レオンからの求婚を受け、指輪を受け取ったヒノカ。二人は後日、その旨をリョウマ・マークス両王子に報告した。
二人とも最初は驚いたような顔をしていたが、心の底から祝福してくれた。暗夜と白夜、両国の絆を示す模範として幸せになって欲しい、と。
二人はすぐ、レオンとヒノカの部屋を用意すると言ってくれた。この星界で竜脈の力を使えば、部屋を一つ増やすなど造作もないことだと、即座に手配してくれたらしい。ありがとう、兄さん。レオンが晴れやかな表情で感謝を述べる横で、ヒノカは少し複雑な感情を抱いていた。
夫婦となった二人の部屋を作ってもらえることは、無論、喜ばしいことだ。それは頭では理解している。だが――レオンに気持ちを伝えられてから、まだ数日しか経っていない。恋人という過程を経ないまま結婚に至ったことで、ヒノカはどう振る舞えば良いのか、未だわからずにいた。
レオンのことは愛している。それは確かなのだが、恋愛経験のないヒノカにとって、この状況で早速共同生活を送れというのは、やや勇気の要ることだった。それに――当然、夜は同じベッドで寝ることになるのだろう。そのことを考えるだけで、ヒノカの頭はどうにかなりそうなくらいに熱くなった。
執務室を出たところで、レオンは手を差し出してきた。繋ごう、と言っているのだと、ヒノカは察しがついた。けれど、繋ぐのに数秒逡巡し、それからようやく手を差し出すことができた。
こういうことですら、まだ慣れないのだ。レオンは嬉しそうにしているから、尚更その期待に応えねばと思うのだが、それがすぐにできないことに、ヒノカは罪悪感を感じていた。レオンが堂々と胸を張って廊下を歩く横で、彼の手を握りながら、不安が拭えずにいた。
「ああ……ここみたいですね。僕たちの新しい部屋は」
廊下をいくつか曲がり、階段を上がったところで、レオンは足を止めた。
各個人に割り当てられている部屋よりは大きめの部屋だ。扉の横に、レオン、ヒノカの名前が並んで彫ってある。
ヒノカがぴりりとした緊張に身を震わせる中、レオンは躊躇いもなく扉を開けた。
新しい部屋だから当然だが、部屋の中には最低限の家具しか置かれていない。タンス、ソファ、ローテーブル、そしてダブルベッド。レオンの書物を収納するための大きい本棚も置かれていた。ヒノカは周りを見回した。
「私たちの、部屋……」
「そうです。置きたいものがあれば、ヒノカ王女の好きにしていただいて構いません。僕はこちらの本棚を使わせていただければ」
レオンはそう言って、今はまだ空っぽの本棚に触れた。
「あ、ああ……」
一拍遅れて、ヒノカは戸惑いがちに頷いた。
置きたいものと言われても、特に思い付かない。今まで使用していた自分の部屋も、装備品以外のものは特に何も置いていなかったからだ。あるといえば、先日サクラがおすそわけしてくれた、可愛い野の花くらいのものか――。
そこで、ヒノカが落ち着かない様子でそわそわしていることに、レオンはようやく気付いたらしい。ヒノカを上から下まで一通り眺めた後で、彼女がその視線に気付くと同時に、抑揚のない声で尋ねてきた。
「……ヒノカ王女。僕とここで生活をするのは、気が進みませんか?」
ヒノカはびくりと身体を震わせた。
「い、いや、決して、そういうことは……」
「ですがあなたは、ここに来てからずっと不安そうな顔をしていますね。違いますか?」
やはりレオンに隠し事はできないと、ヒノカは唇を噛んだ。
その反応を見て、図星と確信したらしい。レオンは小さく息を吐いた。
「そうですね。確かに僕らは結婚して間もない。お互いのことも、まだよく知らないことが多い。そんな状態で、僕とここで生活するのは不安……無理もないことですね」
「レオン王子、私は……」
「分かりました。ならば」
