口づけたくなる

 あれはいつもの手合わせを終え、戦士たちが集まる休憩室でくつろいでいた時だった。
 アイクは立って水を飲んでおり、レテはその反対側に座ってアイクを眺めていた。それから少しして、アイクは水の入った水筒をレテの方に差し出す。
「水、要らないか?」
「いいや、私は構わん。それよりアイク、今日の技のキレのなさは何だ。ここに来て、もう一年も経つのに。初心に返った、などという言い訳はなしだぞ?」
 レテは早速、厳しい口調で今日の反省を開始した。その指摘に、アイクは顔をしかめながら髪を掻く。
「それは俺も自覚していた。なんと言えばいいのだろうな、気分が乗らなかった、とでも言えばいいのか」
「気分が乗らなかった? お前はそんな理由ごときで、剣の腕が落ちるような奴ではないだろう」
 更なる厳しい指摘に、アイクは唸った。
「それは、そうなんだが……」
 言いにくそうにしているアイクに、もう一度厳しく指摘してやろうかとレテが口を開きかけた時、突然二人の横から声が聞こえた。
「そうそう。だいたいアイクは、そんな繊細な奴じゃないって」
 びくりとして、二人は同時に振り向く。そこにはライが笑いながら立っていて、二人同時の反応をさらに面白がるようにして笑った。
「さすがに反応が早いな。だが同時に二人から睨まれるってのだけは勘弁してもらいたいね」
 二人はさらにはっとして、アイクはレテの顔を見、レテは気まずそうに横をふいと向いた。ライは再び声に出して笑うと、二人に向かって言った。
「そういや二人とも、一緒にいるようになってからもう一年も経つんだろ? そろそろ結婚とかしないのか?」
 思いがけない彼の発言に、アイクは驚いたように目を丸くし、レテは真っ赤になって立ち上がり、ライに怒鳴った。
「な、何を言う!」
「あれ? そういう仲じゃないのか? てっきり俺は、そうなんだと確信していたんだが」
「お前に言われる筋合いはない! だいたいお前はどうなんだ、そろそろそういう年齢だろうが」
 レテは話を逸らし、ライにそう問うた。ライはうーんと唸って少し考え込んでいたが、にやりと笑って一言答えた。
「さあな」
 レテはふんと鼻を鳴らし、ライから顔を逸らした。
 どうも昔から、こうやって勘ぐってくるような彼の言動は苦手だった。特にこういう勘ぐりは自分の心の隙のある部分を突かれてしまったようで、切り返しにくい。
 確かに先程ライが言ったように、レテとアイクは一年も一緒に鍛錬を続けてきた。最初はレテが彼をガリアに誘ったことから始まったのだが、傭兵団の団長を務めている彼がこんなに長くいてくれたことに驚きながら、彼との鍛錬が楽しくなってきているのも事実だった。
 鍛錬はただ、自分を鍛えるだけのもの。そう思っていたのだが、彼が隣にいるというだけで、彼がいつでも相手をしてくれるというだけで、随分と違うものになっているような気がするのだ。ライが指摘したように、レテ自身が自分はおかしいのではないかと思うほど、アイクに依存している。離れがたくなっているのだ。ただの手合わせの相手、というだけの意味ではなく。
 それだけに、今回のライの勘ぐりは切り返しにくかった。傍らにいるアイクがきょとんとしているのも、余計レテをそう思わせていた。
「それ以外に用はないのか」
 少し興奮がおさまってきたレテが冷たくライに言うと、ライはははっと笑って、そうだな、と言った。
「邪魔して悪かった。それじゃな」
 ライは手を振って、休憩室を出て行った。
 レテの傍らにいたアイクは未だにぽかんとしながら、レテに尋ねてきた。
「なあレテ、一体ライは何がしたかったんだ? 結婚がどうとか……」
「ど、どうでもいい話だ。お前が気にすることではない」
「そうか、ならいいが」
 アイクは特に気にするふうもなく、そこでその話題への興味は失ったようだった。レテはほっとしながら、一方で無意識に原因の分からないため息をつくのだった。
 しかしアイクは、そこで興味を失ったのではなかった。唸って考えながら、独り言を呟いたのだ。
「結婚、か……」
 レテはどきりとして、再びアイクに言った。
「だから、別に気にするような話ではないと言っているだろう」
「それはそうなんだが、なあレテ」
「なんだ?」
 レテが少々うんざりしながら返すと、アイクは突然鈍感な彼からは想像もつかないことを発言した。
「結婚って、俺とレテが、ということなのか?」
 レテはびくりとして、思わずしっぽが揺れるのを感じた。自分が動揺した時の癖、とライに指摘されていたのもあって、動揺しているわけではない、と心の中で強く否定しながら、アイクに言った。
「べ、別にそういうわけではないだろう。ただ、その……」
 それ以上、言い訳の言葉が思いつかなかった。なんと解釈してアイクに理解させればいいのか、全く分からなくなった。レテのそんな様子をどうとったのかは知らないが、アイクはふむ、と顎に手をやった。
