私に振り向いて

「クリミア王国軍と合同訓練?」
 その知らせをマーシャが聞いたのは、クリミア再興から一年後のことだった。
 かつての上司タニスに戻るよう言われ、一度兄を捜すために抜けたベグニオン聖天馬騎士団に再入団したマーシャ。抜けたとはいってもその間遊んでいたわけではないから、天馬騎士のカンもすぐに取り戻せ、一年経った今では昔所属していた頃と同じ生活に戻っていた。
 そんなある日、クリミアとの合同訓練のことを同僚から聞いた。クリミア、という言葉はマーシャにとって決して関係のない言葉ではなかったため、何故か慌てて上官のタニスの部屋へ飛んでいってしまった。
「タニス副長! あっ、し、失礼します!」
 あまりにも慌てていたため、部屋の扉をノックすることも忘れ、さらにはお辞儀をすることも忘れていたので、慌ててぺこりと頭を下げた。タニスは何やら書類に目を通していたが、書類を机の上に置いてマーシャを見つめた。目は、やはり笑っていない。
「あ、あの……お、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
 マーシャが縮こまってそう聞くと、タニスはふむ、と顎に手を当てて言った。
「……お前は昔から変わらんな。いいぞ、何だ?」
「えっと、クリミア合同訓練のことなんですけど……」
「ああ、それか。一度お前たちを集めて話をしようと思っていたんだがな、もう知られていたか」
 タニスはそう言って、先程目を通していた書類にもう一度目をやった。
「これがちょうど、クリミアから送られてきた詳しい書類だ。数日後、私たちベグニオン聖天馬騎士団がクリミアへ赴くことになっている。おそらくクリミアの騎士団の中には顔見知りもいるだろうな。マーシャ、お前も数人なら知っているだろう?」
「はい。ケビンさんとかジョフレさんも、確かクリミア騎士の方でしたよね」
 ああ、とタニスは頷く。
 ケビンとジョフレというのは、戦場で共に戦ったクリミア騎士たちである。ケビンは第五小隊の隊長を務めており、ジョフレは彼の上司にあたる。マーシャはジョフレとは直接言葉を交わしたことがなかったが、ケビンとなら数回あった。彼と共に戦場を巡ったことも一度や二度ではない。ケビンのその時の様子を思い出して、マーシャは思わず笑いたくなってしまった。仮にも副長であるタニスの前なので努めて顔には出さないようにしたが、そのすぐ後、タニスに苦笑されてしまった。
「マーシャ、何がおかしい? 顔が緩んでいるぞ」
「え? あ……あれ、顔に出てました?」
 指摘されて、マーシャはあんぐりと口を開ける。
「お前は分かり易いからな、すぐに顔や声に感情が出る」
「はぁ……」
 マーシャは気の抜けた返事し、がくっと肩を落とした。上司ににやけた間抜けな顔を見られてしまうとは。たとえ上司でなくても抵抗があるというのに。
 タニスは珍しく唇の端に笑みを浮かべ、マーシャに言った。
「まあ、そういうことだ。ある程度支度はしておくようにな。そうそう、後でそのことについて招集すると、他の騎士たちに伝えておいてくれるか?」
「はい、わかりました」
 マーシャはその返事だけはきりっとした声で返し、「失礼しました」、とタニスに頭を下げ、部屋を出た。
 廊下の空気は部屋よりもすがすがしいもので、マーシャは出てすぐに思わず深呼吸をしてしまった。やはり上司の部屋は息が詰まるし、ずっと緊張しているために肩も凝る。マーシャは今更ながらそれに気づき、はぁ、とため息をつくと、天馬騎士たちが集まっている訓練場へ赴いた。


 数日後、予定通り合同訓練は行われることとなった。
 今朝隊長であるシグルーンからの招集があり、一通り挨拶があってから、天馬騎士たちはそれぞれの相棒であるペガサスにまたがった。そして副長タニスのかけ声に合わせて、ペガサスたちは一斉に地を蹴り、飛び立った。
 隣国とはいってもベグニオンとクリミアは山で隔たれているため、主に船による交易が行われているが、船で行くとなると遠回りをしなければならないので何ヶ月か航海をするはめになる。天馬騎士団をわざわざ呼んだのは実はそのこともあって、天馬で山を越えれば一番早くて問題ないのではないかという結論に達したためだった。
 しかし天馬の足が速く、空に障害物がないと言っても、やはり一日やそこらで着けるような距離ではない。ベグニオン聖天馬騎士団の者たちは、数日でクリミア王都へ着くことができた。
 夕方クリミア城に入ってから、代表のシグルーンとタニスだけが現クリミア女王・エリンシアと謁見することになった。他の天馬騎士たちはこれから寝泊まりすることになる宿舎へ行って、それぞれに荷物を置いてくつろいでいた。それも終わってシグルーンから招集があり、天馬騎士たちは皆外へ出た。
 広場のような場所に集まった時には、既にクリミア騎士たちは整列していた。天馬騎士たちも急いで整列すると、前に一人の若い男性が立った。その姿を、マーシャは見たことがあった。
 ――あれは、ジョフレさん……!