レオンはそこで、繋ぎ続けていた手を離し、一歩前へ進み出た。
「ヒノカ王女の気持ちが固まるまで、僕は待ちましょう。それまでは、今まで使われていたご自分の部屋で過ごしていただければ。そちらの方が落ち着くでしょうから」
レオンの突然の提案に、驚いたヒノカは思わず声を上げた。
「レ、レオン王子、だがそれでは――!」
「僕のことは気に掛けていただかなくとも構いません。気の進まないヒノカ王女を、無理矢理ここに留めようとは思わないだけですから」
レオンの背が急に遠くなった気がして、ヒノカは思わず項垂れた。
取り返しのつかないことをしてしまったような気がする。だが、もう後戻りはできない。実際、ヒノカもここで暮らす決心は未だついていない。そんな状態で強引に留まると言っても、レオンにはすぐ見抜かれてしまうことだろう。ヒノカの握った拳が震えた。
「……わかった」
ヒノカは声を絞り出すようにして言った。レオンは変わらずヒノカに背を向け、両手を後ろで組んだまま、微動だにしなかった。
「すまない……レオン王子」
ヒノカの謝罪の言葉にすら、レオンは少しも反応を見せなかった。ヒノカは来る時よりも重い気持ちを抱えたまま、その部屋を後にした。
次の日。
軍議の時間も、食事の時間も、顔を合わせはしたものの、レオンはヒノカを避けるように動いていたため、一言も言葉を交わすことはできなかった。それがヒノカの心を余計に暗くさせた。
目を合わせてすら、くれなかった。夜、ヒノカは誰も待っていない一人の部屋に戻り、溜息をついてベッドに身を放り投げた。
溜息ばかりが出て来る。これでは夫婦になるどころか、そのまま関係が終わってしまいそうではないか。ヒノカは左手の薬指に嵌められた指輪に目をやった。ダイヤモンドが外の月明かりに照らされて、きらりと輝く。
“ヒノカ王女、僕はあなたを愛しています”――レオンからの告白の言葉を思い出した途端、胸が苦しくなって、ヒノカは呻いた。
あの部屋に戻るべきだろうか。だが、今のまま行ったとしても、きっとレオンは自分を受け入れてはくれないだろう。ヒノカはまだ、迷っている。心の準備が出来ないままでいる。このままなら、今日全く目を合わせてくれなかったように、きっと自分を拒絶するだろう。
ヒノカは、リョウマとマークスに言われた言葉を思い出した。白夜と暗夜の絆の象徴として、模範となるべく幸せに――。だが、今のヒノカは、彼らの期待を破り続けている。自分はなんと不出来極まりない人間なのだろう。ヒノカは激しく自分を責めた。
その時――トントン、と扉を叩く音が聞こえ、ヒノカははっと顔を上げた。
「だ……誰、だ?」
「ヒノカ王女。私よ、カミラよ」
ヒノカは驚いて目を見開いた。予想外の来訪者だった。ヒノカはすぐに起き上がり、扉を開けた。カミラは紫の髪を揺らしながら、大きな胸の前で腕を組んで立っていた。
「カミラ王女……何か用だろうか」
「それは、こちらの台詞よ。ヒノカ王女、あなたは何故ここにいるのかしら?」
ヒノカの心の奥がずきんと痛む。カミラが言わんとすることは理解できた。彼女も、自分とレオンの結婚を知っている者の一人だった。当然、二人に部屋が用意されたことも知っている。
「それは……」
「もし、あなたがレオンのことを少しでも想ってくれているのなら、今すぐあの子に会いに行ってあげて。あの子をこれ以上苦しめないであげて欲しいの」
カミラの言葉は、珍しくやや焦っているようにも聞こえた。ヒノカはだが、と俯く。
「今日、レオン王子は一度も私と目を合わせてくれなかった……。もしかしたら、私に愛想を尽かしたのかもしれない」
「違うわ。あの子はきっと怖いのよ。あなたに拒絶されるのが」
「怖い……?」