「そうでないとしたら、一体なんなんだろうな」
「も、もう余計なことは考えるな。時間の無駄だぞ」
 レテは動揺を必死に抑えながらそれだけ言った。アイクはやっと、そんなレテの行動が不自然だと思ったのか、首を傾げながら訊いてきた。
「レテは、俺とレテが結婚するとライが言ってきたのが、そんなに嫌なのか?」
 レテはかあっと顔が熱くなるのを感じながら、アイクに怒鳴るようにして言った。
「あ、当たり前だろう! 勝手な想像でそんなことを言われるのは、迷惑だと思わないのか?」
「俺は別に、なんとも思わないが。そんなに嫌なのか、と思ってな」
「別に私は、お前を嫌ってそう言っているのではない。想像で話をされるのが不快なだけだ」
 レテの言葉に、アイクは納得したように頷いたが、どこかで納得できないように首を傾げた。
「そうなのか。でも俺は、俺とレテが結婚するんじゃないかと言われても不快だとは思わないんだが……」
「わ、私だって別に、そのものが不快なわけでは……!」
 レテは自分が何を言っているのかさえ、もう分からなかった。自分の中にある複雑な気持ちを表現しようとして、しかしそれを表現してくれる言葉が全く見つからなかった。しどろもどろになりながら、焦って何か言葉を絞り出そうとしていた、その瞬間だった。
 突然、アイクの後ろにいた戦士が、アイクの方にぶつかってきたのだ。アイクは声を上げて前につんのめり、前にいたレテの方に迫ってきた。レテは驚きながら避けようとして、しかし避けることはできなくなってしまった。
 どさりと床に倒れ込む二人。そしていつの間にか、アイクの唇がレテの唇を捉えてしまったのだ。
 唇はまるで、差し込むべき鍵と鍵穴のように、埋め込まれるべきパズルのピースのようにぴったりとくっつき、離れることができなくなった。
 レテは何が何だか分からず、ただ自分たちを見ている戦士たちの視線が痛い程に突き刺さるのだけを感じていた。
 アイクの顔が何故こんなに近くにあるのだろう、そして何故、皆は自分たちを見ているのだろう。そんな疑問が次々浮かんだ後、レテははっとして全てを理解した。
「っ!」
 レテは慌ててアイクから離れて立ち上がり、口を手で覆ってアイクを見た。
 アイクの方も立ち上がったがぽかんとしており、離れていったレテをぼんやりと見つめていた。その目からは何の感情も読みとることができなかった。
 レテは激しく鼓動し続ける心臓を無理やり抑えながら、周りの戦士たちの視線とアイクの視線に耐えられず、その場を逃げ出した。
 とにかくその場を離れたくて、どこをどう行ったのか、自分でも分からなかった。


 とにかく走り続けて、辿り着いた場所。それは自分の部屋の前だった。レテは荒く息をつきながら、自分の部屋へ逃げ込むように入った。そして、ベッドに転がり込む。
 まだ息が荒い。これは走ってきたからというだけの理由ではないのだと、レテは何故か頭では理解していた。
 少し息が整ってきたところで、再びあの感触を思い出す。あの時は突然すぎて何も分からなかったのに、自分の唇は感触だけは覚えていたらしい。恥ずかしいような、苦々しいような妙な気持ちになり、レテは大きく息を吐いた。
「何故だ……」
 疑問の言葉を、ぽつりと呟く。
 言うまでもなく、アイクにぶつかってきた戦士のせいでああなってしまったことは分かっていた。それでも疑問を口にせずにはいられなかった。
 何故。自分が、アイクと。
 あれは不意の事故なのであって、レテは逃げる必要も、またその行為を後ろめたく思う理由も全くない。それは頭では分かっている。頭では分かっているのだが、その後ろめたさや恥ずかしさというものが、それだけでは割り切れないものなのだと、レテは初めて理解した。
 レテが放心したままベッドに寝転がっていると、突然扉が叩かれた。レテはぴくりとして起き上がる。直後、彼の声が外から響いてきた。
「レテ、ここなのか? 俺だ」
 それはまぎれもなく、アイクの声。先程不意の事故で唇を重ね合わせてしまった相手。
 こんな時に会いたくない、と苦々しい気持ちが胸を支配するのが分かったが、拒む理由はない。レテはゆっくりと立ち上がり、部屋の扉を開けた。
 そこに立っていたアイクは、心配そうな表情だった。
「レテ……」
「何だ。用でもあるのか?」
 レテは、自分がやけに冷たい口調になっているのに気づく。彼に否は少しもないのだが、何故か冷たく答えることしかできなかった。
 アイクは少し迷ったように視線を彷徨わせ、ため息をついた後、レテに言った。
「すまなかった。怒っているのか?」
 レテは小さく息をつき、首を横に振った。
「別に、怒っているわけではない。それにお前に否はないのだから、謝る必要もないだろう」
「それは、そうなんだが……」
 再びの冷たい口調。レテは自己嫌悪に陥りそうになる。アイクは何も悪くないのに。アイクも戸惑っている様子だ。戸惑わせているのは誰だ、自分じゃないか。
