何の前触れもなく襲い来る、喉の締め付けられるような感覚。視界がぼやけ、口の中から水分が奪われていく。
静寂に包まれた夜半の寝室で、千姫は吸血衝動に襲われた。隣で目を閉じて眠っている風間に背を向け、己の指で喉をきつく絞める。風間に気付かれぬよう、今にも洩れそうな苦悶の声を上げぬようにするための苦肉の策であったが、あまりに強すぎる吸血衝動の前には、全てが無駄であった。
「くぅ……っ」
千姫の目から涙が溢れる。最近は吸血衝動に襲われることなどなかったから、すっかり安心しきっていたというのに――理性の糸が、今にもぷつりと切れてしまいそうだった。布団に爪を立て、なんとか現世に留まろうとしているが、限界が近い。自分の喉を締め付ける細い指に力がこもる。だがその頼りなげな指は何の抑止力にもならず、千姫の口からは苦悶の声が滲み出た。
「……血が、欲しいのか」
突然静寂を破ったその低い声に、千姫は驚いて身体を震わせた。おそるおそる振り返ると、風間は紅の目を光らせ、千姫をじっと見つめていた。気付かれた――千姫はそのまま、何もできずにいた。彼の前でみっともなくもがき苦しむわけにもいかないし、ましてや細い腕を伸ばし、彼に助けを求めるなど言語道断だ。風間に一度身体を許したとはいえ、それはあくまで鬼という種の存続のためであり、風間に心を開いたわけではないのだから。
「あん、たの、血なんか……!」
掠れた声で拒絶を示すと、何を思ったか、風間は身体を起こし、懐から小刀を取り出した。何故そんなものを、と尋ねる間もなく、風間は鞘から刀を抜く。窓から差し込む月明かりに照らされて、刀身が白く光り輝いた。眩しい、と一瞬怯んだ隙に、風間はその刃先を自分の腕に当てる。
あまりに滑らかな動きだった。刃先が風間の肌の上を滑り、つ、と紅の雫が滴り落ちるその光景に、千姫は思わず見とれていた。
頭の中が、血でいっぱいになる。血が欲しい、血が欲しい。千姫の身体に残った僅かな理性が押しとどめていなければ、すぐにでも布団から飛び出し、風間の腕に食らいついて雫を啜っていたところだろう。
だが風間は何の躊躇いもなく、腕を千姫の眼前に差し出した。そうして、誘惑の言葉を口にする。
「血が欲しいのだろう? 飲め。俺の鬼の血ならば、お前の中の羅刹の血を洗い流すこともできよう」
ごくん、と思わず唾を呑む。魔性の液体が今まさに、目の前で腕から滴り落ちている――その事実が、激しい衝動で千姫を突き動かそうとした。炎天下の日、道脇でこんこんとわき出る泉を見つけた時のような悦び。喉の渇きが一層強く感じられ、風間の腕に手を伸ばそうと、動きかけた指が震える。
だが、その衝動を押しとどめていたのは、千姫の鬼としての、そして女としての矜持と風間に対する意地だった。伸ばされた手は風間の腕を掴むのではなく、風間の腕を振り払おうとする。
「嫌。絶対に、飲まない……!」
ほう、と風間は感心したように目を細めた。それで納得して腕を引っ込めるのかと思いきや、風間は思いがけない行動に出た。
なんと溢れ出た己の血に唇を当てると、音を立てて啜ったのだ。強い吸血衝動に襲われていることも忘れ、千姫は呆然となった。
「な……」
何をするの、と言葉を紡ぐ前に、風間の口が千姫の唇を塞いだ。ただでさえ言うことをきかぬこの身体を動かして、風間の束縛から逃れるのは不可能に近かった。
「んっ……!」
口の中へどろりと流れ込んでくる風間の血。自分が欲しくて欲しくて仕方がなかったもの。
その魅惑の液体が舌に乗った途端、千姫は思わず目を見開いていた。これほどまでに、自分の渇きを癒してくれる物が世の中にあっただろうか。風間が口から血を送り込んでくるのも待ちきれず、千姫は舌を伸ばし唾液を啜った。風間の口が離れ、その口は再び傷口へ向かう。艶めかしい水音を立てて、風間が己の血を口に含む。そうして再び、千姫に口移しで与えていく。
