透魔王国軍との戦いを終えた一行は、疲れを癒すために一時星界へと帰還した。
宿屋や温泉へ向かう者、次の戦のため装備品を整える者、それぞれいる中、レオンは一人でどこへ行くでもなく、ぼんやりと敷地内を歩いていた。先の戦いの疲れはあったが、すぐに宿屋へ行く気にはなれなかった。それに数時間後、王族だけの軍議が開かれる予定となっており、あまりゆっくりする時間もない。
歩いているといつの間にか、白夜の森と呼ばれる場所に来ていることに気付いた。木の葉の間から太陽の光が漏れていて、森の中は明るい。
暗夜王国では考えられない光景だった。暗夜の森は、ただでさえ太陽の光の届かない暗夜王国の中でも最も暗い場所だった。鬱蒼と生い茂った木々が視界を覆い尽くしており、そこに立つ人間の心をも鬱々とさせる。子どもの頃は絶対に近づいてはならない、禁忌の場所だった。だから白夜王国の者が子どもの頃森で遊んだなどという話を聞くと、信じられないと目を丸くしたものだ。
だが、この明るさなら――レオンは納得しながら、木々を見上げて一つ深呼吸をした。清浄な空気が、胸の中に入り込んでくる。
「……あ、あれは」
ふと視線を下げたレオンは、森の奥に一本の木がぽつんと立っているのを見つけた。開けた場所に、根を張って堂々と佇む木――枝葉の間で咲く桃色の小さな花々を見て、レオンは昔読んだ植物図鑑を思い出した。
「サクラ、か」
白夜王国にしか咲かないというその美しい花に、レオンの心は一瞬にして惹き付けられた。レオンの足は、自然とそちらへ向かっていた。
桜の木を根元から見上げ、レオンはいつの間にか微笑んでいた。軍の中に、この花から名前をもらっている白夜の王女がいることを思い出す。確かに彼女の雰囲気は、この花に似ている。美しく可憐で見る者を魅了し、小さく控えめなようでいて、戦場では堂々と振る舞う彼女に。
レオンは桜の幹に触れながら、静かに目を閉じた。
まさか、白夜の人間と共闘することになるなんて、数ヶ月前までは夢にも思わなかった。敵としては手強く、慎重に策を練らねば倒せまいと思っていた相手が、味方にいるという安心感。無論、まだ全員と打ち解けたわけではないが、少しずつ壁はなくなってきているとレオンは感じていた。
特に――レオンは先の戦いで、共に行動した王女の姿を思い返した。短く切り揃えた緋色の髪を振り乱し、天馬の上で薙刀を振るって戦う、勇ましい王女の姿を。
最初は無茶ばかりする王女だと思っていた。敵の中を単騎突撃する姿は、勇ましいと称される一方で、レオンの目にはとてつもなく危なっかしいというふうに映った。己の力しか信じない、そう言い切った王女に対し、理解に苦しむと首を傾げたこともあった。だが、全ては仲間を思うが故――その本意を知ったレオンは、彼女をそれまでと違う目で見るようになった。
危なっかしい人だ、と思うのは今でも変わらない。だからこそ、自分が隣にいて、彼女を助けることができれば。そう考え、先の戦いでは常に傍にいるように努めた。彼女が薙刀を振るう隣で、自分も魔道書を抱え戦った。ありがとう。その度に礼を欠かさない彼女の微笑みに、レオンの心は幾度となく躍った――
レオンは向きを変え、幹にもたれかかり、そのままゆっくりと腰を下ろした。何故だか、この桜の木に触れていると安心した。白夜の人間でもないというのに、どこか懐かしさを感じるせいだろうか。レオンは一つ息を吐いて、身体を幹へと預け目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、その彼女の微笑みだ。レオンの心臓が鼓動を速め、思わず胸に手を当てる。この感情の正体を、レオンは頭でなんとなく理解していた。
「……この僕が、恋、なんてね」
自嘲気味に笑う。
