口付けを交わしましょう

 先の戦いで天馬から落馬し、星界の拠点にて静養することとなったヒノカは、自分個人の部屋から、レオンとの夫婦の部屋へと住まいを移した。自分が看病をするのに都合が良いとレオンが主張したこと、またヒノカもそれに異論はなかったことから、その案はすぐさま実行に移された。
 初めての共同生活。結婚した当初は不安しかなく、一時は個人の部屋に戻っていたヒノカだったが、レオンとの様々な触れ合いを経た今は、彼が自分の傍にいてくれることが何よりも心強いと感じるようになっていた。レオンもヒノカを気遣ってか必要以上の触れ合いはせず、適度な距離を保ってくれていた。
 落馬した直後、サクラとエリーゼが必死になって杖で癒してくれていたおかげか、ヒノカの回復は早く、懸念されていた頭部打撲による影響もみられなかった。
 数日後の診察で、医者にもう大丈夫だろう、と言われた後、二人は思わず安堵の溜息をついた。
「良かった。ヒノカが元気になってくれて嬉しいよ」
 ベッドで身体を起こしていたヒノカの右肩を抱くように、すっと手が置かれる。レオンの手だった。ヒノカは左側に立つ彼を見上げ、微笑みながら右手で彼の手を握った。
「心配をかけてすまなかったな、レオン」
「本当だよ。僕がどれほど心配したか」
 唇の端を吊り上げて皮肉混じりに笑うレオンに、ヒノカは重ねてすまない、と言った。レオンは腰を下ろしてベッドの端に座ると、ヒノカの肩を抱く手に力を込めた。
「いいんだ。あなたが僕の傍で笑っていてくれたら、僕はそれだけで満足だから」
「ああ……」
 レオンがヒノカの肩を軽く引き寄せ、ヒノカはそのまま自然に、レオンの肩に頭を預けていた。以前なら慣れないせいで、こういった触れ合いをすんなりと受け入れられないことも多かったが、今はほとんど抵抗がなくなった。
 怪我をした後、彼にきつく抱きしめられてから、ヒノカはレオンの温もりを知ってしまった。以来、ヒノカの中で、どうにも手放せないものになってしまったらしい。気恥ずかしさは若干残しつつも、彼との触れ合いに喜びを感じるようになった。どころか、自ら求めたくなることすらあって、それを素直に出しても良いのかどうなのかということが、ヒノカの目下の悩みとなっている。
 レオンは青空の広がる窓の外を見つめながら言った。
「ヒノカが外に出られるくらい元気になったら、行きたいところがあるんだ。一緒に行ってくれるかい?」
「ああ、もちろんだ。レオンと一緒なら、どこでも行こう」
「良かった。なら、準備をしておかないと」
 何の準備なんだ、と視線で尋ねたヒノカに対し、内緒だよ、と言わんばかりにレオンが気障なウインクを寄越す。
 それ以上尋ねるのも野暮のような気がして、ヒノカは何も言わず、再び彼の肩に頭を預けた。


 その翌日から、ヒノカは部屋の中で少しずつ家事をするようになった。不得意な料理の克服――はひとまず置いて、洗濯、掃除、レオンの持ち物の準備など、できることから始めていった。無理はしなくてもいい、と言いながらも、ヒノカがそうして家事をしているのを、レオンは嬉しそうに見つめていた。
 この頃から、レオンはよく街へ行くようになった。用件を尋ねても、買い物、としか答えてくれなかったのだが、レオンが何かを買って帰ってくることはそれまで一度もなかった。不審に思いながらも、ヒノカは必要以上の追及はしなかった。
 それから数日経ったある日、レオンはようやく、何かを買って帰ってきた。手のひらより少し大きめの木箱に入ったその“何か”を、レオンは自分の書斎机の引き出しに、鍵を掛けて大切そうにしまった。
「何だ、それは?」
 ヒノカが尋ねても、レオンは素知らぬ顔をした。
「何でもないよ」
 ヒノカの頭上には疑問符が踊ったが、こういう時のレオンはきっと何も答えてくれないだろう――。
 中身が何かを考えようにも、箱には何も書いていなかったから、それ以上の手がかりは何もない。考えるだけ無駄だな、と、ヒノカは中断していた洗濯物の整理を再開した。
 レオンは自分の本棚を眺めながら、何気ない口調でヒノカに尋ねた。