ヒノカは驚いた。自分を拒絶するような振る舞いをしていたレオンが、ヒノカに拒絶されることを恐れているなどと、にわかには信じがたい話だった。
「あの子は強がりだから。いつだって平気な顔をしてる。でも本当はそうじゃないの、今日の様子を見ていればすぐにわかったわ……」
カミラは胸に手を当てて、溜息をついた。
ヒノカは俯いたまま顔を上げられなかった。彼女の言葉を反芻しながら、何度も何度も考えを巡らせた。ならば、いや、でも。否定の言葉を繰り返した。
「……私は、レオン王子の隣にいる資格など、ないのかもしれない」
しばらく経ってようやく、ヒノカは言葉を絞り出した。無意識のうちに、握った拳が震えていた。
「どうして?」
「私は、彼の求婚を受けておきながら……生活を共にする覚悟を持っていなかった。どう振る舞えばいいのかわからなくて……その迷いの気持ちを、レオン王子に見透かされてしまったのだ。それでも、覚悟を決めきれない私は……彼の傍にいる資格など、」
途中で詰まり、それ以上は何も言うことが出来なかった。目に力を入れていなければ、涙が溢れそうだった。嗚咽を堪えながら、ヒノカは息苦しさに喘いだ。
ヒノカの肩に、優しく手が置かれた。思わず顔を上げると、そこには微笑みを浮かべたカミラがいた。
「そんなことはないわ。今の言葉で分かった。あなたはレオンのことを、本当に愛してくれているのね」
「わ……私は……」
「レオンも、あなたのことを本当に愛してる。だからあなたに拒絶されてしまったと思ったのよ」
カミラは髪を軽く梳いた。
「やっぱりあなたは、レオンのもとへ行くべきだわ。あなたたちに必要なのは、きちんとした話し合い。自分の気持ちを正直に伝えること、よ」
「正直に……」
「そう。今私に言ってくれたことを、そのままレオンに伝えてくれたらいいの」
それは、とても勇気の要ることだった。だが、同時にヒノカは強く思った。やるしかないのだ、と。
ヒノカは思い出した。レオンから求婚された時の、あのむず痒くも幸福な気持ちを。彼から指輪を贈られた時の、天にも昇りそうな高揚を。
まさか自分に求婚する男がいるなどと、しかもそれがレオンであるだなどと思いもしなかったから、最初は戸惑いもしたが、ヒノカは確かにその時、幸福を感じていたはずなのだ。彼と共に歩むこれからの未来を、想像していたはずなのだ。
「ありがとう、カミラ王女。少し、行ってくる」
彼の姉に心からの礼を述べると、カミラはにっこりと笑って手を振った。
「ええ、いってらっしゃい」
ヒノカは廊下を何度も曲がり階段を上がって、昨日作られたばかりの部屋に辿り着いた。
廊下は夜ということもあって静まりかえっている。ヒノカは唾を呑み込みすう、と深呼吸をしてから、扉を叩いた。
「……はい。誰?」
扉の向こうから、レオンのくぐもった声が聞こえてくる。
「私だ、ヒノカだ」
「ヒノカ王女……」
数秒の間の後、扉が開いた。レオンは無表情だった。姉のカミラ曰く、それはそう装っているだけの作り物の表情――だが、慣れないヒノカはややたじろいだ。それでも、怖がっていては先に進めない。ヒノカは勇気を出して口を開いた。
「その。中に入っても、構わないだろうか」
「……ええ。どうぞ。ここはあなたの部屋でもあるのだから、僕に許可は要りませんよ」
レオンは抑揚のない声でそう言い、ヒノカを中に入れてくれた。少し嫌味をきかせたこの言い方も、彼の不安の裏返しなのかもしれないとヒノカは思った。
「で、何か用ですか?」
変わらず抑揚のない声で尋ねてくるレオンに、ヒノカは頷いた。
「昨日は、すまなかった。まず、レオン王子にそのことを謝りたい」
「別に、気にしていませんから」
素っ気ない物言いをするレオンに、ヒノカは首を横に振った。
