光に手を伸ばした

 胸の奥に眠る、間違った感情に気付いてしまったのは、一体いつからだったろう――。
 自室の扉を開ける前、レオンは一瞬躊躇って、伸ばしかけた手を下ろした。瞼を閉じ、しばし、過去へと思いを巡らせた。
 姉のカミラは、いつも優しい目をしていた。慈愛に満ちた瞳で、レオンを見つめていた。
 最初は、彼女に、母を求めた。実の母から母親としての愛情を注いでもらえなかったレオンは、母の愛に飢えていた。自分の全てを受け入れ、愛してくれる存在。カミラはレオンの欲しいものが分かっているかのように、無上の愛を注いでくれた。砂漠の旅人がオアシスで一心に水を啜るように、レオンはカミラの愛を求め続けた。
 年を重ねていくごとに、レオンの中で、その関係が次第に変化を遂げた。母ではなく、彼女を女性として意識するようになったのだ。最初、こんな思いは抱いてはならないものだと、必死に心の中へ閉じ込めていた。けれども――抑えきれなくなり、カミラの腕の中へ飛び込んでしまった日のことを、レオンは今でも鮮明に覚えている。
 どうしたの。カミラはいつもと変わらぬ笑顔でそう問いかけた。姉の微笑みが、降ってくる吐息が、触れている肌が、全てが愛おしくてならなかった。レオンは一線を越えたくなるのをなんとか堪えながら、血が滲むまで唇を噛み締め、沸き上がる欲情を殺した。
 そこまで思い返して、レオンの眉間に皺が寄る。心の奥が疼く。ああ、と溜息をついた。思い出せば思い出すほど苦しくなる。自分はどうかしていた。それでもその時残った鋭い爪痕が、レオンの心からいつまで経っても消えやしないのだ。
「……ああ……」
 レオンは軽く頭を振り払った。
 勢いに任せて扉を開ける。淡い闇に包まれ、静まりかえった自室を軽く見回して、先程資料室で借りてきたばかりの本を数冊、自分の書斎机に置いた。今日、それに目を通す気にはなれなかった。レオンはそのまま、寝室へと向かった。
 そこには既に、愛しい人が布団にくるまって眠りに就いていた。レオンは起こさないようにそっとベッドに腰掛け、小さく寝息を立てる彼女の真っ赤な髪を、指先で撫でた。
 かつては敵国の王女だった人。そして、カミラと同じく絶対的存在の兄を持ち、弟と妹を常に気に掛ける、“姉”としての役割を与えられた人――
 姉以外の女性を女性として見たことのなかったレオンにとって、彼女の存在を意識し始めたことは、革命とも言える出来事だった。カミラとは全く違うタイプの女性だったが、その勇ましさと優しさ、芯の強さに、レオンの心は強烈に惹かれた。それと同時に、レオンは安堵感を覚えていた。もう、実の姉に欲情し、間違いを起こすこともなくなる――
 それなのに。レオンは俯いた。様々な思いが一気に脳内を駆け巡り、レオンは、昼間目撃した光景を思い返していた。


 明日の進軍に備え、天幕へ装備品を取りに向かったレオンは、中に先客がいることに気付き、足を止めた。そっと様子を窺うと、そこには愛しい人――白夜王女ヒノカと、その兄リョウマがいた。
 彼らは武器や傷薬などを手に取りながら、何やら楽しげに話をしていた。レオンは、全く悪気はなかったのだが、何となくそのまま入っていく気になれず、彼らの会話に耳をそばだてた。
「俺は昔のように、可愛らしい着物を着たヒノカが見たい」
 いきなり耳に飛び込んできたリョウマの言葉に、レオンの心臓が高く跳ね上がった。思わず声を出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
「リ、リョウマ兄様! そんな、姫らしく振る舞うなど、私の柄ではないというのに……」
「そんなことはないだろう。お前は今も昔も可愛いのだから。まあ、今のままでは少し勇ましさが勝っているがな」
「い、意地悪なことを仰る……でも、兄様がそう仰るなら、一応、考えてはおこう」
 天幕の間から見えたヒノカの頬には、うっすらと紅が差していた。
 レオンの胸がざわめいた。言い知れぬ息苦しさを感じて、レオンは思わず踵を返していた。これ以上彼らの会話を聞くことは、堪えられなかった。
 会話の内容だけ見れば、他愛もない、微笑ましい兄妹の会話だったのかもしれない。だがレオンには、どうしてもそう受け取ることができなかった。
 結婚を申し込んだ時、ヒノカは、妻になったからといって、急に女らしく振る舞うことはできないかもしれないと告げた。その時は、そんなことはどうでもいい、彼女さえ傍にいてくれればいいと思っていたから、それでも構わないとレオンは受け入れた。
 それなのに――だ。いくら実の兄の言うこととはいえ、彼女をすぐその気にさせてしまったリョウマに激しい嫉妬心が沸き起こると同時に、彼の言うことを即座に受け入れたヒノカに、何とも言えぬ苛立ちに似た感情が募った。
 あれはいつのことだったか。何の話からそうなったかは忘れたが、彼女に理想の男性像を尋ねたことがある。ヒノカは何を訊くんだ、と頬を赤らめながらも、彼女らしく真剣に考え込んだ末に、ぽつりと答えを口にした。
「そうだな……リョウマ兄様のような男、だな」
「リョウマ王子?」
「そうだ。勇ましくて、頼りがいがあって、それでいて優しくて……。昔から、リョウマ兄様は私の憧れだった」
「へえ。じゃあ、ヒノカの好みの男性像は、僕とはまるで違うということだね」
 その時のレオンには、まだ皮肉げな笑みを浮かべる余裕があった。ヒノカが慌ててそういう意味じゃない、と弁解するのを、微笑ましいと見つめる余裕もあった。
 ヒノカは頬を染めたまま、軽く咳払いをした。
「……あくまで、昔の話だ。私はこの通り、女っ気のない武人だからな。私のような女を受け入れてくれるのは、私以上の勇ましい男しかいないに違いないと思い込んでいたんだ。お前のような物好きが現れるまではな」
 嬉しそうに頬を緩めたヒノカに、皮肉を返される。何だよそれはと口では言いながら、レオンは目を細めて笑った。彼女の左手の薬指に嵌められた指輪が太陽に反射して輝きを放つのを、しばらく満足げに眺めていたのを覚えている。
