五百年という気が遠くなるような年月を経て、ラルクは再びフルヘイムの大地に舞い戻った。
イーサ神のコアの中で眠り続けた後、目覚めたラルクを待っていたのは、愛しい人リフィアだった。彼女は五百年前と変わらぬ姿で、ずっとラルクの目覚めを待っていたと言ってくれた。彼女への愛情にようやく気付いたラルクは、渾身の力で彼女を抱き締めた。もう決して離さないと誓いながら。
ラルクは彼女の手を握り、暗いコアの部屋から光降り注ぐ大地へと歩みを進めた。
「これが、フルヘイム……」
地上に出た途端、ラルクは思わず目を瞠った。そこに広がっていたのは、心震えるほど美しい大地の姿だった。鮮やかな緑の木々、生命の息吹を感じさせるような小鳥たちのさえずり、そして遠くに広がる、透き通るような蒼海。驚いて口を開いたまま世界を見回しているラルクを見つめながら、横からリフィアが言った。
「私はラルクより少し早くに目覚めたの。でも、すごく驚いたわ。私たちの守った世界が、こんなに美しくなっているだなんて」
「ああ……本当に良かった。俺たちのしてきたことは、無駄じゃなかったんだな……」
「ええ。今はホゾンも無効化されて、神種も現種も共に地上で暮らしているのよ」
ラルクは大きく溜息をついた。
「そうか。良かった……」
安堵しながら、傍らの彼女の肩を抱く。リフィアはラルクを見上げ、微笑みを浮かべた。
五百年間隔てられていた、彼女との再会。といってもラルクは眠り続けていたから、時間が経過したという実感はない。それでも彼女と会うのは、随分久しぶりのことのように感じられた。それだけに、彼女と再会できたことの感動もひとしおだった。
「ねえ、ラルク。私、行きたいところがあるの」
「ん? 行きたいところ?」
リフィアは頬を微かに染めながら、ええ、と頷いた。
「ベネトナーシュ。私の故郷に」
彼女の突然の提案を怪訝に思いながらも、特に反対する理由もなかったラルクは、素直に頷く。
「ああ、俺は別にいいが……何か用があるのか」
「ええ。とても大切な用があるの」
リフィアはそう言って、頬を染めたまま俯いた。その表情を窺い、なおも彼女の用について思考を巡らせつつも、ラルクは彼女の乗ってきたという飛光艇に乗り込むと、一路ベネトナーシュへと向かった。
ベネトナーシュは美しき聖都の姿を取り戻していた。ラルクが知るベネトナーシュは都のあちこちで建物が崩れており、歌学省襲撃事件の痛ましい傷跡を残していたが、この五百年で復興を遂げたようだ。リフィアは既に何度か訪れているのか、特に驚きはしていなかった。
ベネトナーシュに着いてすぐ、リフィアは宿屋へ向かった。ラルクもその後をついていく。
宿屋の女主人はリフィアの姿を見て、あら、と微笑みをこぼした。既に彼女はリフィアの用がなんなのか、理解している様子だった。
「リフィアさん。お待ちしていましたよ」
「ありがとう。例のもの、受け取れますか?」
「ええ、もちろん。きちんとお預かりしていましたよ。セシル様から」
かつての仲間の名前がこんなところで出てくるとは想像もせず、ラルクは目を見開く。
「セシル? セシルって、あの……」
「ええ、セシル・ガルシア。私たちの勇者様よ」
リフィアは大きな袋を女主人から受け取りながら、そう言って微笑んだ。勇者様とは、彼女がよく口にしていたフレーズだ。懐かしさを感じながらも、同時に疑問が湧いた。彼女がリフィアに託した物――その大きな袋の中身は、一体何なのか。
こっそりと袋の中を覗き込もうとしたラルクだったが、それに気付いたリフィアにすぐに拒まれてしまう。
「だめよ、ラルク。もう少ししたら分かるから、それまで我慢していて」
「な、なんだよ……わかったよ」
少々がっかりしながら、渋々彼女に従う。リフィアは女主人に礼を言って、宿屋を出た。
次に彼女が向かったのは、ベネトナーシュの教会だった。教会はあの頃と変わらず、穏やかな雰囲気を残したままその場に佇んでいた。
ただ、ベネトナーシュの教会には良い思い出がない。ホゼアにイマジナルの定理を差し出すことを誓わされた場所であり、真実を知ったラルクにコード変換を施そうとした、イグナーツ率いるアイオーン隊に襲われた場所でもある。いつの間にかしかめ面をしていたらしい、隣から覗き込むリフィアの心配そうな瞳に気付いて、ラルクははっとした。
「ラルクはここ、あまり好きではないのかしら」
「ああ……ここにはあんまり、良い思い出がねぇからな……」
「そうね……でも……」
リフィアが少し俯いて、再び頬を赤く染める。
「私には、良い思い出が一つだけあるの」
「良い、思い出?」
思い当たることのないラルクは一瞬うろたえたが、その様子はリフィアにすぐに見抜かれてしまった。
「ラルクは覚えていないのね」
僅かに残念そうな色の混じった声に、ラルクは動揺する。
「い、いや、……ごめん。その……」
「いいの。だってもう、五百年も前のことですもの」
リフィアは微笑んで前を向き、教会の扉を開いた。扉は重々しく軋む音を立てて、ゆっくりと開く。二人はその中へと足を踏み入れた。
そこは祈りの間と呼ばれる場所だった。ステンドグラス窓から陽光が差し込み、床に美しい紋様を描いている。厳かな雰囲気の漂うその場所を見回しながら、ラルクは自然と背筋を正されるような気分になっていた。リフィアは部屋の中央、ちょうど光が差し込んでいる場所で振り返り、ラルクを微笑みながら見つめた。
