墨を流したかのような夜闇の中、掲げられた松明の炎が煌々と辺りを照らし出す。
客間へと通じるその襖の前の廊下で、膝をつく千姫の表情は硬かった。細い眉をつり上げ、うっすらと紅の塗られた唇を噛むその姿は、込み上げる怒りを抑えているようにも、ままならぬ悔しさに耐えているようにも見える。
彼女はしばらく俯きがちだったが、やがて覚悟を決めたように顔を上げると、襖に手をかけた。
開いた先へと視線を向けると、そこには忌まわしき男の顔。男はまるで自分の家でそうするかのように、敷かれた布団の上でゆったりと寝転び、片腕で頭を支えて、不敵な笑みを浮かべている。
「ようやく来たか」
男――風間千景は、地を這うような低い声でそう言った。千姫は反射的に身を硬くする。睨み付けるように風間の様子を窺うと、風間は喉の奥でくつくつと笑った。
「どうした。怖気づいたか」
千姫は鋭い視線を投げた。
「誰が怖気づくですって? 立場をわきまえなさい!」
怒りをぶつけても、風間は唇の端に笑みを浮かべたまま涼しい顔をするばかりである。いつまでもぐずぐずしているわけにはいかないと、千姫はさっと立ち上がり、ずかずかと部屋の中へ踏み込んだ。未だに悠然とした態度でいる風間の眼前で、上品な仕草で膝を折る。
「さあ、するならば早くしなさい。私は逃げないわ、決して」
風間は、表情を硬くしたまま動かぬ千姫をじっと見上げていた。しばし二人の間に、重い沈黙がおりる。
――怖くはない。そう思っていた。だが、いざ布団の前で風間と対峙すると、得体の知れぬ異形――例えば、あの羅刹――と対峙した時のような、ひやりとした気配が背を撫で、それに応じるように背が震え出す。口の中でいつまでもがちがちと鳴り続ける歯に苛立ちを覚え、千姫はぐっと唇を噛み締めた。
跡継ぎを残すため、女鬼を求めていた風間。彼が最初標的にした千鶴を庇うために、千姫は形代として名乗りを上げた。鬼の血を残すだけならば、自分でも不服はないだろうと。千姫の側としても、女として生まれた以上、鬼の血筋を残さねばならぬ宿命であったから、血筋の良い風間と子を残すという話は、そう悪いものではなかった。
交わり、子を残す――ただ、それだけの関係。そのはずなのに、千姫は確かに怯えていた。愛のない男と結ばれることが、いかに辛いことであるか。最初から割り切っていたはずなのに、先程風間に指摘されたように、ここに来て千姫は怖気づいてしまったのだ。
情けない、と思いながら、それでも意志に反して震える身体を止めることはできず、千姫は風間が動き出すまでじっと耐えていた。
それでもなかなか動き出さぬ風間に苛立ちを覚え、思わず強く睨み付けたその時、風間は突然唇を大きく歪めた。
「俺が怖いか、八瀬の姫」
「な……」
言い当てられて、千姫は思わず瞠目してしまう。その反応を心底おかしがるように笑いながら、風間は手を伸ばしてきた。躊躇いも遠慮もない、その不躾な手は、千姫の前髪を驚くほど優しく払った。太鼓を叩くように、千姫の心臓がぽんと跳ねる。
「いいだろう、お前の覚悟を見てやる」
そう言うのと、風間の手が千姫の腕を掴み引き寄せるのとが、同時だった。
「あっ……!」
驚きの声を発しかけた唇を塞いだのは、風間の荒々しい吐息と唇の感触。逃れたくとも、既に風間の腕は千姫を捉えたまま、束縛を緩めない。やがてその口から蛇のように舌が伸びてきたのを感じ、千姫はもがいた。だが、風間の力には勝てない。熱い舌は千姫の口腔を蹂躙し、唾液を絡め取る。
「んんっ……!」
固く瞑った千姫の瞳から、涙がこぼれた。
もし今、自分を束縛している相手が、心底愛した男であったならば――千姫の脳裏に、新選組隊士の横で幸せそうに微笑んでいた雪村千鶴の顔が浮かぶ。彼女は鬼としてではなく人として、愛する者と共に歩む未来を選んだ。彼女の幸せを願う一方で、愛する男に一生添い遂げることのできる彼女を、心底羨ましいと思ってしまう。
千姫も鬼である前に一人の女だ。千鶴や自分の先祖である鈴鹿御前のように、愛する男と添い遂げる夢がないわけではなかった。だが、現実は非情かつ冷酷だ。目の前にいる男はただ、自分の血筋にしか興味のない男。女としてではなく、鬼としての自分にしか興味のない男。そんな男に、愛情など持てるはずもなかった。
