優しい腕

 墨を流したような夜空に、満月の浮かぶ秋の夜だった。
 風間は里で催された宴会から戻ってきて、真っ直ぐに自室へと向かった。何杯かあおった酒は完全に抜けきっていないが、とはいえ前後不覚に酔い潰れているわけでもない。
 闇夜に紛れる程度に薄く頬を紅色に染めた風間は、しっかりとした足取りで音を立てずに廊下を歩き、障子戸を開ける。まるで主の帰りを待ち続けていたとでも言うように、弱々しい行灯の光が、部屋の中をほのかに照らしていた。
 文机の前に腰を下ろし、傍に落ちていた白紙を拾い上げる。硯で墨を摺り、筆先を湿らせた後、白紙に文をしたため始めた。
 といっても、その内容は個人的なものではない。新しく移ってきた里の警護をしている天霧達に宛てた命令書だ。新政府の者たちにこの場所を悟られる前に、里の警護をもう少し厳しくするように、という内容だった。
 数年前、幕府から鬼の一族を匿ってくれた薩摩藩への恩義から、一時的に倒幕運動に手を貸していたことがある。だがそれはあくまで一時的なものであり、永久的に薩摩藩に忠誠を誓ったわけではない。協力を仰ぐことで鬼の強大な力を目の当たりにしていた薩摩藩、長州藩の人間達は、倒幕が成りし後、次第に鬼という存在に恐れを抱くようになるだろう――そんな風間の予想は、果たして当たっていた。
 恐怖を抱いた人間がすることはただ一つ、その恐怖の対象の排除だ。西の鬼達が迫害を受けるかもしれないという可能性を想定していた風間は、以前から鬼の一族の住処を移す準備を整えており、先日実行に移した。しかし、それもいつまで隠し通せるか分からない。風間の里に住む鬼達の生活を守るため、倒幕が成り一時的に平和が訪れたかに見える今も、頭領である千景に休む間は与えられないのだった。
 天霧達への具体的な指示を書きしたためていると、突然背に何かが被せられた。風間が後ろを振り向くと、そこには妻の千姫が立っていた。
「そんな格好でいると、風邪を引くわよ。夜は寒いんだから」
「……おまえか。まだ起きていたのか」
 風間は掛けられた紺色の半纏を引き寄せながらそう言うと、千姫はええ、と頷いた。
「それは? 天霧への命令書かしら」
 文を覗き込んでくる千姫に、風間は僅かに頷く。
「そうだ。里の警護をもう少し強化するように、とな」
 千姫は眉を顰め、小さく溜息を吐いた。
「やっぱり……良くない動きがあるのね」
「念を入れるに越したことはない。何かあってからでは遅いのだからな」
 そうね、と、なおも心配そうな表情で、千姫は頷いた。
 こうして穏やかに妻と会話できるようになってからどのくらい経つだろう、と風間はふと考える。初め、自分たちの関係は、血筋の良い鬼の子を残すためだけの契約で結ばれた仲に過ぎなかった。その間に一般の夫婦のような愛情は欠片もなかったし、薩摩に連れてきた後も千姫は常に気を張ったまま、決して風間に隙を見せようとしなかった。
 風間もある程度はその関係を割り切って考えていたはずだったのだが、次第に千姫という女に興味を持つようになった。千姫も初めは風間にいちいち反発する様子を見せていたが、いつしか風間とも打ち解けて話してくれるようになった。
 様々な懸念がなければ、恐ろしいほどに穏やかな生活だと思う。薩摩藩の者として、新選組たち相手に刀を振るっていたあの頃が懐かしく思い出されるほどに。昔の自分は、穏やかすぎる生活は張りがないと考えていたが、今はこの生活を幸福と思えるようにすら、なっている。
 そんなことを考えつつ、千姫の掛けてくれた半纏の暖かさを感じながら文机に向かった風間だったが、千姫がなかなか部屋を出て行かないことに気付いて、再び後ろを振り向いた。
「どうした。まだ何か用か」
「ううん、別に用ってほどのことじゃないけど……」
「なら、先に床に入っておけ。遅くまで起きていると、明日に響くぞ」
「あなたは? まだ寝ないの?」
「俺はもう少し起きているつもりだ。後で行くから、先に寝ておけ」
 そう言ったが、千姫が動く様子はなかった。怪訝に思っていると、千姫は僅かに目を伏せ、躊躇いがちに口を開いた。
「私も、ここにいてもいい? 邪魔にならないなら」
 思いがけぬ提案に目を見開く。千姫の意図は掴みかねたが、風間はすぐに首を横に振った。
「おまえは早く寝ろ。夜更かしは身体に毒だぞ」
「それを言うなら、あなただってそうじゃない。最近はいつも遅くまで起きているし……大切な用事があるのは知ってるけど、お酒も呑んでるんだし、今日くらいは早く寝なさい。身体を壊すわよ」
 表向きには咎めるような口調だったが、その裏には風間の事を心の底から心配する響きが含まれていた。確かに里を移してからというもの、気を揉むことが多くあまり十分に睡眠の取れていない日々が続いている。千姫がそれを心配するのも、道理なのだろう。
 それを分かった上で、風間はわざと唇の端に笑みを刻み、挑発的な視線を送った。
「ふん。そうは言うが、本当は俺が恋しいのではないか?」
「なっ……どういうこと?」
「そうか。俺が隣にいないと、寂しくて夜も眠れぬのか。いじらしい女よ」
