Only you

 遂に、この日がやってきた。
 そうは言ってもしばらくの間だけのようだし、一生はなればなれになるわけではないから、レテの心は幾分か救われていたのだが、それでも気分が重いことには変わりなかった。
 アイクのところへ、傭兵団に帰ってくるよう文が届いたのである。
 アイクは事情を知ってすぐに帰るよう支度を始め、レテもそれに手を貸した。アイクだけだと一日では終わらない量の荷物を、二人かかって一日でまとめ上げ、明日はいよいよ、アイクがガリア城から出発する日になっていた。
 事情があるのだから仕方ないだろう、と自分を納得させるように何度も繰り返すレテを見て、アイクは本当にすまないという顔をしていた。自分が悪いわけではないのに、とレテは首を傾げたが、そんな素振りを見せるのは、どうやらレテの前だけらしかった。他の者たちが「寂しくなるなあ」と声をかけても、彼はただ「ああ」と返すだけだった。付き合いのあるライやモゥディの前でさえ、少々の笑顔は見せても、同じような反応だった。
 アイクが傭兵団に帰ってくるよう言われたのは、傭兵団に山賊団討伐の依頼が来たため。ティアマトからの手紙によると、険しい山奥にその山賊団のアジトがあるらしく、そこにたどり着くだけでも一週間はかかるという話だった。よって長期の任務になるため、団長がいた方がいい、という結論に達したのだという。
 着くだけで一週間もかかるということは、少なくともアイクがガリアに帰ってくるまで、一ヶ月はかかるはずである。レテはたったの一ヶ月だ、と自分にしきりに言い聞かせたけれど、もうすぐアイクが自分の前からしばらく消えるのだと思うと、気持ちが沈むのを止めることはできそうになかった。
 それでも明日は笑顔を見せて送り出そう、と心に決めた。レテは今日寝付かれぬことを覚悟して、自室へと戻った。


 ついに、アイクがガリアを去る日がやってきた。
 朝の陽差しが地面にさんさんと降り注ぎ、まるでアイクがガリアを発つのを祝福しているかのようだった。
 アイクの見送りには少なくない数の戦士たちが集まり、笑顔で手を振る者や、すすり泣く者までいた。レテはどの戦士とも違い、厳しい目でアイクを見つめていた。予想した通り寝られないままだったのだが、眠い様子は全く見せなかった。隣に立つモゥディはしきりに別れを惜しみ、ライはいつもと変わらぬ爽やかな笑みを浮かべていた。アイクは一人一人の戦士たちと握手を交わし、ライとモゥディとも握手を済ませ、最後はレテただ一人が残るのみとなった。アイクはレテの前に立ち、ゆっくりと手を差し出した。
「レテ、本当に世話になった。ありがとう」
 あまりにもあっさりと礼の言葉を言われたので、レテは視線を逸らし、不機嫌そうに言った。
「そ、そんなことを言うな。お前が一生戻ってこないみたいではないか」
 アイクはああ……と言うと、すぐに訂正した。
「すまん。では、俺が戻ってくる日まで、待っていてくれ」
「……帰ってこなかったら、承知しないぞ」
「分かっている」
 レテは鋭い声で釘を差し、アイクは深く頷いた。その後、レテはさっと手を差し出した。出しただけでアイクの手を持とうとはしないので、アイクはレテの手のひらをぐっと握った。
「レテ……」
「……アイク」
 お互いの名前を二人だけに聞こえるくらいの大きさで呼び合い、アイクとレテは同時に手を離す。アイクが微かに笑みを見せたので、レテも同じくらい微かに笑った。
 アイクが皆に背を向けて去る時、レテは手も振らず、声も上げず、ただ彼の後ろ姿を見つめていた。それがだんだん小さくなっていくのと同じように、自分の心がしぼんでいくのを感じながら。
 そして。
 この日この時間、アイクはガリアを去った。


 アイクがガリアを去るという事件がレテに与えた影響は大きいものだった。
