テリウス大陸に、生命の輝きが戻ってきた。
導きの塔から外に出てきたレテは、あの偽りの静寂よりもこの方がいいと強く感じていたが、それは誰もが同じのようだった。誰の顔を見ても、安堵の表情に包まれていたからだ。
全ての戦いが終わり、レテはまた、獣牙の同胞たちと共にガリアへ帰ることになる。その前に、声をかけておきたい者がいた。
「アイク」
先程まで各国の王族たちに囲まれていたアイクだが、今はそこから離れて一人でいた。レテが声をかけるとアイクは振り向き、レテに気付いてこちらへと近づいてきた。
「レテか。また世話になったな」
「こちらこそ。またお前と共に戦えて、良かった」
「ああ」
レテは笑みを浮かべながら言い、アイクに手を差し出した。アイクは迷わず、その手を握りしめてきた。さすがに男とあって、力強い握手だった。
握手を交わした後、アイクがレテに尋ねた。
「レテ、あんたはガリアに戻るんだな?」
「ああ、そうだ。お前はクリミアに帰るのか?」
「そのつもりでいる。しばらくは、な」
彼の最後の言葉に引っかかりを感じて、レテは尋ね返した。
「しばらく? どういう意味だ」
「落ち着いたら、旅に出ようと思っている」
「旅だと?」
レテは目を丸くした。思いも寄らない発言だった。
アイクは父の死後、グレイル傭兵団の団長になった。最初は反発して団を出て行った者もいたようだが、あの戦でその者たちも傭兵団に戻り、今では全員揃ってアイクを団長と認め、その下で動いている。
その傭兵団を放り出して、旅に出るというのだろうか。
父親を誰よりも尊敬し、目標とし、父親の作った傭兵団の団長を引き受けたアイクが、そう簡単に傭兵団を手放せるだろうかと問われれば、誰もが否と答えるだろう。だから、余計に意外だったのだ。
「傭兵団は、どうするつもりなんだ」
「落ち着くまでは、俺も団長としているつもりだ。落ち着けば、しかるべき者に団を任せて、俺は出て行く」
「お前の他に、団長を継げる者などいるのか?」
「ボーレとミストに任せるつもりだ。あいつらは、どうやら愛し合っていたらしいからな」
アイクの口から愛という言葉が出たことに驚きつつ、レテは思わず溜息を吐いていた。ボーレとミストの仲を知らぬ者など、この軍の中にはいないと思っていた。アイクはまるで、今ようやく知ったかのような口ぶりだ。呆れつつ、このアイクでは仕方がないのかもしれないとレテは思い始めていた。戦いに関する勘はいいのに、どうもこの男は色恋沙汰に疎い。
「それで、ボーレとミストは夫婦になるのか」
「ああ。昨夜、ミストから聞かされた。今日が最後の戦いになるだろうからと言ってな」
「そうか……」
ミストはだいぶ家事が上手くなったようだし、いい妻になれることだろう。ボーレも粗暴な面が目立つが、誰よりも強く仲間を思う気持ちがあるということは、共に戦ってきた者なら皆知っている。
レテは夫婦となる二人のことに思いをはせた後、アイクに尋ねた。
「アイク、お前は所帯を持つ気はないのか」
アイクは少しも動じずに、いや、と軽く首を振った。
「全くそんな気にはなれん。一人の方が動きやすいし、何かと都合がいい」
「そうか。いや、愚問だったな。お前が所帯を持った姿など、考えただけで笑ってしまいそうだ」
そう言って、レテは軽く笑い声をもらした。
アイクが妻を持つ――そんなこと、誰が想像できるだろう。英雄アイクに憧れを持つ女性が少なくないのは知っているが、アイクがその女性たちと恋愛対象として接したことは一度もない。だから色恋沙汰にも疎い。今まで、彼の人生に男女の情というものは必要とされてこなかったのだ。
しかし、アイクももう大人だ。今までは必要とされてこなかったかもしれないが、今後となると話は変わってくる。誰も、アイクの心の動きを予測できる者はいないのだ。
――もし、アイクが妻を持ったら?
