言霊

「姫様、千鶴様から文が届きましたよ」
 静かに襖を開け、部屋に入ってきた君菊の言葉に、千姫は目を丸くして驚いた。
「まあ、千鶴ちゃんが?」
「ええ、確かに。陸奥に行かれた天霧殿が預かってきたそうで、先程持ってこられたのです」
 陸奥、と聞いて、千姫は確信を強める。ここ京より遠く離れた地、陸奥は雪村千鶴の故郷だ。陸奥の水は羅刹化による症状を抑える――そんな話を聞いた千鶴は、羅刹となってしまった恋人と共に、陸奥の実家で二人幸せに暮らしていると聞いていた。預かってきたという天霧もおそらく千鶴と実際に会ってきたのだろうから、この文が偽物ということはまずないだろう。
 君菊から文を受け取った千姫は、お千ちゃんへ、という千鶴の整った字を見て頬を緩めた。丁寧に畳まれた薄紙を開き、中に書かれた文章に目を通す。流れるように記された文字を追っていると、まるでそれを読む千鶴の声が千姫の耳に響いてくるような錯覚を起こした。
 書かれていたのは千姫を気遣う言葉、そして自分の近況。陸奥の水を飲んでいるせいか羅刹化した恋人の症状は次第に良くなってきているらしく、今は誰も来ない山奥の家で、二人きりで幸せな時間を過ごしているのだという。千鶴の字や言葉からその幸せな様子が手に取るように伝わってきて、千姫の唇にも自然と微笑みが浮かんだ。
 京の街で不逞浪士に襲われた際、身体を張って助けてくれた千鶴。千鶴は千姫が鬼と聞いても嫌な顔一つせず、いつも通りに接してくれた。千姫はそれが嬉しくて、千鶴のためならなんでもしてあげたいとさえ思うようになった。例えそれが、彼女の代わりに望まぬ結婚をすることであっても、だ。
「幸せそうで、良かった」
 思わずこぼれた言葉に、君菊が笑みを浮かべて反応する。
「千鶴様は陸奥で、愛する方と幸せに暮らしていらっしゃるのですね」
「ええ、そうみたい。良かった、本当に」
 心から、そう思った。再び文を丁寧に畳んで安堵の息を吐くと、君菊も穏やかに微笑んだ。
 文を胸に抱き、遠く離れた地に住む千鶴に思いを馳せる。先程読んだ千鶴の文の中で、印象に残った文章を、脳内で反芻する。それは彼女らの結婚生活が何より幸福なものであることを表す、印象深い文章だった。
『私たちは夜寝る前、必ず自分の気持ちを伝え合うようにしています。少し恥ずかしいけれど、そうすれば、もっと強く繋がれる気がするから。
 あまり考えたくはないけれど、あの人がもしこの世から去ってしまったとしても、それまでに二人の間で積み上げた言葉はずっと、心に残っていてくれるような気がするの』
 心底羨ましい、と千姫は心の中で呟いた。言霊とはよく言うが、言葉に込められた力は時にとてつもなく大きな影響を及ぼすことがある。それが愛を伝える言葉であれば尚更だろう。更に強い繋がりを求め、愛の言葉を積み重ねていくことのできる二人に、千姫は憧れの気持ちを抱いた。自分ならば絶対に有り得ぬことであろう。何せ相手はあの男だ――千姫は頭の隅にちらと浮かんだ伴侶の顔を、首を振って打ち消した。
 だがその時、突然千姫の背後の襖が開く音がした。反射的に振り返ると、そこには先程浮かべたばかりの男の顔。千姫の伴侶である風間千景が、いつもの仏頂面で立っていた。
「風間殿! 断りもなしに勝手に姫様の部屋に入られるなど……!」
「いいの、君菊。私は気にしていないわ。元々こういう男だし」
 君菊が真っ先に発した非難の言葉を制して、千姫は立ったまま自分を見下ろす風間を睨み付けた。気にしていないとは言ったが、決して良い気分というわけではない。
 君菊は雰囲気を察してその場を退き、部屋に残るは千姫と風間のみになった。風間は千姫の氷柱のような鋭く冷たい視線を浴びながら、ふん、と鼻を鳴らし、後ろ手で襖を閉めた。
「我が妻の部屋に入るのに、わざわざ許可を取らねばならんのか」
「勝手に入ってくるのは失礼だと思うわ、たとえあなたが夫であっても」
 千姫は冷ややかな言葉を放ったが、風間は大して気にしていないらしく涼しい顔をしている。千姫の言葉には応えずに、その手に握られたままの薄紙へと視線を落とした。
「何だ、それは?」
「これは……千鶴ちゃんからの手紙よ。さっき届いたばかりなの」
 ほう、と風間は目を細めた。かつて追い求めていた女鬼の名前に懐かしさを感じているのだろうか、それとも――僅かに胸を掠めた推測を、千姫は慌てて否定する。
「それで、何と?」
「千鶴ちゃん、陸奥であの隊士さんと幸せに暮らしているんですって」
「ほう……」
 千鶴のことに興味を持っているのかそうでないのか、どちらともつかない声を出す風間。
 千姫は風間の心中を計りかねたが、無視することにした。どうせあれこれ推測したところで、良いことなど何もない。風間の真意が掴めぬのは今に始まったことではないし、激しく詰問したところで風間が答えてくれる確証はない。否、自分の問いを無視する可能性の方が高いであろう。
