全てが、いつも通りに進んでいたはずだった。
レテは体中にまとわりついただるさを無理やり振り払い、目の前の男の隙を見つけることに集中した。
目の前にいるのは、青い髪が特徴的な青年アイク。既に日課となってしまった二人の手合わせは、手の指だけでは数え切れないほどやってきた。
今日の鍛錬も、その日常として組み込まれている出来事をやっているだけのこと。そう、ただそれだけのことだった。そのはずだったのだ。
だが、今日のレテの体調はすこぶる悪い。朝から顔が火照って変だとは思っていたが、まさか自分から、体調が悪いというだけの理由で鍛錬を断ることもできずに、訓練場に出向いた。
しかしこうして構えた瞬間、押さえつけていただるさが一気にレテを襲った。
く、と呻きながら、懸命にそのだるさを再び押さえつけようとする。それでだるさは少し抑えられたものの、今度は頭痛が襲ってきた。
頭痛など何年ぶりに経験するだろうか。以前、大したことはないと頭痛で悩む戦士たちを叱咤したこともあったが、今レテを襲っている頭痛は、大したことはないで済ませられるようなものではなかった。
レテからの攻撃を待っていたアイクは、レテの様子がおかしいのに気付いたらしく、尋ねてきた。
「おい、レテ。どうしたんだ?」
その声を振り払うように、レテは無理やり体を動かした。
「……黙っていろ、隙があるぞ!」
そう言うが早いか、レテは今の自分が出せる限りの力をふりしぼり、アイクの方へと
突進していった。もはや思考回路はその頭痛とだるさにより完全に停止していた。考えなしに放った一撃は、今までの鍛錬を共に乗り越えてきたアイクの頬をかすりもしなかった。
「大丈夫か、レテ?」
体調の悪さと、アイクへの攻撃を外したというショックから、レテは一気に力が抜ける。アイクの言葉でさえも、レテの耳にはほとんど届いていなかった。
力が抜けたせいか、一瞬体がふらり、と揺れた。
「お、おい、レテ!」
その様子を見て、アイクは慌ててレテに駆け寄る。アイクがレテの肩を持とうと手を上げた時、レテはその手を弱々しく振り払った。
「く……なんでもない、続けろ……」
「なんでもなくはないだろう!?」
「なんでもない! 早く、続きを……っ」
アイクの強い口調に、同じく強い口調で言い返したレテ。しかしその瞬間、彼女の体が先程よりも強く揺れた。バランスを崩したレテの体は、そのまま地面の上に倒れてしまった。
「レテ! レテ、しっかりしろ!」
意識が遠のく中で、レテは、アイクが自分を呼ぶ声だけを聞いた。
「――まあ、過労から来る発熱でしょう。一日休めば、元気になると思いますよ」
レテは低めの男の声で目が覚めた。次第に目を開けると、そこにはアイクと、ガリア城に仕えている医者の姿があった。
「そうか。ありがとう、すまなかった」
「いえ。それでは、お大事に」
二人のやりとりはそこで終わり、レテはアイクと共に、部屋の扉を開けて出ていく医者を見送った。その後レテの方を向いたアイクは、レテが目を開けていることに気付いた。
「レテ、目を覚ましたか」
「…………」
黙り込むレテ。そんなレテの様子を、まだ体が本調子ではないからだと判断したのか、アイクはベッドの脇に置いてあった椅子に座り、レテに優しい視線を向けた。
「とにかく、今日は休んだ方がいい。明日も、無理する必要はない」
その瞬間、レテの心の中がかっと熱くなるのを感じた。何か、気持ちの悪い感じが、レテの心一杯に湧いた。
「私は、お前に心配されるほど悪くはない!」
思わず、強く言い返していた。アイクは驚いたように目を開いてレテを見つめた。
そのアイクの視線を見た瞬間、レテは激しい後悔の念に囚われた。今までの気持ち悪さが、今度は形を変えてレテの心を侵食していく。
アイクの次の反応が気になり、レテはそうっとアイクの様子を窺う。
だが、アイクは立ち上がって、静かに言葉を発しただけだった。
「食事は俺が持ってくることになっている。その時間になったら、また来る」
そう言った後で、アイクはレテと視線を合わせる。
「俺でない方がいいなら、誰かに代わりを頼んでくるが」
「べ、別に私は、お前でも構わない……」
「そうか。じゃあ、また後でな」
