紅の双眸と、逆立った白髪。蛇のような舌で唇を舐め、欲望に溢れた瞳で自分を見下ろす黒髪の男。
それは、蹂躙の記憶であった。まだ誰にも侵されたことのなかった領域を、乱暴に穢された記憶。
あまりに酷すぎるが故、この記憶を心の奥底に鍵をかけて封印した。それ以来、この記憶に精神を苛まれることはなくなっていた。
そのはず、だったのだが――
部屋の隅に置かれた灯りが、真正面にある風間の顔を鮮明に浮かび上がらせる。千姫は布団の上に押し倒されたまま、そのぴくりとも動かぬ表情をぼんやりと見つめていた。
やがて風間の手が伸び、着物の紐を解いていく。徐々に淡雪のような白い肌が剥き出しにされていくのを、千姫は黙って見つめていた。
鬼という種を存続させるために繋がりを持った自分と風間。風間は西の鬼の頭領、千姫は京の鬼の姫。家柄、血統という意味では、申し分のない縁組であった。だが、ただそれだけだ。その間に男女の情愛などありはしない。そう、千姫は思っていた。
やがて口付けを落とされ、嫌でも身近に風間を感じざるを得なくなる。更には突然舌を差し入れられたものだから、千姫は驚いて抵抗してしまう。
「ん、んっ……!」
身体をよじる千姫の手に、風間はゆるりと手を重ねた。そうしてその手に徐々に力をこめる。その途端、頑なだった千姫の身体からゆっくりと力が抜けていった。
風間の手から圧倒的な男女の力の差を感じ取り、敵わないと悟って改めて覚悟を決めたというのもあるが、それだけではない。風間からは敵意が感じられない――むしろ、自分をなるべく優しく扱おうとする気配を感じたから、身体を許す決意ができたのだ。普段の居丈高な風間の態度からは想像もできないことであったが、驚きよりも今は安堵が胸を占めた。千姫はゆっくりと、風間の口付けを受け止めた。
――儀式は、すぐに終わる。
舌で唾液を絡め取ったところで、風間はようやく顔を離した。顕わになった首筋から胸へ、そうして下半身の蕾へと視線を落とす。風間に全てを委ねると決めた直後だが、強烈な羞恥が襲ってきて、千姫の顔は発火したように熱くなった。
「な、何よ。そんなに見ないでちょうだい……」
掠れる声でようやくそれだけ言うと、風間の視線が千姫の方を向く。僅かに笑みの形に歪む唇に、千姫の苛々が募る。
「な、何がおかしいの?」
「随分初心な反応だな、と思ってな」
そう言われた途端、千姫は思わず目を見開いた。やがて無意識のうちに唇を噛み、身体を硬くしている自分に気付く。
初心な、という言葉に、千姫の心は異常なほどに反応していた。風間は自分を煽るつもりで言ったのかも知れないが、今の千姫には辛い言葉だった。千姫の身体は、既に処女ではないのだ――仙台城での忌まわしき出来事が、鍵をかけて封印したはずの記憶が、頭の中で鮮明に蘇る。
自分の血を口移しで与えていた、山南の獣のような赤い双眸。欲望にてらてらと光っていた、蛇のような舌。不意に肩を突かれ畳の上に押し倒された後、自分がどうなったか――思い出すだけでも恐怖と屈辱のあまり身体が震える。山南の血で縛られていた千姫には抵抗の術がなく、ただあの男のなすがままにされていた。羅刹の衝動が収まり我に返った後、何度その忌まわしき記憶に精神を苛まれたか分からない。
危機が去った後はその記憶も薄れていたが、今、全てをはっきりと思い出してしまった。
更に身体を硬くし、風間に警戒の視線を送ってしまう。それをどう受け取ったのか、風間はふ、と微かに笑い声を洩らした。
「そう警戒することはあるまい、怖いのか?」
「そ、そんなこと……は……」
いつもの勢いで思わず強がってしまったが、その声に普段の元気はない。
