昼間、厨で炊事をしていた千姫は、ふと玄関の辺りが騒がしくなっていることに気付いて顔を上げた。白い前掛けで濡れた手を拭くと、ぱたぱたと廊下を駆けていく。
玄関には案の定風間が立っていて、家来達と何事か話していたが、千姫が来たのに気付いてそちらを振り向いた。刹那、彼の唇の端に笑みが刻まれる。千姫は急に居心地の悪さを感じて俯きそうになりながらも、なんとかこらえて口を開いた。
「……おかえりなさい」
「ああ、今帰った」
家来達にもう二言ほど何か言った後、風間は草履を脱いで家の中へと上がってくる。千姫が前掛けの紐を解いて外していると、風間に突然肩を抱かれた。思わずびくり、と身体を震わせる。
「な、何? 気安く触らないで」
「そう警戒せずとも良いだろう。俺達は夫婦だ、そうではなかったか?」
千姫は笑みを浮かべた風間を睨み付け、肩の手を強引に振り払う。
「勘違いしないで。誰がいつ、あなたなんかと結婚したの?」
「ふ……やれやれ。相変わらず強情な女だ」
風間は呆れたように笑う。その反応は千姫の気分を大いに害したが、ここで声を荒げるのも行儀が悪いと、黙って風間を睨み付けるに留まった。
千姫が風間家の屋敷にやって来たのは、つい先日のこと。倒幕が成り、ひとまずは世の中が落ち着いたところで、風間は一人、千姫を迎えに京へやって来たのだ。千姫としては風間との関係はあくまでも契約であり、風間家に入るつもりなどもさらさらなかったのだが、ひとまず子を成すまではと、風間家への同行を許可したのである。
風間家の者たちには既に彼の妻として認識されているらしく、そのような扱いを受けたが、千姫にとっては不本意極まりない話だ。千姫が逃げぬようにとのことだろう、基本的に外出は許可されず、風間家の屋敷で毎日を過ごすことになったが、何もせずにただ部屋の中で座っているのもつまらないし、さすがに申し訳ないと、ここのところ炊事場に立って食事の準備をしたり、屋敷の中の掃除をすることも増えた。それがますます、彼の妻としての振る舞いに見える要因になっているのなら、千姫としてはあまり好ましい事態とは言えないのだが。
風間は千姫の鋭い視線をさらりと受け流した後、懐に手を入れ、中から何かを取り出した。しゅるり、という音がして、風間の手から長い紐が垂れ下がる。
「それ……」
千姫は目を丸くした。風間はふ、と軽く笑う。
「お前への土産だ。有り難く受け取れ」
それは髪飾りだった。桜色の組紐で作られたもので、今千姫が髪を結ぶのに使用しているものと非常に似通った作りをしている。決して派手ではないが、女性らしい可憐さの感じる飾りだ。
「お前がこれで髪を結った姿を見たい」
そう言った風間は千姫の背を手で軽く押して、部屋に行くよう促した。
「ちょっと、押さないでったら」
不平を述べつつも、千姫はゆるゆると廊下を歩く。歩く間、風間の手から零れゆらゆらと揺れる美しい組紐に、千姫は僅かな悔しさを感じつつも心奪われていた。
美しい装飾品を身に付けたいという思いは、どの女性にもあるもの。無論千姫とて例外ではない。更に言うとこの組紐が特別派手ではない、という点が、千姫の心を引き付けていた。千姫は昔から、あまり派手な装飾品を好まないし、身に付けない。いつも君菊の艶やかな装飾品を見ているから、それだけで満足してしまっていたのだ。風間の土産であるという点は少々心に引っかかってはいたが、千姫の中では十分に浮き立つ出来事だった。
風間の部屋に入り、風間が後ろ手で襖を閉める。彼から組紐を受け取ろうとしたその時、風間の手が、千姫の髪に触れた。
「俺が結ってやろう」
「な……」
言うが早いか、風間の指が千姫の髪を縛っている紐に引っかけられる。抵抗する間もなくその束縛をゆるゆると解かれて、千姫の心臓が跳ねた。解かれた髪は胸元に滑り落ち、漆黒が光に反射しててらてらと光る。
触らないで、と言って抵抗したかったのに、何故かできないでいた。風間は慣れた手つきで千姫の髪を梳き、その髪の束を指先の繊細な動きでまとめる。どうしてこんなにも手際が良いのかしら、と疑問に思っている間に、風間は組紐を髪に掛け、くるりと回してきつく縛った。
右側は、これで完成だ。風間は満足げに千姫を見下ろし、ふ、と笑い声を洩らしてみせる。
「やはり似合うな。俺の見立てが良かったということか」
その物言いに引っかかるところはあったものの、千姫は何も言わなかった。新しい組紐は不思議とすぐに髪に馴染んだ。視線を落として自分の髪を見つめると、まるで春の訪れを感じた時のような、うきうきとした思いがじんわりと胸を満たす。
「次はこちらだな」
風間がもう片方の縛った髪に触れ、指を差し入れてその束縛を解く。その時、不意に風間の顔が、千姫の顔へと近づいてきた。驚いて、千姫の身体がびくりと震える。耳許に吹きかけられた熱い息が、じんわりと肌の上に残った。
「これは、俺とお前の契りの証だ」
