ジョフレに命じられ、領内の視察を終えて戻ってきた二人は、途中クリミアの城下町を通った。
城下町にはいつも多くの人々の声が響き、クリミア王国の繁栄を象徴しているかのようだったが、今日はいつにもまして賑わっているように感じられた。
ケビンはその様子を、足を止めて観察した。
「む? 何やら今日は、一段と市場が賑わっているようだな」
「あっ、本当ですね」
マーシャもそれに倣い、足を止めてケビンの隣に並んだ。
市場には老若問わず多くの女性たちがいて、めいめいに買い物を楽しんでいるようだった。食料品の買い物に出るのは大抵女性の役目だろうが、それにしても今日は女性の姿ばかりが目に付く。
立ち止まっていると、焼き菓子や砂糖菓子の甘い匂いが漂ってきて、ケビンはますます怪訝な表情になった。
「どうやら、甘い菓子を売っている店が特に賑わっているようだが……何か祭りでもあったのか?」
すると、首を傾げるケビンの隣で、マーシャが一人で納得したように手を打った。
「あっ、そうか。分かりました。そういうことだったんですね」
「む。マーシャ殿、何か知っているのか?」
ケビンが尋ねると、マーシャはにこにこと笑いながら頷いた。
「はい。ケビンさんはご存知ないんですか?」
「いや、全くわからん。一体何なんだ? マーシャ殿、教えてくれないか?」
だが、マーシャはふふふと笑うだけだった。
「きっと、明日になれば分かりますよ。ケビンさんも」
「そうだろうか? しかし、分からぬままでは夜も眠れん!」
「相変わらず大げさなんだから。大丈夫ですよ、明日になれば絶対、分かりますから」
「そうか? ならばいいが……」
若干の不満を残しつつではあったが、ケビンはこれ以上言及することなく、二人は報告のためクリミア城へ帰ることにした。
その際、マーシャが何故か嬉しそうに鼻歌を歌っていることを不審に思ったケビンだったが、わざわざ尋ねることはしなかった。
夕食後、そそくさと食堂から出て行ったマーシャを不審に思ったケビンは、マーシャの部屋を訪れた。
だが、いくらノックしても返事がない。マーシャがこの時間から眠っているということは有り得ないだろう。ケビンは首を傾げながら、もしかしたらあそこかもしれない、と、城下町へ出ることにした。
クリミア城下町にあるカリルの店は、いつも大勢の人々で賑わっている。クリミアの民たちだけではなく、店主のカリルやラルゴと付き合いのあった王宮騎士団の者たちも、毎晩のように訪れていた。ここは、クリミアの民や騎士たちにとっての憩いの場であった。
「いらっしゃい」
木の扉を開いて中に入ると、カリルのよく通る声が店内に響いた。ケビンがカウンター席に座ると、食器を拭いていたラルゴが声をかけた。
「よう、お疲れ様。何か飲むかい?」
「そうだな、一杯もらおう」
ほいきた、とばかりに、ラルゴが拭いていた食器を置き、グラスを取り出す。透明のグラスに並々と酒が注がれていくのを見た後、ケビンはきょろきょろと辺りを見回した。
店内では、クリミアの民たちがグラスを片手に談笑している。マーシャの姿は、見当たらない。
ふう、と息をついたとき、かたんと音がしてグラスが目の前に置かれた。
「ほい、どうぞ」
「ああ、すまんな」
ケビンはグラスを口へ持って行くと、それを軽く傾けた。酒が喉の乾きを潤し、ケビンのもやもやしていた心をすっきりとさせてくれた。
再びそれを置いて、もう一度辺りを見回す。すると、ラルゴの横にいたカリルが、不審そうに尋ねてきた。
「ケビン、何かあったのかい? さっきからきょろきょろしてるけど」
「誰かを探しているとか?」
続けてラルゴの声。ケビンは二人の方を向いて、ああ、と頷いた。
「マーシャ殿を知らないか? 先刻から姿が見えないので、ここにいるかと思ったのだが……」
すると、二人は同時に顔を見合わせた。
その後、カリルがくすくすと笑いながら、酒の少なくなったグラスに、もう一度酒を注いでくれた。
「まあまあ、いいじゃないか。さあ、もう一杯」
「あ、ああ……」
グラスを握って注がれていく酒を見ながら、ケビンは二人の行動を不審に思った。
カリルは話題を逸らそうとしたに違いなかった。知らないなら知らないと、はっきり言えば済むことなのだ。だが、敢えて彼らはそうしなかった。
二人はマーシャの行方を知っていて、それをケビンに隠そうとしているのだろうか。しかし、一体何のために。
