愛を伝える花

 その日の一ヶ月前から、ヨハンは考えを巡らせていた。赤いリボンのかけられた箱――おそらく店頭で包装してもらったのであろう――を片手に、頭に浮かべるは彼女の顔。その箱と同じものを、セリスやレスター、デルムッドといった軍に所属する男性たちが持っているのは知っていた。だからこそ、考えねばならなかった。彼らを抜いて、ラクチェに認めてもらう方法を。
 バレンタインデー。その日に込められた意味を、ヨハンは当然の如く理解していた。だからラクチェがその箱を渡してきた時は、両手を挙げて狂喜した。
「ああ、ラクチェ、我が愛しき人! 君の気持ち、そのまま受け取っても良いのだろうか?」
「馬鹿ね、義理に決まっているでしょう! 一つ余ったのよ、貴方のは余り物」
 あくまでも余りだということを強調するラクチェだったが、ヨハンの耳には届いていなかった。
「おおラクチェ、私をどれほど喜ばせるつもりなのか。君はまさに、私にとっての幸福の女神……」
「気持ち悪いわね! 手を離しなさいよっ」
 自然な動作でラクチェの右手を取って口づけしようとしたヨハンは、直後激しく拒絶されてしまった。ヨハンが驚いて顔を上げると、ラクチェは敵意のこもった目でヨハンを見つめていた。ヨハンが少しでも近づけば、今にも飛びかからんとする勢いである。
 ヨハンは苦笑を洩らした。ラクチェは照れているだけなのだと、心の中で見当違いの解釈をしながら。
「君は可愛らしいな。春の野に飛び回る、可憐な蝶のようだ」
「それ以上言わないで。言ったらこの剣で貴方を斬るわよ」
「ははっ、かなわないな」
 ヨハンが軽く笑うと、ラクチェは不機嫌そうに鼻を鳴らし、くるりと背を向けてどこかへ行ってしまった。その仕草すらも、ヨハンの目には愛しく映る。
 彼女が自分に渡す前、他の男たちに同じ箱を配っていたのは知っていた。きっと自分が最後だったのだろう。最後に本命の男へ渡しに来るとは、いかにも恋したての乙女のようではないか、とヨハンは笑みをこぼす。更に彼女は己の恋情に気付かれることを恐れ、わざとあのような態度に出たのだ――そこまで解釈すれば、ヨハンとしては十分だった。何にせよ彼女がそれを渡しに来てくれたという事実があれば、それだけで良かった。
 だが、とヨハンは一転して目に鋭さを宿す。自分はこれだけで満足するわけにはいかない。むしろ、戦いは今始まったばかりなのだ。一ヶ月後、次なる行事にて一歩抜きん出なければ、ラクチェの恋人の座は奪われてしまうことだろう。それだけは何としても阻止せねばならぬ。ヨハンは考えた。行軍中も食事中も身体を休める時も、彼女のことを浮かべては、毎日それを考えていた。


 刃こぼれし始めた愛用の斧を研いでもらおうと、街へ出掛けた時のことであった。様々な店が建ち並ぶ市場で、ヨハンの目を引くものがあった。その店は花屋であった。若い娘が前に立って、高い声を響かせながらそれらを売っている。
 その花は最も手前の位置に置かれていた。蝶が羽を広げたかのような、特徴的な形をしている花弁。可憐な桃色で彩られたその花は、他に置かれた花の中でもひときわ目立っていた。
 ヨハンが見とれて立ち止まっていると、娘がそれに気付いたらしく、微笑みながら声をかけてきた。
「いかがですか? 綺麗な花でしょう」
「ああ……失礼だが、この花は何と言う名なのだろうか」
「胡蝶蘭という花です。ここらでは滅多に咲いていない、珍しい花なんです」
「胡蝶蘭……」
 ヨハンは膝を折り、その花をもっと近くで見ようとした。指先で触れると、花弁の柔らかい感触が伝った。軽く押さえて指を離すと茎がしなり、まるで蝶が羽ばたくように花を揺らした。
