春の訪れを告げるかのように、桜の蕾が膨らみ始めた頃。
千姫は春を少しでも身近に感じたいと、夫である風間に屋敷の周辺を散歩したい、と申し出た。最初は供として君菊を連れて行こうと思っていたのだが、それを遮って千姫に付き添うと名乗りを上げたのが、意外なことに風間本人なのだった。
「風間家の頭領様自ら監視役、というわけ?」
皮肉を込めて風間に問うと、風間はふん、と鼻で笑った。
「お前に逃げられては困るからな」
千姫はわざとらしく溜息をついて、蕾の膨らみ始めた桜の木を見上げた。もう数日もすれば、桜は可憐に花を咲かせることだろう。その想像は千姫の心を幾許か軽くしてくれたけれども、悩みの種が完全に消えたということではない。
風間との夫婦生活は、想像していたよりも実に味気ないものだった。否、この男と結婚する時点で、世間一般の仲睦まじい夫婦生活を想像していたのが間違いだったのか――物語の中で甘やかに語られる男女たちとは違い、自分たちの仲は最初から冷え切っていた、ように思う。今では風間という男のこともだいぶ分かるようになってきて、当初のような警戒や嫌悪は薄れたものの、まだ完全に心を許すまでには至っていない。
そんな状態だから、風間と一緒に出かけるといっても、その気分は楽しいどころかむしろ憂鬱に近かった。常に仏頂面の男と散歩をしても、楽しいことなど何もない。
会話もほとんど続かず、千姫は精一杯外の風景に思いを馳せることにした。
千姫は風間家の屋敷に来てからというもの、ほとんど外出を許可してもらったことがない。風間は常に、自分の見える場所に千姫を置いておきたいのだろう。不満はあったものの、激しく抗議したところでどうなるわけでもない。中では何不自由ない暮らしをさせられていたし、千姫もしばらくは諦めて、屋敷の中だけで生活を送っていた。
永遠とも思われた長い長い冬が終わり、屋敷の中にいても春の訪れが感じられるようになると、さすがの千姫もいてもたってもいられなくなった。そうして外出の許可を求めたのだが、まさか風間まで一緒に付いてくるとは思わなかった。よくよく考えてみれば、当然のことなのかもしれないが。
屋敷を出てしばらく歩いたところで、道端にすみれの花が咲いているのを見つけた。あ、と思わず声を上げて、千姫はすみれの花の前でしゃがみ込む。春を告げる紫の花が控えめに咲いている様を見て、千姫は頬を緩ませた。
春という季節は、どうしたって心の高鳴りを抑えきれなくなるものだ。こうした小さな自然の変化すら、千姫の心を和ませてくれる。緑の野原を駆け抜ける春風のような穏やかな気分に浸っていると、水を差すように、頭上から風間の低い声が降ってきた。
「そろそろ帰るぞ。雲行きが怪しい」
え、と千姫は思わず空を仰ぐ。すると先程まで地上に降り注いでいた太陽の光はどこへやら、いつの間にか全てを遮るようにして灰色の雲が空を覆っていた。今朝遠くの空に見えていた雲が、どうやらこちらにまで流れてきたらしい。
千姫の心は一気に落ち込んだが、確かにこのまま雨に降られては厄介だ。仕方なく風間の言うとおりにすることにして、来た道を再び辿ることにした。
けれども、雨が降り出すのは早かった。屋敷に辿り着かぬうちに、空から小さな水の粒が降り始めたのだ。最初はぽつ、ぽつと僅かに頬を濡らす程度であったのが、やがて雫の落ちる間隔が短くなり、あからさまに着物が濃い色に染まり始めた。
雨宿りをしようにも、ここは町から屋敷まで続く開けた道の途中で、建物もなければ雨を遮ってくれるような葉を付けた大きな木も見当たらない。
どうしよう、と戸惑いの表情を浮かべる千姫の腕を、突然きつく引き寄せるものがあった。心臓が太鼓を叩くように跳ね上がる。その背に温もりを感じ振り返ると、風間が千姫の腕を握り、もう片方の腕を千姫の頭上に浮かせ、袂で雨を遮るような格好を取っていた。
「もっと俺の方に寄れ。濡れても知らんぞ」
そう言う風間の横顔には、雨の雫が滴っている。礼を言うよりも先に、強引に風間と密着させられていることに対する反発心が、千姫の心に芽生えた。千姫は風間の手を振りほどこうと試みたが、風間が手に込めた力は強く、ちょっとやそっと抵抗したくらいでは束縛を解いてくれそうもなかった。
「大丈夫よ、少しくらい雨に濡れたって」
強がって言うと、風間は諫めるように鋭い視線を投げてきた。
「お前の身体に障ったらどうする。お前には元気な子を産んでもらわねばならん」