全く、今日は不可解なことばかり起きる。城下町の賑わいといい、先程の夫婦の反応といい――ケビンは、確認も兼ねてもう一度二人に尋ねた。
「何か、俺に隠していることがあるのではないか?」
「さあ、知らないよ。そんなに心配しなくても、マーシャは勝手にどこかへ行ってしまうような娘じゃないさ」
にやにやと笑って、カリルが言う。明らかに何かを知っている顔だ。
ケビンはいよいよ我慢ならなくなって、拳を震わせた。
「一体、何があったんだ? 先程から分からんことだらけで、頭が爆発しそうだぞ!」
急に大声を出したので、二人は驚いたように目を丸くし、店内にいる者たちからの視線を一斉に浴びることとなった。
カリルが慌てたように、まあまあ、とケビンをなだめた。
「そう怒りなさんなって。きっと、そうだね、明日になれば分かるんじゃないかい?」
「マーシャ殿にもそう言われた。だが分からんことをそのままにしておくなど、俺の性分に合わん!」
思わず拳を握りしめて、勢いのままに振り下ろそうとした、その時だった。
「あ、ケビンのおにいちゃんだ!」
鈴の音のような可愛らしい声が店の奥から響き、ケビンの拳は空中で止まった。その後、ぱたぱたという軽い足音が聞こえた。エイミがやってきたのだ。
エイミはカウンターの向こうからひょっこりと顔を出すと、固まったままのケビンに向かって小さく首を傾げた。
「おにいちゃん、どうしたの? おこってたの?」
「い、いや……怒っていたわけではないのだ、断じて」
穢れのない無邪気な瞳に見つめられると、怒る気も失せる。ケビンは拳を下ろし、言葉を濁した。するとエイミはにっこりと笑った。
「よかったあ。おにいちゃんのこえ、おくまできこえてきたんだよ。あたしもマーシャのおねえちゃんもびっくりして、ようすをみにきたの」
一瞬耳を掠めた名前に、ケビンははっとなる。
「マーシャ殿だと!?」
ケビンは思わず、エイミにぐいと詰め寄っていた。
「マーシャ殿は、やはりここにいるのか!?」
エイミはケビンの豹変ぶりに、怯えたような表情を見せた。
「ケビン、小さい子にそう詰め寄るでないよ」
カリルにたしなめるような口調でそう言われ、ケビンは次、カリルに詰め寄った。
「カリル殿、先程エイミが言ったことは本当なのか!? マーシャ殿がここに!?」
カリルはやれやれ、といった様子で、ふうと息を吐いた。
「バレてしまったんじゃしょうがないね。そうだよ、あの娘は店の奥にいるよ」
「なっ……一体何のために?」
「あのね、チョコレート、つくってるの!」
カリルの脇からエイミが顔を出して、嬉しそうに言った。ケビンは力が抜けていくのを感じた。
「は? チョコレート?」
「そうだよ。だって、あしたはバレンタインデーだもん!」
にこにこと笑いながらエイミは言う。
バレンタインデー。その名前を耳にしたことはあったが、どういう行事かは知らなかった。だが、なんとなく合点がいった。城下町で甘い物を売っている店に女性たちが群がっていたのは、きっとこの行事のせいだったのだ。
詳しいことを尋ねるべく、ケビンはエイミの顔の高さまで体をかがめた。
「エイミ、そのバレンタインデーというのは、一体どのような行事なのだ?」
「あのね、おんなのこが、だいすきなおとこのこにチョコレートをわたすんだよ!」
大好きな男の子。それが恋愛対象を指しているということは、ケビンでもなんとなく察しが付いた。ということは、チョコレートを作っているマーシャには、それを渡すべき相手――つまり、恋愛対象となるべき男がいるということか。
なんとなく複雑な思いを抱きながら、ケビンは抱いた疑問を口にした。
「だが、わざわざここで作るほどのものでもないだろう。昼間市場で買い求めていた女性も多かったのだから、マーシャ殿もそうするべきだったのでは……」
「だめなの、それじゃ!」
エイミが怒ったようにぷくりと頬を膨らませた。
「ほんとうにすきだから、てづくりなんだよ!」
「本当に、好きだから……?」
「やれやれ、この子は本当にはっきりと物を言うね」
カリルはやや呆れたように、しかし愛おしそうにエイミの頭を撫でた。エイミは首を伸ばし、気持ちよさそうに目を閉じた。
「ま、そういうことだ。だから今日は見逃してやっておくれよ、ケビン」
「だ、だが……」
「今日だけだから。同じ女として、あたしからも頼むよ」
あのカリルが珍しく頭を下げてきたので、ケビンは驚き、了承するほかなくなった。
