「どこにも行くな」

 朝食が終わって、宿舎にある自分の部屋へ戻る途中だった。
 レテはいつものように無表情で歩いていた。周りには戦士達の元気そうな声が止まない。レテに声をかける者は一人もおらず、戦士達でいっぱいになっている廊下を、レテはすり抜けるように歩いていた。
 その時だった。
 聞き捨てならない噂話が、耳をかすめたのは。
「知ってたか? アイクの奴、もうクリミアへ帰るらしいぜ」
「本当か? 知らなかったなあ」
 レテは一瞬、耳を疑った。
 ぴくりと肩を震わせて立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。噂話をしていた戦士を捕まえて話を聞こうと思ったのだが、戦士達がうじゃうじゃといるこの廊下で彼らを探すのは、困難だった。レテは諦めてまた歩き出したが、あの噂話の内容が、耳について離れなくなった。
 ――アイクの奴、もうクリミアへ帰るらしいぜ――
「嘘だ……」
 レテは呟き、すがるような思いである場所へ向かって走り出した。


「アイク! アイク、起きているか!」
 レテはほとんど叫ぶように言い、扉をノックした。すぐに反応はなく、しばらく待ってもう一度ノックしようかと考え出した頃に、扉は突然開いた。中からはきょとんとした顔のアイクが出てきて、真剣な表情で立っているレテを見て尋ねた。
「レテ? どうしたんだ、何かあったのか?」
 アイクの体がレテの視界をほとんど遮っていたが、レテはその時、アイクの部屋に信じられないものがあるのを見つけた。
 それは、荷造り途中だと思われるアイクの大きなバッグ。
 もっとよく見ると、彼の着替えがベッドに散乱していて、レテは悪い予感がした。否、予感ではない。これはもっとはっきりした、確証に近い――。
「レテ?」
 呆然とアイクの部屋を見つめているレテに、アイクは再び尋ねた。だがレテの反応は返ってこなかった。訝るアイクはレテの視線をたどり、それが自分の荷物に向いていることを知って、ああ、と言ってそれを指差した。
「言ってなかったか? 俺はそろそろクリミアに帰ろうと思っていたんだ」
「本当……か……?」
「ああ、本当のことだ」
 何故そこまで、あっさり言い切れるのか。この男は何故そこまで、あっさり言い切ってしまったのだ。
 レテは絶望に近い気持ちに駆られて、その場に呆然と立ちつくした。


「俺はあの戦争が終わって、クリミアが再興してからすぐにここに来たからな。傭兵団もティアマトに任せきりにしているし、そろそろ帰らなければ。団長なのに半年もいないというのは、さすがにいかんだろう」
 いけないことなんてない、と思わず口に出しそうになって、レテは慌てて喉の奥に言葉を押し込める。アイクが傭兵団の団長だということは周知の事実だったし、彼がそのためにいつかガリアから帰ることになるだろうということは、とっくに予想できたことだった。だがレテは、この出来事を冷静に処理できそうになかった。
「そう、か……」
 ぽつんと呟く。アイクはああ、と頷いた。彼の変わらぬ様子に、レテはただ落ち込むばかりだった。
 アイクがガリアにやってきて、レテにとっての“非日常”が始まったのが半年前。それが現在は“日常”に姿を変えてしまっている。日常が変わるということは、その分だけ心の疲労を伴う。特にこのことは、レテの精神に大きな打撃を与えるということが容易に想像できた。
 この日常が、変わって欲しくない。いつの間にか、レテは心底それを願っていることに気付いた。アイクがガリアを去るという事実を突きつけられて、初めて知った願いだった。
 だが、アイクにそれを言って引き止めることなど、今のレテにできはしなかった。アイクにはやむにやまれぬ事情というものがあるし、それ以前に、レテはそこまで強引に引き止めるという考えにまで至らなかった。日常がこのまま続いていけばいいと願っているにもかかわらず、レテはそれを叶えるためにどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
「レテ、さっきから黙っているが……どうした? 何かあったのか?」
「いや、なんでもない……」
 目の前の彼は、自分に原因があってレテがこうなっているということを知るよしもない。だから、ただそう呟く。アイクはそれ以上深入りしてこなかった。
「それで……いつ帰るんだ? 詳しいことは決まっているのだろう?」
 明日でなければ、いや明後日でなければいい。レテは知らず知らずのうちに、そんなことを考えていた。
 しかし、その思いもむなしく、あっさりと裏切られる結果となった。
「明日、だな。ティアマトの方には、そういって手紙を送ってある」
「明日……」
「何しろ荷物が多くてな、今日の鍛錬はできそうにない。すまないな、レテ」
「あ、ああ……」
 荷造りを手伝って早く済ませて鍛錬を行う、という考えが一瞬頭を巡ったが、レテはその考えに乗り気ではなかった。自分にそんなことはとてもできそうになかったのだ。自分までアイクが帰るための手伝いなんかしたくない。
 レテはほとんど放心状態で、アイクの部屋を出た。
 廊下に出てから、自分でもどこをどう歩いているのか分からずに、足が進むままに歩いていった。
 ――着いたのは、ライの部屋だった。


