離れた心は

 ただ、見ていた。
 見ているだけだった。
 その状況を見て、悲しみも怒りも、喜びなどはもってのほか、何の感情もないまま、カラスはただ見ているだけだった。
「…………」
 黒く濁った目が、映し出すもの。
 それは、一つの船だった。


「……シェラ」


 カラスはそれを見て、呟いた。
 その船に乗ってこの要塞を脱出していった、優しき少女の名を。


 その言葉は魔法のように溶け込み、ゆっくりとカラスの心の中に落ちていった。
 そして、心に新しい波紋を起こさせる。


 自分がこうなることを最後まで食い止めようとした少女。
 世界の破滅の予感を知り、カラスに協力を申し出た少女。
 カラスは初め、この少女のことを単なるお節介だと思った。
 同時に、馬鹿な奴だとも思った。
 他人がどうしようと、本人の意志は簡単に変えられるものではない。また、世界の破滅を予知したところで、その強大な力にどうやって一人で立ち向かうというのだろう。
 そんなもののために一生懸命になる少女を、カラスは軽蔑したことさえある。
 今だってそう思っている。思っているはずなのだが。
 どうもその一生懸命な彼女の姿が、頭に焼き付いて離れないのだ。
「……俺は……」
 カラスは呟く。その続きは、自分でも何が言いたいのか分からなかった。


「お兄様、こんなところにいたの?」
 突然後ろから声がして、カラスはゆっくりと振り向く。そこにはかつて民たちから『無垢なる白き翼』と呼ばれ愛されていた、ミローディアの姿があった。
 もう彼女に、その時の面影はほとんど残されていない。容姿は相変わらず目を見張るほど美しかったが、その心は既に腐りきっていた。
「ああ、ミローディアか。すぐ戻らなくて悪い」
「……あの女、行ってしまったのね」
 カラスが謝った直後、ミローディアは空を見上げ、憎々しげに呟いた。
 カラスも再び空を見上げる。少女が舞い戻った、その空を。
 空は暗黒という言葉がぴったりくるほどに暗かった。暗雲が立ちこめ、月の光さえ見えない。


 カラスの濁った目が映し出す世界は、カラスにとって素晴らしいものであると同時に、これでもかというほどにつまらないものでもあった。
 何もかも、どうでもよかったのかもしれない。かつて、アヌエヌエで仲間──今は違うが──の一人・サヴィナと出会った時、彼女が言っていたように。
 カラスは、今まで行動を共にしてきた仲間と離れ、完全な白く美しい翼を手に入れた。今までのように片羽の出来損ないではない、完全なる翼を。
 そして、傍らには常にミローディアが寄り添い、彼女が持つエンド・マグナスの強大な力が、否、破壊の神マルペルシュロの強大な力がある。
 この上に、何を求めるものがあるというのだ? これだけの権力を、純粋に強大な力を、完全なる翼を持って、それ以上に求めるものが存在するというのだろうか?
 そうは思ったものの、カラスには、これ以上に何かを欲する自分の衝動を、止めることができそうになかった。
 空に舞い戻ったシェラを見て、その思いは一層高まったのだ。
 何故だろう、と疑問に思う。


「ミローディア、オレは……もう少し、見て回ってもいいか?」
「……お兄様、何をなさるの?」
 カラスの問いに、ミローディアは探るような目を向けてくる。声も何故だか、刺々しかった。カラスはすっと視点をずらし、静かに返す。
「……ただ、見て回るだけだ。ずっと同じ場所にいるのも退屈だし、落ち着かないからな」
「そう。お兄様には、傍にいて欲しかったのだけれど……残念だわ」
 ミローディアはちっとも残念ではなさそうにそう言うと、いつの間にか甲板に来ていたファドロを従え、要塞の中へ戻っていった。
 ファドロは常に、ミローディアの傍にいる。ミローディアが指示することを、なんでもよく聞く。まるで犬だ、とカラスは思ったが、ファドロ自身、自分のことをミローディア様の下僕だとか何とかほざいていたような気がする。カラスは吐き気がした。人に従えられるとか、下僕だとか、そういうのは大嫌いだ。かといって対等な立場だというのも、なんだか癪に障るが。とにかくあの男は好きではなかった。あの男自身、カラスのことを真っ直ぐに見て話したことがない。いつもカラスと会う時、話す時は俯き加減に目をそらし、その視線は常にカラスの傍らにいるミローディアを捉えている。こうして大人しく従っていれば、ミローディアとああいう関係になれるとでも夢見ているのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しいな」
 カラスは吐き捨てた。冷たい唾を同時に吐くと、吐かれた唾は甲板に飛び散って気味の悪い光沢を出した。月明かりはないから、要塞を照らす光が明るいのだろう。どこに唾が飛び散ったのかなど、一目で分かる。自分の唾を横目で睨みながら、もう一度言った。
「本当に、馬鹿馬鹿しい」
 氷の棘のような、冷え切った声でそう言うと、カラスも要塞の中へと戻っていった。
 行き先は、──独房。


