抱きしめあいましょう

 鬱蒼とした森の中で、一行は透魔王ハイドラの差し向けた透魔王国軍と相対していた。
 木々が空を覆うように枝葉を広げているために、暗夜王国の森にも匹敵するのではないかというほど暗く、まさに一寸先は闇という諺そのものである透魔の森。
 レオンは伴侶であるヒノカと共に森の中を進んでいた。進軍前、リョウマ、マークス両王子より、くれぐれも単独行動は慎むよう、注意深く進軍するように全軍へ通達があった。言われるまでもなく、レオンは普段通り彼女と行動を共にするつもりであり、ヒノカもそう考えているようだった。
 だが、自分は騎馬、彼女は天馬。進軍の速さはどうしてもヒノカに劣る。
 ややもどかしさを感じつつも、レオンは暗い森の中を突き進んだ。少し先を行くヒノカが突如、あ、と鋭い声を上げる。
「レオン王子! 前方に忍の姿を確認、注意してくれ!」
「了解です。では、もう少し先からならブリュンヒルデが届くか」
 レオンは進軍の速度をやや落とし、暗闇に目を凝らした。よくよく見ると、重なるように生えている木々の先に微かに蠢く影が見える。あれがおそらくヒノカの見つけた忍であろう。
 レオンは手綱を握ってその場に留まり、魔道書を開きながら静かに詠唱を始めた。やがて魔道書から光が溢れ出し、振り上げられたレオンの手に集まり始めた。
 敵の忍がそれに気付いたように視線をこちらに向けた時には、既に遅かった。レオンが向けた指先から光が飛び出して闇を裂き、忍の姿を捉えた。
 その光から鋭く生えた樹木が身体を貫き、周囲に血しぶきが飛び散る。忍から発せられる断末魔の声を聞きながら、レオンは唇の端に笑みを浮かべた。
「大したことはないね」
 その様子を空から見ていたヒノカが、安堵したように微笑む。
「さすがだな、レオン王子。いつもながら鮮やかだった」
「いえ。ヒノカ王女が先に見つけてくださったおかげですよ」
 レオンも微笑みながら目配せした。
「さて……今のところ、私の視界の範囲には敵の姿は見えないが……レオン王子は何か感じるか?」
 ヒノカが周囲を見回しながら尋ね、レオンも神経を尖らせ周囲の気配を窺う。が、特に敵の気配、殺意は感じられない。この周辺は一通り敵の殲滅が終わったことになる。
 森の外側から二手に分かれ進軍しているリョウマ隊、マークス隊のどちらかと合流すべきかなどと考えていると、ヒノカがそれを遮るように声を上げた。
「む、何かあちらに蠢くものが……」
 驚いたレオンがヒノカと同じ方向へ目を向ける。が、地上からでは視界が限られ、何があるのかは確認できない。レオンが言葉を次ぐ前に、ヒノカが天馬の手綱を握り直した。
「新たな敵かもしれん、少し偵察に行ってくる」
「!? ヒノカ王女、待っ――!」
 果たしてレオンの言葉は届いたのか届いていないのか――ヒノカの天馬が大きく羽ばたき、レオンの視界から、ヒノカの姿はあっという間に見えなくなってしまった。
 以前から単騎突撃が多く危なっかしさの残るヒノカではあったが、まさかこんな時にまで、とレオンは唇を噛む。あれほど進軍前、単独行動は慎むようにと言われていたのに。
 だがあれこれ考えている時間はない。レオンもヒノカの向かった先へ急ぎ馬を走らせた。
 すると少し先で、確かに何かの蠢く気配があった。と――その時、暗闇の中に立つ敵兵を確認し、レオンは思わず大声を出していた。
「ヒノカ王女! 引いてください!」
 弓兵が、矢の先を空に向けていたのである。レオンもつられて空へ視線をやり、天馬とヒノカの赤い髪が見えたところで、魔道書を開き詠唱を始めた。間に合え。レオンは祈った。天馬武者にとって弓は天敵である。まともに攻撃を受けたら、致命傷を負うのは間違いない――
 だが――ヒノカが気配に気付き身体を翻すのと、弓兵が矢を放つのが、ほぼ同時だった。
「うわあああっ!」
