雨が止んだら

 ガリアの朝は早い。
 レテはいつも起きる時間ぴったりに目を覚ますと、目をしばたたきつつ、洗面へ向かう。宿舎の近くにある池を利用するため、レテは足取り重くそこへ向かった。
 おそらくガリア戦士の中では、目を覚ますのはレテが一番早い。今日もそのようで、池に着くと誰もいなかった。すがすがしい朝の光を浴びながら、冷たい池の水を顔にかける。
「ふう……」
 顔を振って水気を飛ばし、レテはそのまま自室へ帰った。
 だが帰る途中、レテは宿舎の廊下でアイクとばったり出会った。アイクの目はもうしっかりと開いていて、その瞳から発する視線をレテに向けた。
「おはよう、レテ」
「あ、ああ……早いんだな?」
 彼はいつも遅くもなく、早くもない時間に起きだしてくる。だから今日は珍しいな、という意味を込めて、そう言った。
「ああ、今日は何故だか早く起きてしまった。昨日も普通に寝たつもりなんだがな」
 アイクはそう返して、ところで、と話題を変えた。
「朝食までまだ時間があるよな? 暇なんだったら、話でもしないか?」
「ああ……私は構わないが」
「なら、そうしよう」
 彼もかなり暇を持て余している様子だった。レテも頷いて賛成し、宿舎にある窓にもたれかかって、二人は話し出した。
 まず、今日の鍛錬のこと。この話になると、二人とも強気になって言い合いをするのだった。こんなことが普通にできるのも、アイクとレテが毎日鍛錬を続け、お互いに心が許せる仲にまで発展したからである。二人はまずお互いを挑発して、一瞬遅れて弾けるような笑いが飛ぶ。そんなことが何故こんなにも楽しい気持ちになるのかと、二人は心の中で思っていた。
 そして、戦争で共に戦った仲間たちのこと。現在アイクはグレイル傭兵団の団長の座を一時ティアマトに預け、こうしてガリアに鍛錬に来ている。自分勝手なことかもしれない、と一時期は思ったこともあった。だが快く団長を引き受けてくれたティアマトや、その他の傭兵団の皆が送り出してくれたことを思い出して、これで良かったのだ、とアイクは気持ちを整理することができたと話した。また、レテはラグズの者たちだけでなく、ベオクの者たちまで気にかけていた。短い間しか付き合っていなかった者もいるし、そもそも話したことのない者も大勢いたけれども、皆かけがえのない仲間だったと、レテにしては珍しく感傷に浸っているように話した。なのでアイクは意外だな、と発言し、レテに睨まれていた。
 そして、これからのことに話が移った時、レテからアイクへ質問された。
「なあ、アイク。お前はいつ、クリミアの傭兵団へ戻るつもりでいる?」
 そんなことすら考えていなかったようで、アイクは一瞬目を見開いた後、唸った。
「そうだな。今はまだ、その時期ではないと思っている。俺をここに住まわせることでガリア王に迷惑をかけていることは分かっているが、なかなかここでの生活も悪くない。やはり、俺の生まれ故郷だからなのかもしれないな」
「そうか……」
 レテは少し複雑そうな顔をして、黙り込んだ。アイクはそんなレテの表情をちらりと見て、何気なく付け加えた。
「俺は別に、今からすぐに帰ると言っているわけじゃないが」
「わ、分かっている、そんなことは」
 レテは慌ててそう言い、いつもの彼女の表情に戻った。アイクは彼女の態度を訝りつつも、あまり気にせずに窓の外を眺める。
 窓の外にはガリアを象徴する豊かな森が広がり、どこまでも地を緑で埋め尽くしていた。朝日のせいで、その森にはくっきりとした明暗がある。そんな風景を眺めているとふと、アイクはガリアとベグニオンの国境あたりに黒い雲があるのに気が付いた。気になったものの、今日ここまで来ることはないだろうと思い、レテとの話を再開した。


 朝食後、アイクとレテは二人セットでガリア王カイネギスに呼ばれた。
 何のことだろうと訝りつつ、二人は王の間へ向かう。
 戦士に通され、久しぶりにガリア王に会った二人は、思わずその存在感に押されそうになってしまった。
「アイク、レテ。来たのだな」
 カイネギスが一段と低い声でそう言い、レテは「はっ」と頭を下げた。傍らのアイクはずっとカイネギスを見つめていたので、レテは思わずアイクの後頭部に手をやり、ぐっと頭を下げさせた。
(王の御前だ、頭を下げないか!)