 彼のいない鍛錬は、まるで力が入らなかった。後輩の戦士にまですきを見せてしまいうち負かされ、それでもいつものようにむきになってもう一度挑もうとはせず、ただうつろな目で相手を一瞥し、訓練場を去っていった。
 彼のいない食事も、味がまるで感じられなかった。ただ目の前にあるものを口に運んでいるという単純作業を繰り返しているかのよう。噛んだ感触さえ感じられず、さすがにレテはこれはまずい、という顔をしたが、それ以上の行動はなかった。
 いつも、どこでも、頭に浮かぶのは彼の姿だけ。
 この一年間、一日たりとも顔を合わせない日がなかった、アイクの姿。
「アイク……」
 呟いてみても、彼が帰ってくることはない。彼は今、クリミアにいるはずなのだから。
 隣国だとはいえ、ガリアとクリミアはそれなりに距離がある上、国境は森で隔てられている。レテが化身して走っても五日くらいはかかるだろう。何度も何度もアイクのもとへ行きたいという思いに駆られはしたのだが、行動に移すことはできなかった。その上そう思うたびに、レテの心は痛みで疼いた。
 そんなある日、一人でぼんやりと朝食を食べていたレテの前に、ライが姿を現した。ライはいつもの笑みを浮かべていたが、レテはそれに応える気力さえなかった。
「よう、レテ。だいぶ元気がないみたいだな」
「……ライか」
 本当に気力がない様子のレテを見て、ライは苦笑する。
「ここまで元気がないとは思わなかった。やっぱり、アイクがいないからか?」
「…………」
 レテは食べるのをやめて押し黙った。アイクの名前を聞くだけで、胸にぽっかりと穴が開いたような気分になる。自分らしくない、と思ってもみるのだが、そうなったところで気分が晴れるわけではなかった。
「なあ、気分直しに手合わせしようぜ。ダメか?」
 ライがそう誘ってきたが、レテは乗り気ではなかった。
「いや、今日は遠慮しておく……」
 予想通りの反応だったのか、ライはふうん、と言って頷いた。顎に手を当ててレテに視線をそそいでくる。レテは落ち込んでいる顔を見られたくなくて、なるべくライと顔を合わせないように横を向いていたが、突然じゃあ、と言いかけたライに腕を取られ、レテはあからさまに驚いた声を発してしまうことになった。
「遠慮するな、お前らしくない。気分転換だ、やろうぜ」
「ま、待てライ! 私が嫌だと言っている――!」
 そう言って抵抗するも全く効果はなく、レテはライにずるずると訓練場に引きずり出された。


「よし、レテ。好きなように打ってこいよ」
 数分後、レテはライと対峙していた。
 いつもアイクとばかり鍛錬をやっていたため、後輩の戦士以外でラグズと戦うのは久しぶりだ。しかも相手はライ、手加減などできない相手である。レテは乗り気ではないながらも気分転換にはなるかと思うことにし、ライに視線を飛ばしながらそのまま構えていた。
 どこを打てば一発で仕留められるか。ライはただ立っているだけで隙だらけのように見えるが、実際はそうではない。体の先まで神経を尖らせているのがこちらにまで伝わってくる。本当に油断のならない相手だと内心思いながら、レテは足をじり、と後ろにずらした。そのままずらした足をばねのように前に出したかと思うと、一瞬のうちにライに接近していた。
 レテが狙ったのはみぞおち。ここはベオクもラグズも突かれると痛い場所だ。ライに接近しながら、真っ直ぐに拳を繰り出す。
「っ、と!」
 ライはさっとそれを避け、少し離れた場所に立って笑顔を見せる。
「レテ、まだ本気じゃないよな?」
「くっ、当たり前だ!」
 レテは苦渋をにじませながらもう一度素早く拳を打ち込んだ。が、ライの素早さはそれよりもはるかに勝っていた。今回もさっと避けられ、レテはもう一度悔しさを噛みしめるはめになった。
 何度打ち込んでも、結果は変わらなかった。何故こんなにも、と思うほどに避けられ、その度に打ち込み、また避けられる。レテは自分の体が思うようにならないのを感じて、ぐっ、と唇を噛んだ。
