火照り病

「ほらもう、結局風邪引いちゃって。自業自得じゃないの」
 そう言いながら、千姫は着物の袖をたくし上げ、桶の水に浸した手ぬぐいを引き上げた。大量の水を振り絞った後、丁寧に折り畳み、布団で横になっている風間の額に置く。
 風間の頬は熱のせいで赤く染まっている。その表情は不機嫌そのものだ。苦虫を噛み潰したような顔をして、眉間に皺を刻んでいる。
「何度も言っただろう、これはお前を雨から庇った結果だ」
「確かに、そのことについては感謝してるわ。おかげで私はほとんど濡れなかったし……でもその後、風邪気味のくせに強がって薬を飲まなかったのは他でもないあんたでしょ。だから自業自得なのよ」
 千姫がきっぱりと言い放つと、風間も返す言葉を失ったのか、口をつぐんで黙り込んでしまった。
 先日、二人は千姫たっての望みで屋敷の外へ散歩に出掛けた。だが運の悪いことに、出掛ける時は晴れていたというのに、急に雲行きが怪しくなり、屋敷に帰る前に雨に降られてしまったのだ。風間は咄嗟に千姫を抱き寄せ、雨に濡れぬよう庇ってくれた。そのおかげで千姫はほとんど雨に濡れずに済んだのだが、一方の風間はずぶ濡れになってしまった。
 屋敷に帰った後風間をすぐに着替えさせたのだが、数日後風邪の症状が現れ、そのままにしておいたら、とうとう熱を出して寝込んでしまったというわけだ。
 あの時薬を飲んでいればこんなことにはならなかったろうに、と千姫は溜息をつく。風間は『この程度、すぐ治る』と余裕の笑みを見せていたが、それが強がっているだけだということを千姫は知っていた。男としての矜持故か、それともただ格好を付けたかったのか――真偽の程は定かではないが、実際に風邪を引いてしまった以上はくだらない意地だ。
 千姫を雨から庇ってくれた時、冗談で『お前に看病されるなら風邪も悪くない』などと言っていたが、実際に風邪を引いてしまうとそれどころではないらしい。風間は眉間に皺を刻んだまま、ぴくりとも動かない。
「今日は一日安静にしていること。後でお粥を作って持ってくるから、ちゃんと食べるのよ?」
 そう言うと、風間はふん、と不満そうに鼻を鳴らした。その様子がおかしくなって、思わず笑いを洩らしてしまうと、風間は額に筋を立て、千姫を睨み付けた。
「何が可笑しい」
「なんでもないわ。じゃ、お粥を作ってくるから」
 千姫は表情を引き締めて立ち上がると、風間に背を向けて部屋を出た。
 廊下を歩いて台所に向かう。その途中、またもこらえきれなくなって千姫はぷっ、と吹き出した。
 風間があんなふうに弱った姿は初めて見た気がする。鬼故に刀などで傷を負わされてもすぐに癒えるので、よっぽどのことがなければ瀕死の状態に陥ることなどまずない。今まで千姫が見てきた限り病に罹るということもなかったので、今の風間の姿はある意味新鮮だった。
 お前に看病されるなら悪くないなんて言っていたのに、実際に風邪を引いたらああも不機嫌になってしまうのだから、風間という男はつくづく厄介だと感じる。
 ――素直じゃないのよね。私もあんまり人のことは言えないけど……
 雨の中、風間に礼も言わずにその腕から逃れようとしていた自分と、今の風間を思わず重ねてしまう。どうも、風間相手には素直になれないというか、彼の好意――おそらくは、だが――から出る行いを素直に受け止めることができないでいる。それもこれも、最初の印象からして最悪で、望まぬまま夫婦になったせいもあるのだろうが。
 しかし今の風間もそれと同じ状態、ということは――夫婦は似てくるというが、果たして自分たちもそうなのだろうか。そんなことを一瞬考えて、千姫は慌てて首を振った。こういった思考に慣れていないせいで、心臓が激しく脈打っている。それ以上思考が余計な所へ飛ぶ前に、千姫は急いで台所に向かった。


 粥の入った茶碗を持って風間の部屋の襖を開けると、風間は額に置いていたはずの手ぬぐいを桶の中に戻していた。千姫の来る音に気付いてこちらを向く風間の顔は、いつもより不機嫌さの増した仏頂面である。
 千姫はたじろぎつつも中へ入り、茶碗を畳の上に置いた。そうして桶の中で空気を含んで浮いている白い手ぬぐいを見ながら、溜息をつく。
「どうして勝手に戻したの。熱、まだ下がってないんでしょう?」
「俺には必要ないからだ」
 掠れるようだがそれでも威圧感の残る風間の口調に、千姫も負けじと厳しい表情を向ける。
「駄目よ。熱が下がるまで大人しくしてなさいって言ったでしょ」
「何故貴様の命令を聞く必要がある」
「それは」
 言おうとした言葉を、一度呑み込む。だが心の中で覚悟を決めて、その言葉を胸の中からもう一度取り出した。
「私が……あんたの妻だからよ。病気の夫は、妻の言うことを聞かなきゃいけないの」
「ほう」
