眠れ、愛し子よ

 不意にラルクが目を開けた時、未だ部屋の中は闇が満ちていた。
 肌触りの良いシーツの上に手をつきながら、ゆっくりと身体を起こす。隣のベッドにはニコルが眠っていたが、彼は案の定手足を乱暴に投げ出した格好で暢気にいびきをかいていた。
 小さく溜息をついて、部屋の窓へと視線を向ける。窓を開け放して寝ていたために、カーテンが夜風に煽られ踊っていた。ベッドを抜け出し、開け放たれた窓を閉めようとする。入り込んでくる夜風にやや肌寒さを覚えたその時、ラルクは耳に届く微かな歌声に気付いた。
「これは……」
 驚いて窓の外を見やる。夜のカルブンクルスは昼間と打って変わって人気もなく、静寂に満ちていた。しかし、その歌声は未だ響いている。一体誰が、と疑問を浮かべた時、その歌声の正体に気付いて、ラルクは部屋の外へ出ていた。
 宿屋の廊下に佇む人影。窓から差し込む月光に照らされて、彼女の白い肌が鮮明に浮かび上がっていた。桃色の唇から紡ぎ出される、美麗な旋律。目を閉じた彼女の長い睫毛が、歌声に合わせて微かに揺れる。ラルクはしばらく、彼女の美しい歌声とその姿に見入っていた。
 イマジナル・ディーバにして優麗なる歌召術の使い手、リフィア。初めてレテアの森で出会った時、濁竜を鎮めるためのレイスコールを喚ぶ歌を森中に響かせていたことを思い出す。それは夢でも見ているのかと思うくらい、幻想的な光景だった。
 彼女の存在はあまりにも現実とかけ離れていて、ラルクは未だ彼女の姿をはっきりと掴めないでいる。全てを包み込むような優しい雰囲気、穢れなき純粋な彼女の心に、無意識のうちに惹かれつつはあったけれども――
 ラルクの気配に気付いたらしく、リフィアは歌を止めて振り返った。
「ラルク」
「邪魔、しちまったか? 悪いな」
 いいえ、とリフィアは柔らかな髪を揺らして首を振る。
「それより、どうしたの? 眠れないの?」
「いや、なんか目が覚めちまって……そうしたら、お前の歌が聞こえたから」
「そう」
 リフィアは瑞々しい色の唇に、微笑みを浮かべた。ラルクはリフィアの隣に並ぶと、彼女へ視線を向けた。
「今の歌、何の歌なんだ? レイスコールを喚んだ時の歌とは、ちょっと違っていたな」
「これは子守歌よ」
「子守歌?」
「そう。お母様が私に教えてくださったの」
 リフィアはそっと胸に手を当てて、遠くを見るような目つきになった。
「私が眠れない時、いつもお母様が歌ってくださったわ」
「そうなのか」
 ラルクもつられるようにして、母へと思いを馳せる。いつも柔和な微笑みを湛えた、心優しい母。病弱ながらザムエル武藝塾の生徒達の世話をしつつ、ラルクのことも常に優しく見守っていてくれた。母の微笑む顔を見ることが、ラルクの幸せでもあった。
 同時に、自分がまだディアマントにいた頃のことをも思い出し、ラルクの気分がやや沈む。師であるザムエル、母のエレナ、そしてアルスとアデール――二人の幼馴染み達。彼らに囲まれて過ごした日々は、幸せに満ち溢れていた。だが、既にその日々は崩壊している。ザムエルは亡くなり、幼馴染み達はラルクと離れ、ずっと遠いところへ行ってしまった。
 彼らが自分たちと敵対する側についたという事実を、ラルクは未だに信じられないでいた。彼らが剥き出しにする自分への感情に、戸惑いを隠せずにいた。全てを受け止めるには辛すぎて、ラルクは平静を装いながらも心の中のわだかまりを処理できずにいた。
 考えすぎて知らず知らずのうちに顔を伏せていたラルクを、リフィアが横から覗き込む。
「……ラルク?」
 我に返ったラルクは、驚きのあまりうわっ、と声を上げて仰け反った。
「リ、リフィア、驚かすなよ!」
「ごめんなさい。でも、ラルクがとても辛そうに見えたから……」
 長い睫毛を伏せてリフィアが唇を結ぶ。彼女は世間には疎いが、表情の変化や心情の変化に人一倍聡い。かなわねえな、と内心溜息をつきながら、ラルクは下唇を舐めた後、平静を装った。
「別に、何でもねぇよ。俺は平気だ」
「そう? でも……」
 彼女の視線は、自分の顔に注がれている。
「で、でも、何だよ?」
「ラルク、嘘をついているわ」
 何もかも見透かすような黄金色の瞳に見つめられて、ラルクは思わず視線を逸らす。それは、真実だった。辛いのに辛くないと装って、無駄な心配をかけまいとしている。彼女は自分の心を読み取る力でもあるのだろうかと考えた時、リフィアが再び口を開いた。
「あなたが下唇を舐める時、いつも嘘をついているもの」
「えっ……」
 ラルクは顔を上げて、慌てたように自分の下唇に触れた。己の唾液で微かに濡れたその場所の感触を、呆然とした思いで味わっていた。無意識のうちの癖だったのだろうか。今までそんなことを誰かに指摘されたことなど、一度もなかったのに。
「……よく、気付いたんだな」
 ラルクが観念してそう言うと、リフィアはええ、と頷いた。
「いつも、ラルクのことを見ているから」
「……へ、変なこと、言うなよ」
 ラルクは顔に血液が集まってくるのを感じながら、リフィアから顔を逸らす。彼女の言葉に特別な思いがこもっているわけでないことはよく理解しているつもりだが、それでも免疫のない自分の心は、些細な言葉にすら敏感に反応する。心臓に悪い、とラルクは溜息をついた。彼女が悪いわけでは、全くないのだが。
 ラルクは心を落ち着かせて、再び彼女と向き直った。
「辛くないって言ったのは、嘘だな。でも、平気なのは本当だ。こんなところでくよくよ悩んでても、何も始まらねぇしな」
「そうね。これからのこと、ちゃんと考えなくちゃ」
「ああ。アルスとアデールのこと、止めなくちゃな」
「ええ」
 リフィアは頷いて微笑んだ。月明かりに照らされた彼女の肌は思った以上に白くて、華奢に見えた。こんな小さな身体で、よく自分に付いてきているものだと思う。戦闘にはあまり慣れていない様子だが、それでも彼女の紡ぐ歌召術の威力は凄まじいものがあるし、彼女の発する不思議な癒しの力で助けられたことも一度や二度ではない。その上、リフィアはニコルやセシルのように自分に文句を言うこともない。ただただ、――それが本当かどうかは分からないが――自分のために旅に付いてきてくれている。自分に向けられる一途な好意には未だ戸惑うことも多いが、悪い気がしていないことだけは、はっきりとした事実だった。
「なあ、リフィア」
「なに?」
「さっきの歌、もう一度歌ってくれないか。――眠れないんだ」
 下唇を舐めそうになって、慌てて舌を引っ込める。それを知ってか知らずか、リフィアはただ微笑んで、頷いた。
「ええ、構わないわ」
 彼女の視線が月光へと向けられ、同時に唇が震え出す。
 全てを包む優しき母の如き旋律を、ラルクは目を閉じて聴き続けていた。
(2010.3.21)
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