「む……ま、まあ、それほど言うなら、構わんが」
疑問は山ほどわいていたが、これ以上の追及は無駄だろう。ケビンはそれ以上何も言わず、今日のところは帰ることにした。
「それでは、邪魔をしたな」
「また来ておくれよ」
「おにいちゃん、またね!」
代金をカウンターに置き、三人に見送られながらケビンはカリルの店を後にした。
何やら処理しがたい、もやもやとした気持ちが襲ってくるのを感じたが、気のせいだと片付けることにして、ケビンは城へ戻った。
次の日。いつものように朝早く起きたケビンは、毎日恒例となっている朝食前の訓練を行うことにした。着替えて外へ出て、訓練場に向かう。朝日が燦々と降り注ぎ、ケビンの後ろに長い影を落としていた。
ケビンが訓練場の横にある馬小屋に向かうと、ケビンの相棒が嬉しそうにヒヒンといなないた。
「おはよう! 今日もいい天気だな、相棒!」
挨拶をしながら、背を撫でてやる。相棒の馬は気持ちよさそうに首を下げ、鳴き声を出した。
馬小屋は横長に伸びており、クリミア騎士の馬がずらりと並んでいる。それに混じって、マーシャの天馬もいた。
ケビンが何の気なしに、奥にいる天馬の方へ視線を向けたそのとき、天馬が突然高い声で鳴いた。
「うおっ!?」
ケビンが驚いて思わず後ずさると、後ろから聞き慣れた声がした。
「ケビンさん!」
ケビンは再びびくりと肩を震わせ、反射的に振り向いた。そこにはマーシャがいて、申し訳なさそうな表情で立っていた。
ケビンは思わずほっとして、胸を押さえながら息をついた。
「な、なんだ、マーシャ殿か。驚いたぞ」
「ごめんなさい、あの子が大きな声出しちゃって。私が来たから、きっと興奮したんだと思うんですけど……」
「いや、それはいいのだが。それよりマーシャ殿、昨日のことだが――」
カリルの店のことを話そうとすると、それを遮って、マーシャが頭を下げた。
「あの、ごめんなさい! カリルさんから聞きました。私のことを心配して、来て下さったのに……」
「い、いや、それは構わんのだ。それより、チョコレートとやらは完成したのか?」
そう尋ねると、マーシャはいつもの笑みを取り戻して頷いた。
「あっ、はい。あの、それでケビンさん、これなんですけど……」
マーシャが出してきたのは、包装された小さな包みだった。ケビンは驚きながらも、それを受け取った。
「こ、これは?」
「その、チョコレートです。お口に合えばいいんですけど」
ケビンはまじまじと、自分の手の中にあるその包みを見つめた。この中に、例のチョコレートが入っているのだという。ケビンは何故か緊張した。
だが待てよ、とケビンは思った。エイミは言っていた。チョコレートは恋愛対象となる男に渡すものなのだと。ケビンは慌てて、マーシャに尋ねた。
「しかし、俺などに渡していていいのか? チョコレートはもう一つ作ってあるということか?」
「えっ? いいえ、チョコレートはこれ一つだけですけど」
「だが、エイミは"だいすきなおとこのこ"にこれを渡すものだと言っていたぞ? マーシャ殿には他に、渡すべき相手がいるのではないか?」
ケビンがそう言った途端、マーシャは驚いた表情になり、頬が微かに赤らんだ。
だが次の瞬間、マーシャは弾けたように笑い出した。突然笑い出したマーシャを見て、ケビンは呆然とするばかりであった。
「マーシャ殿、何がおかしいのだ?」
「だ、だって、ケビンさん、そこまで知っているのに、どうして気が付かないのかなって……」
マーシャはすみません、と言いながらも笑っていた。
「緊張して、損しちゃったかな。でも、ケビンさんらしい」
「どういうことだ?」
本気で意味の分からないケビンは、もう一度真顔で尋ねた。するとマーシャは声を出して笑うのを止めて、微笑みながら言った。
「私がチョコレートをあげたい相手は、ケビンさんだけなんです」
「あ、ああ、だが、それでは――」
「ケビンさん以外じゃだめなんです。だから、つまり」
マーシャは頬を赤く染めながらも、はっきりと言った。
「私の"だいすきなおとこのこ"は、ケビンさんってことですよ」
一瞬、ケビンの思考回路が停止した。
だがその後、一瞬で電流の駆け抜けた脳が活動を始め、マーシャの言葉を全て呑み込んだ。ケビンは理解した。理解すると共に、ケビンの表情がみるみるうちに変わった。
「な、何だとおお!?」
地響きがしそうなほどの叫び声を間近で聞いて、ケビンの相棒は興奮したようにヒヒンといなないた。