「ところで、ヒノカは明日の夜、何か予定はある?」
「ん? いや、特には……」
「よかった。なら、夜は空けておいてくれないかな」
 ヒノカは顔を上げてレオンを見た。レオンは唇の端を吊り上げて笑っていた。
 あの気障な笑みは最近見た覚えがある――ちょうど最後の医者の診察があった日だ。もう大丈夫だろう、と言われ安堵したあの日。準備をしておかないと、と言っていたレオンの笑み。
 何かが繋がったような気がして、ただそれが何かは不明なまま、わかった、とヒノカは返答した。
 レオンは満足げな表情で、頷きを返した。


 翌日の朝。
 朝食を終えて、ヒノカは軍議に出席するため出かけるレオンの準備を手伝っていた。ヒノカも本来なら出席すべきだし、そうしたいところだったが、もう少し元気になってから、と強く止めるレオンに押されて、彼の言葉に甘える形となっていた。
 レオンの書斎机の近くで持ち物の点検をしていたヒノカは、ふと、彼の鞄と書類の間に昨日の小さな木箱が置かれているのを見つけた。
 どこかへ持って行くつもりなのだろうか。ヒノカは思わずレオンの方を振り返っていた。レオンはヒノカがあらかじめ準備をしていた服に着替えながら、髪を撫でつけたり法衣を翻してみたり、鏡に夢中になっているようだ。
 隙はある。ヒノカは思わず唾を呑み込んだ。それに手を差し出しかけて、しかし、止まった。人の物を勝手に見るのはどうなのだろうという至極真っ当な、常識的な思いが葛藤を生む。しかし、中身を見てみたい、という人間として当然の欲求が襲う。
 欲求に負けるか、常識を守るか。ヒノカの中で二つの思いがせめぎ合い――そのうちに、レオンがこちらを向く気配があって、ヒノカは慌てたように顔を上げた。
「これでいいかな? どこかおかしなところはない?」
 ヒノカはレオンの全身を眺め回す。と――右肩の鎧のベルトがきちんと締められていないことに気付いた。
「腕の帯がきちんと締まっていないぞ、ほら」
 装着具の中にベルトを通し、軽く締め上げて固定する。レオンは残念そうに、はぁ、と溜息をついた。
「僕としたことが……またか」
 レオンはいつも念入りに服装や持ち物を確認して出かけるのだが、それでも何かしら忘れたり、間違った装着の仕方をしていたりすることが多い。こうして一緒に暮らすようになるまで、レオンは何もかもが完璧な男だと勝手に思っていたが、実はそうでもないらしいことに最近気付いて、ヒノカは密かに微笑ましく思っていた。
 こうした抜けや間違いを指摘するたび、彼の世話を焼いてやらなくては、という思いに駆られる。そう思えることが、ヒノカは嫌ではないどころか、自分が役に立っているようで嬉しいとさえ感じていた。姉として生まれた者の性とでも言うべきだろうか。
 レオンは不満げに鼻を鳴らしていたが、しばらくすると普段の表情に戻った。
「まあ、でも、良かった。ヒノカに見てもらわなければ、このまま出かけてしまうところだったからね」
「ふふ、そうだな。それに、レオン――」
「ん? 何?」
「――いや、なんでもない」
 ずっと心に抱いていた思いを告げようとして、しかし、更にレオンのプライドを傷付けることにもなりかねないと思ったヒノカは、そこで思いとどまった。レオンは怪訝そうな表情でヒノカを見つめてくる。
「何? 気になるよ、言ってくれないと」
「いや、なんでもないんだ。ほら、もうすぐ時間だぞ」
 時計を指して言うと、いけない、とレオンは書斎机の上に置かれた鞄と書斎を取りに行った。
 傍らに書類を抱え、傍らに黒の革の鞄を持ったレオンは、部屋の扉を開けて一歩踏みだした後、くるりと身体をこちらに向けて、ヒノカと相対した。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けて」
「ありがとう。ああ、そうだ――」
 ふと、レオンは思い出したように言った。
「今日の夜のことだけど。夕飯は街に食べに行くから、お腹は空かせておいて欲しいんだ。ヒノカは暗夜料理は嫌いじゃない?」