風間も馬鹿ではない。さすがにその様子を不審に思ったのだろう、千姫を真っ直ぐに見据えたまま、眉根を寄せた。
「何だ。この期に及んで……俺に抱かれるのが不満か」
「違う! 違うわ、そうじゃない……」
言葉とは裏腹に、風間の顔を直視できず目を逸らしてしまう。風間はしばらく横を向いてしまった千姫の顔を見つめていたが、やがて千姫の蕾へと視線を落とし、ひやりと冷たい人差し指を押しつけた。
「きゃ……!」
突如として下半身を襲う刺激に、思わず目を閉じる。その指は乱暴にも、愛撫もなしに千姫の中へと侵入しようとする。それ以上の侵入を許すまいとするかのように、千姫は本能的に下半身に力を入れていた。既に一度、山南に蹂躙されたその場所。身体に染みついてしまった恐ろしい記憶が、次々に蘇る。
「嫌……いや……!」
すると、風間の呟くような声が聞こえた。
「まさか、お前は……」
千姫は目を大きく見開いた。片方の手でもう片方の二の腕を掴み、身体の震えを止めようとする。最悪の想像が、頭の中を駆け巡る。まさか、風間に気付かれた――?
風間は指を素早く抜くと、乱れかかった衣服を直した。千姫がおそるおそる風間の方を向いても、今度は風間が目を逸らしたまま、こちらを見ようともしない。不安で胸がいっぱいになる。
やがて風間は立ち上がった。千姫に背を向け、隣の部屋の襖を開けようとする。千姫は引き留めたい一心で、思わず声を上げていた。
「ち、ちょっと! どうして……どうして止めるの!?」
風間は僅かに振り返り、溜息を吐く。
「今日は気分が乗らぬ。俺は向こうの部屋で休む」
そう言い残し、風間は素早く襖を開けてその場を去ってしまった。
取り残された千姫は、しばらく呆然として部屋の隅に置かれた灯りを見つめていた。
勘の良い風間のことだ。千姫の反応などから、おそらく千姫が処女ではないことに気付いたのだろう。それ以上千姫を抱かずに去っていったのは、全てそれが原因なのではないか。
暗い暗い絶望のどん底へたたき落とされたような気分だった。千姫の目に涙が浮かぶ。悔しい、否、それよりも悲しい気分が勝った。羅刹の血を与えられ、純潔の血を穢され、更には処女まで奪われた――たとえ貴重な女鬼とはいえ、そんな穢れた鬼に一体何の価値があるのだろう。風間が穢れなき女鬼の身体を求めているとするなら、その時点で自分には一切価値がないことになる。
千姫は布団に伏して泣いた。何があっても泣かぬと決めていたが、溢れ出す涙は堰を切ったように止まらなかった。
次の日の夜。
気分が悪いからと言って、千姫はその日与えられた部屋から一歩も外に出なかった。部屋に誰も入るなと厳命し、密かにここから出て行くための支度を整えていた。
風間に攫われるようにして連れてこられた西国の、風間家の屋敷。千姫の身分を知る鬼達は、風間の妻として迎え入れられた千姫に礼を尽くしたが、千姫にはかえってそれがよそよそしくも感じられた。当然、この屋敷の中に親しく話のできるような者などいない。いるとすれば、それは京から連れてきた君菊だけだ。君菊は京にいた頃から変わらず、常に自分に寄り添ってくれている。
ここを出ようと思う、と告げた時、君菊は一瞬目を見開いた。君菊は昨夜の出来事を知らない。言うつもりもなかったが、君菊は敢えて何も聞かずにいてくれた。
「姫様がそうおっしゃるなら、私はお心のままに」
そう言って、京から持ってきた荷物などを一緒にまとめてくれた。