結局のところ、風間の関心事はそれのみなのだ。千姫は深く溜息を吐いて、ますます風間への反発心を強めた。風間は自分の心配をしているのではない。千姫がこれからその身に宿す予定の、鬼の子の方が何よりも重要なのだ。
「平気だって言ってるでしょ。あんたに心配されるほど、落ちぶれちゃいないわ」
怒りを込めて言いながら、再び腕の束縛を解こうと抵抗する。だが血が止まるのではないかと思うほどの強い力で握られ、千姫は腕を走る痛みに思わず顔をしかめた。睨み付けてやるつもりで風間の方を勢いよく振り返ると、それ以上の怒りと不機嫌さの混じった鋭い視線で射抜かれてしまい、千姫は一瞬狼狽えた。
「何度も言わせるな。俺は、お前が熱を出して苦しんでいる姿を眺める趣味などない」
自惚れなのかもしれない。だが、それは千姫を心底心配するが故の容赦なき物言いだったのではないか――そう、千姫は直感的に感じ取った。温かいとも冷たいとも判別できない、不思議な気分が胸の中へと落ちていく。
風間の胸に押されて、千姫はゆるゆると歩き出す。雨は激しくはないものの和らぎもせずに降り続け、風間の着物を、そして髪や顔を露の滴るほどに濡らしていく。千姫はというと、風間に庇ってもらっているおかげでほとんど濡れていないのだが――どうにも気分が収まらず、千姫はしとどに濡れた風間の顔を見上げた。
「あんただって同じじゃない。そんなに濡れたら風邪を引くわよ」
風間を案ずる言葉を発したつもりだったのに、どうしても素直に『大丈夫?』というその一言を紡げない。自分の心情と行動がこんなにも一致しないのは初めてだ。自分への苛立ちに、千姫は小さく唇を噛む。
風間は視線を落とすと、唇の端を僅かに歪め、かぶりを振った。
「この俺が雨如きで熱に倒れるような、軟弱な男に見えるのか」
「見える見えないじゃない、こんなにも濡れたら、誰だって風邪を引くわ。わ……私だって、あんたの熱で苦しんでる姿を見る趣味なんか、ないわよ」
風間の先程の言葉を借りて、ようやくそれだけ言う。すると風間はおかしそうに含み笑いをして見せた。何だか馬鹿にされたような気分になり、千姫は思わず頬を膨らませる。
「な、何がおかしいの?」
「さあ、な。ただ、お前に看病されるのならば、熱を出して倒れるのも悪くはない気がした――それだけだ」
「は……はあ!?」
思いがけぬ言葉に、千姫は呆気にとられていた。直後その意味を呑み込んで、海の底よりも深い溜息を吐く。顔を上げて睨み付けると、満足げな笑みを滲ませる風間の顔と出会う。
「そんな面倒なこと、誰がするものですか。あんた一人、部屋で寝込んでなさい。自業自得よ」
「自業自得? 何を言う。お前を庇ってやったからこその結果だろう。それならば妻らしく、甲斐甲斐しく夫の世話をするものではないか」
「何言ってるの、自業自得に決まってるわ。だって……」
千姫はそこで言葉を呑み込み、風間から視線を逸らす。
「――自分は濡れてまで私を庇うなんて、向こう見ずな馬鹿がすることだもの」
その横顔には、うっすらと紅が差している。
風間は何もかも悟ったように笑みを深めると、千姫を束縛していた手を解いた。突然のことに千姫が驚く間もなく、千姫の身体は掬い上げられるようにして、風間の両腕の中に収まる。首を片方の、膝裏をもう片方の腕で支えられ抱き上げられる格好となり、うっすらであった千姫の頬の赤みが、ますます強くなった。
「な、何をするの!」
「お前は俺のことがあまりにも心配なようだからな、こうして帰宅を急いでやるまでの話だ。少し濡れるかもしれんが我慢しろ」
そう言うが早いか、風間は着物を翻し跳躍する。降り続く春雨が頬を濡らしたが、そんなことはほとんど気にならなかった。頬を染めたまま、千姫は口を尖らせて抗議を続ける。
「誤解しないでちょうだい、あんたが熱で倒れたら私が困るって話をしてただけじゃないの!」
「ああ、そのことだが。俺は風邪など引かぬ。何故なら――」
一度言葉を切ってから、風間は笑みを深める。
「不名誉なことだが、お前曰く俺は“馬鹿”らしいからな。よく言うだろう? 『馬鹿は風邪を引かぬ』と」
「こ……答えになってない!」
勢いに任せて風間の胸を叩いてみるが、風間は涼しい顔をしたままだ。悔しさもあったが、それよりも風間の着物の湿り具合が想像以上のものであることに気付いて、千姫は大人しく風間に身を任せることにした。
春雨は千姫の頬の熱を冷ますかのように、空から優しく雫を落としていた。