大きな闇が、空を覆い尽くしていた。月は見えるが、地上に届く光は少ない。
しかしそんなことは、レテにとって少しも問題ではなかった。獣牙族は鳥翼族と違い、夜に強い。目も見えるし、たとえ見えなくとも匂いを頼りに行動することが可能だからだ。それよりも何より、レテが今いる周りには点々と明かりが灯され、燃えさかる炎が煌々と大地を照らしていた。
ここはラグズ連合軍が拠点を置いている地である。これからラグズ連合軍は、いよいよ敵陣であるベグニオン帝国に攻め込むことになる。そのせいか、ここはいやというほど殺気が漂い、その気に誰もが影響されていた。
そんな殺気の中をくぐり抜け、レテは探していた相手であるアイクが外をうろついているのを見つけた。
「アイク!」
その名を呼ぶと、アイクは振り返り、レテの姿を認めて表情を和らげた。ここで普通なら再会の喜びの言葉をかけ合うところなのだろうが、そんな言葉は全て抜きにして、レテは単刀直入に言った。
「すまないが、手合わせをしてくれないか?」
「手合わせ?」
アイクは怪訝そうな顔をして尋ね返す。レテは、ああ、と言って頷いた。
「しばらくベオクとの戦いを忘れていたから、体がなまっている。もう一度、お前に相手になってもらいたい」
「なら、構わないが」
アイクは理由を聞いて納得した後、頷いた。
アイクが承諾してくれたので、二人は広い場所を見つけて対峙する形になった。アイクは青銅の剣を構え、レテを真っ直ぐ見つめている。レテもぴんと背筋を伸ばして立ち、アイクを見据えた。
「いいか?」
レテが声をかけると、アイクは無言で頷いた。
「行くぞ」
レテはしなやかに体を折り、その身をあっという間に猫の姿へと変化させた。それが合図だった。
アイクがレテに向かって剣を振りかざしてくる。レテはさらりとそれを避け、踏み込んできたアイクを爪で引っ掻こうとした。が、アイクの反応も早かった。レテの爪をその剣で一薙ぎし、跳ね返す。レテは地面に倒されたが、すぐに起き上がった。
体から、そして心の奥底から、戦いたいという欲求が熱を上げているのを感じる。これが獣牙族の本能なのだ。その本能を暴走させぬよう気を遣いながらも、しかしアイクに対して手加減をすることはない。それが手合わせを受けてくれたアイクに対しての礼儀だし、彼に対して手加減などしていれば、こちらが負けることは目に見えている。
レテは再びアイクに襲いかかり、アイクはそれを剣で受け止める。速く、より速く、その応戦は何度も続いた。お互いに隙をつこうとしているのが分かるが、それ故に相手の攻撃に対しての反応もできるようになってくる。
そうして何度目かの応戦の後二人は離れ、レテはすっと上半身を起こし、普段の姿に戻った。アイクも剣を構えるのを止め、二人は荒く息をつきながらお互いを見つめ合った。
「いい体ほぐしになった。ありがとう、アイク」
「俺も同じだ。礼を言う」
息を整えつつ、二人は礼を交わした。その後の二人の顔には、微かな笑みすら浮かんでいた。
「それじゃ、また後でな」
レテはそう言って、自分のいた天幕の方に帰ろうとした。ガリア連合軍のいる方とグレイル傭兵団のいる方はちょうど反対側である。
アイクに背を向けた時、後ろからアイクの声がかかった。
「レテ、良かったら俺の天幕に来ないか。水もあるし、体を休めていけばいい」
レテは驚いて振り返った。
「いや、こちらにも水もあるし、それで十分だが」
「俺の天幕の中にいるのは俺だけだ。人がいない方が、ゆっくり休めるだろう」
「だが」
「遠慮しなくていい。誰もいないんだから」
レテは少し迷った後、こくりと頷いた。
「分かった。じゃあ、お前の言葉に甘えることにする」