 小さな声でそう言ってアイクを睨んだレテ。だが、カイネギスは笑って「よい」と言った。
「アイクも、レテも、頭を上げよ。そなたたちに重要な任務があり、こうしてここに呼んだのだ」
 そう言われて、レテもアイクもゆっくりと頭を上げ、はっと気づいたレテはアイクの後頭部に載せていた手を振り払った。アイクがレテに視線を向けたので、レテは彼を睨むことで視線をカイネギスの方へ向けさせた。
「それで、任務とは……?」
 レテがおそるおそるそう発言すると、カイネギスは頷いて言った。
「うむ。お前たちには、ガリアとベグニオンの国境辺りの偵察に行ってもらいたい。最近あの辺りに賊が出るとの情報だ。まだ被害は出ていないようだが、やはり気になるのでな」
 アイクとレテは一瞬顔を見合わせたが、すぐにカイネギスの方に向き直り、
「必ずや遂行してみます、王」
 レテはそう言って、また頭を下げた。アイクはその場に立ったままだった。
 カイネギスはレテの方を向いて「うむ」と頷き、今度はアイクに視線を向けた。
「それで、アイクはどうする? お前はガリアの戦士ではない故、命令の拒否権はあるが……」
「いや、俺も行こう」
 カイネギスの言葉の後、アイクはあっさりと答えた。カイネギスは黙って頷き、レテははっとアイクの方を向いた。アイクは真摯な眼差しで、カイネギスを見つめていた。ふと、その瞳に吸い込まれそうになって、レテは慌てて前に向き直った。どうしてそんな気持ちになったのか、自分でもわからなかった。
 二人は王の間を出て、支度を整えるために宿舎へ戻ることにした。その途中で、アイクが呟いた。
「賊ってまさか……デイン兵の生き残りじゃないだろうな?」
「そんなはずはないだろう。もう一年も経っているのだぞ?」
 アイクの呟きを、レテはすぐに否定する。アイクは少しの間黙っていたが、それもそうだな、と思い直した。
 戦争が終わってからしばらくは、デイン兵の生き残りが各地で現れ、人々を襲う事件が度々起こっていた。もちろんそれは各国の騎士団により討伐され、クリミアが再興された頃からはそんな事件を耳にすることもなかった。だから、クリミア再興から一年以上経っているのに、まさか今更、というニュアンスを含めて、レテはああ言ったのだ。
 アイクはレテの言葉で気持ちが軽くなった。心の中で自分の考えを一蹴してくれたレテに感謝しつつ、思わず微笑しながら歩いて自室へと向かうのだった。レテはそれを首を傾げながら見ていた。


「王! たった今、ベグニオン帝国から伝言が! あの情報は嘘だそうです!」
 アイクとレテが王の間を去ってから、一時間後。
 ガリアの戦士が慌てて王の間に入ってきながら、そう叫んだ。カイネギスははっとし、思わず立ち上がってその戦士に訊く。
「何? ということは、賊などいないということか?」
「は、はっ。ただの民の噂話で、そのような事実はないと――」
「そうか。アイクとレテは、もうとうに森に入ったであろうな……」
 カイネギスは髭をさすりながら、考えるような仕草をする。報告に来た戦士は顔を俯けていたが、さっと顔を上げ、王の指示を仰いだ。
「王。我らが行って、二人を連れ戻してきましょうか?」
「……いや。放っておけ」
「は……し、しかし、行く意味は全く――」
「意味はある。そうだ、二人にとっては、意味がないこともない」
「は……?」
 カイネギスはそう言って微笑した。全く訳の分からないその戦士はぽかんとしたまま、その場に立ちつくしている。カイネギスは立って窓際へ行き、ガリアの地に広がる森を眺めながら、今度は声を出して微笑した。周りにいる戦士たちも、不可解な行動に首を傾げるしかなかった。


 ガリアの森は深く、暗い。
 城を出てくる時にはあれだけ晴れていたというのに、森の中に入ると光は葉や木によって遮断され、夜のような暗さがそこにはあった。ごくわずかではあったが光が差し込む場所もあり、そんな場所を見るだけで、アイクは不思議と安心するのだった。
 アイクはこういう森を歩くことに慣れていないので、何度も木の根につまずいたり、草を踏んで滑りそうになったりした。レテはガリアの者だから、森には慣れっこなのだろう。さっさと先に行ってしまうので、アイクは何度もレテに待ってもらうはめになった。レテは少し歩いては後ろを振り返り、アイクが付いてきているかどうかを確認しつつ、奥へ進んでいった。