アイクの隣で優しく微笑み、アイクを支え、アイクの身の回りの世話をし、そしていつか、アイクの子供を宿すかもしれない女性。
少し想像しただけで、レテの心はちくりと痛んだ。先程までの笑みはどこかへ行き、レテの眉間にはしわが寄った。
その様子に気付いたのか、アイクが怪訝そうに声をかけてきた。
「レテ、どうした?」
「い、いや。何でもない」
慌てて首を振った。自分は何を考えていたのだろう――レテは、くだらないことを考えていた自分を嫌悪した。
アイクが妻を持つこと。それ自体は何も不思議なことではない、一人の男としては普通のことだ。そんなことは、とっくに分かっていたことではないか。
そう思うと同時に、妹のリィレに以前言われた言葉が頭に蘇ってくる。
――レテったら、いつもアイクのことばっかり。アイクのこと、好きなんじゃないの?
最初そう言われた時は、むきになって否定したものだ。だが最近、それはあながち嘘でもないと思うようになった。
ベオクに対し嫌悪感をむき出しにしていた、かつての自分。それを変えてくれたのはアイクだった。アイクのようなベオクに会ったのは初めてで、最初は戸惑いの連続だった。しかしベオクは皆、レテたちラグズが嫌悪してきたようなベオクばかりではないということを、アイクは自身を持って証明した。同時にレテは一人の人間として、彼を好ましく思うようになっていった。
一度訪れた別れ。その時は一度ガリアに来ないかと誘い別れたが、三年後に思いがけず同じ軍で戦うことになった。戦いの場という油断を許さぬ場所にいながら、レテの心が躍っていたことは否定できない。
らしくないと、何度も思った。ガリアに身を捧げる戦士となってから、己を高めるためだけに訓練に励んでいた。他の男たちからの誘いがあっても、決してなびくことはなかった。それなのに今、一人の男のことをこんなにも思い考えている。自分がおかしくなったのではないかと、何度思ったことか。
だが、今は違う。まだ上手く整理できたわけではないが、アイクに対する思いははっきりと自覚し、認められるようになった。
だからこそ、苦しくなったのだろう。アイクに妻ができるかもしれないと考えたことが。
しかしもう、そんなことに気を紛らわせてはいられない。自分はガリアへ、アイクはクリミアへ帰る。そしてアイクは、どこかへ旅立つ予定なのだという。よほどの巡り合わせがなければ、二人はもう出会うことはあるまい。レテはよほどのことがない限り国を捨てるつもりはないし、アイクももう、ガリアを訪れることはないだろう。
そのために、気持ちに整理をつけておかねばならない。
「アイク」
名を呼ぶと、アイクはん、と軽く首を傾げてきた。
「今まで、ありがとう。お前と共に戦えたこと、忘れない」
アイクは驚いたように目を見開いたが、すぐに頷き、微かに笑みを浮かべた。
「ああ、俺もだ。レテと戦えて、良かったと思っている」
双方笑みを交わした後、レテは言葉を続けた。
「アイク、それから……私は、お前が好きだ」
アイクの目が、また見開かれた。レテはすぐに、言葉を付け足した。
「無論、一人の人間としてだ」
それを聞いて、アイクの表情が緩んだ。
「俺も、レテが好きだ。あんたのようなラグズと親しくなれて良かった」
その言葉は、決して恋愛感情の含まれたものではなかった。しかしレテは、アイクから好意を持ってもらえていたというその事実だけで十分嬉しかった。
不意に、涙が出そうになる。今まで別れを意識した時にも出たことはなかったのにと、レテは不思議に思う。
「さようなら、アイク」
「ああ。またな」
また、なんて、ないことは分かっている。だが、アイクからその言葉が出たことが、無性に嬉しかった。涙が溢れそうになり、レテはそれを隠すようにアイクに背を向けた。
ありがとう、忘れない――その言葉を、アイクに向けて呟きながら。