幼い頃、美しい女性に憧れを持った経験はあれど、成長してからそういった感情を持つことはなくなっていた。幼い頃に巻き込まれた妾たちの権力争いに辟易し、男女の恋愛関係に嫌悪感すら抱いていたこともある。端正な顔立ちのレオンは貴族の女性達の黄色い声を浴びることも少なくなかったが、そういった声を、鬱陶しいとも感じていた。
そんな自分が、自ら女性に恋愛感情を抱くことなどないと思っていた。第一王子と違って子孫を残す必要性も低いために、結婚願望もほとんどなかったようなものなのだ。
しかも、相手は敵国だったはずの白夜の王女。自分とはまるでタイプの違う、武を第一とするような男勝りな女性だ。自分で自分の変わりようが信じられないと、レオンは額に手を当てて笑った。
「ヒノカ王女……」
声に出して紡ぐその名が、とてつもなく愛おしいものに感じられる。
『レオン王子』
それに応えるようにして脳内で響いた彼女の声を、ゆっくりと反芻する。
鼓動の高まりと同時に安心感を覚え、レオンの身体から自然と力が脱けていった。
(もう少ししたら、ここを離れねば……)
軍議の時間が迫りつつあることは自覚していたが、それよりも、このまま桜の木の抱擁に包まれていたいという気持ちが勝り、なかなか動くことができない。
もう少し、あともう少しだけ。レオンの意識は先延ばしを続け、そして――
「……オン王子、レオン王子!」
「……ん……」
レオンの瞼がゆっくりと上がっていく。
何か赤いものが見える――刹那、レオンの意識は一気に現実へと戻された。
「うわあっ!」
思わず大声を出してしまい、目の前にいた人物は驚いて身を引いた。レオンは慌てて立ち上がった。咄嗟に後ずさりしようとして、桜の幹に手が当たる。
「ヒ、ヒノカ王女! 何故ここに……」
目の前に立つ彼女は、まごうことなき白夜の第一王女――ヒノカだった。レオンの頬が、一瞬にして赤く染まる。
「貴殿の部下、ゼロから、貴殿がこの辺りに行くのを見たと聞いてな。もう軍議が始まるぞ。私たちも早く向かわねば」
「そ、そんな時間に……!」
どうやらうたた寝をしてしまっていたらしい。欲求に負けて、軍議に遅刻するなど不覚の極みだ。しかも、想い人であるヒノカ王女に、そんなみっともない姿を見られてしまうとは。レオンはあまりの情けなさに唇を噛んだ。
ヒノカは持ち歩いている小さな革の鞄から、いくつか物を取り出した。
「レオン王子が軍議でいつも使用している手帳と筆を持ってきた。あとは地図と……これくらいで準備は大丈夫だろうか?」
「は、はい! ……し、しかし、何故ヒノカ王女がそれを?」
「ゼロに言って預けてもらったのだ。今から戻って取りに行く時間はないだろうからと思ってな」
レオンはあんぐりと口を開けた。変わり者の部下たちのために、主君であるヒノカ自らが装備品などの準備をすることがあるという話は聞いていたが、まさか自分に対してもそうであろうとは――
レオンは愛用の手帳とペン、地図を受け取りながら、崖の上に立たされたような気分になっていた。軍議には間に合うかもしれないが、それ以上に失いたくなかったものを失ってしまったような気がする。
レオンが大きな溜息をついていると、ヒノカはふと視線を上げ、表情を緩めた。
「レオン王子。髪が乱れているぞ。ほら」
その手がすっ、とレオンの髪、そして頭に触れられ――レオンはあまりの出来事に、口をぱくぱくと動かすしかなかった。
薙刀の扱いでマメだらけになっている、と自嘲していたヒノカの手。けれどもその手は女性らしい柔らかさをもって、優しくレオンの金髪を梳かした。一瞬の出来事だったが、心臓を持って行かれたような気分になった。
「ヒ、ヒノカ王女、あなたは……」
ヒノカはそこでようやくはっとした顔になった。
「あ……ああ、すまない。つい、いつもセツナにするように髪を梳いてしまった。暗夜の王子に軽々しくこのような真似をするべきではなかったな、すまない」
ヒノカはレオンから少し離れ、頬を赤らめた。そういう問題ではないのだが、それを指摘する余裕すら、今のレオンにはない。