アイクはそう言い残して、レテの部屋を静かに去った。
アイクがいなくなってそこで初めて、レテは一人の寂しさを肌で味わうことになった。レテの部屋はいつも彼女一人だったが、一人がこんなに寂しいと思ったことはなかった。彼女にとって、部屋の中での一人きりは日常に組み込まれていることであり、それに対して何の感情も抱いていなかったはずなのだ。
病にかかると気が弱くなると言うが、本当のことなのだろうか。
そう疑問に思ってから、自分は違う、とレテは思い直した。自分を自分で弱いと思うなど、たとえどんな状況であっても、レテの心が許すことではない。
しかし、そう思っても心の中に残ったもやもやは消えてくれず、気持ち悪い感じを残したまま、レテは何の気なしに呟いた。
「食事は……」
窓の外を見て、この空の様子ではまだまだだと思ってため息をつく。
アイクは、どこへ行ってしまったのだろう。再び訓練場に出ていったのだろうか。そう思って、今思い通りにならないこの体が、忌々しくてならなかった。
この体さえ自由に動いてくれるなら、アイクの相手をすることもできるのに。訓練場に出ていって、好きなだけ自分を鍛えることができるのに。
「つまらん……」
ぽつりと呟くレテの声が、普段のものよりも数段低くなっていた。
その言葉はたったそれだけだったけれども、確実にレテの今の心境を物語っていた。
こつこつ、と軽くドアを叩く音が聞こえて、レテははっと目を覚ました。
いつの間にか寝てしまったらしい。窓の外を覗くと、外は真っ暗闇になっている。ノックされたことも忘れ、しばらくぼうっと外を眺めていると、部屋の外から声がした。
「レテ、いるか? 俺だ」
アイクの声だった。レテはぴくりと体を震わせて瞬時に反応し、ああ、いる、とそれだけ答えた。あまり大きな声とは言えなかったが、アイクには聞こえたらしく、彼はすぐに扉を開けて中に入ってきた。
アイクが完全に扉を閉めたところで、二人の視線はぶつかった。
「レテ、よく休めたか」
「……ああ」
まだだるさは残っていたが、朝よりはだいぶ楽になったので、アイクの言葉に頷いた。それは良かった、と言うと、アイクは持ってきたトレイをベッドの脇にあった机の上に置いた。トレイに載っている皿には料理が盛られていたが、いずれも少な目になっていた。
さらによく見てみると、白い粒を湯に浸したような料理があるのが目に付き、レテは初めて見るその料理に目を見開いた。
「なんだ、これは?」
その料理を指差して尋ねると、アイクはああ、と頷いて答えた。
「それはお粥、というものだ。ベオクの食べ物で、病気の時は大抵これを食べる」
「お粥……」
レテはふうん、と言って頷いた。あまりおいしそうには見えなかったが、確かに食べやすそうな料理ではある。特に、こういう体が弱っているときには。
アイクがレテに食事をするよう視線で促してきたので、レテはスプーンを手に取った。そしてまず最初に、その見慣れない「お粥」とやらにスプーンを突っ込む。
お粥はとろりとしていて、すくい上げると水分がスプーンからこぼれてしたたり落ちた。レテはそのまま、スプーンに載ったお粥を口に運ぶ。
「む……」
口の中でとろけるそれは、するりと喉の奥へと入っていった。水っぽくてあまり味はないが、確かに食べやすい料理だった。
レテはそんな食べやすさから、何度も何度もお粥だけを口に運んでいた。
「そんなに、気に入ったか?」
アイクに言われて、レテはどきりとして手を止めた。そこで初めて、自分がお粥だけを食べていたことに気付いて、ああ、と頷く。
「少々水っぽいが、食べやすいものだな」
「それは良かった」
アイクはそう言って、レテにとっては予想外のことを口にした。
「実は、それ、俺が作ったんだが」
「な……これを、お前が?」
レテは驚き、目を見開いた。
「ああ。厨房を借りて、俺が作った」
アイクが頷いたのを見てから、レテはアイクが作ったというそのお粥をまじまじと見つめた。簡単そうな料理ではあるのだが、彼が料理をしたというその事実に、レテは驚いていた。
そんなレテの表情を見て、アイクは心配そうに言った。
「どうした? まずかったか?」