風間の顔がちらつくたび、胸が痛んだ。その度に自分には価値がないという事実を、改めて突き付けられたような気分になる。客観的な事実を総合すれば当然のことだと分かってはいても、開き直ることができない。元々望まぬ縁談だったのだからこれでやっとせいせいする、と威勢良く言い切ることもできたろうが、その原因が原因なだけに、昨夜の出来事を思い出すたびに、千姫の心は酷く抉られていた。
日が翳り始めた頃、ようやく荷物をまとめ終えることができた。日が完全に落ちるのを待って、二人はこっそりと部屋を出た。
風間家の周囲を見張っている鬼達に見つからぬよう逃げられる道を、あらかじめ君菊が探しておいてくれた。千姫は焦る気持ちを抑えながら、その道をひた走った。後ろには君菊がついて、周囲に気を配ってくれている。
無事に風間家の裏門から出たところで、千姫は大きく息を吐いた。君菊が下調べしてくれていたおかげで、誰にも会わずにここまで来ることができた。肩を上下させながら、千姫は傍らに立つ君菊に礼を言った。
「ありがとう、お菊。さあ、早く京へ帰りましょう」
「……それは、できぬ相談だな」
突然、頭上から地を這うような低い声が降ってきて、千姫は驚いて振り返る。
塀の上には人影が一つ。君菊は咄嗟に千姫を庇うような体勢を取り、千姫も身体を硬くする。その声は、既に何度も聞き慣れた声だった。人影は塀からひらりと飛び降りると、千姫の前に立ちふさがった。
「風間……」
見まごうことなき、風間千景の姿。闇夜の中でも光る紅の双眸が、じっとこちらを見つめている。
風間は一歩ずつ、じりじりと距離を詰めてくる。千姫は逃れようと後ずさり、ついに塀に背を預ける格好となった。君菊が庇うように手で制してくれているが、風間の歩みは止まらない。
「退け。俺はその女に用がある」
君菊の腕を薙ぐようにして払いのけ、風間は千姫に迫った。風間を睨み付け、隠し持った武器を懐から取り出そうとする君菊に、千姫は視線で大丈夫だからと合図を送る。少なくとも、今の風間から殺意は感じられない。逃げた自分を殺してどうこうするというのではなさそうだ。
「何故、俺の断りもなしに出て行こうとした」
風間の氷のように冷たい声が、千姫を責め立てる。千姫は耐えきれず、思わず視線を逸らした。理由を正直に話す気にはなれない。漆喰の壁に爪を立てながら、本心にもないことを言う。
「……もう、真っ平よ。鬼の種族がどうとか、跡継ぎがどうとか……あんたと愛のない結婚をするなんて、私には耐えられない」
壁に突き立てた指に力が入る。今更すぎる理由だった。半ば攫われるように、ではあったけれども、千姫自身もそのことは全て了承した上でここに来たはずだ。
聞いた風間が何を考えているのか、彼の表情を窺えない今は何も分からない。長すぎると感じられるほどの沈黙が流れた。早く解放して欲しい、と願ったその時、風間の口から声が洩れた。
「貴様は嘘を吐くのが下手だな」
千姫は驚いて顔を上げた。風間はそれを見計らったように、唇の端を歪める。
「その表情では、図星と言っているようなものだ。言え。一体何が理由だ」
「だ……だから、私はもうあんたの妻でいるなんて真っ平――」
「俺はここで押し問答をする気はない」
一段と低い声で、威嚇するように言う風間。本能的な恐怖を感じ、千姫は口をつぐんだ。嘘を言えば、ここで本当に切られるかもしれない。相変わらず殺意は感じないが、次に何をするか分からぬ恐怖が、風間にはある。
俯いてしまった千姫に、風間は言葉を続ける。
「昨夜のこと、か」
胸を締め付ける記憶が、蘇る。風間の何気ない一言で、必要以上に警戒してしまった自分。山南によって既に蹂躙された場所へと差し入れられた、風間の指。直後、風間の悟ったような声――自分に背を向けて出て行った風間を見た時の悲しみが、千姫を再び絶望の淵へと誘う。