 あの時は、特に何も思わなかった。むしろ自分は、かつてヒノカが抱いていた理想像に打ち勝ったのだという優越感で満たされていた。だが――先程の会話を聞いた後では、あの時のヒノカの言葉が、また違った意味合いを持っているように思えてならなかった。
 すなわち、憧れというのはあくまで一般的な表現であって、彼女もまたレオンのように、兄のリョウマに恋慕していたのではないかということだ。
 その可能性に思い至った時、レオンの胸はまた一際大きくざわめいた。先程のヒノカの表情を思い出した。彼女は確かにあの時、“女”の顔をしていた――。
 もし、リョウマに対する気持ちが、ヒノカの中から未だに消えていなかったとしたら。
 暗夜の森に似た真っ暗闇に、心が呑まれていくのを感じた。


 夕食時、用があるからとヒノカの誘いを断って、レオンは一人、誰もいない資料室に足を踏み入れていた。
 特に今見る必要もない資料を両手が一杯になるほど選び取り、テーブルの上に山積みにすると、それを一心不乱に読み始めた。白夜料理のレシピ。暗夜王国と白夜王国の戦いの歴史。二つの国の国境に位置する地域の文化の歴史について。以前読んだことのあるような資料も、今までなら関心を示さなかった資料も、隔てなく読み進めた。時折脳裏をよぎるヒノカの顔を懸命に追い出しつつ、レオンは資料の内容だけで頭をいっぱいにしようと試みた。
 ふと気付いた時には、とうに日付が変わっていた。さすがにこれ以上は明日の行軍にも差し障ると、未だ読み終わらない資料をいくつか持って、自室へ戻ることにした。
 静まりかえった冷たい廊下を歩いていると、レオンの腹が情けない音で鳴いた。そこでようやく、空腹を自覚する。思えば夕食を何も口にしていなかった。今から食料を探しに行こうと思えばなくはないが、それも億劫で、レオンは空腹を我慢することにした。
 彼女が待つ自室の前に辿り着いて、扉を開けようとして――レオンは思わず躊躇いを覚えた。そうして、瞼を下ろし、しばし、自身の過去の記憶を辿ったのだ。
 しばらくヒノカの寝顔を見つめていたレオンだったが、自分も休もうとベッドに身体を横たえたところで、またしてもきゅるきゅると腹が鳴った。ままならぬ己の腹に苛立ち、レオンは思わず、布団を勢いよく引っ張ってしまった。
 すると――ヒノカの口から、小さな声が洩れた。
「ん……レオ、ン?」
 しまったと気付いた時には既に遅く、ヒノカはもぞもぞと身体を動かしこちらを向いた。レオンは後ろめたい気持ちになった。彼女を起こすまいと今までそっと動いてきたというのに――。
 様々な思いが交錯し、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめることができず、レオンは視線を逸らした。
「……ごめん。起こしてしまって」
「いや。おかえり。お前がなかなか戻って来ないから、先に寝てしまって……これでは、妻失格だな」
 そう言って、ヒノカは苦笑する。
「夕飯は? どこかで食べたのか」
「ああ、うん……まあ」
 適当に誤魔化そうとしたところで、運悪く腹がまた情けない音で鳴いた。レオンはいよいよヒノカの顔を見られなくなって、頬を赤らめ俯いた。
「何も食べてないのか?」
「う……いや、別にいいんだ。構わないでくれ」
「そういうわけにはいかないだろう。空腹のままでは睡眠にも差し支えるぞ」
 ヒノカはそう言ってがばりと身体を起こした。いい、とレオンが制止するも振り返らず、彼女は何かを取りに寝室から出て行ってしまった。
 レオンは更に大きな溜息をついた。全くもって情けない話だ。自己嫌悪に陥っていると、やがて、ヒノカが何かを持って戻って来た。
「非常食用にと思って鞄に入れていた餅だ。白夜の食べ物で、米を炊いて練ったものだが、良かったら食べてくれ。お前の口に合えば良いが……」
 差し出されたそれは、手のひらくらいの大きさで、丸い形をしていた。レオンも何度か、白夜の人間が食べていたのを見たことがある。淡い闇の中で色はよくわからなかったが、何か粉のようなものが周りについていた。先程、資料室で見た白夜料理文化についての書物が頭に浮かんだ。確かその中に、餅にきなこと呼ばれる豆を潰した粉を振りかけるものがあった。おそらく、目の前にあるのはそれなのだろう。
 レオンはヒノカからそれを受け取って、おそるおそる口に入れた。
 独特の弾力があり、確かに行軍中空腹に襲われた時に食べるには最適な、腹持ちの良さそうな食べ物だと感じた。味は悪くない。空腹だったということもあって、レオンはそれを一気にたいらげてしまった。
「ふう……」
 満たされた感覚に、思わず恍惚の溜息をついていた。ヒノカは嬉しそうにレオンを見つめた。
「よかった。少しは空腹が紛れたか」
「ああ。ありがとう」
 レオンはそれまでの複雑な感情を忘れ、素直に感謝の言葉を口にしていた。
 嬉しそうなヒノカを見ていると、自分がこれまで悩んでいたことがばからしくなった。全てはきっと、自分の考え過ぎだったのだ。レオンはすっかり安堵していた。
「ヒノカ」
 立っている彼女の手を引いて、自分の側へと引き寄せる。そのままベッドに倒れ込むと、まるでレオンがヒノカに押し倒されたかのような体勢になった。ヒノカがほんのり頬を赤らめているのがわかった。彼女は未だ、こういう雰囲気に完全には慣れないらしい。微笑ましく思いながら、レオンは彼女の腰をゆるゆると撫でた。すると驚いたように、ヒノカは軽く腰を上げた。
「嫌?」
 ヒノカはう、と言葉に詰まった。
「嫌……ではない、が……」
「なら良かった」
 レオンは煩わしげに、自分の身体に纏っていたものを次々とベッドの外へと放り投げた。ヒノカが躊躇っているのを見て、彼女の服にも手を掛けた。一瞬抵抗するような素振りを見せたが、それ以上、ヒノカは何も言わず、拒否もしなかった。
