桜井琥一という男は、ひどく不器用な人間だった。
後ろに流した黒髪に着崩した制服、睨まれたら縮み上がってしまいそうになるくらいの鋭い目つき。喧嘩の強い桜井兄弟の兄として、この界隈の不良達から恐れられていた存在。けれども桜井琥一という人間は、優しくて繊細な心の持ち主なのに、それを素直に表現できない不器用な人間だった。時にはその姿が痛ましい、と思うほどに。
その証拠に、わたしがコウに向かって笑いかけると、決まって戸惑ったような表情をする。一緒にいられて嬉しい。コウとどこかに出掛けるたびにそう表現すると、照れたように頬を染めて、居心地悪そうに視線を逸らす。どうすればいいのかわからないとでもいうように、その手は宙を彷徨う。わたしは何度もその手を握ろうとしたけれど、背が高いコウは自分の手をわたしの手が届かないところに持って行ってしまうので、いつもこの気持ちを持て余すばかりなのだった。
ようやくコウの手を握れるようになった後も、コウはあーとかうーとか、決まって言葉に詰まる素振りを見せた。わたしはコウの手を握っていられるだけでいいのに。そんな気持ちが心に浮かぶ。コウの顔を見上げながら、伝われという思いを込めて、握る手に力を込めた。
沈黙には二つの種類がある。一つは、気まずい沈黙。もう一つは、心地よい沈黙。コウといる時、わたしはいつも後者の雰囲気を感じていたけれど、どうもコウはそう思っていないようだった。わたしが退屈しているのではないか、そんなことばかり気に掛けていた。そんなことない、と言っても、コウは決して信じてくれない。そのことでコウが心の内側にこもって思い悩んでいるのを知っていたけれど、わたしはそれ以上何も言えなかった。ただ、たくさん笑って、そうではないよと訴えかけるのが精一杯だった。
ある日のデートの帰り、わたしたちはいつものように寄り道をしながら帰ることにした。夕日に照らされた海岸沿いの道路を歩きながら、わたしはコウに向かって手を差し出す。握って欲しい、という合図だ。いつものことのはずなのに、コウは毎度驚くように目を見開いて、それからおそるおそる、わたしの手を握るのだった。
「痛かったら言え。……加減が分からねぇ」
コウはお決まりの台詞を言って、わたしの手を包み込む。けれども決して、わたしの手を握りしめたりしない。むしろ逆で、本当に握っているのかと思うくらいにやわやわと、包み込むようにして手を取るのだ。コウは知っているのだ。自分の本当の握力が、わたしにとってはやや痛みを感じるものであることを。自分の基準で握って、わたしが傷ついてしまうのではないかと、それを一番恐れている。そうして彼なりに悩んで、出した結果がこれなのだろう。
わたしは、彼が幼くて加減を知らなかった頃みたいに、痛いと感じるくらいコウに握られるのが好きなのだけれど、あれから大きくなって、コウは自分の力を十分に知り、加減という配慮を身に着けてしまった。あの頃に戻れなんて残酷なことを言うつもりなどさらさらないけれど、少し不満を感じてしまうことも事実だ。
そうして、歩く。他愛もない話をしながら歩くこの距離感が、わたしは何より好きだった。
「海、綺麗だね」
「あぁ。いい色に染まってんな」
コウは目を細めて、オレンジ色に染まった海を見る。彼と弟の琉夏くんの住居、West Beachから見える海の景色も美しいけれど、帰り道を歩きながら二人で見る海の景色もまた格別だ。わたしは少しふざけるように、道の端ぎりぎりを歩きながら、その微妙にふらふらと揺れるバランスを楽しんでいた。
そのせいで、わたしはある瞬間足を踏み外した。途端に身体がぐらついて、段差の下にある砂浜に落ちてしまいそうになる。
「きゃっ!」
思わず悲鳴を上げると、コウは素早くわたしの手を強く握り、背を支えて自分の方へ抱き寄せた。先程までのひやりとした恐怖と、コウの身体と密着しているという事実のせいで、心臓が痛いほどに暴れている。ゆっくりと顔を上げてコウを見ると、コウは咎めるような、しかしどこかほっとしたような目でこちらを見ていた。
「大丈夫か? ああ、悪い、痛くなかったか?」
そう言って、強く握っていたわたしの手を離す。途端にわたしの手は物足りなくなって、人の温もりを恋しがった。バカ、危ないだろ。何やってんだ。わたしにかけるべき言葉は色々あったはずなのに、そして今までのコウならそれらの言葉を真っ先に口にしたはずなのに、今この瞬間コウが選択したのは、怒る言葉でも咎める言葉でもなかった。
わたしは拍子抜けしたけれど、その気遣いが何よりも嬉しかった。そうして、そんなコウを、心から愛しいと思った。背からも手を離そうとする彼に逆らって、わたしはコウに抱き付いた。
「お、おい」
途端に困ったような声が降ってくる。対処に困っている、けれど、彼は決して自分を突き放したりしない。
腕を精一杯伸ばして、彼の手を絡め取る。そうして、ほんのり頬を赤らめたままのコウに、自分から握りしめた手を見せつける。
「コウ、わたし、痛くないよ。コウが思いっきり握っても、大丈夫」
ほら、と促してみるけれど、彼はいつものように半信半疑だ。痺れを切らして、ありのままの思いをぶつけてみる。
「わたし、コウに離して欲しくない。さっきみたいに、絶対離さないように、握ってて」
コウの目が大きく見開かれた。わたしが訴えかけるように真剣な目で見つめていると、コウは困ったように小さく舌打ちして、その手に徐々に力を込めてきた。
「オマエな……後で痛いっつっても知らねぇからな?」
「痛くないよ。むしろ、痛いって思えるくらいコウに握ってもらえた方が、うれしい」
「ククッ……変なヤツ」
コウは少しばかり笑って、手に力を込めてくれた。確かに少し窮屈かも。そう思ったけれど、コウが手加減せずに握ってくれたのが嬉しくて、わたしはふふっと笑って歩き出した。海から反射してくる白い光が、きらきらと視界の中で瞬く。
「……悪くねぇと思えてきた。オマエと手、繋ぐのも」
そんなふうにぽつりと漏らすコウに、わたしも、とそっと同意する。
さっきはわたしの方が強かったけれど、今度はコウの方がずっとずっと強い。手に込められる力加減が逆転して、シーソーの傾きが大きくなる。けれど、わたしとコウの間は、それでいいのだ。このアンバランスな関係がいつまでも続けばいいと、わたしはコウの逞しい腕に、頬を寄せた。