「なあレテ、化身はしなくてもいいのか?」
「化身などしたら、お前がついてこられなくなるだろう」
 ふと気づいて口にした質問も、またしても一蹴される。
 いつもの口調ではあるし、彼女はこうだと言われれば確かにそうなのだが、アイクは今の彼女といつもの彼女には違いがある、となんとなく感じていた。どこか口調に棘があって、不機嫌そうなのだ。何故なのか、そこまでは分からなかったが。そのことも尋ねようとして、喉まで出かかったがやめた。彼女にとっては、そして自分にとっても、それは無意味なことだ。
 ガリアとベグニオンは山で隔てられているので、アイクたちは山のふもと辺りの偵察をすれば良いことになる。といっても城から国境までは随分ある。おそらく一週間ほどかかるだろうな、とレテは呟いた。ましてやベオクのアイクがいるのだから、なおさらだ。
 歩いても歩いても相変わらず森の出口や光が差している場所など見つからず、アイクはため息をつくことが多くなった。
「レテ、国境ってのはまだまだなんだろ?」
 同じような風景ばかり見ているから、ここがどこかなんてアイクには見当もつかない。
「そうだが……お前が弱音を吐くなんて珍しいな。森を歩くのがそんなに疲れたか?」
 “弱音”という言葉を聞いた途端、アイクは眉を寄せて不機嫌そうな声を出した。
「いや、そうじゃない。ここがどこか分からないから、ただ聞いてみただけだ」
「そうか」
 レテはふっと笑って、アイクに背を向けてまた歩き出した。アイクも黙って、それについていくしかなかった。


 ぽつり。
 天から降ってきた雫に気づいた二人は、ほぼ同時に空を見上げた。
「雨……か?」
 レテが呟く。
 雨と言われて、アイクは朝見た風景を思い出した。広大な風景の奥に、黒い雲が立ちこめている場所があったことを。それが国境辺りだったことも思い出して、合点がいった。
「そうか、それで……」
「ん、なんだ、アイク?」
 一人で納得しているアイクに、レテは訊く。
「ああ、朝この辺りに黒い雲が立ちこめていたのを見てな。それでかと思っただけだ」
「そうか。……しかし、雨か。参ったな……」
 雨は徐々にひどくなり始めた。レテは困ったような顔をして空を睨む。空、といってもほとんど葉に遮られて見えないのだが、空が暗いから森は余計暗い。
「どこかで雨宿りでもするか?」
 アイクが訊くと、レテは黙って辺りを見回し、ゆっくりと周りを歩き始めた。アイクも黙ってそれに続くが、レテはきょろきょろとしているだけで何も言わない。何か探しているのだろうか、と思ったその時、レテはアイクの方を向いた。
「……木の下でも、構わないか?」
「え?」
 唐突なその質問も訳が分からなくて驚いたが、驚くのはまだ早かった。
「この辺りに雨宿りできそうな場所といったら、やはり葉を広げている木の下ぐらいしか思いつかなくてな。ベオクは、そういうことは気にするのか?」
 まさか、あのレテがベオクの習慣を気遣った発言をするとは思わなかった。
 アイクは目を見開き、じっとレテの方を見つめた。体はすでに雨によって濡れ続けていたが、そんなことは気にも留めないくらい、見つめていた。
「何だ?」
 レテが不審そうに訊いてきたので、アイクは答えた。
「いや、レテがベオクのことを気にするなんて、珍しいと思ったんだが」
「だ、だが、別に人のことを気遣うのは不自然ではないだろう。お前は仲間なのだから、当然だ」
 レテは視線を泳がせつつ、そう答えた。アイクはそんな彼女の様子に少し微笑ましさを感じ、微笑する。やっぱりその微笑はすぐにレテに見つかって、声を上げられた。
「な、何がおかしい!?」
「いや、何も。……あの木の下がいいんだろう?」
 アイクはさらっと流し、レテが立っている方向にある大木を指差した。木々が生い茂る中でその幹はやたらと太く、目立っていた。レテは表情を戻してああ、と頷くと、先にそちらへ歩いていった。アイクもそれに続く。
 大木の根の出ている場所はちょうど良く座れる場所になっていたので、二人ともそこに腰を下ろした。