「え……?」
意味がよく呑み込めず聞き返すと、風間はふ、と小さく笑う。
「お前はもう、俺の束縛からは逃れられぬ、という意味だ」
今度は違う意味で、背がぞくりと震える。この髪結い自体が、彼の束縛を意味している――聡い千姫は、すぐにその思考へ至った。
「やめて。あなたなんかに縛り付けられてたまるものですか!」
抵抗しようと風間を手で押しのけるが、風間は薄笑いを浮かべたまま動かない。その華奢な手を絡め取って、風間はもう一度千姫の耳許で囁きかける。
「俺のものになれ、千」
自分の反射的に震える身体、大きく跳ねる心臓が忌まわしい。更に抵抗を繰り返して逃れたいところなのに、何故か千姫の身体は硬直したまま動かなかった。唇はしばらくわなないていたが、ようやく震えを止めて、言葉を紡ぎ出す。
「私は誰のものにもなるつもりなんてないわ……特に風間千景、あなたなんかのものには!」
語気を強めたが、先程の勢いは失せている。風間は喉の奥でくつくつと笑った。
「ほう……お前は俺からの、正式な結婚の申し込みを断るというのか」
「当たり前でしょ。最初に言ったはずよ、私はあなたと契約を交わしただけにすぎないと」
ようやく平常心が戻ってきて、千姫は風間の首筋を睨み付けた。だが風間はそれでも怯む気配を見せない。
「今、契約の話など関係ない。俺はお前自身が気に入った。だから妻になれと言っている」
意外な言葉が風間本人から飛び出し、千姫の心臓がまた一つ跳ねた。風間は今まで、千姫のような女鬼を囲う目的を、ただ子作りのためとしか考えていない節があった。それは本人も明言していたし、実際そうだったのだろう。それなのに、その風間が千姫自身を――彼女を子作りの道具ではなく、女として求めてきたのが意外だったのだ。
「千、俺と一緒になれ。悪いようにはせん」
畳みかけるようにとどめの言葉を放たれ、千姫の動悸が激しくなった。本当なら即刻断る話なのに、何故かそうできない自分が憎らしい。仙台城での風間に対する恩義の気持ちが残っていたか、少しの間でも風間と過ごして、思っていたほど我が儘に振る舞う人間ではないと知ったからか――風間と一緒になっても、それほど悪いことにはならないという確信めいた思いが、胸に湧き上がってきたせいかもしれない。
千姫の沈黙を肯定と受け取ったのか、風間は満足げに笑うと、千姫の髪結いを再開した。またも手際よく、髪を手で梳き、束ねて紐で結い付ける。
「この美しさ、我が妻にふさわしい」
風間はこの上なく上機嫌だ。そんな風間の態度が気に障って、千姫は不機嫌そうな声で言う。
「誰もまだ、あなたの妻になるなんて言ってないわ」
「ほう、それではどうするのだ? 俺の申し入れを断るということか」
「それは……」
答えられなくなって、風間から視線を逸らす。頬が熱くなるのを感じ、千姫は自分の身体の変化を忌々しく思った。風間は髪結いを終え、再び千姫の耳許に唇を近づける。ふう、と息を吹きかけられて、これまた敏感に反応してしまう自分が憎らしい。
「はっきりと断らぬのなら、肯定だと受け取るぞ?」
覚悟を決めねばならない、と感じた。千姫はぐっ、と唇を噛み締める。この男のいいなりになるのは悔しい。だが、この男と一緒にいることを、それほど悪いと感じていないのも確かだ。いつからこんなふうに心変わりしてしまったのかと自分を振り返ってみるけれど、そのきっかけすら、思い返すのも気恥ずかしい。
「……いいわ」
千姫ははっきりとした声で言い放つ。
「こうなったのも、きっと何かの運命だったのね」
天井を見上げ、息を吐く。初めは良い血筋の女鬼として、千姫の友人である雪村千鶴を狙っていた風間。その形代を申し出たところから、千姫の運命は変わった。その後、千姫は山南の謀略に巻き込まれて羅刹と成り下がる。山南の命に従い風間を刀で貫いた後、皮肉にもその血を啜ったことから、千姫は正気を取り戻すことが出来たのだ。
今となってはもうほとんど羅刹の衝動に駆られることはないが、以前一度だけその衝動に駆られた際、風間の血を啜ったことがある。嫌々ながらではあったが、もう既に風間の血を一度は啜っているのだから、一度も二度も同じだ、と言われ彼の血を飲んだ経緯がある。
この運命の輪が良い方向へ転がるのかそれとも悪い方向へ向かってしまうのか、それはまだ分からないけれど。少しはその運命の輪とやらに身を委ねてみようという気持ちが、固まった気がする。
「安心するがいい。俺が生涯を掛けて、お前を幸せにしてやろう」
「あら、らしくないことを言うのね」
「なんだ、女はこの一言で、たちまち男に惚れてしまうのではないのか?」
「一緒にしないで欲しいわ。それにあなたに言われたって、信じられるかどうか」
言葉の応酬を繰り返した後、二人は互いに笑う。初めて、この男と打ち解けられた気がした。
風間に身体を攫われる瞬間、千姫の新しい髪飾りが、桜吹雪の如くひらりと舞った。