 ゆるりともたれかかってきたヒノカの柔らかな双丘が、レオンの真っ直ぐな胸板に当たって小さく跳ね返る。レオンは首を伸ばし、ヒノカに口付けた。
「レオン……」
 ヒノカの瞳が潤んでいる。彼女もレオンが欲しいのだ。そう感じた。
「可愛い。僕のヒノカ」
 耳元で囁いてやると、みるみるうちにヒノカは耳たぶまで真っ赤になった。彼女がこういう言葉に弱いのを、レオンはとっくに把握している。言い続けていればそのうち慣れられてしまうかもしれないと思っていたのに、いつまで経っても慣れないから、なおさら面白い。
「か……勘違い、する、だろう?」
 絞り出すように発せられた言葉にも、レオンは涼しい顔で相対する。
「何が?」
「わ……私が、可愛い、など……こんな、女っ気のない人間に……」
 彼女の持つ劣等感はつまるところそこなのだ。レオンが心から可愛いと呟く度に、ヒノカはそう言って認めまいとする。レオンからすればそういうところも可愛いと感じるのだが、今日は少し違った。昼間のリョウマとの会話が不意に蘇り、レオンは眉を顰めた。
 ――否、とレオンは浮かんできた負の思考を振り払う。自分は彼女そのものを愛している。彼女がこれ以上女らしくなろうが、そうでなかろうが、変わりはない。そう言い聞かせた。
「可愛いよ。どんなヒノカでも、僕にとっては全部可愛い」
 レオンが不意に身体を起こすと、驚いたヒノカがきゃ、と小さく悲鳴を上げた。
 ベッドの上で四肢がもつれ合い、レオンは彼女の上に覆い被さった。口付けを幾度も降らせると、打って変わってヒノカの口から甘い声が洩れる。
 耳たぶを舐め、ゆるゆると片方の胸を揉みしだきながら、レオンはその夜何度も彼女の耳許で、呪文のように “可愛い”と囁き続けた。


 透魔王国の遺跡での戦闘を終え、再び星界へと帰還した一行は、疲れを癒すよりも先に、今後の作戦会議を開いた。
 次に目指すは、透魔の森。進軍前に軽く偵察が行われたが、暗夜の森を思わせるほどの深さで、竜脈の力を使わねば、まともに中へ足を踏み入れられないようだ。
「私やレオンのような馬上で戦う者は、特に影響を受けるだろうな」
 重々しい表情でそう発言したのはマークスだ。確かに、と隣に座るリョウマが同意するように頷く。
「ならば、私やカミラ王女のような、天馬や飛竜に乗る者が先行する方が良いのか?」
 ヒノカの発言に、隣に座って腕組みをしていたレオンは首を横に振った。
「いや。それを見越して、森の中に弓を扱う兵が隠れている可能性も十分考えられる。仮に行くのだとしても、地上から敵の動きを把握できる歩兵と共に進軍するのが良いでしょうね。進軍の速度はある程度、合わせなければいけないだろうけど」
「なら、その役目は僕が。僕は身軽だし、リョウマ兄さんよりは森の中を自由に動きやすいと思うけど」
 リョウマの隣に座っていたタクミが手を挙げると、その向かいに座っていたカミラが微笑んだ。
「私がタクミ王子に同行するわ。近くからでも遠くからでも攻撃ができるし、敵の様子を窺った上での作戦は、立てやすいと思うわ」
 斧と魔道、両方に通じているカミラなら確かにそれが可能だと、会議に参加していた全員が同意した。
「ならば、私も誰かと組んで森へ進軍した方が良いか?」
 少しそわそわとした様子でヒノカが手を挙げたが、レオンは首を横に振った。
「それよりは、ヒノカ王女は森の外側から進軍した方が良いかと。弓を扱う兵が隠れていた場合、例え歩兵と行動を共にしていたとしても、不意を突かれる危険もある。天馬や飛竜が集中的に狙われて全滅するかもしれない。なので、戦力は分散させておいた方が良いと思うのですが」
「確かにな。万が一森の中を進軍する人間が危険に陥ったとしても、ヒノカなら森を越えて助けに行くこともできるしな」
 リョウマの発言に、その通りです、とレオンは頷いた。レオンは立ち上がり、円卓の中央に置かれた透魔の森の描かれた地図を指しながら、口を開いた。
「森の南側は、槍兵が多くいると報告が上がっています。剣を扱うリョウマ王子やマークス兄さんはどうしても不利になる。なので、二人は共に北側を進軍。南側はヒノカ王女と僕が進軍するという形でどうでしょうか」
 一旦言葉を切って、周りを見回す。特に異議を唱える者がいないことを確認してから、レオンは更に続けた。
「エリーゼとサクラ王女は、衛生兵として三つのうちいずれかの軍勢に同行するのが良いでしょうが、ヒノカ王女は祓串を扱えるので、森を進軍するタクミ王子とカミラ姉さんのところにサクラ王女、森の外を進軍するマークス兄さんとリョウマ王子のところにエリーゼを配置するのが、最も適当ではないかと思うのですが」
 レオンの発言の後室内は一瞬静まりかえったが、嫌な沈黙ではなかった。地図を見つめながら黙って聞いていたマークスが軽く頷き、口を開いた。
「その通りだな。私もこれ以上良い策は浮かばないが、リョウマ王子はどうだろうか」
「俺も異論はない。レオン王子、いつもながら見事な策だ」
「いえ。恐れ入ります」
 レオンは深々とリョウマに向かって頭を下げた。
 先日のヒノカの一件に関して、レオンはなんとなく彼に対し複雑な思いを抱いていたが、特に表立って諍いを起こしたわけではないので、白夜の将たるリョウマに自分の策を褒められたことは、純粋に嬉しかった。
 それぞれの部下の配置などを確認し合った後、作戦会議はお開きとなった。


 会議の後、カミラと話をしているヒノカに軽く声をかけてから、レオンは先に自室へ戻った。少し遅れてヒノカも戻って来て、二人は連れだって食堂へ向かい、夕食を摂った。
「レオン、先程は……さすがだったな。やはりお前は全体をよく見て、的確な判断ができている」
 ヒノカがしみじみとした口調で褒めてくれるのが、他の誰の言葉よりも嬉しかった。
「大したことじゃないよ。それに」