 レテはそこまで思って、もう一度、今度は大きくため息をついた。そして、アイクを見上げた。
「もう、そんな顔はするな。私は怒ってなどいない。あれは事故だったのだから」
「ああ、そうだな。すまなかった」
 アイクはもう一度謝った。謝る必要はないのに、とレテはため息をつくが、彼の気持ちも分かったので、何も言わなかった。
「立ち話も何だ、入るか?」
 レテはそう提案した。するとアイクの目が驚いたように見開かれた。彼の予想外の反応に、レテは首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「いや、いいのか? 入っても」
 変な質問をするなと思いながら、レテはもちろん、と頷く。
「別に見られてやましいものがあるわけでもない。私としては一向に構わないが」
「そうか、ならいいんだが」
 アイクはそう言って、レテの部屋に足を踏み入れた。扉を閉め、彼女の部屋に一つだけあった椅子に座り、独り言のように言った。
「昔、女の部屋に安易に足を踏み入れるなと怒られたことがあってな。それで、なんとなく躊躇していた」
「だからなのか。どうも、お前らしくないとは思ったが」
 レテがそう言うと、アイクはああ、と頷き、驚くようなことを言った。
「それから、家族以外の女の部屋に入れてもらえる男は、特別なのだ、とも」
「な……」
 今度はレテが目を丸くする番だった。なら、自分は――。
 無意識にアイクを部屋に招いてしまったが、確かにそんなことをしたのはアイクが初めてかもしれない。他の男の戦士と、深い付き合いをしたことがないせいかもしれないが。
 レテは口を開いて言い訳をしようとし、無駄だと思って代わりにため息をついた。そして、次の言葉を口にした。
「私とお前は、今更特別というほどの仲でもないだろう。私は何も思わずにお前を部屋に入れたが、それについてどうこう思っているわけではない」
「だろうな。俺もそう教わったが、その特別が何なのかいまいちよくわからん」
 彼らしい答えだと思ったし、レテはも同じ考えだった。
 確かにアイクは、他の男と比べればレテにとって“特別な存在”とやらになるのかもしれない。だが、アイクと一対一の関係として考えるなら、こういった行動はごく“普通”のことなのだ。
 少しして、アイクが再び口を開く。
「それにさっき、レテと口づけ……というのか、それをしてしまった時も」
 レテはどきりとして、思わずアイクの方を振り向く。しかしアイクの方は冷静に、言葉を続けた。
「俺は不快には感じなかった。むしろ、ごく普通の当たり前のことのような気がした」
「アイク……」
 レテは何と答えればいいのか詰まったが、しかしアイクの言ったことには同意できるような気がした。
 異性と口づけを交わすのは、特別なこと――そんな意識があった。しかしアイクと、たとえ事故でもそうなった時、全く特別だとは思わなかった。あの時に逃げ出したのは、ただ周囲の視線に耐えられなかっただけだ。自分たちにとって“普通”のことを“特別”として見られたことが、耐えられなかっただけなのだ。
 レテは全てのもやもやとした妙な気持ちが解決したような気がして、ふと笑った。
「そうだな。私も、特別不快だとは思わなかった。自然に、お前の唇を受け止めていられた」
「レテもか」
「ああ。お前とそうすることが、全く不思議ではなかったんだと思う」
 レテはそう言って、もう一度今度は声に出して笑った。アイクも表情を緩めて笑うような表情を見せる。
 少し経って、アイクが急に真剣な声で言った。
「なあ、レテ。もう一度、してもいいか」
「え?」
 レテが振り向くと、彼の表情も真剣そのものであった。思わず心臓が跳ね上がるのを感じる。
 してもいいか、ということは、つまり、もう一度口づけが出来ないか、と訊いているのだ――。
 レテは頷きながら、疑問を口にした。
「ああ……だが、随分と急だな」
「今、したくなった。好きな女が前にいるとしたくなると言うが、それは本当なのか?」
「な、何を。私に訊かれても困るが」
 彼の単刀直入な物言いに驚きつつ、レテはそう返す。アイクはふむ、と少し考えるような仕草をした後、レテを見て言った。
「本当なのかもしれないな」
 そしてアイクは、急にレテの方に顔を近づけ、すっと口づけた。レテは目を見開いてそれを受け止めたが、自然に彼と唇を合わせていられた。


 二人が顔を離した後、レテは少しいたずらっぽい笑みを浮かべ、アイクに逆に質問した。
「なあアイク。好きな男が前にいると口づけたくなると言うが、それは本当なのか?」
 アイクの質問と、ほとんど同じ物。
 アイクは驚いたように目を見開いたが、すぐに首を傾げた。
「さあ、な。俺にはわからん」
「そうか。だが、私は本当だと思うぞ」
 レテはそう言うなり、アイクに口づけた。
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