 そこまで考えて、千姫は深く溜息を吐いた。これだから、と、恨めしげに風間を見上げる。千鶴の生活とは大違いだ。千鶴はああして毎晩愛を交わし合っているというのに、自分の風間との生活はこんなにも味気ない。もとよりこの男は愛だの恋だのといった言葉とは無縁なのだと知ってはいても、それだけでは処理しきれない思いが募る。
 千姫の恨めしげな視線が気に障ったのか、風間は眉間に深く皺を刻んだ。
「何だ。何か言いたいことがあるなら言え」
「別に? どうせ、あなたに期待しても無駄でしょうし」
 投げやりな口調で言うと、風間は突然身体をかがめ、千姫の手から千鶴の文を奪い取った。あ、という驚きの言葉を発する間に、丁寧に畳まれた文は風間の前でひらひらと解かれていく。
「ちょっと、何するの!」
 千姫は思わず立ち上がり、風間の指に摘まれた文を取り返そうとした。だが千姫より遙かに背が高い風間は、千姫の手が届かない空中へと文を持って行ってしまう。千姫がつま先に力を入れて背伸びをし、目一杯手を伸ばしている間に、風間はさらりと文に目を通してしまった。
 読み終えた風間は涼しい顔で、自分を鋭く睨み付けている千姫に視線を送る。
「お前は俺に、一体何を期待している」
 その口調は、やや面白がっているようにも聞こえた。千姫は不機嫌そうに頬を膨らませ、ふい、と顔を逸らす。
「別に。私、あなたの気持ちを……一度も聞いたことがないと思って……」
 言いながら、思わず頬が熱くなるのを感じた。先程の風間の問いが、痛いほどに自分の胸に突き刺さる。自分は一体、この男に何を期待しているというのだろう――鬼という種の存続のためだけに繋がった、ただそれだけの関係。そのはずなのに。
「わざわざ口に出して言わねばならんのか。厄介な話だ」
「べ、別に誰も聞きたいなんて言ってないわよ! さっきも言ったけど、期待もしてない。誰があなたなんかに」
 いつもの憎まれ口。そのはずなのに、何故か今日は胸の奥が痛む。何故だろう、と考える間もなく、千姫の目尻に涙が浮かんだ。うそ、と口の中で呟いて、思わず目に力を入れる。
 目が充血して赤くなっていないだろうか、うっすらと浮かんだ涙に気付かれていないだろうか――そんなことばかりを気にしていたせいで、風間の顔が横から迫っていたことに全く気付かなかった。
 最初に気付くきっかけとなったのは、耳朶に吹きかけられた風間の熱い息。びくん、と身体を震わす間に、風間の唇が動いて言葉を紡ぐ。
「お前を伴侶とした時から、俺の心は決まっている」
「な、何、が――」
「愛してもいない女を伴侶などにしても、つまらぬだろう?」
 風間の口から出た言葉に、千姫は目を見開いた。今までの風間からは想像もできぬような言葉を、風間は今、確かに告げた――風間の顔が離れた後も、耳の中には吐息の温もりが残り続け、千姫はしばらく呆けたように立ち尽くしていた。
「これで、満足か?」
 はっと我に返って振り返れば、いつもの風間の余裕の笑み。悔しさが胸に溢れ、千姫は思わず風間を睨み付けてしまう。それを見た風間は小さく溜息を吐くと、呆れたように肩をすくめた。
「これ以上、一体何の不満がある」
 何か言い返そうとして、千姫は思わず言葉に詰まった。風間に言いたいことはたくさんあるはずなのに、どうしても喉から言葉が出てこない。言いたくないと、心のどこかで押しとどめているような気さえした。自分の気持ちが、こんなにも分からなくなったのは初めてだ――千姫はままならぬ思いに、心の中で溜息を吐いた。
 風間は僅かに唇の端を歪めながら、千姫に向けて言葉を吐く。
「それで……あの女鬼は、毎晩新選組の隊士と己の心を伝え合っているのだったな?」
「そ、それが、何か――」
「ならば、お前も俺に心の内を伝えるのが道理というものではないか」
「な……!」
 思いがけぬ言葉に、千姫は瞠目した。動揺してしまったせいで、反論を紡ごうとした唇が震えて言葉にならない。対する風間は唇の端に笑みを浮かべたまま、こちらの様子を窺っている。
「な、なんで私が、あなたなんかに……」
「我が務めは果たした。後はお前だけだ、千」
 初めて名を呼ばれ、千姫の動揺は最高潮に達した。ずるい男――心の中で毒づくも、激しく暴れ続けているこの心臓は、一向に大人しくなる気配がない。
 風間の紅の双眸に見つめられ、千姫はいよいよ逃げられなくなる。己の唇は言葉を紡ぐことを恐れるように震え続け、瞳は風間に釘付けになりながらも、僅かに揺らぎを見せる。
「わ……私、は……」
 空気の震えが、音を伝える。
「心底嫌いな男を……私に触れさせたり、しないわ……」
 ようやく言い切ったところで、風間が千姫を抱き寄せる。とくん、と鼓動が一つ。風間の胸に頬を押しつけて、いつの間にかその温かさに安堵を覚えていることに気付く。風間に悟られぬように、千姫は力を入れずそっと、その胸に寄りかかった。
(2010.12.30)
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