話を変えるようにして、ヒノカは身体を翻し、少し離れた場所で待っている彼女の愛馬を指した。
「私の天馬に乗ればなんとか間に合うだろう。さあ、レオン王子は後ろへ」
天馬に乗った経験はないが、それ以上に彼女と一緒に乗るという事実は、レオンにはあらゆる意味で耐え難いもののように感じられた。だが、他の選択肢はない。乗るしかないのだ。
ヒノカに誘導され、レオンは彼女の愛馬に跨った。手綱を持つように言われ、ヒノカの後ろから手を回す。
不可抗力で密着したヒノカの身体に、自分の心臓の鼓動が伝わらないかだけが気がかりで、レオンは精神が少しずつ削られていくのを感じていた。
情けなくてたまらない。うたた寝して軍議に遅刻しそうになったばかりではなく、それを起こされ、おまけに準備も整えてもらい、軍議の場所に連れていってもらうことすら、彼女に頼らねばならないとは――
「はあ……」
レオンは天馬で飛行している間、思わず大きな溜息をついた。それを聞いたヒノカはふふ、と笑った。
「レオン王子、随分疲れていたようだな。無理もないか……、先の戦いは厳しいものだったからな」
溜息の本当の原因を勘違いされたのは、救いだと思うべきなのだろうか。レオンが唇を噛み締め俯いていると、ヒノカは言葉を続けた。
「だが……、私は少し、こういう言い方をするのも変かもしれないが……嬉しかったぞ」
意外な言葉に、レオンは思わず顔を上げた。
「う、嬉しい、とは?」
「レオン王子は、もっと完璧な男だとばかり思っていたからな。貴殿もうたた寝をしてしまうことがあるなんて……人間らしいなと思って、少しほっとしたんだ」
「不覚です。あんな無様な姿を、あなたに見せることになるなんて……」
レオンが苦々しい口調でそう言うと、ヒノカはもう一度ふふ、と笑った。
「人間、誰だってそういうことはある。だから、気にすることはない。レオン王子は先の戦いで、敵に突っ込んでいく私をずっと傍で助けてくれていた。だから疲れてしまうのは当然だし……私は、それが嬉しかったんだ。ありがとう、レオン王子」
レオンの心臓がひときわ大きく跳ね上がり、頬が熱くなるのを感じた。彼女の真っ直ぐな言葉は、いつもレオンの胸を打つのだ。崖に飛び込みたくなるような絶望感から一変、温かい気持ちが、胸の奥から溢れ出てくるのを感じた。
「もし、貴殿が良いと言ってくれるなら……これからも私と一緒に戦って欲しいと思っている。私のことが扱いづらいのは、重々承知してはいるが……」
その言葉に否と答えるわけがない。レオンは強く頷いた。
「無論です。これからも、あなたと共に戦わせてください」
「ありがとう。断られたらと思っていたが、安心した」
ヒノカは軽く振り返り、レオンに微笑んだ。
その瞬間、なんとなく、ではなくはっきりと、恋に落ちる音がした。
レオンはああ、と今度は違う意味の溜息を吐いた。彼女に悟られぬよう、天馬の翼が空を切る音に紛らせて。
もうすぐ軍議の場所に着こうかというところで、ヒノカがしかし、と言葉を紡いだ。
「眠っていたレオン王子の顔が、とても気持ちよさそうで……起こすのが躊躇われるほどだった。あんな顔をして眠るのだな、貴殿は」
「ヒ、ヒノカ王女! そのことは、他の人間には、どうか内密にお願いします。僕のきょうだいにも……」
レオンがひやりとして頬を赤らめると、ヒノカはおかしそうに笑った。
「はは、わかった。私だけの秘密、ということだな」
「う……」
レオンは思わず呻いた。
秘密、という言葉ほど甘美な響きを持つ言葉が他にあるだろうか。それを自然に使えてしまうヒノカはきっと自覚がないのだろうが、それにしても心臓に悪い。
これからずっと、こんな思いを抱えていかねばならないのか――
レオンは天を仰ぎ、恋愛などという複雑な感情に惑わされながら生きねばならない自分の身を憂えた。