 笑みを閃かせつつその腕で妻を引き寄せ抱きしめようとするも、千姫は頬を紅に染めつつ、風間の腕を巧みに避ける。
「生まれたばかりの赤ん坊でもあるまいに、誰が一人で寝られないですって? ふざけないで。私は真剣な話をしているのよ」
 その口調には、静かな怒りが含まれている。風間はやれやれと肩をすくめた。
「ふっ……他愛もない冗談だというのに、相変わらず可愛げのない女だ。何故俺はこんな女を嫁にしたのか、理解に苦しむな」
 そう言った途端、千姫の瞳が怒りでいっぱいに見開かれた。その唇から、激しい怒号が迸る。
「そこまで言うならもう知らないわ。京に帰ります!」
 身体を翻そうとした千姫よりも先に立ち上がり、風間はその場を立ち去ろうとした千姫を後ろから抱きしめる。腕の中から小さな悲鳴が上がり、やがて絡め取った千姫の腕が抵抗するように風間の腕を押しのけ始めた。だが力関係は圧倒的に風間の方が上だ。抵抗もむなしく、千姫はその場に留まることを余儀なくされてしまう。
「っ、離してったら!」
「そう怒るな。短気は損気、という言葉があるだろう?」
「怒らせたのは誰だと思っているのよ!」
 射殺すかのような勢いで鋭く睨み付けられて、さすがの風間もやりすぎたかと反省する。この程度のやりとりは日常茶飯事のようなものであったが、千姫の真剣な怒りが、瞳を通して伝わってくるのを見た。
 風間は小さく溜息をついた後、分かった、と折れた――ふりをする。
「おまえと寝室に行って休めば良いのだろう? 分かった、そうする。この文を書き終えたら行くから、先に行って待っていろ」
 まるで安堵したかのように、千姫の身体から徐々に力が抜けていった。ようやく折れてくれたかと、風間は内心溜息をついた。だが千姫は、そのままこの部屋を出て行こうとはしなかった。じっと風間の顔を見つめたまま、動かない。
 怪訝に思った風間が言葉を紡ぐ前に、千姫は口を開いた。
「いいわって言おうとしたけど、やっぱり駄目よ。あなたがここを出るまで待っているわ。私が部屋にいて邪魔になるというなら、廊下で待ってる。――どうせ、私を先に寝室に行かせて、あなたは起きているつもりなんでしょう?」
 気付かれたか、と、風間は唇の端を歪める。千姫が聡い女だというのは知っていたし、ある程度気付かれるだろうという予想もしていたが――
「全く、強情な女だ。どうあっても折れぬとはな」
「人のこと言えないでしょ、もう」
 風間が沈黙していると、千姫は睫毛を伏せ、ぽつりと呟くように言った。
「知っているわ。あなたが――こんなふうに言うのは変な気がするけど――本当は優しい人だって。一見自分のことしか考えてないように見えるけど、本当は里のみんなや、私のことの方を大切に考えてくれている人だって」
「ほう」
 言われ慣れない言葉を並べられて、風間はどこかむず痒いような感覚を覚えつつも、悪い気はしなかった。
「面白い。俺のことをそんなふうに評したのは、千、おまえが初めてだ」
「……からかうつもりなら、取り消すわよ」
 千姫も自分の言葉に多少気恥ずかしさを覚えているのか、微かに頬を紅色に染めつつも続けた。
「だから……だからこそ私は、折れるわけにいかないの。里のことがいくら大事だって言っても、頭領のあなたが倒れたら元も子もないじゃない。あなたのことを拠り所にしている人が、この里にどれだけいるか知っている? 天霧達のような年を取った鬼も、若い鬼達も……そして、私も」
 回された風間の腕に、千姫の指が絡みつく。その温もりがいかに愛しいものであるか、既に風間は知っていた。
「まさか、おまえがそこまで俺のことを考えてくれていたとはな」
「当たり前よ。私はあなたの……妻、なんだから」
 そう言った途端顔を真っ赤にする千姫を、この上なく愛しいと感じた。千姫に絡めた腕に力を込めつつ、風間は千姫の耳許で囁く。
「そこまで言うなら、今日はこのままおまえと共に寝てやるとしよう」
 男を知らぬ初心な女のように、未だ風間の吐息に敏感に反応する千姫を可愛らしく思いつつ、風間は追い打ちをかけるように、もう一度熱のこもった息を吹きかける。
「……何なら、久しぶりにおまえを抱いてもいい」
 それを聞いた千姫は反射的に風間の方を振り返り、睨み付けるような鋭い視線で射抜く。
「ふざけないで、って――ん……!」
 愛しさに任せて、風間は向き合った千姫の唇を奪っていた。久々に味わう千姫の唇は、程よい弾力と潤いがあり、風間をますます夢中にさせた。千姫は最初こそもがいていたが、やがて大人しく、風間へと身体を傾ける。
 唇が離れると同時に、つ、と唾液が糸を引く。千姫の中に未だ反抗的な光があるのを認めつつも、その光を覆い隠すように、風間を見上げる彼女の瞳は艶っぽく潤んでいた。
「今日はおまえを寝かせてやれぬかもしれないな」
「……本末転倒、じゃない……」
 そう言いながらも、千姫に拒絶の意志は見られない。
 風間は千姫の身体を両腕で抱き上げると、そのまま部屋を出て寝室に向かった。
 愛しい妻との、幸福なひとときのために。
(2011.1.15)
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