「ああ、特に好き嫌いはないが……」
「良かった。じゃあ、そういうことで、よろしく」
 レオンはひらりと手を振って、身体を翻してヒノカに背を向け歩き出した。
 その背を見送った後で、ヒノカは一人になった部屋に戻る。
 今までは一人部屋が当たり前だったというのに、レオンが出かけた後に襲われるえもいわれぬ寂しさに、ヒノカは未だ慣れずにいた。孤独感、とでも表現すれば良いのだろうか。広い部屋にぽつんと一人でいると、ついつい溜息が多くなる。レオンのことを考える時間も確実に増えていた。
 早く帰ってきて欲しい。口の中でこっそり、己の願いを呟く。まるで子どものようで恥ずかしくて、本人に面と向かって言ったことは一度もないけれど。
 一つ溜息をついて、それからヒノカは気持ちを切り替えることにした。今日はレオンと一緒に夕食を食べられる。それも、いつもの軍の食堂ではなく、街へ繰り出して、だ。ヒノカの心は自然と躍った。
 ――ヒノカが元気になったら、行きたいところがあるんだ。
 先日のレオンの言葉を思い出した。レオンはきっと、ヒノカの快気祝いをしてくれるつもりなのだろう。
「よし、私も頑張るか」
 ヒノカは気合いを入れ直し、今日の家事に取りかかることにした。


 夕方。
 レオンの帰りを待ちながら、部屋の掃除をしていたヒノカは、何気なくレオンの書斎机に目をやり――その目を大きく見開いた。そこには、あの小さな木箱が置きっぱなしになっていたのである。彼の荷物に挟まれるようにして置かれていたのだから、持っていくつもりだったのだろうが、最後の最後に忘れてしまったようだ。
 今ならレオンの目を心配することもなく中身を見ることができる。が、ヒノカは開けることはせず、それよりも、このままここに置いておいて良いものかと思案を巡らせた。引き出しに鍵を掛けてしまうほどだったから、きっと大切な物なのだろう。ここに泥棒など入ってくるはずもないが、それを机の上に置き晒したままでいるのは、何となく躊躇われたのだ。
 迷った末、ヒノカはそれを自分の茶色い鞄の中に入れた。レオンが帰ってきたらすぐに渡せるように、手元に置いておくことにしたのだ。今日はこの鞄を持って出かけるから、万が一帰ってきた時に渡しそびれたとしても、いずれはどこかで気付くだろう。
 ヒノカはそうすることでとりあえず落ち着いて、掃除を再開した。
 窓の外から差し込む橙色の光が弱くなり、外が闇の色を纏い始めた頃、ただいま、という声が聞こえてレオンが戻って来た。ヒノカは足取り軽く玄関へ向かうと、レオンを出迎えた。
「おかえり。ご苦労様」
「ああ、ありがとう。お腹は空かせておいてくれた?」
「もちろんだ」
 ヒノカは微笑んだ。それを楽しみに今日一日を過ごしてきたのだから当然だ、と言わんばかりに。レオンもそう、と満足そうに笑った。
「早速だけど、もう出かけようと思うんだ。準備はできてる?」
「ああ、いつでも大丈夫だ」
 ヒノカは頷いた。鞄の中身は今日一日で何度も確認した。財布や手ぬぐい、それから以前カミラにもらった化粧品も――。普段は派手な化粧はしないヒノカだが、今日は口紅を引き、頬にはおしろいを塗って軽く頬紅をさした。
 レオンはすぐにそれに気付いたらしい。ヒノカの顔を見つめ、ふっと頬を緩ませた。
「今日のヒノカは綺麗だね。普段ももちろん綺麗だけど、今日はもっと綺麗だ」
「あ……ありがとう。なんだか……言われ慣れていないから、照れてしまうな」
 ヒノカが微かに顔を赤らめると、レオンは嬉しそうに笑った。
「それなら、これからもっと言うようにするよ。ヒノカは世界で一番綺麗だってね」
「レ、レオン、それはいくらなんでも言い過ぎではないか」
「そんなことはない。ヒノカは僕にとって世界で一番の人なんだから」
 もう、と照れながらも悪い気はせず、ヒノカは頬に手を当てて息を吐いた。
 ヒノカはすっかり舞い上がってしまっていて、レオンに返すはずだった木箱の存在が完全に頭から抜け落ちていた。
 鞄の中身を改めて確認することもないまま、ヒノカはレオンの手に引かれ、街へと出かけた。


