翡翠の瞳

 ――動いた。
 抜けるような青空。微風に揺れる緑の木々。そして、大地を我が物顔で闊歩する魔物達。その翡翠色の鋭い瞳はよく動き、次々とあらゆる風景を映し出した。それに合わせて、リフィアの視線も動く。今度はあちらへ。今度はこちらへ。
 やがて追いつけなくなった時、長い睫毛を伏せて俯く。小さな絶望が生まれ、残った期待を呑み込もうとする。胸が苦しくてたまらない。喘ごうとして、胸に手を当てる。小さく息を吸い込むと、途端にまた、苦しくなった。
「――フィア、リフィア!」
 大きな声で名前を呼ばれ、リフィアははっと我に返った。こちらを向いたラルクが眉根を寄せ、リフィアの方をじっと見つめている。仲間達は既に自分と離れ、先を歩いていた。
「何ボーッとしてんだ。さっさと行くぞ」
「は、はい!」
 慌てて返事をして、彼らに追いつこうと走る。サージュがやや心配そうに、リフィアを見つめた。
「どうしたの、リフィアちゃん。元気ないねぇ」
「いいえ、何でもないの」
「……リフィア、無理はするな」
 オイゲンがいつもの落ち着いた声で気遣う。リフィアはありがとうと微笑んで、彼らの隣を歩き始めた。
 一度離したはずの視線が、また一つの場所へ向かう。彼の瞳。その翡翠に映るは、白い機体。ブレイブセシル号と名付けられたその飛光艇は、ログレスを探し世界中を回るようになったリフィアたち一行を、空を飛び回りどこへでも連れて行ってくれた。
「よし。帝国へ向かおう」
 ラルクが言い、皆が一斉に頷く。元老院のグリーンヒル議長から預かった休戦の親書を届けるため、一行はディアマントに向かう予定だった。
 全員が機体に乗り込んだ後、セシルの操縦で飛光艇が動き始めた。
 その間も、リフィアの視線は隣にいる彼に向かう。彼は飛光艇から見える外の様子を観察していた。その瞳にやや複雑な感情が宿ったのを、リフィアは見逃さなかった。ニコルとの別れ、そしてヴァイスとの再会――彼の悩みは尽きることがないのだろう。リフィアと同じように。
 未だ血の味の残る口の中を舌で舐め取り、リフィアは心の痛みに耐える。これはリフィアだけではない、アデールの痛みでもある。ラルクが好きなのはアデールだ。そう主張しても、アデールは決して納得しなかった。それどころか彼女の渾身の平手打ちを受け、リフィアの頬には強い痛みが残った。これは、避けられぬこと。そして、避けてはならないこと。
 彼への感情をはっきりと自覚した頃から、リフィアは今までに感じたことの無かった幸せに気付いた。同時に、その想いを貫くことの辛さを知った。自分のせいであらゆる厄介事に巻き込んでしまった彼に対する罪悪感。もう一人の恋敵への嫉妬。そして、変わらず彼の傍にいられることの喜び――リフィアは自分の中の急激な心情の変化に、ついていくことができないでいるのだった。
 頬と口の中の痛みは、その想いを制御できなかった結果だ。だから、これは罰。あまりにも無知で、あまりにも無自覚であった、自分への。
「……リフィア」
 いつの間にかラルクがこちらを見つめていた。とくん、と心臓が高鳴る。ラルクは自分の頬をさすりながら、怪訝そうな表情をした。
「俺の顔に、何かついてるか?」
「えっ、いいえ、何も……」
「じゃあ、何か俺に言いたいことがあるのか」
 リフィアは俯いた。
 言いたいことは、ある。けれど、何を言いたいのか分からない。迷っていると、雰囲気を察したらしいレスリーが、紅の引かれた唇に微笑みを浮かべながら言った。
「二人とも、少し向こうの部屋に行ってきたらどう? ラルクもリフィアも、疲れたんでしょう」
「俺は、別に……」
「いいから、ここは素直に甘えておけよ」
 躊躇うラルクをサージュが後押しする。オイゲンも頷いて、無言の合図を送った。セシルは操縦を続けながら、顔だけこちらに向けて言った。
「ディアマントまでもうちょっとかかるから、二人とも休んできなよ」
「……分かった」
 ラルクは頷いて、リフィアに視線で合図を送る。リフィアは操縦室を出るラルクの後ろについていった。


 操縦室の向こうは、機体への出入り口がある小さな部屋となっていた。扉が閉まったのを確認した後、ラルクは再びリフィアの方を向いた。
「それで、俺に言いたいことは何だ?」
「……それは……」
「はっきり言ってくれなきゃ分かんねーよ。……もしかして、アデールたちのことか」
 リフィアははっとしたが、即座に首を横に振った。
「いいえ、違うわ」
「じゃあ、何が――」
「ラルクのこと」
 リフィアが呟くように言うと、ラルクは目を瞠った。
「俺のこと?」
「そう。ラルクが……ラルクは一体、どこを見ているのかしらって」
 ラルクはやや怪訝そうな顔をした。
「俺が見ているもの?」
「ええ。それを追っていたの。だから、あなたを見ていた」
 ラルクは無言だったが、何故そんなことをするのかとでも言いたげだった。リフィアは俯いて、胸の前で小さく手を握る。
 ――俺は、特定の誰かを好きなわけじゃない。
 予想していたはずの答えは、リフィアに思った以上の衝撃を与えた。ラルクが見ていたのは、リフィアでもアデールでもなかった。ならば彼の瞳に映っているのは一体誰なのだろう。あるいは、誰もいないのかもしれない。それをとにかく確かめたくて、リフィアの視線は自然と彼の瞳へと向かっていた。今はラルクへの感情が抑えきれず苦しいばかりだが、それを少しでも軽減できたらと思ってしたことだった。
 リフィアは顔を上げて、未だ怪訝そうな表情の彼へ向かって笑顔を作った。
「ごめんなさい。でも、ラルクが気にすることじゃないの」
「そう、なのか?」
「ええ。私がしたくてしているんだもの」
 ラルクは驚いたように目を見開いた後、頬を微かに赤らめながら視線を逸らした。
「……けど、あんまりじろじろ見るなよな」
「どうして?」
「気になるからだよ。なんか落ち着かねぇし」
 口を尖らせつつ恥ずかしそうに頬を掻く彼の反応を見て、リフィアの心の重荷が少しばかり軽くなった。
 彼は、良くも悪くもいつも通りだった。改めて、自分はそんな彼のことが好きなのだと気付く。敵達に向ける鋭い視線、ぶっきらぼうな口調、敵と分かれば容赦のない剣さばき。そのせいで共和国では死神などと呼ばれているけれど、リフィアは知っている。彼が誰よりも、仲間のことを大切に思っているということを。
 そしてその仲間の中に自分も入っていることの幸せを、リフィアは誰よりも良く知っていた。
「何だよ。嬉しそうな顔をして」
 指摘されて初めて、自分の頬が自然に緩んでいたことに気付く。リフィアはええ、と頷いて、胸に手を当てながら言った。
「嬉しいの。今のラルクの瞳の中に、私が映っているから」
「え……」
 そんなことは当たり前ではないのか、とでも言いたげな彼に、微笑み続けるリフィア。
 彼の翡翠の瞳には確かに、心底嬉しそうな微笑みを浮かべた自分の姿が映っていた。
(2010.3.24)
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