「この花には、『あなたを愛します』という意味が込められているんですよ」
 娘の言葉に、ヨハンは目を瞠った。思わず顔を上げると、娘は微笑みながら一押しした。
「貴方の大切な方へ……いかがでしょうか?」
 ヨハンは突然立ち上がると、娘の方へずいと寄った。
「この花、珍しいものだと言ったな」
「え、ええ、そうですが……」
「この辺りではどこに咲いているか、教えてもらえないだろうか。採りに行きたい」
 娘は驚いたように目を見開いた。
「それは、でも……無茶ですわ。あんなところに一人で行かれるなんて、とても」
「それでも構わない。教えて欲しい、どこに咲いているのだ」
 娘は躊躇う様子を見せたが、ヨハンが一歩も引かないのを見て、諦めたように話し始めた。
 この街から少し離れたところに、岩山がある。その岩山を越えた先に、胡蝶蘭の咲き乱れる花畑があるのだという。だが岩山を越えるのは困難であるため、滅多に花を採りに行く者はいないらしい。
 娘は何度もやめた方が良いと繰り返したが、ヨハンの気持ちは変わらなかった。愛を伝える花、胡蝶蘭。これを採りに行きラクチェに渡せば、少しは彼女も態度を軟化させてくれるのではないだろうか。更にこれを市場で買ったわけではなく、自分で採りに行ったのだということを伝えれば、彼女の心は完全に自分の方へ傾くに違いない。ヨハンは決意を固め、娘に礼を言った。
「ありがとう。それでは、失礼する」
 未だ躊躇いと戸惑いを浮かべた娘を残し、ヨハンは準備をするために再び城へと戻った。


 街とその向こうの街を隔てるようにしてそびえ立つ岩山は、娘が言ったとおりの険しさと圧倒的な存在感を示しながら、ヨハンの前に立ちはだかっていた。頂上へと視線を伸ばし、その高さに軽い絶望感を覚える。だが、この岩山を越えなければ胡蝶蘭は手に入らないのだ。ヨハンは決心し、出っ張った岩に手をかけた。足をかけられる場所を探しながら、一歩一歩、山を登ってゆく。
 命綱などというものは存在しない。足を踏み外してしまえば、それで終わりだ。ヨハンはなるべく下を見ないようにしながら、上へ上へと登った。時折鋭く出っ張った岩が、ヨハンの指を痛めつけた。登る際に木の枝に頬を引っかかれ、血が垂れた。それでもヨハンは怯まなかった。登った先に花園があることを信じ、確実に歩みを進めていた。
 常に不安定な位置にいるため、動かずともそこにいるだけで体力を奪われてゆく。幼少時から鍛えた肉体は並大抵のことでは疲労しないはずだったが、次第に汗が滲み、ヨハンの口から荒い息が洩れた。
「……くっ」
 軟弱な自分の身体に苛立ちを覚えながら、ヨハンは頂上を目指し登ってゆく。指先から滲み出る汗で、何度も掴んだ岩を離しそうになりながら、それでもヨハンは諦めなかった。
 時折頭によぎる、ラクチェの顔。自身の操る刃の如き鋭い表情を浮かべた彼女は、男に対しても怯まぬ強さを持っていたが、常に顕れているその立ち居振る舞いの美しさは、あっという間にヨハンの目を奪った。一目惚れだったように思う。ドズル軍を抜け、彼女の傍で戦えるようになったことは、ヨハンにとって無上の幸せだった。
 彼女は自分の前で笑うことはなかったが、兄のスカサハや幼馴染みのセリス、デルムッドにそうするように、自分にも笑いかけてくれたら――その想像に浸るだけで、ヨハンは幸せを覚えた。これはその笑顔を見るために必要な試練なのだと、ヨハンは再び自分の心を戒め、登り続けた。
 やがて岩山を越えた時、ヨハンの身体は疲弊しきっていた。這うようにして地面に生えた草を掴み、顔を上げると、そこには花屋の娘が言ったように、胡蝶蘭が無数に咲き乱れていた。この世のものとも思えぬその美しい光景に、ヨハンは目を瞠った。