 レオンが連れていってくれたのは、街の通りに面した、小洒落た雰囲気の暗夜料理の店だった。
 そこの料理長は個人的に白夜料理が好きなのだとかで、暗夜料理を基調としながらも、白夜料理でよく使われるような調味料や素材を使用している料理が多く、ヒノカの舌にもすぐ馴染んだ。元々暗夜料理は好きでも嫌いでもなかったが、これなら食べやすい、とヒノカは舌鼓を打った。
「美味しい」
 シンプルかつ最上級の感想を口にすると、レオンは嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。ヒノカが気に入ってくれて」
 レオンの方はというと、出された料理の中でも味噌が使われている料理については特に目を輝かせていた。以前タクミに味噌汁のレシピを教わってからはたびたび自分でも作っていたが、すっかり味噌という調味料に虜になったようだ。美味しい、と堪能する彼を見て、ヒノカの頬も自然と緩んだ。
 フルコースを食べ終え空腹が満たされたところで、二人は店を出る。それだけでも十分ヒノカとしては満足だったが、レオンはまだ、部屋に戻る気はないようだった。
「ヒノカに見せたいものがあるんだ。少し歩くけど、いい?」
「構わないが。何だ?」
「まあ、いいから。僕と一緒に来て」
 ヒノカの手を取って、レオンは歩き始めた。
 ヒノカは街の中を歩きながら、ふと、初めて二人で街を訪れた時のことを思い出していた。レオンが誘ってくれているのをデートだとも気付かずにただついていって、その鈍さを指摘されたあの時。思い出すと気恥ずかしいような、むず痒い気持ちになる。手を繋ぐことさえ慣れなくてそわそわして、けれども彼の手の温もりが心地よくて、少しずつ強く握り返したのを覚えている。
 短期間だったが、夫婦になってからこれまで色んなことがあった。一緒に暮らすことすら不安で逃げてしまったこと。手を繋いで街を見て回ったこと。そして自分の先走った行動で怪我をし、彼を心配させてしまったこと――。
 先程の食事中、本当に何もなくて良かったと、レオンは繰り返しヒノカに言った。だがそれを何より感じていたのはヒノカの方だ。自分が助かって良かったというより、彼の悲しむ顔を見る羽目にならなくて良かったと、そのことを何より強く思った。レオンがそれだけヒノカの中で大きな存在になっていたことを、その時初めて、はっきりと自覚した。
 いけ好かない男だと思っていた。白夜の人間を見下し、自分の戦い方に余計な口を出す。レオンのように頭と口の達者な男は、ヒノカが最も苦手とする類の人間だった。
 だが、彼は白夜の人間を見下していたのではない。ヒノカの戦い方を否定したわけでもない。状況を冷静に見つめ、分析したことがたとえどんな結果であったとしても、口に出すことを躊躇わないだけなのだ。故に誤解されることも多いが、彼の冷静な視点は、自分の身を省みる上でも大変参考になったと、今振り返って思う。それはきっと、白夜のきょうだいたちも同じことを思っているだろう。
 そんな彼が、ヒノカに惚れたと告白してきたのは、まさに青天の霹靂とも言うべき事態だった。
 武人として、女らしさを捨てて生きてきた自分に惚れる男などいないと思っていた。それなのに――頭の回転の速い男はこれだからわからない、とヒノカは苦笑する。よりにもよって自分のような女を選ぶなど、物好きにも程がある、と。だが、レオンは真剣だった。彼の真剣さにほだされて、ヒノカは指輪を受け取ったのだ。
 戸惑いも大きかったけれど、彼の手を取って本当に良かった。ヒノカは一瞬目を閉じて、それを強く実感した。


 やがて街の外れにある小高い丘に辿り着き、レオンはヒノカを振り返った。
「少し登るけど、大丈夫?」
「ああ、平気だ」
 良かった、とレオンは頷いて、ヒノカの手を引いた。登るとはいっても、なだらかな斜面だし、特に歩きにくい場所もない。既に踏み固められた道がずっと続いていて、そこを歩いて行くだけの話だ。
 少し歩いて、やがて丘の中腹まで来たところで、レオンの足が止まった。ヒノカが戸惑いながらレオンの顔を見つめていると、レオンは唇の端に笑みを浮かべた。
