熱き血潮

 デイン国王アシュナードが起こした、大陸全土を揺るがす戦乱の後。
 女王に即位したエリンシアの下、同盟国ガリアの援助を得つつ、クリミア王国は徐々に復興を遂げていた。荒らされた大地が少しずつ元通りになり、街には人々の姿が見え始め、各地に避難していた商人たちも戻ってきて、市場は次第に活気づいてきた。
 レテはガリアとクリミアを行き来する生活が続いていた。先の戦いでエリンシア女王と面識のあったレテ、モゥディは、ガリア国王直々に大使として任命され、両国の橋渡しをする役目を担ったのである。
 何百年にも渡る歴史によって隔てられた両種族がそう簡単に和解するはずもなく、クリミアの貴族から遠回しな嫌がらせを受けたことも一度や二度ではなかったが、大使という仕事に何より誇りを持っていたレテは、嫌がらせに屈することなく、積極的にクリミア王国に対して援助を行っていた。
 こうしてレテは、忙しいが、充実した日々を送っていた。


 クリミア王宮に滞在している間、レテは何度かアイクと言葉を交わす機会があった。アイクは先の戦いでクリミア王国を勝利に導いた英雄として、エリンシア女王から爵位を授かり、レテと同様にクリミア王宮に滞在していたのである。互いから会いに行ったりはしないものの、廊下で顔を合わせれば挨拶くらいは交わしていた。
「レテ」
 その日も廊下でぱったりと出会い、挨拶を交わして早々に立ち去ろうとしていたところであった。だがアイクに呼び止められ、レテは振り向いた。
「何だ?」
「あんたとの約束、まだ果たせそうにないな」
 唐突なアイクの言葉に、レテの頭に疑問符が浮かんだ。
「約束?」
「ガリアに行って、一緒に鍛錬をするという約束だ」
「ああ、あのことか」
 言われてやっと、レテは戦争中、アイクと交わした約束を思い出した。
 ベオクが生きてゆくには厳しい土地であるガリアで鍛錬をすれば、アイクの剣技を極限まで高めることができるのではないか。そう考えてレテがアイクをガリアに誘うと、アイクはレテが鍛錬の相手をしてくれることを条件に、その話を受けたのである。
 戦が終わってからあまりにも忙しい日々を送っていたので、その約束をすっかり忘れていた。
 レテは思わず微笑した。
「しかし、お前は義理堅い男だな」
「俺がか?」
「ああ。そんな前の約束のことを、まだ気にかけていたなんて」
「だが、約束は約束だ」
 アイクが真剣な調子のまま言うので、レテも緩んだ表情を引き締めた。
「お前が約束を覚えていてくれたことは、その、素直に嬉しい。だが、今はお互いに無理だな。お前もここを離れられないのだろう」
「ああ。クリミアが落ち着くまではな」
 クリミアのため、と口では言っているが、実はアイクがそれ以上にエリンシア女王を気にかけているということに、レテは気付いていた。元々芯の強い女性だとはいえ、女王になることによって新たに受ける心労は並大抵のものではない。頼れる味方が少ない今、エリンシアにとって、アイクという男の存在が心の支えとなっている部分もあるのだろう。
 エリンシアは決してアイクを強く引き留めることはないが、それでもここに残っているということは、あのアイクも、エリンシアの内心を多少は察しているのかもしれない。義理堅い男だと、レテは心の中で呟いた。決して愛想は良くないのに、この男が好ましく見えるのは、そういう一面があるせいかもしれない。
「あんたも忙しくしているようだな。ここのところ、廊下を走り回っているのをよく見る」
「まあな。だが、決して辛くはない。私もモゥディも、大使としての仕事に誇りを持っているからな」
「そうか。そうだな」
 アイクは納得したように頷いた。まるで自分と重ね合わせているかのように見えたのは、アイク自身も自分の今の役割を理解し、それに誇りを持っているからだろうと、レテは思った。
「引き留めてすまなかった。またな」
「ああ」
 軽く言葉を交わした後、その場を去ろうとした、その時だった。