「これが、胡蝶蘭か……」
 身体を起こし、胡蝶蘭を優しく摘み取る。茎を手折る度、花がふわふわと揺れた。澄み切った青空に舞う、蝶達のように。その美しさに見とれながら、ヨハンの表情に喜びが表れる。この花を彼女に渡す。その想像をするだけで、ヨハンの心は天まで舞い上がりそうだった。
「ああラクチェ、愛しき人よ……」
 天を仰げば、抜けるような青空。ラクチェの顔が浮かぶ。
 ヨハンは溜息を吐いた後、目を閉じてその場に倒れ込んだ。胡蝶蘭をしっかりと握りしめたまま、幸せそうな微笑みを浮かべながら。


 目を覚ました時、そこは城の寝室であった。ヨハンは状況が飲み込めないまま、ゆっくりと身体を起こした。自分は確か胡蝶蘭の咲き乱れる花園にいたはずだ。それなのに、いつの間に城の中に帰ってきたのだろうか。
 そう思った時、扉が乱暴に開け放たれた。ヨハンが視線をやると、そこには必死の形相で立っているラクチェがいた。目が合うと、ラクチェはびくりと肩を震わせ、慌てたように視線を逸らした。
「おお、ラクチェ……一体何があったのだ? 私は……」
 ヨハンの言葉を遮るようにして、ラクチェは顔を上げヨハンを思い切り睨み付けた。
「何を悠長なことを言っているの! 貴方がずっと向こうにある花畑の中で倒れていたって聞いて……何があったか聞きたいのは、こっちだわ!」
「私が、花畑の中で?」
「そうよ! フィーがたまたま見回りをしていたから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたか……!」
 ラクチェは扉も閉めずにヨハンに近づくと、ヨハンの頬を見つめた。
「何をしていたのよ、そんな傷だらけになって……」
 ヨハンはそこで初めて、頬にじんわりと広がる痛みに気付く。手を当てると、微かに血の跡が付いた。岩の間から伸びた枝に引っかかれて付いた傷だ。手のひらに視線を落とせば、そこにも血の跡が広がっている。手当をしてくれた者が汚れを取ってくれたのか、服に土や枯れ草の跡はなかった。
 ヨハンは安堵した後、ふと胡蝶蘭のことを思い出し、きょろきょろと部屋を見回した。部屋の隅にある棚の上に飾られた花瓶に、自分が握りしめていたはずの胡蝶蘭があることを確認してそっと溜息をつく。
「何? なんなの?」
 ヨハンの視線が動くのを不審に思ったらしいラクチェが、おそるおそる尋ねてくる。
「いや、私が行ったことは無駄ではなかったのが分かって、ほっとしたのだ」
「どういうことなの、ちゃんと説明して!」
「すまないラクチェ。ところで、今日は何の日か知っているかな?」
「それが、何か関係があるの?」
 怪訝そうな顔をするラクチェに向かって、ヨハンは大きく頷いた。
「大ありだとも。今日はホワイトデー、バレンタインデーに贈り物をされた女性に、お返しをする日だ」
 あっ、とラクチェは気付いたように口を覆った。ヨハンは続けて、花瓶を指差した。
「あの花瓶に生けてある胡蝶蘭を採りに行ったのだ、君のために」
「私のために、ですって……?」
「そうだ。あれは愛を伝える花。君への贈り物にぴったりではないかと思ってな」
 ヨハンは笑みを浮かべながら、ラクチェの顔を覗き込んだ。
「どうだろうか、愛しい人。私からの贈り物、気に入ってくれたかな?」
 その瞬間、ぱしんという乾いた音がして、ヨハンの視界は大きく揺らいだ。頬に鋭い痛みが走る。
 ヨハンが視線を戻すと、ラクチェは唇を噛んでヨハンを睨み付けていた。
「貴方は馬鹿だわ。大馬鹿よ! あんな花のためにこんな傷だらけになって、挙げ句倒れるなんて! 軍の皆に迷惑がかかることを、考えたことがあるの!? 皆がどれだけ、貴方を心配したか――!」