「――へえ。お前がそんな浮かない顔をしているなんて、珍しいな」
「う、うるさい! そんなことはどうでもいい……!」
 自分が浮かない顔をしていることなんて認めたくないし、他人に指摘されるのもごめんだった。ライは「悪かった」と謝りながら、レテを座らせた。自分もレテの向かいに座りながら、レテに事情を話すよう促した。レテは渋りながらも、ぽつぽつと話し始めた。
 ライは時々レテの話に相槌を打ちながら全て聞き終わり、顎に手を当てて考える仕草をした。
「――そうだったのか。それは俺も知らなかったな」
「私も、その噂を聞くまでは何も……」
「それは混乱するだろうな。しかもアイクが帰るのは明日なんだろ?」
「ああ……」
 レテはかげりのある表情になった。ライはそんな彼女の表情の変化を横目で見ながら、「ということは、だ」と、続いてレテにとっては衝撃的なことを口にした。
「レテ、お前はアイクに帰って欲しくないんだろ?」
「な――!」
 ライにずばり言われて、レテは驚いた表情のまま固まる。ライはその表情の変化を見て、にやりと笑った。
 私はアイクに帰って欲しくないのか、と、レテは己の心に問いかける。返ってきた答えは、どうやらイエスらしかった。そして、アイクが帰ると知ってから動揺したのはそのせいだったのか、と納得した。レテは心の奥底でアイクに帰って欲しくない、ガリアにいて欲しい、と思っていたのだ。ライに指摘されたことで、己の心が思っていたことを確認できた。
 レテがずっと考え込んでいたので、ライはレテが迷っているものだと思ったらしく、レテの答えを促した。
「素直に認めちまえ、レテ。お前はアイクにずっとここにいて欲しいと思ってる、そうなんだろ?」
 そう促されてからは少し恥ずかしくなって、レテはすっとライから視線を逸らしたが、素直にそれを認めた。
「……ああ、そうだと思う……」
 ライはその答えに満足したような笑みを浮かべ、レテに言った。
「そうか。だったら、どうすればいいのか分かるよな?」
「え?」
 思ってもみなかった質問に、レテは目をぱちくりさせた。
「アイクにここにいて欲しいって思うんなら、やるべきことがあるよな?」
「やるべきことだと?」
 きょとん、としたレテに、ライは指を立てて言った。
「だから、アイクを引き止めるんだよ。今なら間に合う、そうだろ?」
「な――!?」
 レテは受けた驚きを素直に表現した。目を見開き、口も開いたままライの方を見つめる。「そんなに驚くことないだろう」、とライが苦笑してからは、レテも普通の表情に戻った。
「そんなことが、できるわけないだろう……」
 レテは渋い顔になって、そう言った。だがライは首を横に振り、自信満々の笑みを見せた。
「もう時間がないんだから、手段を選んでいる暇はないぜ。アイクに、レテの気持ちを素直にぶつけりゃいいじゃないか」
「そうは言われても、だな……」
 レテは渋る。ライの言った“引き止める”ことなど、考えたこともなかったのだから当然だ。頭に浮かんでいたとしてもやめていただろう。そんなことでアイクが考えを変えるとは思えないし、そもそもレテは相手の事情に干渉することはあまり好きではなかった。だがライは、その姿勢を崩すつもりはないらしい。別にライの言うことを聞く義務はないのだけれども、その雰囲気に、レテは押されそうになる。ライはもう一度レテと視線を合わせ、真剣な顔で言う。
「な? やってみろって。やらなきゃ何も分かんないだろ? それにレテ、このまま言わないで別れたら、きっと後悔するぜ?」
「……む」 
 悔しいが、ライの言っていることは正論のようだ。レテは心の中で、ライの意見を認めた。口に出すことはしなかったが、黙りこくってしまったレテを見て、ライもそれを認めたと思ったのだろう。満足そうな笑みを浮かべて、レテの肩をばしばしと叩いた。
「っ! 何をする!」
「さ、行って来いよ。引き止めるなら今しかないぜ?」
「わ、わかっている……! 行ってくればいいのだろう!」
 レテは半分やけに動かされたように立ち上がり、ライに礼も言わずそのまま部屋を出てしまった。彼女の背中を追って廊下まで出たライは、ふっ、と笑って呟いた。
「二人とも気付いてないだろうな。お互いがお互いを特別だと思ってる事なんか――」
 誰も、その呟きを聞く者はいない。