痛いほどの沈黙が下りた。その沈黙を破り、千姫は絞り出すように言葉を発していた。
「どうせ……私には価値がない、と思ったんでしょう?」
風間はぴくり、と眉を動かした。
「どういう意味だ」
「そのままよ。分かっているくせに……私が処女でないと、気付いたんでしょう?」
その言葉を自分から口にするのは、千姫にとっては身体を引き裂かれるほど辛いことだった。だが、一度重い沈黙を破った千姫の唇は止まらない。今まで胸の内に溜め込んでいた言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「その通りよ。私は仙台城で、あの男に犯されたの……山南の血を飲まされて、羅刹に身を落として、挙げ句に処女まで奪われて……私の身体は穢れきってしまった」
だから、と千姫は声を荒げる。
「今の私の身体には、貴方の求める価値なんてこれっぽっちもありはしないのよ!」
「姫様! それは一体……!」
隣で聞いていた君菊が、耐えきれなくなったように悲痛な叫びを発する。
千姫は君菊に対する言葉が見つからず、唇を噛んで俯くしかなかった。このことは、君菊にも一切伝えていなかったことだ。誰かに伝える前に、記憶を封印した――鍵をかけて、心の奥底にしまい込んだ、そのはずだったのに。
様々な感情がどっと胸に押し寄せ、涙となって頬を伝い落ちる。その涙が僅かでも、自分の身体の穢れを落としてくれたらどんなにいいか。所詮、それは望みのない夢に過ぎないと分かっていても、今の千姫は、すがるような思いで一心に願うことしかできなかった。
再び訪れようとした沈黙を遮り、闇の中で声を響かせたのは風間だった。
「お前に価値があるかないかは、俺が決めることだ」
思いもかけない言葉に、千姫はおそるおそる顔を上げる。風間は普段よりも鋭い眼差しで、千姫を真っ直ぐに射抜いた。
「俺はお前の外出を許可した覚えはない。屋敷の中に戻れ」
「で、でも――」
「問答無用だ」
途端に、千姫の身体がふわりと持ち上がる。小さな悲鳴を上げながら、千姫はまもなく自分の置かれた状況を理解した。膝裏と背に手を回し、自分を抱えているのはまぎれもなく目の前の男――風間。落ちぬようしっかりと抱きかかえ、風間は塀の上まで一気に跳躍する。
「供の女。お前も来い」
塀の上で背を向けたまま、君菊に言い放つ。直後、風間は千姫を抱きかかえたまま再び跳躍し、屋敷の中へと戻った。
昨夜自分たちが共に過ごすはずであった部屋へと連れ戻された千姫は、布団の上に寝かされた後、すぐさま起き上がろうとした。だが、咄嗟に風間が覆い被さるように上へ乗ってきたせいで、その行為も無駄に終わる。いよいよ逃げられぬ段となって、千姫は視線を逸らしたまま言った。
「どうして、私を連れ戻したの。あんたが求めているのは、子孫を残すための女鬼なんでしょう? 血筋が良くて、誰にも穢されたことのない純潔の……それなのに」
「俺がいつ、そんなことを言った」
千姫は思わず言葉に詰まる。確かに風間がそれを明言したことはない。
初めは東の鬼の頭領の血を引く千鶴を狙っていたものの、その後形代を名乗り出た千姫にあっさりと乗り換えたことから、彼が良い血筋の女鬼を求めているというのは容易に想像がついた。更に良い血筋の家の者というのは、相手が純潔であればあるほど良いと考える傾向にある。それらのことを総合して出した結論だったのだが、風間は不本意だとでも言うように、眉間に深く皺を刻んでいる。
「何度も言わせるな。お前に価値があるかないかは俺が決める。お前があのまがいものに犯されたのは、お前の意志があってのことではないのだろう?」