「覚えている? 聖地ノワーレに行く前、ここに立ち寄ったこと」
「……ああ、そういえば……」
ラルクはようやく思い出した。ノワーレに行く前、ラルクの故郷ディアマントに寄った後、それぞれの故郷にも寄り道しようという話になり、リフィアの故郷であるベネトナーシュに立ち寄ったのだ。
ようやく、記憶の糸が繋がり始める。そういえばここで、セシルやサージュ、レスリーに唆され、無理矢理ある衣装を身に纏わされたことを思い出した。
「そうか……」
「思い出した?」
ラルクはああ、と頷く。
「そういえばここで、花婿の衣装を着たことがあったな」
「そう。ラルクは花婿で、私は花嫁さんの衣装だったわ」
ベネトナーシュの仕立屋で売られていた結婚式用の衣装。それをセシルたちが見逃すはずもなく、ラルクたちはあっという間に生贄にされてしまったのだった。
否、生贄という言い方は正しくないかもしれない。不本意ではあったが、リフィアと共にその衣装を着られることを、決して嫌だとは思っていなかった――
「私、ラルクに好きだって言った後だったから、すごく緊張してしまって」
「はは、俺もだ。あんなに緊張したことはなかったぜ」
言いながら、当時の自分の心情へと思いを馳せる。あの頃は何も分かっていなかった。リフィアが自分に思いを寄せてくれることを知っても、どうすれば良いのかまるで分からなかったのだ。今まで恋愛感情に、自分自身触れたことがなかったせいかもしれない。リフィアのことは憎からず思っていたものの、それ以上の関係になろうなどとは、考えてもみなかった。
そんな自分が、あのような衣装を着させられれば、嫌でも意識せざるを得なくなる。まして、彼女に思いを伝えられた後であったから、尚更のこと。
頬を掻きながら、苦笑を洩らす。自分の過去を振り返るというのはどうにも気恥ずかしいものだなどと、心の中で考えながら。
するとリフィアが抱えていた大きな袋を下ろし、中身を取り出し始めた。彼女が取り出したものを見て、ラルクは目を瞠る。それは明らかに見覚えのある衣装だった。
「それ、どうして……」
「セシルが預かっていてくれたんですって。私たちが目覚めたら、いつでも着られるようにって」
彼女が衣装を差し出し、ラルクはされるがままそれを受け取る。久しぶりに見た花婿の衣装は、皺一つついていなかった。不意に、ラルクの胸が熱くなる。不本意だ、と思うのではなく、心から着たいと感じてこれを受け取れる日が来るとは、思ってもみなかった。
「ラルク、あのね――」
リフィアははにかみながら、上目遣いにラルクを見つめる。
「ちゃんと、してみたいの。愛する人たちの誓いを」
「……ああ」
ラルクは頷いて、リフィアの身体を引き寄せる。
「一緒にしよう。俺とリフィアの誓いを」
「嬉しい……」
リフィアの瞳に涙が光ったのを、ラルクは見逃さなかった。
正装に身を包んだラルクは、しかし落ち着かない気持ちでリフィアを待っていた。妙に肩が苦しい気がして、何度も指でほぐす。靴の踵で床を数回叩くと、ラルクが思わず驚いてしまうくらいの音が、部屋中に響き渡った。
それを数回繰り返した後、教会の扉の軋む音が微かに響いた。
「ラルク、お待たせ」
声と共に教会の扉が開き、ラルクは振り返る。するとそこには、陽光に包まれた白き花嫁――リフィアの姿があった。唇と頬に紅を差した彼女は、長い睫毛を伏せて微笑んでいる。その優麗な姿に、ラルクは心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。美しい、としか表現しようのない姿だった。
おずおずと進み出ながら、リフィアは僅かにヴェールに隠された顔を上げる。
「ラルク……」
「リフィア」
見つめ合い、しばしの沈黙。互いが互いに見とれていた。
やがてリフィアがラルクの隣に並び、沈黙を破る。
「誓いの言葉を言うのだけれど……どちらから、先に言う?」
「ああ……じゃあ、俺から言うよ」
細かなしきたりなどの知識はないものの、ラルクは言葉を考えながら口を開いた。
「ええと……健やかなる時も、病める時も」
隣のリフィアをちらちらと窺いつつ、記憶の断片に残っていたフレーズを口にする。
「リフィアを愛し、守ることを誓います」
「私は」
ラルクの言葉が終わった途端、待ちきれないと言った様子でリフィアの言葉が飛び出す。
「健やかなる時も病める時も、ラルクを愛し、ラルクを助け、生涯変わらず愛し続けることをここに誓います」
彼女の唇がすらすらと紡ぐ言葉に、ラルクは驚きつつも赤面していた。
そういえば面と向かって自分に好意を告白してくれたのは、彼女が初めてだった。好き、と言葉にして伝えてくれたのは、彼女が初めてだった。あの時の自分は戸惑いしか覚えなかったけれど、今は違う。心から、彼女の傍にいることの幸福を感じることが出来るのだ。
「リフィア」
「ラルク」
互いの名を呼びながら、二人は自然と向き合う。
レースのヴェールで隠された彼女の顔を見ようと、ラルクはゆっくりとヴェールを上げる。そうして顕わになった彼女の表情は、無上の幸福に満ち溢れていた。
彼女の肩に両手を置き、微笑みの浮かぶ紅色の唇へ、そうっと顔を近づける。
「――ラルク」
彼女が自分の名を紡いだ直後、その唇はラルクのそれによって塞がれていた。柔らかな感触。まるで彼女が纏う優しい光のようだとラルクは思う。
時が止まったかのように、二人はしばらく陽光の中で口づけを交わしていた。