「昨日は、私の正直な気持ちを話すことができなかった。だから今、ここで伝えたいのだ。レオン王子、私は貴殿を愛している」
「な、っ……」
不意打ちを受けたような格好になり、それまで無表情を貫いていたレオンの顔が一気に紅潮した。
ヒノカは気恥ずかしさを抱えながらもひるまぬよう、心の中で己を叱咤し続けた。
「だが……その、私は貴殿も知っての通り……恋愛というものに慣れていない。だから、夫婦がどのように過ごすか頭で分かってはいても、心がついていかなかったんだ。今でも、共同生活をすることに対して、きちんと覚悟ができているとは言い難い。すまない」
「それは……仕方のないことです。僕もそれは理解しているから――」
レオンの言葉を遮って、ヒノカは力強く続けた。
「だが、ここで諦めるつもりはない。私は……レオン王子ともっと話がしたい。もっと一緒に過ごしたい。レオン王子のことをもっと知って、それから、貴殿の妻になりたいのだ」
「ヒノカ王女……」
紛れもない本心をそのまま伝えられたことに、ヒノカは自分でも驚いていた。
レオンの返事を待つ間、ヒノカは俯いて目を閉じていた。どんな返事が来ようとも、覚悟をしているつもりだった。
やがて――レオンの声が、上から降ってきた。
「ヒノカ王女。あなたの本心が聞けて、僕は嬉しいです」
「レオン王子……」
顔を上げると、昨日までと変わらずヒノカに優しい微笑みを向けるレオンがいた。嬉しそうに、それでいて照れくさそうな彼の表情に、ヒノカは救われた気がした。
「僕は……あなたのことを理解しているつもりで、ちっとも理解していませんでした。頭では、あなたの気持ちの揺れ動きを理解していた。でも、僕は拒絶されたような気がして……それで、あんな態度をとってしまいました。申し訳ありません」
「レオン王子、謝らないでくれ。昨日の私の振るまいを思えば、当然のことだ」
ヒノカは項垂れたレオンの肩を叩いた。レオンは情けなさそうに笑った。
「いいえ。確かに、恋人としての期間もないまま結婚した男と、共同生活を躊躇うのは当然のことです。ですから……」
レオンはそこで顔を上げ、ヒノカと正面から向き直った。
「ヒノカ王女。あなたが良ければ、僕と恋人から始めませんか?」
ヒノカの心臓がとくん、と跳ねる。
差し出されたレオンの手を、今度は躊躇いなく握った。
「ああ。よろしく頼む、レオン王子」
「はい。僕の愛しいヒノカ王女」
そう言って、レオンはヒノカの手を自分の唇に近づけた。レオンの唇の感触が、手からじかに伝わってくる。
突然のことに、ヒノカは驚いてうろたえた。
「な、レオン王子、何を……」
レオンはふふ、と唇の端を吊り上げた。
「このくらいのことでうろたえるとは……あなたは本当に可愛い人なのですね。ますます愛おしくなりました」
「き……貴殿は、そんな恥ずかしい言葉を口にして、平気なのか……」
「特に恥ずかしいとも思っていません。僕はヒノカ王女の恋人なのですから、このくらいの愛の言葉は当然でしょう」
あっけらかんと言ってのけるレオンに、ヒノカはただただ呆然としていた。
「さて……恋人となったのですから、明日は一緒にどこか出かけましょうか。街へ出かけるか、森を散歩するか……ヒノカ王女はどちらがお好みですか?」
「わ、私は……」
次々と飛んでくるレオンの言葉を受け止めるのに精一杯で、返答することができない。
もしかして、これからずっとこんな思いをせねばならないのだろうか。ヒノカはこっそりと溜息をついた。レオンと一緒にいることを願ったのは自分だし、確かに幸せを感じてはいるが、この調子だと、まだまだ心はついていけなさそうだ。
――だが、レオン王子となら……悪くはないのかもしれない。
晴れやかな顔で笑うレオンを見ながら、ヒノカは自然と微笑んでいた。