 愛しい人のつんざくような悲鳴が、レオンの鼓膜を激しく震わせる。
 矢は天馬の翼を貫き、上に乗っていたヒノカは体勢を崩し落馬した。レオンは慌ててその場へ向かったが、彼女は激しく地面に叩き付けられた後だった。
「ヒノカ王女!」
 その声で、弓兵がこちらに気付き矢を向けてくる。なめるな、とレオンの全身の毛が逆立った。ブリュンヒルデの魔道書を持つ手に力が入る。レオンの口から吠えるような詠唱、刹那、弓兵の立っていた地面から無数の枝葉が飛び出し、四肢を、そして心臓を貫いた。
 弓兵の悲鳴は、もう耳に入っていなかった。レオンは馬から下りると、ヒノカの元へと向かった。
 ヒノカはうつぶせになり、ぐったりとして動けないでいた。レオンは彼女の身体を抱き寄せ、仰向けにし、心臓に耳を当てた。鼓動が聞こえる。ひとまずは安堵しつつも、レオンは空を見上げた。誰か。周りに味方はいないものか――
「どうしたの!?」
 ドラゴンの翼が空を切る音が聞こえ、レオンは姉のカミラがこちらへ向かってきていることを確認した。カミラはおそらく一連の悲鳴を聞きつけてきたのだろう。レオンは叫んだ。
「姉さん! エリーゼか、サクラ王女か……とにかく衛生兵を! ヒノカ王女が!」
 弟の腕の中でぐったりとして動かないヒノカ、その傍に倒れている天馬を見て、カミラは全てを悟ったようだ。頷き、即座に身体を翻した。
 彼女が早く衛生兵を引き連れて来てくれることを待ち望みながら、レオンは腕の中のヒノカを、強く強く抱き締めた。


 リョウマ、マークスへの報告を終えたレオンは、ヒノカを連れて先に星界へ戻るよう命じられた。透魔の森に潜んだ敵の殲滅は既にほぼ終了しており、レオンは言葉に甘えて、未だ目を覚まさないヒノカを連れ、星界へと戻った。
 あの後、カミラと一緒に駆けつけたエリーゼ、サクラが杖で癒しを与えてくれたものの、落馬し地面に叩き付けられた傷はそう簡単に癒えるものではなかった。私たちの杖はいわば応急処置のようなものなので、とサクラは涙目になりながら姉のヒノカを見つめて言った。
 これ以上杖を使用すれば、彼女たちの疲労も重なる。レオンは二人にもう十分だ、と感謝の言葉を述べた。細かな傷は癒えたし、何より彼女の心臓が動き息をしているという事実は、レオンを少しばかり安堵させていた。
 星界に戻ると、残っていた城の侍女たちに声を掛け、ヒノカを自分たちの部屋へと運んだ。
 医者が来て、意識が戻らないのは、頭を強く打ったせいだろう、と告げた。命に別状はないが、しばらくは安静にするように、と言い残し、帰って行った。
 レオンはベッドに横たわるヒノカの傍で、彼女を見つめていた。ヒノカの表情は穏やかだった。すう、すう、と息をしている彼女の前髪を、指でそっと払う。
「全く……大馬鹿者だよ、あなたは」
 レオンの口から言葉が出る。一度溢れ始めると、止まらなくなった。
「あれだけ単独行動は慎めと言われたのに。僕が傍にいたのに、僕に何も相談せずにあんな無茶なことを……」
 レオンは無意識のうちに立ち上がっていた。
「あなたは己の力しか信用しないと言ったが、じゃあ、僕は? 僕の力すらも信用していないというのか! 僕はあなたの何なんだ、一体……何なんだ」
 最後は消え入りそうな声になる。レオンは腰を下ろし、深く溜息をついて、俯いた。
 ヒノカは、かつて、己の力しか信用していないと言った。仲間に頼りすぎるのは怖い、ならば自分が先陣を切って行く方がましだ、と。そんな仲間思いの彼女に惹かれたのは他でもないレオンだ。レオンからすれば無茶な行動の多いヒノカを、傍で支える覚悟もあった。
 だが、先程のように、彼女にぴったりついていくことが不可能なことも大いに有り得る。その状況を分かっていたはずなのに、彼女は一人で敵の元へ向かっていった。その行動の意味するところは、一体何だというのだろうか。