アイクは笑みを見せ、くるりとマントを翻して自分の天幕へ歩いていった。レテもそれに従う。途中、グレイル傭兵団に属する者たちがちらちらと視線を向けてきたが、レテは気にしないことにした。
「ここだ」
アイクは慣れた手つきで布を払い、レテに中に入るよう促した。レテが中に入ると、アイクもすぐに中に入り、天幕の中で水の入った容器を探し始めた。その間、レテは天幕の中を見回す。天幕の中には最低限の持ち物しか置いていないようで、アイクらしいと思った。彼は剣さえあれば、他には何もいらぬのだろう。
そうしているうちにアイクがレテの前に立ち、水の入った容器を渡した。レテは礼を言って受け取り、蓋を開けてそれを飲む。水を体の中に引き込んでいく喉の音が自分にも聞こえ、その音は何故か自分をとても安心させた。対するアイクも自分の分の水を飲んでいる。その音はまた違った響きで、水を十分飲んだはずのレテでもまだ水が飲みたいと思わせるくらい、魅惑的な響きを持っていた。
お互い十分に水を飲んだ後、容器を置いた。
「ありがとう。すまないな」
「いや、気にすることはない」
レテが礼を言い、アイクは軽く首を振った。
その後、アイクはどっかりとその場に腰を下ろした。レテもすっと、滑らかな動きで膝を折る。
とその時、アイクが突然大きく口を開けた。レテは驚き、彼の顔をまじまじと見つめる。どうやらアイクはあくびをしたらしかった。あくびをした彼の姿など見たことがなかったので、レテは目を見開いたままだった。
口を閉じ終わった後で、アイクはしかめ面をしながら言葉を発した。
「これから戦いだというのに、参ったな。少し眠い。体を動かした後なのにな……」
レテは小さく息を吐いてから、軽く首を傾げているアイクに言った。
「まだ時間があるだろう。少し眠ったらどうだ? いざ戦いという時に、お前の集中力が眠気で切れたら、話にならん」
「それもそうだが」
「時間になったら、私が起こしてやる。そのことは気にするな」
「そうか? なら、少し眠ることにしよう」
アイクはそう言い、ゆっくりと体を地に近づけていった。そうして彼が完全に横たわった時、レテは驚きのあまり身動きがとれなくなっていた。
否、驚いたからというよりも、実際に身動きが取れなくなってしまったと言った方が正しいだろう。
アイクはレテの膝の上に、その頭を乗せていたのだ。その行動には、なんのためらいもなかった。だから、余計に避けようがなかったのだ。
「ア、アイク?」
レテが名を呼ぶと、アイクは薄目を開けた。
「すまん、少し膝を貸してくれ。この方がよく眠れる」
「な、なら構わんが……」
レテは断ることもできず、そのまま自分の膝をアイクに提供することになった。
少しした後、アイクの寝息がその口から漏れだした。寝息はレテの膝を暖め、地へと下りていく。アイクの髪は時折かさりと動き、レテの膝を薄く撫でた。その感覚に慣れなくて、反射的に何度膝を引っ込めようとしてしまったか分からない。
アイクの寝顔を見下ろしながら、レテは小さく息をついていた。寝顔ですら、彼の表情には険しさが混じっている。これが彼の地の顔なのだから仕方がないだろうとも思ったが、何故か無性におかしかった。
「少しくらい、安らかな顔で眠っても良いだろうにな」
答えぬ彼に向かって呟く。その後で、静かに笑った。
いつの間にか、時間が過ぎなければいいのにと考えている自分に気付き、レテははっとした。このまま、アイクが自分の膝で眠り続けばいいのにとでも思っているのだろうか。レテはそんな自分に溜息を吐きながら、アイクに向かって再び呟いた。
「お前のせいだ。お前がこうして易々と私に気を許すから、私は……」
その先は、自分でも何が言いたかったのか、よく分からなくなった。