 レテの最後の攻撃をさっと避けたライは、神経を尖らせながらもレテの前で考える仕草をした。
 レテは何を思ったのか、その仕草を食い入るように見つめ始めた。ライを倒さなければと頭では思っているのだが、その仕草を見つめたままあっという間に戦いの緊張を解いてしまった。今度はライが何を言うのかという緊張に襲われ、肩が少し強張った。
 ライはしばらく考えた後、すっとレテに視線をやり、妙に真面目な顔をして言った。
「やっぱり、アイクじゃなきゃ駄目なんだな」
「……は……?」
 予想もしない言葉に、気の抜けたような返事をしたレテ。ライは続けた。
「俺相手じゃ、全く戦いの緊張が伝わってこない。自分でも分からないか?」
「それは……」
 レテはそこまで言って、黙って目を伏せた。確かにライが指摘した通りだった。勝たなければ、ライを倒さなければと頭では分かっているのに、それが体にまで染みこんでこないのだ。その感覚がよみがってきてまた悔しくなり、レテは再び唇を噛んだ。
「……私には、分からない」
 これ以上考えたら、頭が爆発してしまいそうだった。レテは苦しそうな横顔を見せる。
 どうしても自分と視線を合わせようとしないレテに、ライはふう、とため息をついて言った。
「ま、とにかく、だ」
 その言葉に、レテが徐々にライに視線を合わせようとしてくるのを見ながら、ライは続ける。
「お前の相手は、他の誰でもない、アイクじゃなきゃ絶対に駄目だってことだ」
「私は……アイクでないといけない、だと?」
「そうだ。今日のではっきり、それが分かった」
 ライはそう言って、真面目な顔を一変させ普段の人の良さそうな笑顔に戻った。納得したようににっと唇の端を上げ、レテに視線を送る。レテは視線を感じながら、ライに言われたことを言葉の中で繰り返していた。
 ――お前の相手は、アイクじゃなきゃ駄目なんだ――
 レテはその言葉をすんなり受け入れられた自分に驚いた。心の中で引っかかっていた何かがほどけ、自分の心が解放されたように感じる。それと同時に、その言葉に納得していた。
 レテが黙って考え込んでいる様子を見て、ライは満足そうな笑みを浮かべ、「じゃあな」、とだけ言うと、笑顔で手を一振り、去っていった。レテは彼の後ろ姿を見ながら、ふっとため息をついた。


 アイクのことなら、目を閉じるだけで鮮明によみがえってくる。
「……アイク」
 夕食を終え、自分の部屋に入ってからのレテの第一声はそれだった。夕食の間もずっと、彼のことを考えてばかりいた。
 今ガリアにいないアイクのことを考えると、どうしても胸が苦しくなる。でもその理由が分かってからは、その苦しみも幾分ましなものになった。自分は心の奥底から、アイクというベオクを、否、アイクという男を欲している。レテはその事実を恥じることなく、納得しながら受け入れることができた。
 部屋に一つだけある窓から、月の光が差し込んでいる。今日は月の明るい晩だ。レテは、こういう月の明るい晩が好きだった。気分が徐々に良くなるのを感じながら、レテは窓の方へ寄り、外を眺める。
「いい夜だな」
 窓を開けると、さあっと気持ちの良い風が吹き抜けた。なんて良い気分なのだろうか。
 レテは明るい月を見ながら、アイクもクリミアで同じ月を見ているのだろうか、とふと思った。
「アイク」
 夜風に吹かれながら、今度ははっきりと、もう一度彼の名を呼ぶ。
「お前は、私をどう思っている――?」
 それは自分の想いに気付いてから、ずっと気になっていた疑問だった。
 その言葉を口にしてから、レテはまるで肩の荷が下りたかのようにふうと息をつき、口元を緩めて改めて外を眺めた。
 自分はアイクを一人の男として意識している。では、アイクは? アイクも自分のことを、アイク自身にとってただ一人しかいない存在だと思ってくれているのだろうか。アイクと共に過ごした日々は、アイクに何らかの影響を与えていたのだろうか。