 レオンは無力感に襲われた。いくら彼女を守る、彼女を支えると言っていても、あんなふうに一人で行かれては傍にいることもできないのだ。彼女は自分を信用してくれていないのだろうか。
 レオンはもう一度彼女に手を伸ばしかけ、しかし、触れることは躊躇われた。
 彼女の左手の薬指に光る指輪に視線を落としたレオンは、息苦しさを覚え思わず喘いだ。
 彼女は自分の求婚を受け入れてくれたが、いきなり夫婦となるのは抵抗があり、二人は恋人として関係を始めたばかりだった。だからこそ、不安になる。本当は、まだ自分にきちんと心を許してくれていないのではないか。指輪は彼女が約束を受け入れてくれたからそこにあるというだけで、彼女との絆を、確かに保障してくれるものではないのだ。
「僕は……」
 レオンは頭を抱え、目を強く閉じた。


 それから、どのくらい時間が経っただろうか。
「……ん……」
 微かに声が聞こえた気がして、レオンははっと顔を上げた。
「ヒノカ王女? ヒノカ王女!」
 大きな声で呼びかけると、ヒノカの瞼が少し震え、ゆっくりと上がっていった。夕陽を思わせる濃い橙の瞳が、ゆるりとこちらを向いた。
「……レオン……王子……?」
「ああ……良かった」
 レオンは思わずヒノカの手を強く握っていた。
「い……痛い、あまり握らないでくれ……」
 そう言われて、力を込めすぎていたことに気付いて慌てて離す。ヒノカはぼんやりとしたまま、レオンを見つめていた。
「私は……」
「記憶にありませんか? あなたは敵を深追いして、それで」
「……あ……ああ……そういえば、下に弓兵がいて……」
 記憶を辿りながら身体を起こすヒノカを見ながら、レオンの中で一旦沈静化していた怒りが、ふつふつと蘇ってくるのを感じた。その怒りは弓兵に対してもそうだが、またヒノカに対しても向いていた。
「何故、あんなことをしたんですか」
 レオンは目を細め、ヒノカを睨むように見つめた。
「あんなに単独行動はするなと言われたばかりだったでしょう。僕も傍にいたのに、何故相談してから動かなかったのですか。僕はそんなに頼りない男ですか? 僕の力は、そんなに信用できませんか?」
 ヒノカの表情が曇った。
「レオン王子……私は……」
「あなたは仲間に頼りすぎるのが怖いと言いますが、では、その仲間の気持ちは考えたことがありますか? 一人で突っ込んで行ったあなたを助けることも敵わず、目の前であなたが倒れるのをただ見ているしかできなかった者の気持ちを、考えたことがありますか!」
 言葉が迸って止まらなかった。ヒノカは驚いたように、大きく目を見開いていた。
 レオンは肩を上下させながら、立ち上がってヒノカを見下ろした。言葉を続けようとして、しかし、彼女の戸惑いの瞳を見て躊躇った。
 僕はあなたの何なんだ。その問いを、ぐっと喉の奥に押し込める。
 ヒノカはやがて目を伏せて、ぽつぽつと話し始めた。
「……すまない。何かが見えたと思ったら、無意識に身体が動いていて……今まで、そうするのが私のやり方だったから。その癖が抜けていなかったんだ」
「それで、一人で突っ走ったと?」
「私が先に敵の動きを観察して、レオン王子が少しでもやりやすくなればとは思っていた。だが……結果的に、レオン王子の足を引っ張ってしまったのだな。本当に、すまなかった」
 ヒノカは小さく溜息をついた。
 だが、ヒノカの謝罪で溜飲が下がるかと思いきや――むしろ、レオンの心は怒りのような激情で更に燃え上がった。
「そんなことが聞きたいんじゃない」
 レオンはすっと腰を下ろし、ヒノカにぐいと迫った。そして――喉に押し込めていた言葉を、解放させた。
「僕のことを何だと思っているんだ? ただの非力な、守るべき仲間? あなたと違って魔道を使うから? あなたのような薙刀も振るえない、頭でっかちなだけの役立たずだと?」
「そ、そんなことは!」
