「お前、最近笑ってることが多くなったよな?」
そんな指摘から、レテの一日は始まった。
アイクがガリアに来てレテと鍛錬を初めてから、もう二ヶ月が過ぎようとしていた。
アイクはだいぶこちらの生活に慣れたようで、毎日を問題なく過ごしていた。レテも彼と鍛錬を始めて二ヶ月になる。同じく、この日常に慣れてきていた。
そんなある日の朝、レテは一人で朝食を取るために食堂へ向かった。
こちらもすっかり慣れたベオクの食事を前にして、さあ食べようかとフォークを握ったところ、食堂に突然ライが現れた。あまりこの場所では見かけないだけに、レテは一瞬ぽかんとし、ライの方を見て、言った。
「ライ、何かあったのか? ここに来るなんて珍しいな」
ライはレテの向かいの椅子に座り、首を横に振った。
「いや、別になんでもないんだけどな。お前たちがいるんじゃないかと思っただけだ」
「? お前たち?」
「決まってるだろ? お前とアイクのことだよ」
お前とアイク、と言われて、レテは眉根を寄せて不機嫌そうな声を出した。
「……私とアイクが、どうして一まとめにされているんだ?」
「どうしても何も、お前たち最近ずっと一緒にいるだろ? 鍛錬の時だけじゃなく、食事とか、自由時間とか」
「……それは、そうかもしれないが……」
レテがしぶしぶそう言うと、ライはいたずらっぽい笑みを浮かべ、テーブルの上に体を乗り出してきた。
「そこまで一緒なんだから、もしかしてお前アイクと風呂まで一緒に――」
「ば、馬鹿なことを言うな! いくらお前だとて、許さんぞ!」
レテは音を立ててフォークを乱暴に置くと、ライをきっと睨んだ。ライはひょいと体を引き、レテの視線から逃れるように手を顔の前で振った。レテは少し頬を赤く染めながら、ライを睨み続けていた。
「おいおい、本気になるなって。まったく、お前には昔から冗談が通じないな」
ライはやれやれと言わんばかりに笑ったが、レテは彼を睨んだままだった。
しばらくして場が無言になると、レテも睨むのをやめ、フォークを再び掴んで料理を口に運び始めた。
最初はその動作に慣れず、食べ物など手で食べた方が早いと思っていたのに、今になると慣れてしまい、手で食べるのは少し後ろめたく感じるほどになっている。あれほどベオク嫌いだった私が、逆にベオクの生活に慣れてしまうとはな――と、レテは自嘲気味に笑った。だが、当然ながらレテの前にいたライにその笑みを見られ、ライににやにやとされる結果になってしまった。
「なあ、レテ。何がそんなにおかしいんだ?」
「……いや、お前には関係ない」
「どうせアイクのことでも考えてたんじゃないのか?」
アイク、という言葉にぴくりとなったレテは、再びライを睨んだ。
「ライ、これ以上言うと――」
「あー、待った待った、冗談だって。それにしてもさ、レテ」
ライはそこでいったん言葉を切り、続けた。
「お前、最近笑ってること多くなったよな?」
レテは手を止め、きょとんとした顔でライを見つめた。一瞬、場に沈黙が流れる。ライは相変わらずにやにやとしてレテを見つめていたが、レテは顔をしかめて首を傾げた。
「笑う? 私が?」
自分で言うのもなんだが、レテが笑ったことなんてほとんどない。自分が笑うなどと、レテにしてみれば考えられないことである。決してそう育てられたとか、感情がなくなったとかではなく、ただ、くだらないことで笑うのが嫌いなだけだ。笑えることというのは大抵くだらないことだから、レテはそれを避けてきたまでのことだ。なので正直、ライの言ったことはただの冗談だとしか思えなかった。
しかしライは訝るレテを見て頷き、言った。
「そうそう。最近よく笑ってる。特に――アイクと一緒にいる時はな」
「!」
レテははっとし、またアイクの名が出たことで急に赤くなった。何か言い返そうと思って口を開いてみるも言葉が出てこず、唇を震わせるだけだった。その動揺ぶりがあまりにも彼女に似合わず、また明らかなものだったので、ライはまた笑った。
レテも、どうしてこんなに恥ずかしいような気持ちになるのか分からなかった。アイクという青年を思い浮かべるだけで、また人の口からその名が出るだけで、胸の鼓動が早くなる気がするのだ。こんな気持ちになったことは今までなくて、そのことでもますます動揺していた。私はおかしくなったのだろうか、と。
そんなことを考えているうちに、ライが席を立ったので、レテははっとしてライを見上げた。
「邪魔したな、レテ。今日もアイクと鍛錬やるんだろ?」
「あ、ああ……」
レテはそれだけしか言えなかった。
「俺も暇だったら見に行く。じゃあな」
ライはそう言い残して、去っていった。その場には食べる気すらなくしたレテが、呆然と視線で彼の背中を追っていた。
ライに言われたことを考えながら宿舎に向かう途中、レテは考えていたまさにその人に会った。
「レテ、早いんだな。もう朝食は済ませたのか?」
「! ア、アイク……」
そう、それはアイクだった。
レテはいきなり声をかけられたのでさすがに驚き、尻尾が逆立った。しかしアイクはそんな彼女の様子に気付いていないらしく、次の言葉を口にした。
「そうだ、今日の鍛錬はいつからする? 俺が食べ終わったらすぐでいいか?」
「あ、ああ……私はそれで構わないが……」
レテはふう、と息をついて徐々に冷静さを取り戻し、アイクの提案に頷いて同意した。冷静さが戻ってくると同時に、今まで自分が何を慌てていたのかが分からなくなってきた。ばかばかしくもなった。何故、アイクのために自分が慌てなくてはならないのだろう。そして、こんなにも恥ずかしい、なんていう気持ちにさせられるのだろう。
