 その知らせを食事中に聞き、アイクと朝食を共に取っていたレテはきりっとした目つきになった。彼女はいつもそんな目つきだが、今日は目の光がいつもより強い。
「何のことだろうな?」
 アイクが何の気無しに訊くと、レテは手を止めて首を振った。
「さあな。もしかしたら、ベオクに関することかもしれん……」
 レテはそう言って、顔をしかめた。相変わらずベオクが嫌いなんだな、とアイクが言うと、レテはさあな、とごまかすような素振りを見せた。
 今二人がとっている食事は、ベオクが好むものである。ラグズは本来物に手を加えて食べる、つまり調理する、ということを必要としない。だが最近ベオクとの交流が活発になってきたこともあって、ガリア王宮にもベオク向きの食べ物を出す食堂ができたのだ。レテは最初、こういうものは好まないと言って避けていたようだが、アイクは当然ながら調理された食べ物を必要とするため、なら付き合ってやる、とレテはしぶしぶ了解したのだ。別に俺に付き合う必要はないといってアイクは退けたが、レテは決定を変えるようなことはしなかった。
 ラグズの戦士たちも最初は敬遠していたようだが、徐々に利用者も増えている。
 ここは当然ラグズの国なので、ラグズが好む味付けのなされた料理が多い。そのため、アイクにとっては少々食べづらい物も多いが、最近は慣れてきた。
 食事が終わってから、レテはすっと立ち上がった。それにつられて、既に食事が終わっていたアイクも立ち上がる。レテは視線をアイクに送ると、そのまま王宮の方へ行ってしまった。食堂には、アイクだけが取り残された。
「本当に、何のことなんだろうな……」
 呟いて、アイクは食堂を出た。


 アイクが一人で訓練場に向かい、剣の素振りをしていると、徐々に戦士達が帰ってきた。口々に何かを話し合っている戦士達が大半で、訓練場で鍛錬をしているのはアイクだけだった。
 そのうちレテが帰ってきたので、アイクは早速訊いた。
「何のことだったんだ? ガリア王の話は」
 レテはそれを訊かれた途端に苦い顔をした。
「同盟国クリミアとの友好を深めるため、ガリアの戦士を何人かクリミアに派遣するということだった。明朝までに考えておくようにとのことだったが――」
「で、レテは? 行くのか、クリミアへ?」
 アイクが彼女の言葉を遮って訊くと、レテは軽く首を横に振った。
「いや。私はここに残る」
 彼女らしい答えにやっぱりか、とアイクが頷くと、レテは怒ったような顔をした。
「別に、ベオクが嫌いだとかそういう理由ではない。その……私がいないと、お前が鍛錬の相手に困るだろうから、な」
「俺は構わないぞ? レテが行きたいなら、それでも――」
 アイクはそう言いかけたが、レテの鋭い視線によって、それ以上の言葉を遮られる形になった。
「私は約束を果たす。アイク、お前が十分に腕を上げるまでだ」
「約束か……そうか、そうだったな」
 アイクは頷いて、その話題をそこで断ち切った。
 アイクはレテが鍛錬の相手になってくれるということを条件に、ガリアに行くことを約束したのだ。その約束を思い出し、アイクはもう一度納得する。
 それに約束だけでなく、アイクとしてもレテが相手をしてくれないと困るのだ。彼女ほどの手練れも、さすがにアイクの相手をしてやるという戦士もいない。一度レテの用事があって鍛錬の相手がいなかった時、アイクの相手を申し出た勇敢な戦士がいたのだが、彼は数秒で叩きのめされてしまった。それほど強いダメージではなかったものの、戦士は素直にアイクの実力を認め、引き下がった。その戦士もなかなかの実力を持つ戦士だったらしく、それ以来、アイクに向かってくる戦士達はいなくなった。
 アイクはそんなことを考えながら、レテに向かって言った。
「やっぱり、レテがいてくれないと困るな」
 すると、何故か思わぬ反応が返ってきた。
 レテの頬にすっと赤みが差し、彼女の口が中途半端に開いたのだ。アイクは何気なくそう言ったつもりなのだが、彼女にとっては予想外の発言だったということだろうか。
 珍しく少々動揺している様子の彼女を見て、アイクは首を傾げた。
「俺、何か悪いことでも言ったか?」
「い、いや。そうではない……」
 レテは焦った口調ながらも否定し、口をぐっとつぐんで鍛錬の準備を始めた。そんな彼女の様子を訝りつつも、アイクも腰の剣を抜き、試しに振ってみる。ヒュン、と風を切る心地よい音が聞こえて、アイクはこれでよし、と息をついた。
「私も、お前だけは……」
 アイクが息をついたのとほぼ同時に、レテの声が一瞬だけ聞こえた気がした。
「レテ、何か言ったか?」
 レテははっと目を見開いたが、すぐに怒ったような顔でアイクを見て、言った。
「いや、何も言ってない。さあ、始めるぞ」
 すっかり準備を終えたレテがそこに立つ様子は、普段の彼女と何ら変わりはなかった。
 アイクも剣を構え、二人は対峙する。
 ――始まった。