「なら、何故頼ってくれない! 僕に少しでも相談してくれていたら、二人で最良の策を考えることもできただろう。敢えてその場を引き、他の隊と合流するという判断もできた。なのにどうしてそれをしなかった? 無意識にとは言うが、それはつまり、僕のことを信用していなかったということじゃないのか!」
 いつの間にか敬語という鎧が取れ、心に押し込めていた言葉がそのまま口から迸っていた。ヒノカは驚いたような目でレオンを見つめていた。レオンも負けじとそれに相対した。彼女の口からはっきりとした言葉を聞くまでは、動かない。その構えでいた。
 やがて――ヒノカが、ゆっくりと首を横に振った。
「違う……信用していないわけがない。私が一番信用しているのは……レオン王子、貴殿のことだ」
 ヒノカははっきりと言い切った後で、俯いた。
「だが、私は不器用すぎるのだろうな……人に頼るのが怖いというより、下手なんだと思う。私は一人で突っ走るつもりなどなかった。レオン王子の役に立ちたい、その一心だった……だが、結果は見ての通りだ。私が浅はかだったのは、心から謝罪する。許してくれ、とも、今は言うべきでないのかもしれない……」
 ヒノカはそう言って、申し訳なさそうに視線を逸らした。
 レオンの中の激情が、少しずつ沈静化していくのを感じた。この人は、あまりに不器用なのだ。恋愛に関しても、それから、人と人との関係に対しても。
 レオンは急に、ヒノカが愛おしくなった。思わず手を回し、彼女を抱き寄せていた。
「ちょっ、レオン王子……っ」
 彼女の戸惑いの言葉も意に介さず、レオンはヒノカの身体を強く抱き締めた。戦姫と呼ばれるだけあって鍛え上げられてはいるが、男性のレオンに比べると肩幅が小さく丸みを帯びたヒノカの身体が、とてつもなく愛おしかった。
「ヒノカが……無事で、良かった」
 その言葉を告げた途端、レオンの目から涙が溢れそうになり、慌てて目をきつく瞑った。ヒノカが一瞬間を置いて、戸惑いがちに言葉を発した。
「す……すまない。心配をかけて……」
「死んだらどうしようかと思った。命に別状はないと言われても、このまま目を覚まさなかったらと……僕にはあなたしかいないのに」
「レオン王子……」
 ヒノカの呼びかけに、レオンはかぶりを振る。
「もう、王子、なんて他人行儀な呼び方はやめてくれ。レオンでいい。僕たちは夫婦なんだから……それが嫌なら、今すぐ指輪を外して、僕に突き返してくれればいい」
 すると、抱き締められるばかりだったヒノカが少しずつ腕を上げ、レオンの背に手を置いた。レオンの心臓が跳ねる。ヒノカはそのまま、ぎこちない動きながらも、レオンの胸にゆっくりと身体を預けてきた。
「嫌だ、この指輪は死んでも離すものか。私はずっと、レオンの傍で生きていたい」
 普段は聞けない、彼女からの真っ直ぐな言葉に、レオンの心臓は更に速く脈打つ。それは間違いなく、幸せな鼓動だった。彼女もこの鼓動を感じているに違いないと、確信に近い思いを抱いた。
「これからは、一人で行かないと約束してくれ。いつでも、何があっても僕を頼ると、ここで誓って欲しいんだ」
「ああ……分かった。これからはレオンを頼る。本当に、不器用な人間ですまない」
 胸の中で俯いたまま申し訳なさそうに謝るヒノカに、レオンは微笑みながら首を横に振った。
「その、あなたの不器用なところが好きなんだ。何事にも一生懸命で、誰よりもがむしゃらに頑張ってるのは、僕が一番良く知ってる。だから、あなたが一人で突っ走りそうな時は、僕が身体を張ってでも止めるから。それでいいね?」
「ああ。そうして欲しい。レオンになら、安心して任せられる」
 ヒノカは小さく笑い、レオンの胸にもう一度頭を預けてくる。
 レオンは胸の中の愛おしいぬくもりを、強く強く抱き締めた。
(2016.4.10)
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