「当然よ! 誰が、あんな男……!」
忌々しい記憶が再び蘇り、千姫は怒りを込めて布団に爪を立てた。すると風間は驚くほど穏やかな表情を浮かべ、千姫の瞳をじっと見つめた。
「ならば、何も言うことはない。お前が俺の妻だという事実は、変わらぬ」
「どうして――んんっ……!」
釈然としない思いで、更に理由を尋ねようとした千姫の唇は、風間のそれによって塞がれる。昨夜と同じく舌を入れられ、千姫はいやいやと首を振って抵抗しようとする。が、上から抑えつける風間の力が、それを許してはくれなかった。
繰り返される口付けに、息が苦しくなる。息も絶え絶えになってきた頃、風間は顔を離すと、千姫の着物の紐を解き始めた。するすると衣擦れの音を立てて、自分の肌が再び風間の前に晒される。昨日感じたよりも強烈な羞恥が、千姫の全身を襲った。
「お前を苦しめているのは、あのまがいものの記憶か」
風間の指が、露わになった千姫の胸へと伸ばされる。その場所も、既に山南によって蹂躙された場所。風間に触れられるたび蘇る感触に、千姫は顔を歪めていた。風間の指は胸の突起へと達し、その最も敏感な部分を、弾かれる。
「っ……!」
「これからは俺だけを見ていればいい。俺の感覚を、身体で覚え込ませてやる」
そう言って、風間の顔が千姫の双丘の谷間へと落ちる。
「あ……っ」
風間の赤い舌が、千姫の桜色の突起を転がす。身体を走り抜ける、痺れに似た感覚。それは山南にされた時と似たようなものであったけれど、一つだけ決定的に違うことがあった。それは、相手が風間だということ。風間に対しては愛情など欠片も持っていなかったはずなのに、どうしてこんなにも温かな感情が胸に満ちていくのか、千姫には分からなかった。
風間は一旦顔を上げると、今度はぴたりと閉じられた千姫の足に視線を落とした。両手で膝を持つと、頑なに閉じられていた足をやんわりと割ってしまう。千姫の羞恥は最高潮に達し、頬を真っ赤に染めたまま、いやいやと首を振った。
「何を恥じることがある」
風間はそう言いながら、千姫の秘められし部分へと顔を近づける。恥毛をかき分け、最も敏感な花弁に口付けた。
「あ、あっ……!」
舌で嬲られ、千姫は身体を仰け反らせる。既にそれも知った感覚のはず、それなのに、風間の舌の当たる部分はこんなにも熱く、そして切ない――早く終えて欲しいとばかり思っていた過去とは違い、知らず知らずのうちに風間の愛撫を求めている自分に気付き、千姫は顔に血が集まってくるのを感じた。
「や、駄目……あっ……!」
甘い嬌声が、千姫の口から飛び出る。自分がこんな声を上げられるなんてと、千姫は衝撃を受けていた。それでも風間の舌の動きは止まらない。千姫が声を上げる度、最も感じる部分を悟って、執拗に責め立てる。
「気持ちが良いのか」
事実を抑揚のない声で突き付けられて、千姫の身体が熱くなる。自分は風間の愛撫を、快く感じている――それが、あの男の愛撫とは決定的に違うところだった。どうして、と自身の心に問うてみるも、風間はその結論を出す暇を与えてくれない。頭で考えるのではなく、直接感じろ――そう言われているような気分にすら、なってくる。
やや荒々しく、しかし丁寧に、風間は愛撫を続けた。千姫の泉から溢れ出す蜜と、風間の唾液が混ざり合い、闇に支配された部屋の中で卑猥な水音が艶めかしく響く。
やがて、風間は顔を上げた。普段と変わらぬ支配的な瞳で見下ろされるも、その奥に何か違うものが宿っていることに、千姫は気付く。その正体ははっきりと分からなかったが、彼がこの行為を続けるのは自分を蹂躙するだけの意図ではないと、確信に近い気持ちを抱いた。