 アイクと接し、新しいことに芽生えるたびに、やはり自分は変わったな、と思った。そして今も、同じ事を思う。思えば、アイクという存在によって変えられたことはたくさんある。ベオクに対する偏見をなくせたこと、自分の感情を素直に表現するということ、そして、相手の気持ちにも素直に応えるということ。それら一切がないものが自分だと思っていたのに、今はそれが全て自分の中にある。
 アイクも自分と接して、何か変わったことはあるのだろうか。
「……きっと、あるだろうな」
 そうであれば、いいなと思う。
 レテはふっと笑い、少し早めに床についた。


 アイクがガリアを出て、ちょうど一ヶ月が過ぎようとしていたある日のことだった。
 レテはいつものように早起きをし、宿舎の近くにある池へ向かう途中だった。ふとガリア城の門前に人影があるのに気付き、レテは首を傾げた。こんな早い時間に来る客など、おそらくいない。門を守る戦士の影でもなさそうだ。
「誰だ?」
 レテは一応不審人物である点を考慮し、警戒しながら門の方へ向かった。しかしその人影の正体を確認した瞬間、レテは口を開けてあっと声を発した。
「ア、アイク!」
 レテが待ち焦がれた人物、傭兵団の団長を務め、なおかつ、レテが心から欲していた男――アイク。その彼が、ガリア城に戻ってきた。人違いでもないし、夢でも幻でもない。
 アイクはその声に気付いてレテの方を向き、同じような反応を示した。
「レテ!」
 二人は同時に駆け寄り、そして笑顔を見せた。
「お前が帰ってくるのを、待っていた」
「レテ……」
 嬉しい気持ちをめいっぱいに表現した笑顔を見せながらレテがそう言うと、アイクも同じように嬉しそうな顔をした。
「俺も、お前と会いたかった」
「……アイク」
 今度はアイクがそう言い、レテは少し照れ隠しに上を向いてふ、と笑った。その照れのせいか、嬉しいはずなのにいつの間にか少し口を尖らせ、そこからいつもの口調が飛び出してしまう。
「それでも、遅い。あまり遅いから、精神が参ってしまうかと思ったぞ」
「それはすまなかった」
 少し誇張しすぎたかと思ったが、あながち嘘でもないので、言葉は撤回しないでおく。その言葉を受けてアイクはふっと笑い、レテに謝った。そのすぐ後に、アイクはレテの背中に手を回し、自分の方へと引き寄せた。レテはそれを抵抗することなく受け入れ、アイクの胸に顔を傾けながら言った。
「アイク。もう私の傍から、絶対に離れないと約束してくれ」
「レテ……」
 アイクは少し驚いたような声を出したが、すぐに真剣な表情に戻り、頷いた。
「もちろんだ。俺の方も、約束して欲しいと思っていた」
 レテはその答えを聞いて、アイクの腕を握る力を強めた。そしてすう、と息を吸い込み、言葉と同時に息を吐き出す。
「私にとってお前は、ベオクの中でただ一人の――いや、世界中で、ただ一人の男なんだ。私は、お前でなければ駄目なんだ」
「レテ」
 アイクも同様に、レテを抱きしめる力を強めた。二人の温度が体ごと触れ合うことで感じられる。吐く息も同様に熱く感じられ、二人は一番自然な状態でそこにいた。アイクはなんて温かいのだろう。その体温は、自分の心の中まで熱くしてしまうほどだ。
 そうしてしばらくしてから、アイクも思い出したようにぽつり、と言った。
「俺も、お前と同じ事を考えていた。レテは俺にとって、絶対に必要な存在だ――と」
「アイク……」
 疑問の一つが解決して、レテは嬉しさが胸にこみ上げる。アイクもレテと同じ事を考えていた。同じように相手を常に欲し、求めていた。自分の心の奥底とアイクのそれとが重なり合ったように、共鳴するのを感じる。
 二人はいつまでも、離れようとはしなかった。
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