「ベグニオン聖天馬騎士団の皆さん、クリミアへようこそいらっしゃいました。実力があると名高いあなた方と合同で訓練が行えること、大変嬉しく思います」
 ジョフレはそう切り出してしばらく挨拶を続けると、壇上から下りた。今度は入れ替わりにシグルーンが出てきて、クリミア騎士たちの方に頭を下げてから、柔和な微笑みを見せた。
「クリミア騎士団の皆さん、お招きくださってありがとうございます。これから合同で訓練を行うこと、楽しみにしておりました。よろしくお願い致します」
 双方の騎士団の長が挨拶を交わし、今日はそこでお開きとなった。
 仲間の天馬騎士たちと一緒に宿舎へ帰ろうと歩いていたとき、マーシャは後ろから声をかけられた。
「マーシャ殿! マーシャ殿ではないか!」
「え?」
 マーシャと仲間の天馬騎士が一斉に振り向く。そこにはマーシャにとって懐かしい人が立っていた。
「ケビンさん!」
「覚えていてくれたのだな」
 マーシャは満面の笑顔を見せて、ケビンに寄っていった。傍にいた天馬騎士は二人を見て、クスッと笑ってからそのまま宿舎の方へと歩いていった。
 ケビンも満足そうな笑みを見せて、マーシャを見た。マーシャは早速ケビンに話しかけた。
「お久しぶりです! ケビンさんも合同訓練には参加されるんですよね?」
「当たり前だ! このような機会、なかなかあるものではないからな!」
「ふふ。やっぱりそう言うと思いました」
 ケビンは、あの頃と何も変わっていない。目の前にいる彼は、自分が知っているままの彼だ――マーシャはそう思えて、嬉しくてならなかった。自分でも何故かよく分からなかったが、妙に心が躍っていた。
 だが、時間が迫っていることに気づいたマーシャは、残念そうに言った。
「あ、じゃあそろそろ時間なので、これで……」
 惜しいことだが、この後すぐに宿舎に戻ってまた集会である。夕食までには時間があるが、きっと集会で潰されてしまうだろう。日程や合同訓練の指南があるらしいが、どのような内容なのかは見当がつかない。ケビンに会釈してから彼に背を向け、宿舎に歩き出そうとしたマーシャだったが、ケビンが後ろから声をかけてきた。
「マーシャ殿、夕食の時間は自由なのか?」
「え、ええ、そうだと思いますけど……」
 振り向いて答えながら、何故そんなことを訊くのだろうと首を傾げていると、ケビンはそれを聞いて安心したような笑みを浮かべた。
「ならば良かった! 貴殿と一度、じっくり話がしたいと思っていてな。戦時中の恩もあるし、それも兼ねて是非と思っていたのだ」
「えっ、ということは……食事をご一緒できるってことですか?」
 思ってもみなかったお誘いに、マーシャは目を丸くした。
「まあ、そういうことになるな。都合が悪いのか?」
 ケビンが探るような目を向けたので、マーシャは慌てて首を横に振った。
「いえ! そんなことありません。私もまたケビンさんとお話ししたいと思っていましたから、ちょうど良かったです」
「そうか、なら良かった。ではまた食堂で会おう」
「はい!」
 ケビンとマーシャはほとんど同時に頭を下げて、二人ともお互いに背を向けると、そのままそれぞれの目的地へと歩いて行った。
 やけに胸を張って歩くケビンと、笑みがこぼれるのを抑えられないといった様子のマーシャの距離は、どんどん広がっていった。


 集会の間、マーシャは笑みがこぼれっぱなしだった。前で話をしているシグルーンやタニスに見られては大変と、何度か口を無理やり閉じてみたり、頬をつねってみたりするのだが、そんな想いとは裏腹に、なかなか笑みは消えてくれなかった。この集会が終わったら夕食なのだが、ケビンとの約束を考えると、胸が嬉しさでいっぱいになってしまうのだ。マーシャは初めて、こぼれる笑みに悩まされるはめとなった。
 日々の予定としては、まず起きて朝食、訓練、昼食、訓練、夕食と、ベグニオンにいる時の二倍くらいの時間で訓練が詰め込んであった。だが交流を図るといっても遊びに来たわけではないし、これが当然なのだ。
 集会が終わって、それぞれ自由時間――つまり夕食――となった。マーシャは食堂へ向かいながら鼻歌さえ歌っていて、同僚達に変な目で見られた。だがそんなことは気にも留めなかったし、そもそもどうでもよさすぎて気づきもしなかった。