 軽く冷水で口の中を潤してから、レオンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ずっと考えていたんだ。ヒノカと一緒に進軍するにはどういう策が最も良いか、ってね」
「なっ……レオン、お前はそれが一番の目的だったのか?」
 ヒノカの声に、驚きと呆れが混じる。思い通りの反応をしてくれるヒノカを微笑ましく思いながら、レオンは涼しい顔で答えた。
「まあ、冗談だけど。でも最も良い布陣を考えたら、自然とこうなった。それだけの話だよ」
「そうか。レオンのことだから、何か考えていそうな気がしなくもないが……まあ、作戦としての異論はないし……そうだな。お前が近くにいてくれると、私もこれほど心強いことはない」
 その言葉こそ、最も望んでいた言葉だ。レオンは上機嫌で微笑んだ。
 夕食後は一旦部屋に戻り、レオンは昨日借りていた資料を資料室へ返却しに行った。何故こんなものを借りたのだろうと思うような資料も混ざっていて、昨日の自分がいかに自棄になっていたか思い知らされた。棚に資料を戻しながら、レオンは苦笑した。
 部屋に戻ってくると、ヒノカは既に寝間着に着替えていた。レオンも着替えてから、一緒にベッドに入った。
 甘噛みするように口付けを交わした後、レオンは彼女から漂う違和感に気が付いた。ヒノカから一瞬離れた後、その違和感の正体を探るべく、彼女の首筋に顔を近づける。
 彼女の身体からは、ほんのりと香水の匂いが漂っていた。甘ったるい香りで、レオンは少し頭がくらくらした。
 ヒノカが香水をつけていたことは、レオンが知る限り一度もない。その上、レオンはこの匂いを知っていた。暗夜王国にいた頃、いつも傍で嗅いでいた香り。これは――そう、カミラが昔つけていたバニラの香水の匂いだ。
「……その……気付いたか?」
 レオンが軽く鼻をひくつかせているのを見て、ヒノカは俯き加減に尋ねてきた。彼女の頬には、うっすらと紅が差している。
「初めて? 僕の前で香水をつけたのは」
 上目遣いに尋ねると、ヒノカはゆっくりと頷いた。
「そうだ。やはり……気付いてくれたのだな。ほんの少ししかつけていないのだが」
 照れたような表情ながらも、ヒノカの声は少し弾んでいた。
 レオンは複雑に歪んだ表情を見られまいと、彼女の首筋に軽く口付けた。ん、と小さな嬌声が上がる。と同時に、姉と同じ匂いが鼻腔を刺激する。レオンは眉を顰めた。
 これが全く別の香水ならば、気持ちが昂ぶって、彼女をすぐさま抱いていたことだろう。だが、この匂いが姉と同じものであるというその一点だけが、レオンの心に躊躇いを起こしていた。先日振り返ったばかりの姉への過去の思いが嫌でも蘇り、まるで姉を犯しているかのような罪悪感に陥った。
「姉さんに、借りたの?」
 絞り出すような声で尋ねると、ヒノカは嬉しそうにそうだ、と答えた。
「私は今持ち合わせがなくてな。カミラ王女が試しにつけてみたらと自分のものを貸してくれたんだ。少し甘ったるいが、良い香りだと思うのだが」
 暗に同意を求めてきたヒノカに、レオンは抑揚のない声でそうだね、と返すことしかできなかった。
「どうしてまた、急に?」
 レオンはきっかけを尋ねた。
 ――その問いが地雷を踏むに等しい行為だと、直前まで気付かぬまま。
「ああ。この間、兄様に言われてな」
 刹那、まるで雷に貫かれたかのような衝撃が走り、レオンはその場で目を剥き硬直した。
 思い当たることがあった。レオンの脳内に、あの時の会話が鮮明に蘇った。
 ――俺は昔のように、可愛らしい着物を着たヒノカが見たい。
 リョウマは着物はもとより、可愛らしく、女性らしく振る舞うことをヒノカに求めていた。ヒノカは兄の願いに応え、兄の望む自分になれるように、女性らしく振る舞うことを始めた。そのままでも十分可愛いと唱え続けたレオンの呪文は、リョウマの言葉の前で、ものの見事に打ち砕かれてしまったのだ。
 気付くと、レオンはヒノカを押し倒し、彼女を冷たい目で見下ろしていた。急に態度が変わったレオンを、ヒノカは怯えたような目で見つめていた。
「レ、レオン……? どうした?」
 レオンは無言で、彼女の衣服を剥ぎ始めた。彼女の小さな悲鳴と抵抗の言葉は、レオンの耳には入らなかった。いつもなら丁寧に愛撫するところを、レオンは片手で乱暴に乳房を揺さぶった。突起を口に含み、激しく舌で転がした後、歯を立てると、ヒノカの喉奥から悲鳴が上がった。
 レオンは舌で胸の突起を転がしながら、一糸纏わぬ姿となったヒノカの秘部へと指を伸ばした。少しばかりほぐしてやると、いつものように熱い粘液がとろとろと溢れ出してきた。
「やめろ、んっ、何をする、レオン……!」
 戸惑いと怯えの宿った瞳を一瞥し、レオンは愛液にまみれた指をヒノカの目の前に突き出し、鼻で笑った。
「もうこんなふうになってるのに。やめろだなんて、どの口が言うんだか」
「っ、それは……!」
 ヒノカの頬が一瞬にして真っ赤に染まる。髪の色と相まって首から上が全てが赤色に変わり、レオンは思わず、好物のトマトを思い浮かべていた。
 ああ、おいしそうなトマトだ。舌なめずりをした。いつものように、丁寧に皮を剥いて食べるのは煩わしい。皮ごと噛みついて、指で握り潰し、滴る赤い雫を舌で受け止め啜りたい。
 レオンは愛液のついた指を、ヒノカの頬になすりつけた。ヒノカの目が、恐怖で見開かれる。寝室の淡い闇の中で、なすりつけられた部分だけが不気味なほどにてらてらと光っていた。レオンと夫婦になるまで男と交わったことがなく、交わった後も、レオンが壊れ物に触れるように大切に扱ってきたヒノカを、初めて汚したような気分になった。妙な高揚感に襲われ、レオンは思わず溜息をついた。
 レオンは首筋に唇を落とし、歯を立てて食らいついた。その瞬間、カミラの香水の匂いが口から鼻からいっぱいに広がった。母体に還ってきたかのような安心感を覚え、レオンはほとんど無意識に呟いていた。
「姉さん……ああ、」