「ここか」
 カラスは要塞の四階にある、ある独房の前に来ていた。ここは、先程までシェラを監禁していた部屋──シェラがいた場所だ。
 鍵はかかっておらず、いとも簡単にするりとドアは開いた。
 カラスは中に入ると、その殺風景な空間に一瞬顔をしかめた。固いベッドと、トイレがあるのみである。壁は帝都やここ要塞に使われている、独特の金属の光を放っており、吐き気がしそうな空間だった。
「シェラ……」
 カラスはほぼ無意識に、また彼女の名を呟く。
 ここに、シェラがいたのか。
 カラスは、この殺風景な空間が、妙に気持ちを安心させることに気がついた。
 何故なのだろう。四階に行けばどこもこんな造りになっているはずだ。入った瞬間、顔をしかめるほど気味の悪い空間なのに。
 違うことと言えば、ここには先程まで彼女がいたということだ。既にここに彼女はいない、要塞から勝手に脱出して行ってしまったから。
「……違う」
 カラスはまた呟いた。
 何が違うのか、自分でも分からなかった。
 心の中に大きな波が押し寄せてくるようで、どうにもならなくなって吐いた言葉だった。その波は「違う」の一言で、少しだけ勢いを弱めた。だが、完全にはなくなっていない。それが腹立だしくて、カラスは顔を歪めた。


──俺は何をそんなに欲している? 何が違うのだ? ここにいると安心するのは、何故だ?
 疑問が次々とわき、その勢いは全く止められそうになかった。


 カラスはほぼ無意識にすっとしゃがみ込み、そこにある固いベッドに手をやっていた。
 そっと押してみても、全く沈む様子のないベッド。こんなところに寝るなんて最悪だなと思いつつ、いくら触れても冷たいベッドに、カラスは少しだけ落胆する。自分が来るのが遅かったのか、あるいは彼女はここで寝ていなかったのか。全く人の温もりのないベッドは、氷のように冷たく感じられた。
「何を……しているんだ」
 カラスは自分に問う。こんなことをして一体何の意味があるのだろう、と。
 カラスは自分が馬鹿らしくなって立ち上がり、今度はトイレの方に目をやった。
 こちらも、使った形跡は全くない。溜まっている水は淀んで濁り、長い間使われていないようだった。臭いこそしないが、やはり気持ち悪いものがある。カラスは目をそらし、独房全体に目をやった。
 冷たく光る壁の金属に、使った形跡のないベッドとトイレ。少し前までそこに人がいたとは、到底考えられなかった。シェラを独房に入れたのはファドロについてきていた帝国兵士たちだから、シェラがどんな風にここに入れられ、過ごしていたのかは分からない。
 けれどもカラスは、必死に彼女の温もりを探しだそうとしている自分に気づかなかった。幾度も調べてみるが、どこも冷たいばかりで、カラスはその度、気分が落ち込むのがわかった。


 その時だった。
 カラスがその独房の床に、何かの跡が残っているのを見つけたのは。
「これは……」
 水の、跡。
 トイレからの水とは思えない。とすると、これは。
「涙……」
 カラスはぽつんと呟いた。自分の声がいつもより低く響いた気がした。
 あいつは、泣いていたのか。
 何を思って泣いていたのだろう。
 そう思った途端、カラスは自分の心が、急激にしぼんでいく気がした。それに追い打ちをかけるように、闇に囚われた彼の心が、更にきつく締め上げられる。
「……く」
 苦しみの声を、上げぬわけにはいかなかった。
 苦しくて苦しくて、カラスは呼吸を速めた。それでも苦しみが収まる様子は全くなく、カラスは天井を向いて、ただ息だけをし続けた。それだけで精一杯だった。


 シェラは、今どこにいるのだろう。

 この暗い空を、舞い上がっていったシェラは──。

 美しく強く、そして優しい心を持った、天使のような少女は。

 今、どこにいて、何を考えているのだろう。

 もう、他の仲間とは会ったのだろうか。

 一人で仲間を助けるべく、頑張って敵と戦っているのだろうか。

 何事にも一生懸命で、いつも仲間の心の支えとなっていた、シェラは──。


 カラスは、もう何も分からなかった。
 しばらくした後、彼は考えることをやめた。
「……無駄、だな」


 己の声が悲しげな響きを含んだ声であることに、彼は気づかない。
 彼は静かに、独房を出てミローディアの元へ向かう。

──何を恐れることがある。俺にはミローディアがいる。この翼がある。強大な力がある。

「何も……何も……」
 カラスは目を伏せ、静かに要塞の廊下を歩いていった。
 カラスの足が床を叩く音は、キーンキーンと、誰かに訴えるような悲しい響きであったことに、カラスはずっと気づかなかった。
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