顔が近づいてきて、千姫の唇は風間に攫われる。近くでよくよく見れば、風間は端正な顔立ちをしていることに気が付いた。思わずどきりとしてしまった自分に、苛立ちに近い感情を抱いてしまう。身も心も奪われつつあるこの状況で、最後の抵抗なのか、なかなか素直になれない自分がいることに、千姫は気が付いた。
口付けを再び繰り返しながら、風間の指が蜜壷を刺激する。ちゅぷ、と卑猥な音を立てて、蜜が肌を伝う。反射的に足を閉じようとするが、風間の手の力は強く、いとも簡単に押し返されてしまう。
「ここも、あのまがいものに侵されたのか」
至近距離からの問いに、千姫はゆっくりと首を縦に振る。途端に風間の指に力が入り、千姫は痛みに顔をしかめた。
「つぅっ……!」
その小さな声を聞いたのか、風間の指からあっという間に力が抜ける。そうして、再びの愛撫。ゆっくりと中で蠢く感覚に、千姫はどうにかなりそうになってしまう。
「早く忘れてしまえ。お前は俺の感覚だけ、覚えていればいい」
その口調に若干の怒りと必死さが混じったのを、千姫は悟った。いつも余裕の笑みを絶やさぬ風間が何故、と考えてみても、答えはどこにも見つからない。
その必死さの表れのように、風間の指の動きが速くなる。まるで千姫を一刻も早く、自分のものにしたいとでも言うように。今までなら、他人に支配されている感覚は決して心地よいものではなかった。けれども今の瞬間だけは、こうして自分の全てを風間に染められていくのが心地よいと、初めて思うことができた。
「抵抗は、しないのか」
唐突な、そして意外な風間の問い。それは、千姫自身も疑問に感じていたことだった。血に縛られていたあの時とは違い、今は抵抗の術がある。隣の部屋には君菊も控えているから、大声を出せばすぐに助けを呼ぶことが出来る。だが、自分は敢えてそうしなかった。否、できなかったという方が、正しいかもしれない。
「あん、たの……せいよ……」
焦らすように指の動きを遅めた風間に若干の苛立ちを感じながら、千姫は涙を浮かべて風間を睨む。
「私だって、早くあの事は忘れたいの。あんたがそれを忘れさせてくれるって言うなら、従うしか……ないじゃない……」
言いながら、なんと苦しい言い訳だろうと自分でも思った。風間もそれを知ってか喉奥でくつくつと笑いながら、唇の端を歪める。
「早く素直になった方が、自分のためだぞ?」
「何、をっ、あ……!」
千姫は気付いてしまった。自分の中で蠢く指が、二本に増えている。襞を擦られ、蜜の溢れる感触が、今までよりも強く感じられた。風間の指の感触が強すぎて、もうあの忌まわしき夜のことなど思い出せない。それは果たして良いことなのか悪いことなのか――即座に前者と答えたくなるも、千姫の心の中に未だ残る風間への反抗心が、結論を出すのを躊躇った。
「そろそろ良いだろう、俺も限界が近い」
じゅぷ、という卑猥な音を響かせて、風間の指が引き抜かれる。途端に千姫の秘所は寂しさを覚え、落ち着かない気分にすらなった。次にされることは、既に知っている――だが、自分があの夜ほどの恐怖心を抱いていないことに、千姫は気付いていた。
風間は自分の腰に巻いた帯を緩めると、身に纏っていた装束を煩わしそうに脱ぎ捨てた。途端に露わになる、風間の均整の取れた体躯。無駄な肉は一切付いていないが、だからといって細身というわけでもない。千姫に男と女の違いを理解させるのに、十分な体つき。
風間は覆い被さるようにして、千姫に上乗りになる。そうして耳許に、そっと囁きかける。
「覚悟は良いな?」