 風間は何故か、そこで僅かに表情を緩めた。妻とか夫という響きを快く思ったのかも知れない。千姫は微かに生じた気恥ずかしさを表に出すまいと努めながら、茶碗を持ってもう片方の手で匙を取り、作ったばかりのお粥を掬った。
 ふう、ふう、と息を掛けて粥を冷ましながら、横たわったままの風間に視線を落とす。
「起きて食べられる?」
「ふん、そのくらい造作もない」
 風間は熱で赤らんだ顔のまま、大きく息を吐き出しながら、ゆっくりと身体を起こした。
 風間が起き上がるのを見計らって、千姫はごく自然な動作で、ある程度冷まし終わった粥を風間の口へと差し出す。
「はい、口を開けて。あーん」
 すると途端に風間の紅の目が見開かれた。その表情は突然の行為に驚いているようにも、唐突すぎる行為にやや怒っているようにも感じられる。
「何だ、そのふざけた真似は?」
「私は至って真剣よ。あんたが火傷しないように、冷ましてあげたの」
 風間は渋い顔をした。千姫がぐい、と更に匙を近づけると、風間は嫌がるように顔を背ける。こうなると言うことを聞かない幼い子供を相手にしているような気分になって、千姫もついつい、言い聞かせるような口調になる。
「ほーら、食べなきゃ駄目でしょ。さっさと口を開けて、あーん」
「それ以上近づけるな。俺に匙を貸せ、一人でも食べられる」
「駄目よ。さっきも言ったでしょ? 病気の夫は、妻の言うことを聞かなきゃいけないの」
 その最強の言葉で、風間の張り詰めていた意地は僅かに折れてしまったらしい。風間は嫌そうな顔をしながらも、おそるおそるといった様子で口を開けた。
「あ、……あーん」
 その口から、意外すぎる言葉が洩れる。
 千姫の背に一瞬戦慄にも似た緊張が走った。直後、先程の風間の声を脳内で反芻してしまった千姫の顔は、みるみるうちに緩んでいった。千姫の手は匙を待ち続ける風間を前にしながら、ぷるぷると震えてしまう。
 気付いた風間が、射殺すような鋭い視線を千姫に向けた。
「何が可笑しい」
「ご……ごめんなさい。だってあんたがそんなこと言うなんて、思いも……ふふっ」
「だから俺は嫌だと言ったのだ。もう粥はいらん」
 不機嫌そうな低い声でそう言った風間の頬が赤らんでいるように見えたのは、果たして熱のせいなのだろうか。
 せっかく開けた口を閉じてしまい、再び布団に潜ろうとする風間に、千姫は慌てて声を掛けた。
「ま、待って! 謝るから、機嫌直して。ね? せっかく作ったんだから、ちゃんと食べてよ。もう笑ったりしないから」
「……その言葉に、偽りはないな?」
 真意を確かめるような鋭い視線に、千姫はこくりと頷く。
「絶対よ。鬼に二言はないわ」
「……ふん。見逃してやるのは一度だけだぞ」
 風間は鼻を鳴らし、再び口を開けた。
 今度は千姫も顔を引き締めて、笑わぬよう努めながら、その匙を風間の口へと持って行く。風間も啜るようにしてその粥を口に入れ、ゆるりと食み始めた。
「どう? おいしい?」
「少々薄味だが、食えぬことはない」
「素直においしいって言いなさいよ、もう」
 千姫がわざとらしく頬を膨らませると、風間は少しだけ険しかった表情を緩めた。そうして自分から口を開けると、千姫に意味ありげな視線を送る。
「この俺がお前の粥を食ってやると言っている。早く口に入れろ」
「はいはい。ちょっと待って、今冷ますから」
 匙で再び粥を掬い上げ、千姫はふう、ふう、と息を掛けて冷ます。風間の口へ入れ、風間がそれを啜るようにして食べる様を見ながら、千姫は胸に温かな気持ちが満ちていくのを感じていた。
 夫婦生活とは、こういうものなのかもしれない。相変わらずお互い憎まれ口を叩くことは多いけれど、穏やかな時間の中で日常の一場面として流れていくような、こうした他愛もないやりとりが、今は不思議と手放したくない、愛おしいものに感じられる。
 胸が熱くなるのと呼応するように、千姫の頬も微かに赤く染まる。それを目ざとく見つけた風間が、唇の端を歪めて問いかける。
「何だ、お前も熱が出たのか」
 違うわよ、と否定しようとして、出てきたのは全く正反対の言葉だった。
「ええ、そうよ」
 千姫の頬が、言葉に合わせて緩む。
「あなたに移されたみたい。責任取って、私が倒れたら看病してくれる?」
「ふん、面倒だ。だが、まあ……お前の口に粥を入れてやるくらいのことは、してやらなくもない」
 風間の口調は、いつの間にか優しいものへと変わっていた。相変わらずなんだから、と心の中で呟きながら、千姫は笑う。
 風間と同じ空間にいて、こんなにも胸が温かくなったのは、生まれて初めてのことだった。一度得たこの思いを手放したくない――千姫はいつしか、心の底から強く願うようになっていた。
(2011.1.11)
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