 意識が過去の記憶へと引き戻されていく。
 父王の愛を引き留めるために、そして王宮での権威を高めるために自分の子どもさえも利用する母親のことを、レオンは幼い頃から嫌悪していた。そんな母の代わりに愛情を注いでくれたのは、腹違いの姉だった。
 暗夜の王宮内で繰り広げられる権力闘争に嫌気が差し、恋だの愛だのを毛嫌いしながらも、思春期を迎えて膨らみ続ける性欲を抑えきれず、たまたま身近にいて、母親以上に愛情を注いでくれた姉に、レオンは欲情し始めた。罪悪感を持ち続けながらも、思い詰める心を止めることは、自分でさえもできやしなかった。
 ――姉さんが、やっと僕のものになる。
 その思いが、火に油を注いだ。
 ヒノカに恋をすることで、自分は救われたと思った。これからは彼女と共に生きていくのだ。彼女は、暗闇に包まれていたレオンの人生に差した、一筋の光明だった。
 けれど、愛した人が自分のものにならないのなら、自分を一番に思ってくれていないのなら、もうどうでもいい。自分は過去の思いを全うすればいい。愛する人の身体を借りて。
 レオンは剥ぎ取るように自らの服を脱ぎ捨て、いきり立ったペニスを潤んだ花弁に密着させる。いつもなら、彼女に入れてもいいかと尋ねるところだが、レオンは無言で、腰を深く落とし入れた。
「あぁっ、痛……っ!」
 ヒノカの顔が苦痛に歪んだ。潤み始めていたとはいえ万全な準備ができていたとは言い難い彼女の膣が、めりめりと音を立てて無理矢理押し広げられていった。胸にちくちくと痛みを与え続ける棘の存在に気付かぬふりをしながら、レオンは無理矢理腰を動かした。ヒノカの中はレオンを拒否するかのように、ぎゅうぎゅうに締め付けていた。
「く……っ」
 レオンも苦しみに歯を食いしばりながら、ヒノカの奥へと腰を打ち付けた。
「っ、あぁっ、もう、もうこんな……っ、やめ、やめてくれ……」
 ヒノカはいつも以上に身悶え激しく抵抗した。暴れる彼女の右手をベッドに押さえつけ、レオンは彼女に向かって狂ったような笑みを浮かべた。レオンの額から滴った汗が、ヒノカの頬を伝って落ちていった。まるで彼女が流した涙であるかのように。
「姉さん……綺麗だよ、姉さん……やっと僕のものになる……」
 レオンがうわごとのように呟いた言葉に、ヒノカは苦痛にまみれながらも表情を変えた。さすがに聞き流すわけにはいかない言葉だったのだろう。
「お前、何を……何を言ってるんだ、私はお前の姉じゃない、カミラ王女ではないのだぞ!」
「関係ない。あなたが僕を見てくれないのなら……それならいっそ、僕は!」
 レオンは更に激しく腰を振り始めた。
「あぁっ、あっ、レオン、ああ、んっ……!」
 準備ができていなかったとは言っても、無理矢理ながらも挿入されて、ピストン運動を繰り返されるうちに、ヒノカの声に少しずつ快感の色が見え始めた。レオンもいつも以上に締め付けられる感覚に、最初は苦痛を覚えたものの、普段とは違った快感を覚え始めた後は、急激に高みへと上り詰め――記憶が飛んだ。
「あああ――! うっ……」
 熱いものが先から迸る感覚で、ようやく意識が現実に引き戻される。
 絶頂を迎える瞬間、姉さん、と叫んでしまったことだけが、脳の片隅に記憶の欠片として残されていた。


 ペニスをずるずると引き抜いた後、彼女の中からどろりと白く濁った液体が垂れた。
 ああ。彼女を汚してしまった。先程までレオンの中にあった妙な高揚感はすっかり萎み、ただただ、罪悪感で胸がいっぱいになっていた。
 ヒノカは目に涙をいっぱいに浮かべ、唇を噛み締めていた。それでも彼女の髪と同じ、揺るぎなく燃え上がる炎のような強い意志を持って、レオンを真っ直ぐに睨み付けていた。
「……お前にとって、私はカミラ王女の代わりだったのだな」
 敵に向けられるそれよりも冷たく鋭い言葉が、レオンの胸に突き刺さる。
「おかしいと思っていたんだ。何故お前のような男が私に求婚など……お前はただ、姉の代わりが欲しかっただけだ。そうなんだろう?」
 汚らしいものでも見るかのような目で見つめられ、レオンは激しい胸の痛みを覚えた。
 その痛みを振り払うかのように、レオンはヒノカをにらみ返した。
「あなたこそ。今でもリョウマ王子への思いが捨て切れていないのはわかっている」
「な……? 私が、兄様に? どういうことだ、それは!」
「この間、天幕の中で話していたのを聞いたんだ。リョウマ王子に可愛らしく、女らしく振る舞うように言われて、あなたは素直にそれに従った。僕はそのままでも十分可愛いと、何度も言ったのに!」
 ヒノカは目を見開いて、首を力一杯横に振った。
「違う、あれはあくまで、お前のためにそうした方がいいと兄様が……!」
「言い訳なんか聞きたくないよ。昔から、リョウマ王子があなたの憧れだったんだろう? 本当は僕なんかより、リョウマ王子のような男の方が――!」
 最後まで言わぬうちに、レオンは左頬に鋭い痛みを感じた。
 じんわりと熱を帯びてくる頬に触れながら、レオンはヒノカを見つめた。ヒノカは振り払った右手を固く握り締め、目から大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。
「私の言葉は、何一つ、お前には届いていなかったのだな。お前は、何一つ、私の言葉を聞こうともしなかったのだな」
 ヒノカの声は、怒りに満ち溢れていた。
「どこからどこまで盗み聞きしたのかは知らないが、兄様は、結婚した後も女らしい振る舞いをしようとしない私をたしなめられたのだ。女らしく振る舞う方が、きっとレオンも喜ぶに違いないと……。お前が私にそのままでいいと告げていてくれたことは嬉しかった。だが、確かに私も変わらねばならないと思ったのだ。だから、カミラ王女に香水を借りて……」
 ヒノカはそこで、後悔したように俯いた。もし、自分で香水を用意していたら。香水が、カミラのものでなかったら。きっとこんなことにはなっていなかったのに違いないと考えているのだろう。