「い、いや、そうではなく……」
お前が作るのが意外だった、と続けようとしたが、そこで何故か言葉がせき止められてしまったので、黙って言葉を飲み込んだ。アイクはなおも訝っていたが、レテが言葉を続ける気がないことを悟ったのか、それ以上は追及してこなかった。
レテはアイクの視線を感じつつ、残りの料理を全て口に運んだ。体調はあまり良くなかったが、食欲はあった。全て食べ終えてから、レテは静かにスプーンを置く。それを見てから、アイクは待ってましたと言わんばかりにトレイを持った。
「じゃあ、俺はもう行くからな」
そう言って、アイクはトレイを持ってレテに背中を向ける。レテはその瞬間、言葉では表せない感情に心を支配された。再び独りの寂しさが、体中の肌を駆け抜けようとしていた。寂しさを感じないために、このまま寝るというのも一つの方法なのだろうが、今はそんな気分ではなかった。
――アイクに、ここにいて欲しい。
アイクがドアノブに手をかけ、それを回そうとした瞬間、レテはとっさにアイクの名を呼んでいた。
「アイ――」
「ああ、そうだ、レテ」
が、その呼びかけは、アイクが背中を見せたまま発した声に遮られてしまった。
「な、なんだ?」
突然声を発したアイクに、少々驚きつつも反応を返すレテ。
アイクはトレイを持ったままレテの方を向き、言った。
「これを持っていった後、またここに来てもいいか?」
予想外の申し出だった。
まさにそれは、レテが心から望んでいたことだったのだ。自分の思っていたことを言い当てられたような気がして、レテは動揺を隠せないまま、頷く。
「べ、別に私は構わんが」
「そうか、良かった。実は俺もこれから暇なんでな、話し相手がいなくて困っていたところだ」
「ライやモゥディたちはいないのか?」
「二人は忙しいらしい。俺は部屋に戻ってもすることがないし、レテの体調さえ良ければと思っていた」
レテは納得して、ふむ、と頷いた。
――何より、アイクがこれから自分と一緒にいてくれる、ということが嬉しい。
嬉しい、と自分が感じたことに気付いたレテはどきりとしたが、何も隠すことはないと思い直した。元々自分も暇を持て余していたのだ。それを嬉しく思っても、全く不都合などない。むしろお互いにとってはいいことではないか。
レテは口元に笑みを浮かべ、アイクに言った。
「じゃあ、待っているからな」
「ああ。すぐに戻ってくる」
「トレイの上の物はひっくり返さないようにな」
「分かっている、俺はそこまで慌てているつもりはない」
そう言い合ったあと、二人は同時に笑い声をもらす。こうして冗談を言い合えることが、こんなに楽しいことだったとは思わなかった。
アイクがトレイを持って出ていった後、レテはそういえば、と呟いた。こうしてアイクとじっくり語らう時間がとれるなんて、何ヶ月ぶりだろう、と。
二人が一緒に行動する自由時間は食事の時や鍛錬の休憩時間などにあるが、そこまで長くは話さない。その上食事が終わった後も、どちらかの用事があったり、疲れてすぐに眠ってしまったり、部屋にこもったりと、ほとんどが個人の時間になっている。それが今までの二人の日常であり、「当たり前」のことだったのである。
どうも今日は、当たり前のことが当たり前のように感じられないような気がする。
そんなことを思っているうちに、足音を立ててアイクが部屋に戻ってきた。レテは口元の笑顔でそれを迎える。
そして、開口一番、彼にこう言った。
「たまには風邪を引くというのもいいものだな」
案の定アイクは訝った様子で、尋ねた。
「? そういうものなのか?」
「ああ。日常が、日常でない気がする」
「それは、確かに風邪を引いてしまったんだから、日常ではないだろうが……」
首を傾げたアイクを、レテはますます笑みを深めつつ見つめる。レテは敢えて、その意味を説明しなかった。きっと非日常を味わえる立場にあるレテにしか、この気持ちは分からないだろう。それにこの非日常を楽しむのもいい、と思えるようになっていた。
なおも訝っている様子のアイクに、レテは話題を提供した。そこでやっと、アイクは顔を上げてその話題にのった。
二人の夜は、更けていく。
いつもとは違う風に吹かれながら。