その時ふいに、ライの言葉が頭によみがえってくる。
――お前、最近笑ってること多くなったよな?――
「まったく……」
ライに対して再びため息をつくと、アイクが首を傾げて尋ねてきた。
「レテ、どうしたんだ? 何かあったのか?」
「いや、なんでもない。くだらないことだ。それよりアイク、早く行って来い。私は外で待っているからな」
レテはそうまとめると、アイクは頷いて背中を向けた。そのまま食堂へ向かう彼を、自分では普通の顔のまま、見送った。
――知らずのうちにその顔に笑みが浮かんでいるなんて、レテは思いもしなかった。
アイクが食事を終えて鍛錬を始め、決着がついて終わった頃には、もう日が天高く昇っていた。
二人は照る日を避けて木陰に入り、座ると同時に息をついた。どちらの額にも汗がにじんでいて、先程の戦いの激しさを物語っている。アイクは持っていた水筒のふたを開け、口を付けてそれを傾けた。レテはふとそれが目について、水が欲しくなったが、この近くに水はない。宿舎の近くまで戻るか、とレテが腰を上げた時、アイクはレテに水筒を差し出してきた。
「水、飲むか?」
「え?」
水を飲みたいという自分の心を読まれたようで、レテは少し動揺した。その欲求故にアイクの手に握られた水筒に視線が釘付けになったが、首を振り、強く言い返してしまった。
「い、いらない! 向こうへ行って来る!」
慌てて走り出そうと彼に背を向けたが、咄嗟にアイクに手首を掴まれた。
「! ア、アイク……放せ……」
「俺を拒むのはもうやめてくれ。俺としても気持ちが良くない」
「ち、違う、そういう意味では……」
以前も、アイクに同じようなことを言われたことがあった。その時はレテの中にある負けず嫌いな心が反応して、アイクに指摘されるまで気付かなかったほど、彼を拒んでいた。だが今回は違う、とレテは思った。負けず嫌いな心が反応しているのではない。もっと違う、何かがあった。
アイクはレテの言葉を聞いて手を放し、再び水筒を差し出してきた。
「ほら」
「……わかった」
レテは少し顔を赤らめつつ、アイクの水筒を受け取り、一気に飲み干す。水筒の中身は空になってしまったが、レテの喉は十分に潤った。
「あ、ありがとう」
戸惑いながら、彼に向けて礼を言う。そして空になった水筒をアイクに返そうと差し出すと、アイクは水筒を受け取りながら、笑みを浮かべた。その笑みは一度も見たことのない類のものだったので、レテは驚いて口を開けてしまった。笑みといっても微かに唇を上げただけだったけれども、その笑顔は輝いているように見えた。
「アイク、お前……」
「どうかしたか?」
アイクはさっと普通の表情に戻って聞き返してきたが、レテの頭の中にはまだその笑顔が焼き付いていた。あの笑顔は幻だったのだろうか。そう思えるほど、アイクの笑顔には力があるような気がしたのだ。
「笑って……いたのか?」
咄嗟に、そう訊いていた。すると、アイクは視線を逸らし、頭の後ろに手をやって言った。
「……そうだな。俺らしくないと思ったか?」
「いや……そうではないが……」
さすがに『お前の笑顔が輝いていた』なんて言えるわけもなく、レテは言葉を濁した。アイクはそれ以上深入りしなかったが、続けて何気無しにこう言った。
「俺も珍しいのかもしれないが……レテも最近よく笑っていると思うぞ?」
「私が……か? 本当に?」
レテはライと同じ事をアイクに言われて、またも戸惑った。本当に自分は笑っている時があるのだろうか、と考えて、首を傾げる。覚えがない。ライに言われた時と同様、自分の笑顔に違和感がありすぎるのだ。
だがアイクは首を傾げているレテに視線を向けて、自信たっぷりに頷いた。
「ああ。鍛錬が終わった後も、自由時間に俺と話をしている時も、笑っている時が多いように思う。最近のレテは、本当に楽しそうに笑っているように見えるな」
「そう、か……。私は、笑っているのか……」
笑っている。しかも、本当に楽しそうに笑うのだという。笑っていることに自覚はあまりなかったけれども、アイクといる時間が本当に楽しいと感じているのは事実だった。何も話さなくとも、手合わせをしていれば分かり合う。毎日アイクと接することでアイクのことが徐々に分かってきて、その上で話ができたり、同じ時間を過ごせることが本当に楽しいのだ。
レテは今度こそ、自分で自覚して笑えるような気がした。心の奥底から、笑えるような気がした。
そう思っていると、レテは自然と頬が緩んでいったのだった。
「笑うということは、いいことなのだな」
「俺もそう思う。何も言わなくても、自然といい気分になれるしな」
アイクもまた、笑った。レテは、アイクが笑うということも、それほど珍しいことではなかったかもしれないと思えた。自分と話している時や、鍛錬が終わった後なんかは笑うことが多かったように思う。
「お前も、最近はよく笑っていると思う」
レテがそう言うと、今度はアイクが少し驚いた。
「本当か?」
「ああ」
「そうか……」
アイクはそう言ってしばらく考え込んでいたが、また笑みを見せた。あの輝かしい、誰にも負けないような笑顔。誰から見ても心から笑っていると、そう思える笑顔。
二人はしばらく、ただ笑い合った。
二人の笑い声は遠くまで響き、周辺にいた人々の顔までほころばせていくほどだった。