 雨粒が葉に当たって弾ける音が、頭上で絶え間なく響いている。
 二人はその音に耳を傾けながら、静かに雨が止むのを待った。だが待ってみても、その勢いが止む様子は一向に見られない。ずっと目を閉じていたアイクは目を開け、顔を上げて葉の隙間から空を見上げた。
「止みそうにないな」
「……ああ……」
 間があって、レテも頷く。
 暗い森というシチュエーションに好感は持てなかったわけが、やっと分かった気がした。何故かと言えば、あの辛い運命の夜を思い出してしまうからだ。父を失い、初めて漆黒の騎士と対峙した、あの夜を。
 あれも、確かガリアの地で起こった出来事だった。
 ふと思い出して、アイクはますます辛くなって顔を伏せた。
「アイク……どうした?」
 そんな様子に気づいたのか、レテがアイクの顔を覗き込んできた。
 初めて間近で見る彼女の顔に、アイクは妙な焦りを覚える。言葉では言い表せないが、心が肉体から引き抜かれていくような、変な感覚だった。レテもしばらく顔を覗き込んでいたもののはっとして、アイクから顔を背けた。彼女の頬は赤く染まっているように見えた。
「そ、そんなに見るな」
「あ、ああすまん……。少し、親父のことを考えていたんだ」
「お前の親父さん、か……?」
 アイクは頷いた。
「親父が息絶えたのも……ちょうどこんな時だった。あの時は夜で暗くてな、俺は親父と外で話をして、一旦別れたんだが、親父の様子が変だったから追ったんだ。そこには斧を構えた親父と、あの漆黒の騎士が立っていて、俺は一瞬足がすくんだ。その迫力はなんとも言えない重圧感があってな。でも、親父は俺の目の前で呆気なく倒れた……」
「アイク……」
「ちょうど、こんな森だった。そばに砦があったからひらけてはいたが……この暗さと森には、どうしても好感が持てないな」
 レテはその話を聞いて、辛そうに顔を伏せた。
「……すまん。一緒に連れてくるんじゃなかったな。お前に拒否権はあったのだから、断らせておけば良かった。本当にすまない」
「何を言っている、レテ。決めたのは俺自身だ。お前が責任を感じる必要はない」
 こんなにも人の事情で辛そうにしているレテを、アイクは初めて見た。それは初めて彼女がアイクに見せた本当の姿であり、また、心の内だったのかもしれない。
 レテはふうっと息をつくと、顔を上げた。
「何故なんだろうな。お前のその話を聞いたら、心が締め付けられたように苦しくなった。私はそういうことはあまり気にしないたちなのだが……」
 彼女はアイクが感じていた疑問をそのまま口にした。アイクは黙って、レテと同じように空を見上げた。空は相変わらず暗く、雨は降り続いていた。
 アイクはしばらくその空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……雨が止んだら、少しは気分が晴れるかもしれないな……」
 その言葉に、レテはアイクの方に視線を向けた。アイクは目を閉じて、そのまま顔を上げている。
 レテは彼の横顔を見、真剣な眼差しで、アイクに問うた。
「私に雨を止ませることはできないが……お前の気分を変えることは、できるだろうか?」
「レテ……?」
 真剣味をおびたレテの声に、アイクは思わずレテの方を向いた。レテはそれに反応し、はっと前を向いて、言い訳めいたことを口にする。
「私は何も、お前のことを気にして言っているのではない。お前が沈んだ気分なら、私も同じような気分になってしまうからだ」
「レテ」
 今度はアイクが真剣な眼差しでレテを見据え、彼女の名を呼んだ。レテはアイクの方を向いたが、少し動揺しているようだった。
 アイクは一呼吸置いてから、レテに言った。
「らしくはないと思うが……ありがとう。レテといるだけで、気分はだいぶ安らぐ。お前がいなければ、俺は一人で落ち込むことしかできなかったと思うからな」
「! れ、礼を言われるほどでは……ない」
 レテはそう言うと、また前に向き直って頬を紅色に染めた。レテの不機嫌そうな横顔を見ながら、アイクは心の中で、言葉を繰り返していた。
 本当にありがとうレテ、と。
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