大人の合図

 帰りたくない、とわたしが言ったら、コウは案の定はあ? と怪訝そうな声を上げた。
「だって、外、寒いんだもん」
 言い訳にもなっていない言い訳を発して、コウに擦り寄る。コウは言葉に詰まり、小さく溜息を吐いた。手に負えない悪ガキの世話をすることになってしまった、とでも言いたげに。
 困らせていることは、重々承知していた。けれども、ここから離れたくないのも事実だった。
 高校を卒業してから、わたしはコウと一緒にWest Beachで同棲しているけれど、もうすぐ年末ということもあって、たまには実家に帰った方がいいとコウに言われた。わたしも昼までは、その案に乗り気だったのだ。久しぶりに両親の顔を思い浮かべてみたりして、お母さんの作った温かい夕食が食べられると、うきうきしながら着替えを鞄に詰めたりもした。
 けれど、日が傾いて海がオレンジ色に染まり始めた頃から、その気力が減退していった。コウと離れたくない。その思いが、ゆっくりと胸から喉へとせり上がってくるのを感じた。いつもは一緒にいるから気付かないけれど、コウがいないことを考えるだけで、肌が生気を失って、徐々に冷たくなっていく気がした。
 だから、つい、わがままを言ってしまった。
 コウの身体は温かい。二人でいる時、わたしはいつも手を伸ばして、コウの逞しい腕に触れる。そうすると、とても胸が温かくなって、幸せな気持ちに満ちていくのだ。ずっとこの気持ちに浸っていたい。そう思って目を閉じるけれど、現実は非情だ。時間は刻一刻と過ぎていく。
「オマエ、もう電話したんだろ? お袋さんに。親父さんもお袋さんも、オマエの帰りを待ってるぞ」
 分かってる、と、わたしは頬を膨らませた。帰らなければいけないと分かっているし、絶対に帰りたくないと思っているわけでもない。ただささやかな抵抗をしてみたかっただけなのだ。
 コウはそれを分かっているのかそうでないのか全く取り合わずに、わたしの手を握って立ち上がった。
「ほら、バイクで送ってやるから。来いよ」
 うん、と渋々ながら頷いて、わたしたちは一階に下りた。
 コウがバイクのグリップに手をかけたところで、わたしはねえ、と声を上げた。
「コウ。キスして」
 コウは振り返り、またはあ? と言いたげな顔をした。夕日に染まって分からないが、ほんのり顔が赤らんでいるような気もする。卒業式、思いを伝え合って恋人同士になったというのに、コウは未だに恋人同士の行為に全く慣れていないのだった。手を繋ぐくらいのことはできるようになったけれど、それより一歩踏み込んだ行為をするためには、いつも心の準備が要る、と密かに漏らしていたこともある。
「オマエな……」
「だめ?」
 首を傾げると、コウは困った顔で首筋を掻いた。
「へいへい、分かった分かった。ほらよ」
 コウは諦めたようにそう言って、頭の位置を下げた。こうしなければ、わたしよりも遙かに高い身長のコウには到底届かない。わたしはぐっと背伸びをして、コウの頬へと唇を寄せた。触れるか触れないかのぎりぎりのところで、わたしはそっと空気を震わせる。
「三日分くらいのキスしていい?」
 突然声を発したせいか、コウの身体がびくんと震える。あー、とまたも躊躇うような声を出していたが、やがて観念したような言葉が吐き出される。
「好きなようにしろ」
 じゃあ遠慮なく、とばかりに、わたしはコウの頬に口付けした。一旦離れて、もういいのかと顔を上げかけたコウを逃がすまいと捕まえ、今度は唇にキスをする。乾いたコウの唇を唾液で潤すように口付けて、わたしはその隙間から、そっと舌を差し入れてみた。だが突然のことに驚いたのか、コウは思わず顔を離してしまう。そうして物足りないとばかりに上目遣いで見上げるわたしに、深い溜息を吐いた。
「オマエな……もう帰るって時に何やってんだ」
「三日分だから、これくらいしても平気かなって」
 あっけらかんと言うと、コウはやれやれと肩をすくめた。
 時折、わたしは子供のようだと思う。コウを困らせると分かっていても、駄々っ子のように腕にすがりついて、無茶な要求をしたくなってしまう。コウは困った顔をしていても、決してわたしを邪険にしたりはしない。それが分かっているからこそ、わたしはつい、甘えてしまう。
 コウは意地悪そうな顔をして、わたしの額を人差し指で小突いた。痛っ、と声を上げて、目で抗議するようにコウを見ると、コウは先程の困ったような表情から一転、何か悪巧みでもしているかのようにニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「オマエ、分かってやってんだよな? あれがあの合図だ、って」
 あの合図というのは、わたしとコウの間でしか通じない秘密の合図のことだ。提案をしたのはわたしの方なのだけれど、コウも意外と『悪くねぇ』と気に入ったらしく、わたしたちはずっとそれをある合図に使っている。わたしは心の中で、それを密かに“大人の合図”と呼んでいるのだけれど。
「じゃあ、わたしをコウのベッドに連れて行ってくれる?」
 そう言うと、今度は頭に軽くげんこつを入れられた。再び痛っ、と言って、コウを上目遣いで睨み付けると、コウはからからと笑った。
「バカ、連れて行くわけねぇだろ。俺がこれから連れて行くのはオマエの家だ」
「……ちぇっ」
「ちぇっ、じゃねえ。ルカみたいな拗ね方すんな」
 たく、とコウは舌打ちして笑った。そしてわたしの頭を、大きな手でわしわしと撫でる。そうしてもらうのが好きで、ふくれっ面だったわたしの顔は、どんどん緩んでいってしまった。それを見てコウも安心したように笑って、バイクに跨った。わたしもその後ろに跨って、コウの身体に手を回し、ぴたりと身体をくっつける。
 寒いけれど温かい、と思った。コウの背に頬を寄せて、もっと密着したいと腕に力をこめると、コウがバイクのエンジンをかけた。大きなエンジン音が海岸に響き渡る中、わたしは未練がましく、
「じゃあ、コウがわたしの部屋に来る?」
 と言った。聞こえていないだろうと思って独り言のつもりだったのだが、コウは後ろを振り返り、唇の端をきゅっと上げて、
「聞こえてんぞ。却下だ」
 と言い、バイクを走らせた。ちぇっ、とわたしはもう一度拗ねたように小さく舌打ちをして、それから再び温かなコウの背に、顔を押しつけた。
(2010.11.23)
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