 瞬間、ヨハンは目を瞠った。ラクチェの瞳に、大きな粒が浮かんでいるのを見たからだ。ラクチェもそれに気付いたらしく、慌てたようにヨハンから視線を逸らし、俯いた。直後、彼女の目から光る粒が落ちていくのを、ヨハンははっきりと見た。
「ラクチェ、君は……」
「な、泣いてなんかないわ! 誰が貴方のために……!」
 ヨハンは手を伸ばした。ラクチェの手がそれを瞬時に振り払おうとして、途中で止まった。ヨハンは指先で、ラクチェの瞳に浮かぶ涙を拭った。ラクチェが目を見開いて、顔を上げる。視線と視線が、再びぶつかり合った。
「君を心配させてしまったことは詫びねばならないな、ラクチェ、すまなかった。だが……あの花に込められた私の思いは、本物だ」
 ラクチェの肩が、びくりと震える。
「私が君に無上の愛を捧げていることを分かってもらいたかった。私が君に伝える言葉は、全て偽りないものなのだと。こうするのが、最善の方法だと思ったのだ」
「どこが最善よ、倒れていたくせに!」
「そうだな。私は軟弱な自分を戒めねばならない――だが、少なくとも、あの花を持ち帰るという目標は、達成できたのだ」
 ヨハンは身体をずらすと、ベッドから出て立ち上がった。ちょっと、と制止するラクチェの言葉も聞かず、花瓶に生けられた胡蝶蘭を両手で掴み、ラクチェの前に跪く。
「我が愛しき人ラクチェ。私の愛を、受け取ってはもらえまいだろうか」
 それまでのラクチェは、例えヨハンがそうして贈り物を捧げたとしても、拒絶して決して受け取ろうとしなかった。だがこのとき初めて、彼女の瞳に戸惑いが浮かんだ。自分の右手を、爪が食い込むのではないかと思うほど握りしめている。やがてその指を開いて腕を伸ばしかけ、ラクチェは躊躇うようにそれを引っ込めた。その一連の動作を、ヨハンは決して見逃さなかった。
「ラクチェ……」
 愛しさを込めて名を呼ぶと、彼女の身体がぴくりと震えた。答えを促されていると感じたのか、僅かに見える焦りの色。頬が、みるみるうちに赤く染まってゆく。
 やがて――ラクチェは、手を伸ばした。真っ直ぐに、胡蝶蘭へ向かって。
 彼女がそれを掴んだのを確認して、ヨハンは手を離す。ラクチェは受け取った胡蝶蘭を隠すように、手を背へと回してしまった。だが、受け取ってもらえたことに変わりはない。ヨハンは感激し、思わず立ち上がっていた。
「おお……ラクチェ! 私の愛を受け入れてくれたのだな!」
「貴方のそういうところが嫌だと言っているのよ!」
 即座に響く、拒絶の言葉。今までは、それだけで終わっていた。だがラクチェは頬を染めたまま、呟くように言葉を続けた。
「でも……仕方、ないわよね……」
「何がだ、ラクチェ?」
「す、好きに……なってしまったんだから……」
 恥ずかしさに耐えかねてか、ぷいと顔を逸らしてしまったラクチェへ、愛しさが込み上げる。
「ラクチェ……!」
 ヨハンは感激のあまり、ラクチェを抱き締めていた。腕の中で聞こえる、きゃ、という小さな悲鳴。今までなら即座に拳なり剣なりが飛んでくるところだったが、今日のラクチェは大人しかった。
「ラクチェ、愛しているぞ!」
 人目も憚らず、大声で愛を叫ぶ。
 ラクチェはもう、と小さな声で諫めた後、掴んでいた胡蝶蘭を一輪、ヨハンにそっと差し出した。ヨハンはますます感激して、その花ごと、彼女の華奢な身体を抱き締める。
 胡蝶蘭の花弁が一枚、ひらりと床に舞い落ちた。
(2010.3.14)
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