 食堂に入ってからまず、マーシャはケビンの姿を探した。クリミア騎士の姿はちらちらと見受けられたが、ケビンだけはどこにもいない。不安になって入り口の辺りできょろきょろしていると、後ろから肩を叩かれてどきっとして振り返った。そこには手を挙げたケビンが立っていて、マーシャの顔が一気にほころんだ。
「あ、ケビンさん! どこにいらしたんですか?」
「相棒の世話に行っていた。マーシャ殿も覚えていないか? 一度奴を助けてもらった恩があるのだが」
「あっ、あのお馬さんですね?」
「そうだ! 覚えていてくれたのか!」
「もちろんです。忘れませんよ、絶対に」
 忘れませんよ、ではなく、忘れられないのだ。あの時のことが鮮明に頭の中に蘇ってくる。
 ケビンの馬が体調を崩していたところを助けたことで、マーシャはケビンに命を懸けるだの、どうしても恩を返したいだのとしつこいほどに言われたのだ。しかもケビン独特のペースに巻き込んでしまうものだから、マーシャも面白くてついつい笑ってしまっていた。
 ケビンは馬のことを大事な相棒と言っていたが、その話には何度も共感した。マーシャも相棒のペガサスのことは特別大事にしている。騎士にとっては馬やペガサスが命と言っても過言ではないし、それだけでなく、心を通わせることのできる大切な相棒だ。
 マーシャはそんなことを思い出しながら、二人はそれぞれの夕食をトレイに載せて、空いている席に座った。人はごったがえしていたが、なんとか相手の声くらいは聞き取れる状態だった。
 食事を口に運びつつ、ケビンはマーシャに話しかけた。
「今日はマーシャ殿が来ていると愛馬に報告していたのだが、その途中で愛馬がこれ以上ないほどに興奮してな。おそらくマーシャ殿と会えるのが楽しみなのだろう。……明日にでも、会ってやってくれるだろうか?」
「はい、もちろんですよ。私もお馬さんに会えるの、楽しみです」
 本当は、ケビンと会えたことの方が何倍も嬉しいのだけれど――そんなことをふと考えて、マーシャは赤くなって慌てて首を横に振った。私は一体何を考えているのだろう。
 ケビンはそんなことも気づかないらしく、食事を口に入れながら何やら唸っていたが、突然思い出したように手をポンと叩いた。マーシャは彼の行動に異常に驚いてしまい、小さく叫び声を上げてしまう。
「わっ! ど、どうしたんですか、ケビンさん?」
「いや……先程思い出したことがあってな。俺が戦時中マーシャ殿に最初話しかけた時、本当に言いたかったことを思い出したんだ」
「……それはまた、随分前の話ですね……」
 少々呆れつつも、マーシャは笑みをこぼす。そんなマーシャの言葉も気にせず、ケビンは続けた。
「俺はマーシャ殿と手合わせをしたかったのだ。天馬騎士はクリミアでは全く見かけないからな。一度どれほどの腕前なのかと……」
「それだったら、明日からいつでもできますね。合同訓練ですから、そういう機会も設けてあると思いますし」
 マーシャはそう答えてから、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ケビンさん、本当は……天馬騎士の女の子が目当てなんじゃないんですか?」
 冗談で言ったつもりだったが、彼の本音も聞いてみたいという気持ちもあった。何しろ天馬騎士団は女ばかりの騎士団である。クリミア騎士の中にはちらほらと女性の姿も見えたが、きっと彼らが大勢の女性と接する機会は少ないはず。さすがに面と向かって口説いてきた騎士はいなかったようだが、廊下を歩いていると何度も男性と視線がぶつかった。ケビンはそういうことに興味があるのだろうか。マーシャが聞きたかったのはむしろ、そこである。
 ケビンはマーシャの発言に目を丸くし、慌てた、という感じではなく、大まじめで反論してきた。
「俺はそんなことにうつつを抜かすような男ではない! 俺をそのように見ていたというのなら、極めて心外だ。マーシャ殿」
「そ、そんなつもりじゃ! ただ、冗談で言ってみただけなんです。……その、怒りました?」
 ケビンが本当に不機嫌そうに答えたので、マーシャは慌てて訂正した。本当に怒っているのかと彼の顔色をじっと見つめていたが、彼はまだ少し不機嫌そうだった。