「おや、これはこれは……英雄アイク殿と、ガリアの大使殿ではございませんか」
 ねっとりとした声が聞こえ、二人は同時に振り返った。
 見慣れた顔が、そこにはあった。一人の貴族が顔を意地悪く歪め、にやにや笑いを浮かべている。この貴族はそれほど位の高い方ではないが、女王に反発する多くの貴族たちと同調して嫌がらせを繰り返すなど、レテから見れば卑怯極まりない男であった。
 自然と、二人の表情は険しくなった。
「おっとこれは失礼、せっかく仲良く談笑しておられたのに、邪魔をしてしまいましたな」
 そう言いながら、全く悪びれる様子もない。無意識に、レテの拳に力が入る。何か嫌味の一つでも言おうと思って話しかけてきたに違いないのだ。
 貴族は言い訳をするかのように、相変わらずにやにやと笑いながら口を開く。
「天下の英雄アイク殿が、どこぞの半獣の娘と話をしているのかと思ったものですから」
 レテは全身の毛が怒りで逆立つのを感じた。その屈辱的な名で呼ばれ、身体中が震えた。
 しかし、声を荒げるわけにはいかなかった。ここは同盟国の領土内であり、レテは大使でもある。このような場所で争いを起こすことは許されない。争いが起きれば、たちまち国家間の問題にまで発展するだろう。そうなれば、クリミアとガリアの同盟関係も断たれてしまうかもしれない。レテ個人の問題ではなくなるのだ。
 やや息を荒く吐くことで、怒りを抑えようとした。今すぐにでもあのにやけ顔を恐怖に歪めてやりたいとすら思ったが、拳を固く握ることで耐えた。
 だが突然、傍らに立っていたアイクが一歩踏み出た。レテは嫌な予感がした。
「……貴様、今何と言った?」
「ですから、どこぞの半獣の娘と――」
 半獣、という言葉を口にした途端、アイクは貴族の胸ぐらに掴みかかった。
「その呼び方を止めろ、今すぐにだ」
「アイク! よせ!!」
 レテは二人の間に割って入り、アイクの手を振りほどいた。アイクはありったけの力で掴みかかっていたらしく、握られた部分にはひどく皺がついていた。貴族は不機嫌そうな顔で首元を整えると、アイクを睨み付けた。
「ア、アイク殿が英雄といえど、何をしても許されるわけではありませんぞ!」
 捨て台詞を吐いて、貴族は身体を翻し去っていった。


 荒く息をつくアイクの背をさすりながら、レテは苦々しい思いでいた。相反する複雑な思いが胸を占める。正直に言えば、あのまま貴族の顔が恐怖に歪むのを見ていたかった。だが、それは誰のためにもならない。そう判断したから、アイクを止めにかかった。
「……すまん」
 アイクの口から、謝罪の言葉が洩れた。レテはかぶりを振った。
「謝るな。お前は悪くない」
「だが、あんたが止めてくれなければ、俺はあのまま奴に手を出していたかもしれん」
 息を整え、アイクは再び口を開く。
「ありがとう、レテ」
 とくん、とレテの心臓が高鳴った。
「……礼を言われるほどでは、ない。当然のことだ」
 急に気恥ずかしくなって、アイクから視線を逸らした。熱くなった顔を見られるのが嫌で、視線を逸らしたまま言葉を発する。
「礼を言わなければならないのは……こちらの方だ。お前は我らラグズのために、あそこまで怒ってくれたのだから」
「それこそ当然のことだ。ラグズのことを半獣と呼んでいい人間などいない」
 それに、アイクは付け加える。
「あんたは仲間だ。仲間を侮辱されて、黙っていられるはずがない」
 アイクがあまりにきっぱりと言い切るので、レテの心臓が再び高く跳ねた。
 初めは驚き。その次に胸にこみ上げてきたのは、嬉しさだった。戦が終わりしばらく経った今でも、自分を仲間と思ってくれていることが、素直に嬉しかったのだ。
 そして、その仲間に対し義理を尽くす、その姿勢も。
 ――本当に、義理堅い男だ。
 レテは微笑みを浮かべながら、心の中で呟いた。
(2009.12.10)
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