 レオンは後悔を通り越して、絶望の淵に立たされていた。自分が愛する人に、一体何をしてしまったか――罪深いという言葉で片付けられるほど生易しいものではない。自分は傷つく必要のない彼女を深く深く傷付けた。自分が愚かな思いを持ち続けていなければ、愚かな勘違いをしなければ、こんなことは起こらなかったというのに。皮膚に深く爪が食い込むまで、拳を握り締めた。
 許してもらえるはずがない。それでも自分が今真っ先にすべきなのは、彼女への謝罪だ。
「ヒノカ――」
 顔を上げて名を呼んだ瞬間、ヒノカは嫌悪感を顕わにした。
「やめろ。私の名を軽々しく呼ぶな! お前の声なんて、お前の声なんて……聞きたくもない」
 ヒノカは両手で耳を塞ぎながら、なおもぽろぽろと涙をこぼしていた。
 素早く衣服を身に着けると、ヒノカは寝室を出て行ってしまった。やがて、外への扉を開ける音が、遠くで聞こえた。
 レオンはただただ、その場に留まることしかできなかった。



 かつて自室として使っていた部屋に転がり込み、ヒノカはうっすらと埃被ったベッドで、声を押し殺して泣いた。
 下腹部を襲う鈍痛に堪えながら、ヒノカはそれでもレオンを嫌いになりきれない自分に気付いた。すっぱりと割り切れるなら、こんなにも辛い思いをしなくて済んだはずなのに――
 恋だの愛だのは楽しいことばかりではない。そんなことは色々と見聞きして知っていたはずなのに、今まで楽しいことばかりだったから、すっかり忘れていた。
 レオンは今まで、自分を大切にしてくれていた。彼にどのような意図があったにせよ、それは紛れもない事実だ。その積み重ねがあって、ヒノカも彼に心を許し、少しずつ夫婦として絆を深めていた最中だったというのに――どうしてこんなことになってしまったのか。
 ヒノカはその夜、一晩中涙を流し続けた。
 次の日の朝、ヒノカは腫れぼったくなってしまった顔を、薄化粧でごまかすことにした。この化粧道具も、本来なら、レオンのことを思って使うはずだったのだ。おしろいを塗りながら、ヒノカはまた泣きそうになるのをぐっと堪えた。
 香水の小瓶を持って、ヒノカは真っ先にカミラの自室へと向かった。扉を軽く叩くと、はい、と艶やかな声が聞こえた。
 扉を開けて出てきたカミラは、ヒノカを見て目を丸くした。
「ヒノカ王女……どうしたの、その顔……」
 ゆるりと手が伸びてきて、ヒノカの目の下辺りに触れる。
「目の周りに塗りすぎて、かえって変になっているわ。どうかしたの? 何かあった?」
「い、いや……」
 分かってはいたが、ただ塗りたくってごまかせばいいという自分の化粧技術の低さに軽い絶望を覚えつつ、ヒノカは心の中で溜息をついた。カミラも決して無関係とはいえない出来事だけに、その理由を話すのは躊躇われた。
「と、とりあえず、これを返しに来たんだ」
 ヒノカはごまかすように香水の小瓶を差し出した。カミラはあら、と頬を緩めた。
「どうだった? 良い香りがしたでしょう。気に入ってもらえたかしら?」
「あ……ああ。その、良い香りだとは思った。ありがとう。だが……私にはあまり合わなかったようだ」
「あら、そう? ヒノカ王女にもきっと似合うと思ったのだけれど」
 何気ないカミラの言葉にまたしても泣きたくなる気持ちを堪えた。不意に、レオンの声が脳裏に蘇った。絶頂を迎える瞬間、姉さん、と叫んでいたレオン。ヒノカはあの時絶頂を迎えられずに終わったから、その言葉は鮮明に残り続けていた。
 ヒノカは改めて、目の前に立つカミラの全身を見つめた。緩いウェーブのかかった紫の美しい髪。熟れた桃のような豊満な胸、そして腰から尻にかけての見事な曲線。歳以上に大人びた妖艶な雰囲気を纏いながらも、仲間や家族には分け隔てなく優しい、大きな包容力の持ち主。
 ああ、とヒノカは自嘲気味に笑った。最初から、自分は同じ場所にすら立てていなかったのだ。彼女に比べれば、自分は何もかも劣っているように思えた。自分にはあんな美しく長い髪はない。胸も彼女と比べれば小さくて人並みしかないし、女性らしい色気など微塵もない。家事も上手くできない。レオンにしてみれば、さぞや欠陥だらけの“姉”だったことだろう。何故彼が自分を妻にしようと思ったのか全く理解できなくなると同時に、自分は永遠にレオンの中の彼女には勝てやしないのだと、深い絶望を覚えた。
「どうしたの、そんなにジロジロ見て」
 気付くと、カミラが怪訝そうな表情でこちらを見ていた。ヒノカはいや、とわざと笑顔を作った。
「すまない、何でもないんだ。朝早くからすまなかった」
「いえ、それは構わないのだけれど。ところで」
 カミラは微笑みながら、やや声を潜めて尋ねた。
「あの子は? レオンは、どんな反応をしていたの?」
 心臓を貫かれたような気分になり、ヒノカは思わず胸を押さえていた。答えたくなかった。答えられるはずがなかった。自分のことを目の前の彼女と重ね合わせ犯されたなどと、口が裂けても言えるわけがない。
「あー……いや、その、まあ、何と言うか」
 曖昧に笑って誤魔化すことしかできない自分の不器用さに、腹が立った。
 カミラはそれをどのように解釈したかは知らないが、そう、とだけ言って、それ以上は何も尋ねてこなかった。こういった気遣いができるところも、彼女がレオンの惚れるような素晴らしい人間である理由の一つなのだろう。ヒノカはますます惨めな気持ちになった。
 俯き加減のヒノカを見て、カミラはふふと笑った。
「あの子は何でもできるように思えて、本当は不器用な子だから。もし、態度や言葉に出さなかったとしても、あの子はあなたのことを大切に思っているわ。それだけは確かよ」
 そんなわけがない。ヒノカは思わず大声で反論したくなった。彼が一番大切に思っているのは、目の前にいるカミラのことだ。でなければ、ヒノカを見て、姉を思い出して欲情することなど、あるはずがない。