千姫はきゅ、と目を閉じた。それでも、あの夜のような絶望感、恐怖感は不思議と湧いてこなかった。ほんの少しだけ、微かに分かる程度に頷くと、風間は千姫から顔を離し、既に潤んだ花弁の間へ、ゆっくりと自分の身を滑り込ませた。
「あ、っ……あ――」
指よりも明らかに大きな物が侵入してくる圧迫感に、千姫は思わず呻いてしまう。風間は千姫の表情に気を配る様子を見せながら、ゆっくりと腰を沈めていく。身体の芯が熱くなり、千姫の意識が飛びそうにすら、なる。
最奥に達したところで、風間は一度腰を引く。圧迫感が抜けて、代わりに残るのは風間の感触、そして快感。千姫は思わず、切なげに瞳を揺らした。無意識に、更なる快感を求め始めていたのだ。
思わず腰を浮かせてしまった千姫を見て、風間は目を細めた。直後、笑みの形に歪められた唇。風間は再び千姫を上から見下ろしながら、意地悪そうに言葉を発する。
「どうして欲しいのか言え。返答次第では、叶えてやらぬこともない」
千姫はそこでやっと我に返った。全身を襲う羞恥に、この場から消えてしまいたくなる。だが、現実が、何より風間がそれを許してはくれない。逸らそうとした顔はすぐに風間の手に拾い上げられ、否が応でもその端正な顔を見つめざるを得なくなる。
ぐ、と唇を噛んだ。沈黙が降りそうになって、しかし風間が薙ぐようにそれを遮る。
「どうした。何も言わなければ、ずっとこのままだぞ?」
逃げ場はない。ここで風間の問いに、答えるしかないのだ。
「……あんた、が……」
消え入りそうな声を発する千姫に、風間はますます意地の悪い笑みを浮かべる。
「何だ? もっと大きな声で言え」
「貴方が……もっと、欲しい……の……」
そう言い切るだけで、精一杯だった。顔は熟れた果実のように真っ赤に染まる。
「今日はこのくらいで勘弁してやる」
風間は満足したように頬を緩めると、再び千姫の最奥へ、身を沈めて行った。千姫の身体から力が抜け、快楽に身を焦がされそうになる。
「あっ、ぁあっ――!」
風間と繋がっている――その事実が、千姫の心を更に熱くした。最初は、鬼の種の存続のために繋がったにすぎなかった。けれども今は違うと、はっきり言い切ることができる。自分はこの男に、どうしようもない愛しさを感じてしまっている――
「身も心も俺の物になれ、千」
熱い吐息と共に囁かれて、身悶えせずにはいられない。
しばらく腰を揺すられている間に、千姫は風間の額に汗が滲んでいることに気が付いた。その吐息も先程までのような鷹揚なものではなく、まるですがりつくかのような必死の勢いだ。
何より風間の身体の一部分が、千姫を一途に激しく求めている。それを本能的に悟った千姫は、胸に満ちる温かい感情に安堵を覚えずにいられなかった。愛する者と身体を重ねるのは、こんなにも心地よいことなのだと。未だそれを愛と呼ぶのには抵抗があるけれど、少なくとも嫌悪感はない。それだけでも、大きな進歩だ。
「か、ざま……」
思わずいつものように上の名を呼ぶと、風間は僅かに首を横に振った。
「千景、と呼べ」
「ち……かげ……」
初めて呼ぶ伴侶の名。途端に胸が熱く苦しくなるのはどうしてだろう。それを考えさせる間を与えぬように、風間は一心に千姫を求める。
「ぁ、あぁっ……!」
「千――」
自分を呼ぶ風間の声が、苦しそうにすら聞こえた。直後、意識が絶頂へ飛ぶ感覚。
風間の精が自分の中で放たれているのを感じながら、千姫は幸せを感じていた。布団をぎゅ、と掴み、その熱さに耐える。風間の荒い息が、胸に掛かるのを感じた。それすらも愛おしいと考えてしまった自分は、もしかしたら風間から与えられた熱にやられてしまったのだろうか、それとも。
――そんな些細なこと、どうでもいい。