「ヒノカ、後ろを振り返ってみてごらん」
 言われるがまま、ヒノカはゆっくりと身体を翻す。
 ほら――レオンの人差し指に従って顔を上げると、そこにはまるで宝石を散りばめたような美しい星空が広がっていた。街中でも見上げれば見えないことはないが、ここは人工的な明かりがほとんどないぶん、星と月の光がよく映える。夜闇を照らす無数の小さな瞬きの中、煌々と光り輝く一等星が、ヒノカの瞳に強く焼き付いた。
「これを見せたかったんだ」
 ヒノカは感嘆の溜息をついた。美しい星空を見られたこともそうだが、レオンが自分のためにここまでしてくれたことが、何よりも嬉しかった。
「綺麗だな……こんな綺麗な星空は見たことがない」
「晴れてくれて良かったよ。雲もほとんどないし、一面の星空ってこういうことを言うんだろうね」
「そうだな……本当に綺麗だ。ありがとう、レオン」
 ヒノカの目尻の端に、うっすらと涙が浮かんだ。
「ヒノカ。話があるんだ」
 そう切り出したレオンの唇からは、既に笑みは消えていた。彼の真摯な眼差しと相対し、ヒノカは零れ落ちそうになった目尻のひとしずくを人差し指で拭った。
「改めて、僕と夫婦になって欲しい」
 レオンの両手が、ヒノカの両手を上から包み込むようにして握る。ヒノカの心臓が大きく高鳴った。レオンは変わらず、真っ直ぐ自分を見つめている。
「レオン……」
「僕はあなた以外の女性は考えられない。これからもずっと、僕と一緒にいて欲しい」
 ヒノカは込み上げる喜びで胸がいっぱいになりながら、出来る限り抑揚を抑えた声で、レオンに尋ねた。
「本当に、私でいいんだな? 不器用で、家事も料理も上手くできない女でも……」
「僕があなたに望むのは一つだけだ。僕の傍にいて、一生添い遂げてくれること。それ以上は何も望まないよ」
「本当に物好きだな、お前という男は……」
 言葉ではそう言いながら、こぼれる笑みを抑えきれない。レオンはそうだよ、と、開き直ったように肯定した。
「ああ、それから」
 レオンはそう言って付け加えた。
「もう一つ望むことがある。僕に黙って一人で突っ走らないこと。命を大切にすること」
 この数日で強烈に痛感した事実だ。レオンの唇に、いつもの皮肉混じりの笑みが宿る。ヒノカはすまない、と謝りながらも、彼がその条件を付け加えてくれたことに、幸せを感じていた。
「約束する。これからは、私一人の命ではないのだからな」
「その通りだよ。ヒノカの命は僕が半分背負う。その代わり、僕の命も、ヒノカが半分背負って欲しい」
「ああ」
 ヒノカは力強く頷き、それを見たレオンは満足げに微笑んだ。
「それから、ヒノカに渡したいものがある」
 レオンはそう言って、自分の鞄の中を探し始めた。
 が――レオンの表情がみるみるうちに変わり、焦りの表情が滲んだ。ない、と彼が小さく呟くのが聞こえた。
 一体何を探しているのだろうか、と首を傾げかけたところで、ヒノカはようやく思い出した。彼の“忘れ物”を。自分もレオンと楽しい時間を過ごせたことが嬉しくて、すっかり忘れていたのだ。
「もしかして、探しているのはこれか?」
 ヒノカがそう言って自分の鞄から例の木箱を取り出すと、レオンがあっと声を上げた。
「ど、どうしてヒノカがそれを?」
「レオンが出て行ってから、書斎机の上に置きっぱなしになっていたのに気付いてな。渡そうと思ってここに入れていたのに、すっかり忘れていた……すまない」
「そ、それより、中は見た? 見てない……よね?」
 レオンが焦った表情のままヒノカの顔を覗き込んでくる。ヒノカは少し身体を引きつつも、見ていない、と首を横に振ると、ようやくレオンが安堵の溜息を吐いた。
「良かった……いや、全然良くないけど……」
 彼の溜息の色が、安堵から自分への失望へと変わる。俯いたままなかなか顔を上げないレオンを心配そうに見つめながら、ヒノカは遠慮がちに尋ねた。
「それ、何が入っているんだ?」
 レオンはそこで、ようやく顔を上げた。
「本当はこんなふうに渡すつもりじゃなかったのに……」