 レテは再び、アイクの部屋の前に来ていた。
 少し息が荒く、胸が締め付けられるように苦しいが、これは急いで走ってきたせいではない。レテはごくりと唾を飲み込み、目の前に立ちふさがる扉をノックしようと手を上げて、ふと、止まる。
 心が、ゆらりと揺れる。
 ライに言われて勢いでここまで来たものの、この向こうにアイクがいると考えると、迷いが心の中に現れてしまう。私は、このまま言っても良いのだろうか。アイクは、どんな反応を見せるだろうか。相手の反応を考えたことなどあまりないことで、レテは激しく戸惑った。
「く……」
 そして、自分の苦しみをそのまま表した呻きが、思わず口からもれてしまう。
 しまった、と思った時は、もう遅かった。
「レテ、そこにいるのか?」
 部屋の中からアイクの声がして、扉の方に向かってくる足音がした。やはり気付かれたらしい。レテの心臓は突然大きく跳ね上がり、レテは思わず胸の辺りの服を握りしめた。
 扉はすぐに開かれ、中からアイクが顔を出した。アイクはいつもの表情でレテを見つめている。その視線が痛くて、レテは思わず顔を俯けた。
「レテ?」
 レテのその行動は、いつもの彼女からはあまりにかけ離れたもの。アイクが首を傾げるのも、当然だった。レテにもそんなことは分かっていた。だがこの後どうすればいいのか、レテは考えられなかった。考えるほどの余裕がなくて、ますます焦る。
 混乱して、次の瞬間には、口から言葉が飛び出していた。
「お、お前は……」
「ん?」
「本当にお前は……クリミアに、帰るつもりなのか?」
 朝アイクの部屋に行った時も、同じ質問をしたはず。
 答えが変わるわけがないと分かっていながら、レテはすがるような思いでアイクを見つめていた。
 アイクはその視線を受けながら、変わらぬ答えを返した。
「ああ、そうだが」
 レテは言葉を発する時に上げた顔を、もう一度下ろした。分かり切っていても、やはり同じ答えを返されると、心に杭が刺さったような気分になる。その杭はじんわりと痛みを与えてから、ゆっくりと心の中へとけてゆく。その苦しさを感じながら、レテはもう一度顔を上げ、アイクを見据えた。 
 自分の中の何かが、吹っ飛んだ気がした。
 どこにも行って欲しくない。私は、アイクに――
「アイク!」
 思わず、叫んでいた。
「レ、レテ……?」
 アイクがその声に驚いて、次に戸惑うより先に、レテはアイクの腕をぐっと握った。そのあまりの強さに顔をしかめるアイクも無視し、レテはまた、叫んだ。
「私は……お前にここから出ていってもらいたくない!」
「!」
 心からの、叫びだった。
 アイクははっとしてレテを見つめ、レテもまた、アイクを見つめていた。二人の視線がぶつかり合うが、二人は真剣で、決してその視線を逸らそうとはしなかった。レテはアイクの腕をきつく握ったまま、ずっと放さなかった。だがその手は、微かに震えていた。
「ずっと、ここにいて欲しい……」
「レテ……」
 勢いをなくした彼女の声をアイクは包み込むようにして、随分優しい声を出した。レテはその声を聞いてたまらない気持ちになり、唇を震わせて、次の言葉を紡ぎ出した。
「アイク、もう――」
 レテはいったん言葉を切り、唾を飲み込んでから、続けた。

「もう、どこにも行くな」

 アイクはそう言ったレテの背中に手を回し、何を思ったのか、背中を押して彼女を自分の方へ寄せていた。レテもこの時は何も言わず、素直にアイクの体に自分の体を委ねた。
 相手の温かさが肌で直接感じられて、レテはそれが胸にじんわりと響いてくるのが分かった。
 吐息を相手の胸にかけながら、レテはある感情を自覚する。
 ――「嬉しい」という、その感情を。
「レテがそこまで思っていたとは……知らなかった。すまない」
 アイクはレテの間近で言葉を発したが、レテは恥ずかしさというものを感じなかった。首筋にかかる彼の吐息が、熱い。
「ずっと、相談しようかしまいか迷っていた。レテに言えば、どんな反応を返されるのか、それが心に引っかかっていてな……言えないまま、今になってしまった」
「そうか……だが、やはり帰るのか?」
 レテが一番心配なことを訊くと、アイクは首を横に振った。
「いや。ティアマトには手紙を送っておく。『俺はもう少し、ここに残る』と――」
「――アイク。私が先程なんと言ったか、忘れたのか?」
 本当は嬉しい返答のはずだが、レテは不満そうな声をもらした。いぶかしんだアイクが「何を?」という顔でレテを見つめたので、レテは言った。
「『もう、どこにも行くな』と、そう言ったはずだが?」
 アイクは意味を悟ったらしく、納得した顔で頷いた。分かってもらえたかと、レテもため息をもらす。レテは再びアイクの胸にもたれかかり、アイクはそれをしっかりと受け止めた。そしてアイクは言った。
「レテがそう言うなら、俺はどこにも行かない」
「……ああ」
 レテが満足したようにふふ、と笑みを浮かべたので、アイクもそれにつられて笑った。
 そして遠くを見つめ、自分だけに聞こえるような声で、呟く。
「――俺も、お前のそばからは離れたくなかった」
「? 何か言ったか、アイク?」
 アイクの口から発せられた吐息を感じ、レテは訝ってアイクに訊いたが、アイクは首を振って何も言わなかった。レテは気になりはしたものの、それ以上の言及はしなかった。

 ――二人が本当に、いつまでも一緒にいられたらいい。
 同時に、そんなことを考えるアイクとレテなのだった。
Page Top