 昨日のことがまた鮮明に思い出され、ヒノカの目尻から、無意識に雫が零れ落ちていた。頬を音もなく伝い流れるそれに真っ先に気付いたのは、本人のヒノカではなく、カミラだった。
「ねえ、ヒノカ王女……どうしたの、何があったの?」
「え? 何が……」
 カミラが何故心配そうに見ているのか分からず戸惑うヒノカに、カミラはそっと手を伸ばし、今まさに零れ落ちんとする涙を指先で拭った。
「あ……」
 そこでようやく、ヒノカは“それ”の正体に気付く。
 だが、これほどまでに傷ついている自分の心を思うよりも、酷い化粧が更に崩れて目も当てられない状態になってしまうのではないかと、その方が先に気に掛かった。慌てて鞄からハンカチを出して拭っていると、カミラはますます心配そうな目で見つめていた。
「ねえ、話したくないなら、無理に話さなくてもいいけれど……私、このままじゃあなたを帰せないわ。弟があなたに何か失礼なことをしたの? だったら、私は姉として、」
 だんだん表情が険しくなっていくカミラに向かって、ヒノカは無理矢理明るい声を出した。
「いや、何でもないんだ。ただ……」
「ただ?」
「私は、カミラ王女のような立派な姉にはなれなかった、と思って」
 もう一筋、ヒノカの頬に、涙が伝った。
「どういう事?」
 カミラの眉間に皺が寄る。
「レオンは、あなたのことを、とても慕っているのだと思う……、私は、多分、その代わりに過ぎなかった。だから、私はもう、彼の傍にはいられないのだ」
 ヒノカは俯いた。声を上げて泣きたいのを、懸命に堪えた。その後で、カミラが息を呑む気配が伝わってきた。話が突然すぎて、どう受け止めればいいのか戸惑っているに違いない。弟が姉に恋慕するなど、そんな話、あってはならないはずなのだから。
 だが――カミラの反応は、ヒノカの想像していたものとは違っていた。
「そう……あの子、まだ、完全には吹っ切れていなかったのね」
 まるでレオンの思いを知っていたかのような発言に、ヒノカは驚いて顔を上げた。カミラは軽く唇を噛んで、複雑な表情を見せていた。
「あなたに出会って、あの子は変わったわ。暗夜王国にいた頃より表情が明るくなったし、元々優しい子ではあったけれど、他人のことをあんなに一生懸命に考えて大切にするようになったのは、間違いなく、あなたに出会ってからだったの。だから、私は安心していたのだけれど……」
 彼女の声のトーンから、ヒノカが心を痛めているのと同じように、カミラもまた心を痛めているのが、強く伝わってきた。
「あの子は、母親に愛されなかったの。それどころか、王宮内の権力争いに利用されたこともあった。あの子は男だったから、母親は、そこに利用価値があると考えたのね」
 暗夜王ガロンには正妻の他に多くの妾がいて、激しい権力争いがあった――という話は、昔どこかで耳にしたことがあった。だが、レオンがそれに巻き込まれていたというのは初耳だった。
「幸い、あの子が巻き込まれた時はまだ幼かったから、それほど酷いことにはならなかったのだけれど。あの子の母親は、死ぬまで、あの子の世話をしなかった。全部周りの侍女に任せきりで、ただ、利用することだけを考えていたの。私は最初、あの子に近づかせてもらえなかったのだけれど……あの子の母親が亡くなったのをきっかけに、少しずつ、面倒を見るようになったの」
 最初は姉弟というよりも母親代わりだったと、カミラは語った。
「年を経るにつれて、私が母親代わりをする必要はなくなった。それからは、姉弟として接していたのだけれど。あの子は母親がああだったから、恋愛だの結婚だのにはすっかり興味を失っていて、同じくらいの年の女の子たちには全く見向きもしなかったのだけれど、でも……年頃だったから、たぶん、色々と……何か思うところがあったのでしょうね」
 ヒノカを気遣ってか、カミラは明確に口にするのは避けた。
 ヒノカがこれまで生きてきた環境の中では、きょうだい同士で邪な思いを抱くなど、想像もつかなかった。だから、昨日見せられたレオンの考えや思いがまるで理解できなかった。
 だが、カミラの話を聞いて、レオンの思いが少し想像できたような気がした。親に愛してもらえなかった孤独。その中で誰かに手を差し伸べられたら、そしてそれが、異性の相手だったら。更にそれが、子どもから大人になる年頃の出来事だったとしたら。執着してしまう気持ちも分かるような気がした。
 でもね、とカミラは語気を強め、ヒノカを真っ直ぐに見つめた。
「あの子が今本当に愛しているのは、間違いなくあなたのことよ。きっと何かがきっかけになって、処理しきれなかった思いが出てきただけだと思うの」
「きっかけ……」
 ヒノカはなんとなく想像がついた。昨日のレオンの話を聞く限り、きっと、自分とリョウマの会話がその引き金となったのだろう。
「さっきも言ったけれど、あの子はあなたに出会ってから変わった。あんなにも結婚に興味がなかったあの子が、あなたに指輪を贈ったって聞いた時、私びっくりしたのよ。それほどまでに強い思いを抱く相手が出来たんだって……姉として、それが本当に嬉しかったの」
 だから、とカミラはヒノカの手を取り、両手で包み込むようにして握った。
「あなたがもう、あの子に愛想を尽かしたなら、私はこれ以上何も言わないわ。でも……もし、少しでも、あの子を思う気持ちが残っているなら……話をしてあげて欲しいの。そして、実際に、あの子の思いを見極めてあげて欲しいの」
 ヒノカは複雑な表情のまま俯いた。カミラの指の間から覗く、自身の左手の薬指の指輪が目に入った。レオンが贈ってくれた結婚指輪だ。
 男性にあんなにも情熱的に愛を告げられたのは初めてで、ヒノカは最初戸惑うことしかできなかった。何故自分が、とも思った。今すぐに、男性が望む妻としての女性像に変わる自分も想像できなかった。ゆえに、本当に自分でいいのかと何度も尋ねた。それでもレオンの答えは変わらなかった。そのあまりの情熱に根負けして、ヒノカはこの指輪を受け取ったのだ。