風間の顔が離れ、唾液がつ、と糸を引く。その光景に、千姫は嫌でも仙台城でのことを思い出してしまう。羅刹に身を落とした山南の血を口移しで与えられ、羅刹と鬼の血の狭間で苦しんでいた日々。風間にあの時の山南のような悪意はないものの、していることは同じだ。これから自分の身体は隅から隅まで風間に蹂躙され、束縛されるのだ――そう思うだけで、身体中に悪寒が走った。
風間の顔が目の前にある。風間は紅の瞳で自分を舐め回すように見つめ、そうして――再び唇の端を歪めた。
「……覚悟が、足りんな」
え、と思わず戸惑いの声を上げると、風間は千姫をあっという間に束縛から解き放ち、立ち上がった。一人布団の上で戸惑いを浮かべたままの千姫に、風間は言葉を放る。
「覚悟のない女など抱けぬ。寝覚めが悪くなるだけだ」
千姫はやっと我に返った。自分の怯えを、悟られていた。そのまま自分に背を向けて去っていこうとする風間に、やっとのことで声を絞り出す。
「ま……待ちなさい!」
風間は足を止め、僅かに振り返った。悔しさと焦りに似た感情を噛み締めながら、千姫はなんとか言葉を紡ぐ。
「何故止めたの? このまま逃げるつもり!?」
「愚問だな。先程も言っただろう、お前には覚悟がない」
「決めつけないで! 覚悟なんて、とうの昔に――」
居住まいを正し激しい声を上げる千姫の前で、風間はふわりと袂を揺らしながら膝を折る。そうして、千姫の瞳を覗き込んだ。まるでその真意を見抜こうとするかのように。千姫も負けじと射るような視線でもって対峙した。
数秒の沈黙の後、風間は表情一つ変えずに低い声を発した。
「気付いていないとは……お前の瞳は常に揺らいでいる。俺は迷いのある女を抱く趣味はない」
「な……何を今更!」
千鶴に対して、あれほどの強硬手段を用いても物にしようとしていた男だ。それなのに、今更綺麗事を言うつもりなのか。風間の真意が掴めず、探るように睨み付けると、風間は笑みを深めた。
「惚れた女が自分を嫌悪したままでは、抱いても気分が悪いだろう?」
「な……!」
言い返そうと構えていた千姫は、あっという間に返す言葉を失った。風間の言葉は聞き間違いではない――耳の奥に強く残るその残響は、千姫の心を捉えて離さなかった。何故。どうして。問いは浮かぶばかりで言葉にはならず、心の中でわだかまるばかりである。
今この瞬間、風間の考えていることが全く読めなかった。風間は自分に対して、そのような素振りを見せたことは一度もない。常に言葉も素っ気なく、愛想のない風間から、怒り以外の感情を読み取る方が難しかった。
「馬鹿なこと、言わないで。貴方が私を欲しがるのは、私が女鬼だからでしょう?」
心の内に残る動揺を隠しながら、千姫は毅然とした態度で言い放つ。だがそれを聞いても、風間はちらとも表情を変えなかった。代わりにこちらも明確な言葉で、千姫の言葉を切り払う。
「以前はな。だが、今はそうではない」
明瞭な、否定の言葉。千姫はますます動揺を隠せなくなった。心の中にわだかまっていた疑問が、ようやく口から飛び出す。
「ど、どうして」
「理由などくだらぬ、どうでもいい。だが――一つ答えるとするなら」
風間は千姫の顎に指を添え、ぐいと上を向かせた。
「俺に対して常に楯突くようなその態度――気に入った」
「……っ!」
千姫は悔しさに顔を歪めた。風間の強い握力に、己の無力さを思い知る。風間はそう言うことで、自分の反応を面白がっているのだろうか。ふとそんな想像が頭をよぎったが、それ以上どうすることもできなかった。
嫌でも風間の顔を見せられ、風間を意識させられる。千姫の動悸が、だんだん激しくなっていった。心の中に残る感情の大半は、未だ嫌悪。しかし奥にほんの少し、それとは違う感情が見える――それに気付いた瞬間、千姫はそれを慌てて振り払った。自分の思いは変わらない。風間が自分を物にしようが、しまいが、それは同じ事だ――そう、自分に言い聞かせて。
その心情の変化を知ってか知らずか、風間は再び不敵な笑みを滲ませる。
「京まで来た甲斐があった」
瞬間、風間の手はするりと抜け、支えを失った千姫の顔は柳のように垂れる。風間はそれを一瞥すると、向かいの襖を開けて客間から去っていった。千姫は未だ暴れ続ける心臓を宥めながら、微かに風間の香りの残る布団を、両手で握りしめていた。