千姫はゆるりと目を閉じた。この上なく幸せそうな表情を浮かべて。
「どうして、私を受け入れてくれたの」
それは風間に抱かれる前から、胸の中にあった疑問の一つだった。先程は些細なこと、と一蹴してしまったけれど、頭が冷静になってくると、やはり問わずにはいられなくなる。
風間は隣に寝そべる千姫を一瞥した後、煩わしそうに溜息を吐いた。
「お前は俺の妻だ。その事実は決して変わらぬ。お前が自分の意志で、あのまがいものに身体を差し出したのでなければな」
「そんなわけないじゃない! でも、分からない……私はいわば傷物なのに、それなのに」
そんなことかと、風間は一笑に付す。
「そもそも、処女が良いなどという価値観は、器の小さい男の持つ馬鹿げた考えに過ぎん」
「じゃあ……どうして昨日の夜は気が乗らないって言ったの? やっぱり、私に幻滅したから?」
続けて問うと、何故か風間は僅かに苦しそうな顔を見せた。
「確かに、少々驚いたというのはあるかもしれん。だがあのまま続けていれば、お前の忌まわしき記憶をただ抉ることにしかならないのではないかと危惧した……それだけだ」
意外な答えに、千姫は目を見開いた。風間のあの行動は、きちんと自分のことを考えた上で取られた行動だったのだ。自身のことしか考えていなかった自分を恥じると同時に、いつも不遜な態度を見せる風間らしくない気遣いに、胸の鼓動が速まるのを感じた。
「あんたがそういうの、似合わないのよ」
そう言いながら、千姫の心は温かな気持ちに満たされていた。あまりの嬉しさに、思わず涙が出そうになる。今まではただ、自分本位の考えを振りかざすだけの強引な男だと思っていた。だが、本当はそうではないと、今なら言える。普段の不遜な態度から見え隠れする風間の本性に、初めて触れられた気がした。
風間はこちらを向き、千姫の前髪を指で優しく払った。
「だから、先程も言っただろう。お前はこれから俺だけを覚えれば良いと。俺だけを知る身体になれば、それで良い。そうなるまで何度もお前を抱くつもりだ。心しておけ」
「何よ、その俺様理論。あんたのそういうところが気にくわないのよ」
そう言いながら、千姫の顔には笑みが浮かんでいた。いつものやりとりが、こんなにも清々しく感じられたことはなかった。
「……そうね。案外こだわっていたのは、私の方なのかもしれない。私も鬼である前に、一人の女だから……初めては愛する人に捧げたいって思いを、捨て切れていなかったのかもしれない」
思わず唇を噛む。心の奥にあった真実の想いを、今やっと探し当てることができたような気がした。風間が本性を隠していたのと同様に、自分も幾重の建前を積み重ねることで、自分自身ですら気付かない場所に、いつの間にか本心を隠してしまっていたのかも知れない。
「ならば、これから何度も俺に捧げれば良いだろう。俺はいつでも歓迎するぞ?」
「いつもながら思い上がりも甚だしいわね。私がいつ、あんたを愛してるって言ったの?」
「お前の言葉は必要ない。お前の身体が、何よりも雄弁に語っていたからな」
先刻の行為を思い出し、頬が赤らむ。だが、ここで反論する気にはなれなかった。一度剥き出しになった自分の心に気付いてしまったが最後、もう偽ることなどできない――千姫は素直に認めることにして、微笑みを浮かべて風間を見つめた。
「あんたの思い上がりも、間違ってはいなかった……ってこと、なのかもしれないわね」
ゆっくりと睫毛を伏せると、風間の顔が近づく気配を感じた。
そうして、攫われるようにして奪われた唇。心の中に残った愛しい感触を握りしめながら、触れた部分から伝わる風間の熱を、千姫はいつまでも感じていたいと願った。