「冗談なら構わないが……今日は何度も同僚に同じ質問をされたのだ。ベグニオンの天馬騎士はやっぱりいいだろう? とか、な。俺はただ合同訓練を楽しみにしていたというのに。ジョフレ将軍に言って、叩き直してもらうべきかもしれん」
 そういうことだったのか、とマーシャは納得する。そして、改めて謝った。
「あの、ごめんなさい。本当に冗談のつもりだったんです。そんな質問が続いたら、やっぱり怒っちゃいますよね」
 彼が女性に興味がありそうか、と訊かれれば、マーシャは間違いなくノーと答えるだろう。そう答えるのは当然のようであったし、また、その答えを口にするのは寂しい気もした。彼はただクリミア騎士としての人生をまっとうに歩んでいる男性なのだ。そんな彼が余計なこと――そんなことを言うと周囲からブーイングが起こりそうな気もするが――に気を使うとは思えない。
 でも、と、マーシャは思う。少しくらい興味を持ってくれても良いのに。
 またそんなことを考えて、マーシャは再び赤くなった。今日の自分は何か変なのかもしれない。ケビンに言わせれば、余計なことを考えすぎているのかもしれない。ああ、とため息をついて、マーシャは食事に気を向けることにした。
 マーシャの周りにはクリミア騎士もベグニオンの天馬騎士も同じくらいいて、それぞれは所属ごとに固まって談笑しながら食べているようだった。だがマーシャのテーブルから離れた場所に目をやると、早速交流と言わんばかりにクリミア騎士とベグニオンの天馬騎士が一緒に座り、その間で話をして盛り上がっているところもあった。ちょっとだらしないんじゃないかしら、と思いつつも、少しだけ羨ましくなる。目の前にいるこの人は、自分にどれだけ興味を抱いてくれているのだろう。そう考えるとはっきり答えることができなくなって、マーシャは落ち込む。
「はぁ……」
「マーシャ殿、ため息は寿命を縮めるぞ」
「わ、分かってます」
 思わずまた溜息をついたのを聞かれていたらしく、ケビンに鋭く指摘されてしまった。
 ちょっと赤くなって、やっぱり気づいてくれないのかなぁ、と落胆する。
「ケビンさん、あの……」
「なんだ?」
 思わず彼に話しかけていた。しかし、続く言葉は見つからず、考えは空を彷徨う。ケビンは訝るような視線を向けてきたので、マーシャは慌てた。
「あ、あの……その……」
「?」
 マーシャは緊張してしまい、一瞬自分が何を言ったのかが理解できなかった。

「ケビンさんは……本当に女性に、何の興味もないんですか?」

 何を言ってしまったのだろう。
 ケビンはきょとんとしている。すぐに返事をしてくれないことも重なって、更に赤くなり、マーシャは目を伏せた。周りがざわめく中、二人の間だけは時間が止まった。
 ――ような、気がしただけだった。
 ケビンは眉を寄せて、ますます訝る様子を見せた。
「マーシャ殿、一体何を……? 何か今日のマーシャ殿は、おかしい気がするが」
「あ、い、いえ、なんでもありませんっ!」
 真面目な返答が聞けるかと思ったのは、期待しすぎだったらしい。
 マーシャは思わず口に食事を運んで、恥ずかしさをまぎらわせた。でも、それはそうかもしれない、と彼女は思う。そんなこと、そもそも考えたことがない可能性が高いから。
 しかし、マーシャは諦めるつもりはなかった。いつか彼が、自分に興味を抱いてくれたら、と思う。少しだけでも、自分のことを考える時間を増やしてくれたら。
 これは恋なのかもしれない、とも思う。男性に向けてこんなことを考えたことなんて、今まで一度もなかった。そもそも幼い頃から兄に振り回されて生きてきた自分は、まともに男性に恋心を抱いたことがなかったのだ。そういう意味では、自分もケビンと同じ状況なのかもしれなかった。ただ、目覚めるのが、少し早かっただけ。
 そう、少しだけの時間だけで済めば、と願う。
「ケビンさん。きっと、振り向かせてみせますから。期待しててくださいね」
「? どういうことだ、マーシャ殿?」
「いいえ、なんでもありません」
 兄以外の理由でベグニオン天馬騎士団からの脱走を真剣に考えたのは、これが初めてだった。
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