 レテの身のこなしは軽く、またスピードの面でいっても優れている。獣牙族の中でも速さを長所とする猫だからなのか、それともレテがそれだけ鍛えた証拠なのか、彼女はアイクの剣を、軽々と避けていった。
 また、アイクも負けてばかりではない。彼女に当たる寸前で避けられる回数がだんだんと多くなってきたのは事実だ。レテの動きを一瞬で予測し、その場所に向かって剣を振れるようになってきた。そしてただ縦方向に振るだけではなく、時には突きを入れてみたり、大きく横に振ってみたりと、彼女の動きに合わせてアイクの剣技の方も変化を見せるようになっていた。
 二人は今日も、接戦だった。
 二人は声を発して戦うということはあまりしない。呻くことは多少あるが、それでもただ静かに、アイクは剣を振り、レテはそれを避ける。二人の動きが風を切る音のみが、場に響き渡る。
 他の戦士達は先程までのクリミア派遣についての話題も忘れ、二人の鍛錬に釘付けになっていた。
 アイクはレテが動くと予測された場所に向かって剣を振ったが、レテは軽々とそれを避けた。レテはアイクの目をじっと見つめ続けながら、体は自在に動かし、それを避けている。
 またアイクが剣を振った時、今度はレテが焦る番だった。レテの頭上すれすれで、これで当たるか、と観衆が息を飲んだ瞬間、間一髪で避けていたのだ。レテもさすがに焦った顔を隠しきれず、く、と呻いた。
「レテ、お前……動きが鈍くなってないか?」
 剣を止めてアイクにそう言われ、レテはすぐに言い返した。
「お前こそ、剣の振りが甘い。もう少し速ければ、私を仕留められたんじゃないか?」
 そんなやりとりがあった後、二人は一斉に余裕ととれる笑みを浮かべた。観衆からは、おぉ、という感嘆の声がもれる。
「そうでなくてはな」
「ああ。面白くない」
 二人は微笑を浮かべつつ言葉を発した後、瞬間で二人は動いていた。


 今日も接戦が続いたが、やはり最終的にはレテがアイクに打たれる格好となった。
 観衆たちは二人の戦いが終わっても、まだ残って二人を見ている。アイクがレテに手を差し出し、レテが拒否して立ち上がる、というその過程を見るのが好きらしい。
 今日もまた同じように、アイクは腰を地面につけているレテの前に手を差し出した。
 レテはその手をちらりと見て、ふん、と顔をそむけた。そこまでは二人ともいつもの行動だったが、アイクは何故か、いつもとは違う――観衆にとっては予想外の――言葉を発していた。
「レテ……俺に頼るのが、そんなに嫌いか? 侮辱的か?」
「な……!」
 その言葉は、レテにとっても当然ながら予想外である。レテは驚き目を見開いたまま、アイクをじっと見つめていた。アイクも真摯な眼差しで、レテを見つめ返した。
「レテが俺の手を頼らないのは、レテが負けず嫌いだとか、頑固だとか、そういうことなのか? 俺はどうしても、そうは思えない。お前の心の中の何が、俺を拒んでいるんだ?」
 そこまで言われて、レテは俯いてぐっと口をつぐんだ。アイクは相変わらず、レテに真摯な眼差しを送り続けている。観衆は二人のやりとりを聞きながら、緊張した面持ちで次の発言を待った。
 次の言葉を発したのは、レテだった。
「私は、何もお前を拒んでいるわけではない……」
「じゃあ、何故なんだ?」
 アイクが再び訊くと、レテは言いにくそうに口をもごもごとしてから、言った。
「こんなところで、私がお前の手を取るわけにはいかないだろう? 私が何も思わなくても、他の者たちがどう思うのか、お前は考えたことがあるのか?」
「人目を気にするなんてレテらしくない。勝手に言わせておけばいいだろう」
 アイクがあまりにもあっさりと言うので、レテは渋い顔をした。
「そういうわけには……いかないだろう」
 レテが渋っているのを見て、アイクは力を込めて、次の言葉を発した。
「レテ。俺を信用しているなら、ベオクだとしても心を許せる存在なら、手を取って欲しい」
 レテはく、と呻いた。差し出されたままのアイクの手をちらりと見て、また逸らし、迷っているようだった。その顔には微かに赤みが差しているようにも見えた。
 そしてさんざん迷った後、レテはアイクに少しだけ赤くなった顔を向けて、言った。
「わ、私にとって、お前だけは……特別なベオクだ」
 レテは微かに震えている己の手を、アイクの手にのせた。観衆からはざわめきが起こり、レテの頬がますます赤くなったのが分かった。アイクはそんなことは気にせずにレテを引っ張り上げ、彼女を横に立たせた。立った彼女はただ、赤かった。
「何故、赤くなっているんだ?」
 アイクが何気無しにその質問をぶつけると、レテはとても慌てた様子で、突然怒り出した。
「あ、赤くなってなどいない! くだらない質問をするな!」
 レテはそう言い放つと、くるりとアイクに背中を向けて、訓練場の外へ走って出ていってしまった。
 アイクはそんな彼女の後ろ姿を見つめながら、レテの手を掴んだ感触を思い出した。
 彼女の姿は普通の女性よりはるかに鍛え上げられたものだったけれども、彼女の手はアイクのそれより小さくて、また、柔らかかった。握る力も、アイクよりも少し弱かった。
 自分と実力はほとんど変わらないのに、彼女の手と自分の手は、こんなにも違う。
 レテのことはほとんど知っているつもりだったのに、知らなかったことを発見できて、アイクはほのかに嬉しいという感情を抱いた。レテに特別だと思ってもらえていたことや、彼女に認められていた存在だったというその事実が、ただ、嬉しかった。
 アイクはレテの手を握ったその手を、再びぎゅっと握りしめ、彼女の後を追うようにして訓練場を出ていった。
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