 レオンはそう言いながら、木箱の蓋を開けた。
 中には飴色のつげ櫛が入っていた。小菊の模様が彫られており、櫛を入れる赤い巾着袋も同封されていた。ヒノカは驚いてレオンを見た。レオンは変わらず、不本意そうな表情のままだ。
 この櫛の意味を、ヒノカは知っている。白夜王国では昔から、男性が女性に櫛を贈り、結婚の約束をするという慣習がある。この櫛には、苦しい時も悲しい時も二人で乗り越え、死ぬまで添い遂げようという思いが込められているのだ。
 指輪は既に贈った後だったから、改めて結婚の誓いをするために、白夜の慣習を調べてまで選んでくれたのだろう。彼がもったいぶって言っていた準備とはこのことだったのだとヒノカはようやく合点がいった。
 対するレオンはむくれた表情のままだった。自分に腹が立って仕方がないのだろう。彼の少し抜けたところが、彼にとっては最悪の形で出てしまったから、当然とも言えるだろうが――。
 ヒノカはそんなレオンが急に愛おしくなって、微笑みながら、レオンの手から木箱を大切そうに受け取った。そのまま、すぐにレオンを抱きしめる。
 な、というレオンの驚いた声が夜空に響いた。
「私はレオンの妻になれて、世界で一番、幸せだ」
 一つ一つの言葉を噛み締めるように言うと、レオンはえっ、と戸惑いの声を上げた。ヒノカはレオンの温もりを引き寄せるように、彼を抱きしめる腕に力を込めた。
「……なんで」
 レオンの震える声が聞こえてくる。
「肝心なところで抜けてばかりの僕に幻滅したって言うなら、まだ理解できるのに」
「レオンにとっては不本意な話かもしれないがな。私はそんなレオンだから、ますます惹かれたんだ」
 レオンは信じられないとでも言うように、大きく目を見開いた。
 頭の回転が速く、冷静に物事を見つめる目と優れた分析力を持つ男。まだ他人だった頃、ヒノカは彼が完璧な人間のように映っていた。ゆえに、近寄りがたさがあった。指輪を渡されたばかりの頃ですら、その印象を拭いきることはできず、だからこそ、彼と生活を共にすることに、喜びよりも不安が大きかったのだ。
 だが、実際に生活を共にしてみると、彼が完璧な人間だという勝手な印象はすぐに崩れ去った。レオンはヒノカの印象を下げたのではないかと毎回不安になっていたようだが、むしろ逆だった。ヒノカは少しずつレオンに親しみに似た感情を抱き、それが次第に愛おしさに変わっていったのだ。
「全く理解できないよ、僕には」
 溜息混じりに呟くレオンに、ヒノカはふふと笑った。
「私のような無骨な女を妻にしたい、などと言う物好きな男に言われたくはないな」
 皮肉を返すと、レオンはむ、と口をつぐんだ。ヒノカは愛しみを込めて、レオンを更に強く抱きしめた。
「完璧な人間などこの世には存在しない。少しくらい抜けていた方が、かわいげがあって良いではないか。私は、少し抜けているレオンの方が好きだぞ」
「なんだよ、それ……素直に喜べないんだけど……」
「そうだろうな。だから今まで敢えて言わなかったんだ」
 今朝も言おうとして、寸前で踏みとどまったのを思い出した。
「それはともかく、私はレオンの気持ちが何よりも嬉しかった。私のために美味しい料理屋に連れて行ってくれて、こんなに素晴らしい星空を見せてくれて、櫛まで用意してくれて。白夜の慣習を、調べてくれたんだろう?」
 レオンは少し間を置いた後、ああ、と頷いた。
「女性に櫛を渡して、死ぬまで添い遂げようって誓い合うという話を聞いたからね。ヒノカに似合う櫛を探していたんだ。昨日、ようやく納得のいくものが見つかったから」
 レオンはそれまで、毎日街を回ってくれていたのだ。ヒノカはあまりの幸福に眩暈がした。こんなに一人の男から思われる女が、世界一幸福でなくて、一体何だというのだろう。
 ヒノカはレオンから離れ、受け取った木箱をもう一度開けて櫛を見つめた。レオンが自分のために選んでくれた櫛。淡い月明かりの下でも、小菊の美しい模様が目を引いた。自然と笑みがこぼれる。そんなヒノカを見て、レオンはおずおずと尋ねてきた。