この状況を、千姫はどこかで体験したことがあった。どこだったろう、とぼんやり考え、刹那、思い至った千姫の胸を満たしたのは、渇きの癒えた歓喜ではなく、心に暗い穴を開けたかのような絶望だった。熱を持ち始めていたはずの身体が、急激に冷えていく。
今の行為は、千姫の身体が羅刹の血に侵される元凶となった、山南が行っていたものと全く同じだった。山南は自分の血を、口移しで与えていた。あの悪意に歪んだ唇を、そこから滴る忌まわしき血を、快楽に細められた目を、今でも覚えている――千姫の身体は恐怖で震え始めた。その震えを悟ってか、風間は一度口を離し、千姫の背へ腕を回す。離れた口と口から、赤い唾液が滴った。
何を思って、風間はこんなことをしたのだろうか。血を与えられて少々落ち着いた千姫の胸に、疑念が積もる。仙台城で一度あの光景を目撃されているから、山南がこうして血を与えていたことを知らぬはずがない。風間は自分の傷を敢えて抉ろうとしているのだろうか――その考えに至った途端、千姫の身体は再び、恐怖と怒りで震え始めた。宥めようとしているのか、自分の背を撫で続けている風間の手を、振り払おうとする。
「やめて!」
敵意のこもった目で睨むと、風間は唇の端を歪めた。
「何が不満だ」
「全部よ。私に勝手に血を与えて……しかも、あんなやり方で……!」
怒りに震えて上手く言葉にならない。だが、それだけで言いたいことは伝わったようだった。風間は千姫に覆い被さるように身体を動かし、真上から千姫の顔を覗き込む。唇には相変わらず、不敵な笑みを浮かべながら。
「俺の口に舌を差し入れてまで、血を求めていたのはお前だろう?」
く、と千姫は言葉に詰まる。事実であるがゆえに反論できない。風間の顔から逃れるように横を向くと、風間は指で千姫の唇をなぞった。唇の上に僅かに残っていた唾液が、風間の指に絡みついた。
「それに……お前のここは、あの山南という男に犯されたままだ」
風間の指がそのまま千姫の頬を撫で、紅の唾液が軌跡を描く。
「ならば、お前の夫たるこの俺が上塗りしても、文句は言われまい?」
千姫は再び視線を戻し、不機嫌そうに睨む。笑みに歪んだ風間の唇が、癪に障った。
「文句? あるに決まってるでしょ。勝手なことしないで」
「ふっ……相変わらず強情な女だ。そういうところが、面白いのだがな」
おかしそうに喉の奥で笑う風間に、千姫は眉を顰める。完全に拒絶してしまえば良いのだが、そうできない自分の今の心境が、歯がゆくてもどかしくてならなかった。
少なくとも一つ言えることがあるならば、今の風間には山南と違い、悪意はなかった――その確信が、拒絶に動こうとする千姫の身体を留めていた。もしかしたら先程の行為も、山南に付けられた心の傷を癒すため、あの忌まわしき記憶を塗り替えるため、わざと同じ事をしてみせたのかもしれない、と。
だからといって、この男に完全に屈服するつもりもない。いざとなれば頬をひっぱたいてでも拒絶をする準備はある、はずだけれど。
風間の手が伸び、不意に千姫の指を絡め取る。その仕草が存外優しくて、千姫の心はふわりと浮き上がった。続けて、間髪を入れずに口付けを落とされる。
貪るように動かされた唇に荒々しさを感じ、抵抗しようとするけれど、何故か千姫の身体からは、既に力が抜けてしまっていた。
――こうやって私、だんだんこの男に懐柔されていくのかもしれない。
自嘲気味に笑う。だが身を引き裂くような絶望よりも、蜜のような甘い誘惑に手を伸ばしたくなる感情の方が、自分の中で勝った。その蜜は甘美であるが故に、一度吸えば手放せなくなる、魅惑の液体だ。まるで風間の腕から滴っていた、紅の雫のような。
風間の食むような口付けと荒々しい吐息に侵されていくのを感じながら、千姫はそっと目を閉じた。その唇には、微笑みさえ浮かんでいた。