「それ……気に入ってくれた?」
「ああ、もちろん。私には勿体ないくらいだ」
 ヒノカはそう言いながら、己の炎のような真っ赤な髪を思う。武人になると決めた時からばっさりと切り、以来伸ばしたことのない短髪。櫛を入れるには物足りない髪かもしれないと思うと少し寂しくなったが、レオンはそれを否定するかのように、首を横に振った。
「いいや、勿体ないなんてことはない。僕がヒノカに一番似合うと思って選んだんだ、似合うに決まってるよ」
 ヒノカはありがとう、と微笑むと同時に、目尻にうっすらと涙が浮かぶのを感じた。溢れすぎた幸福が涙となって、ヒノカの頬を優しく伝う。
 レオンは心配そうにヒノカの顔を覗き込んだ。
「泣くなよ。悲しいのかと勘違いするじゃないか」
「すまない……でも、嬉しくて。止まらないんだ」
 ヒノカの頬へ一つ、また一つ、雫が伝う。止まらない涙を少しずつ指で拭っていると、やがて、レオンの顔が少しずつ近づいていることに気付いた。
「ヒノカ、」
 名を呼び、息を一つ吐き出した後――我慢できないとでも言いたげに、レオンの唇が、やや強引にヒノカの唇を奪った。
 一瞬の出来事に、ヒノカの涙が止まった。目を大きく見開いたまま、しばらく固まる。レオンの温もりが唇から直接伝わってきた。ヒノカの心臓の鼓動の音が大きくなる。
 それから、どれくらい時間が経っただろう。レオンの唇が離れると同時に、ヒノカは大きく息を吐き出した。心臓がまだ激しく脈打っている。生まれて初めての口付けだった。突然すぎて、受け止めている心の余裕など、これっぽっちもなかったけれど。
「僕は自分が物好きだなんて、少しも思ってないけど……それでも、あなたのことが好きになってしまったんだから、仕方が無いじゃないか」
 言い訳をするような口調で話すレオンの頬は、ほんのり赤らんでいた。彼の唇の端にヒノカの口紅が付着しているのに気付いた時、ヒノカの心臓がまた一つ大きく跳ねた。
 自分の顔を見つめたままのヒノカに気付いたレオンは、慌てたように、先程の言い訳めいた言葉を否定した。
「ああ、いや、違う。僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて」
「いいんだ、レオン、分かっている」
 ヒノカはそう言って、櫛の入った木箱を鞄の中にしまうと、レオンの頬に触れた。指先から伝わる温もり。愛おしむようにそっと撫でながら、ヒノカは微笑み溢れる唇から歓喜の息を吐き出した。
「ヒノカ。命の終わるその日まで、僕と共に生きてくれ。何があっても僕の傍で、ずっと笑っていて欲しいんだ」
 レオンの真摯な瞳に見つめられ、ヒノカは思わず吸い込まれそうになる。
「答えを聞かせてくれ、ヒノカ」
 問われずとも、ヒノカの答えなど決まり切っていた。
「私も同じ気持ちだ。命尽きるその時まで、レオンの傍で生きていたい」
 レオンはたまらないとでも言うように、ヒノカの身体をめいっぱい抱きしめた。ずっと欲しかった温もり。ヒノカはレオンの背に手を回し、その温もりを手繰り寄せた。
「……幸せすぎて、どうにかなってしまいそうだ」
 レオンの呟きに、私もだ、とヒノカは柔らかく笑う。
 ややあって、二人は少し離れて見つめ合った。
 互いの瞳に吸い込まれるようにして、再び、二人は顔を近づけていた。今度は一方的なものではなかった。優しく触れ合う唇と唇。互いが互いの温もりを求めて、何度も何度も、その儀式は繰り返された。唇が濡れ、吐息が洩れ、唾液が滴った。
 息苦しさを覚えるほどに繰り返した後、ようやく、二人の顔が離れた。レオンの頬はすっかり上気しており、そんなレオンを見つめるヒノカの瞳はかすかに潤んでいた。
 もっと、ほしい。二人の共通した思いが、瞳と瞳で通じ合う。
「帰ろうか」
 レオンから差し出された手を握り、二人は指と指を絡め合う。
 元来た道を歩きながら、ヒノカは愛おしい男の肩へと、己の頭を預けた。
(2016.4.30)
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