 カミラの話が本当なら、レオンがあんなふうに愛を告げるのは、よっぽど特別なことだったらしい。それからヒノカを大切に扱ってくれたことも、過去の彼にはない行動だったようだ。
 ヒノカの心は少しずつ傾き始めていた。けれども、とヒノカはその動きに歯止めをかける。まずはレオンと話をしてからだ。カミラはああ言ったが、あくまでそれはカミラの見方であって、レオンの心がどこにあるのかは、レオンにしかわからないのだ。大切にしていたというのは建前で、本当はやはりカミラの方を強く思っているという可能性もなくはない。あまり考えたくない話ではあったが。
 ヒノカは顔を上げ、カミラを真っ直ぐに見つめると、決意を込めて頷いた。
 カミラは一気に安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう」
 カミラが微笑むのにつられて、ヒノカも思わずほんの少し表情を緩めていた。


 その日は昨日の作戦通り、透魔の森を三手に別れて進軍することとなった。
 レオンとゆっくり話をする時間が取れないまま、ヒノカとその部下は作戦通り森の南側へ進軍することになった。無論、レオンの隊も一緒である。気まずい気持ちを抱えたまま、二人は相対することとなった。
「ヒノカ王女」
 最初に口火を切ったのはレオンだった。ヒノカは無言でレオンを見つめた。
「昨夜は、本当に申し訳ありませんでした……ヒノカ王女の気持ちも考えず、自分の思いだけで暴走してしまったことは、全て僕に非があります」
 絞り出すような声だった。俯いたレオンの視線の先は定まらず、それだけでも彼の今の心境を物語っているようだった。
「ヒノカ王女は、僕の顔など見たくもないかもしれません。ですが今更配置を変更するわけにもいかない。作戦通り、同じ方向へ進軍しますが、僕のことはお気遣いいただかなくとも構いません。僕は出来る限りのサポートをさせていただきたいと思っていますが、不要ならば、断っていただいて構いません」
「……わかった」
 ヒノカは小刻みに揺れる感情に流されまいとしながら、敢えて抑揚のない声で答えた。それでもレオンは、ヒノカから返事がもらえたことにほっとした様子で、深々と頭を下げ、部下達のところへ戻って行った。
 敵以外の人間に、それも一旦夫婦の契りを交わした相手に徹底的に冷たくすることなど、今のヒノカには出来る気がしなかった。ヒノカを結婚前の呼び方で呼び、敬語を徹底しながら謝罪する彼の態度に、思わず許してしまいたくなったのが正直なところだ。だが、全ては演技という可能性もある。演技をしたところで今更何か利点があるとも思えないが、可能性としては捨てきれない。ヒノカは心を落ち着かせつつ、冷静にそれを見極めることにした。
 進軍の合図が上がった後、三手に別れた軍勢はそれぞれ任された場所へ進軍し始めた。
 ヒノカが進む森の南側は槍兵が多いと聞いていたが、実際その通りであった。ヒノカが前に立って敵の攻撃を同じ槍で受け止めつつ、後ろからセツナが弓を放ちとどめを刺す。ヒノカ一人では捉えきれず突破されそうになった敵に対しては、アサマが槍を突き出し進入を阻んだ。時折、後ろや横からブリュンヒルデの詠唱が飛んでくることもあり、レオンは自身も戦いつつ、こちらのことも気に留めてくれているようだった。
 ヒノカが敵の一団を相手にしている間に、レオンは部下達と共に少し先を進軍していた。一段落し終わった後でヒノカ達もそちらへ向かう。ノスフェラトゥを相手にしているレオンが見えた。ノスフェラトゥは作り物ということもあってか、並の人間よりも体力がある。三人がかりでもなかなか倒せず苦戦しているようだった。
 加勢しようとしたところで、隣にいたセツナが何かに気付いたように上を見上げた。
「あ……ヒノカ様、あれ……」
 セツナの指差す方向を見ると、上空の遙か向こう、空を翔るヒノカと同じ天馬武者の姿が目に入った。真っ直ぐにレオン達の方へ向かっている。ノスフェラトゥの相手をしている彼らに、奇襲を掛けようというのだろう。
「レオン! レオン、上だ!」
 ヒノカは天馬を素早く向かわせながら鋭く叫んだ。
 レオンたちはその声に反応し、上空を見上げた。だが、時既に遅し――天馬武者の槍が、鋭くレオンの肩を抉った。
「ぐ……っ!」
 彼の部下のゼロがくそっ、と言いながら後ろに下がり、素早く弓をつがえ放った。矢は天馬の腹に命中し、天馬武者は地面へと転がり落ちる。同時に部下のオーディンが詠唱を終え、彼の指先から出た眩い光はノスフェラトゥに命中し、ようやくその身体も動かなくなった。
 レオンは幸い落馬は免れたものの、肩から流血し顔をしかめていた。ゼロが弓をしまい、慌てて杖を取り出し治癒していたが、ゼロは杖の扱いを最近覚えたばかり。サクラやエリーゼがするように、すんなりとは傷口が塞がらない様子だ。
 ――僕のことは、お気遣いいただかなくとも構いません……
 不意に、進軍前のレオンの言葉が、脳裏に蘇った。ここでヒノカが手を出すことを、レオンはきっと望んでいない。彼のプライドもあることだろう。だが、傷ついた仲間をそのまま見過ごすことなど、ヒノカに出来るはずがなかった。ましてや彼は、自分の夫なのだ。
 彼の態度が演技かそうでないかなど、今はもう、関係ない。
 ヒノカは天馬に乗ったまま彼の傍へと駆け寄った。レオンが驚いたように目を見開く。
「ヒノカ王女……」
 杖の扱いに慣れているアサマに治療を任せるという選択肢もあったが、ヒノカは何も言わずに、自分の杖を彼の傷口へとかざした。自分もゼロと同じく杖の扱いは最近覚えたばかりだが、二人で使用すれば少しでも早く治療できるだろう。
 そんなヒノカの思惑通り、レオンの傷口は早く塞がった。ゼロはほっとした様子で杖を下ろしたが、少し消耗したのだろう、息が上がっていた。それはヒノカも同じだった。慣れない杖の扱いに、思いの外体力をとられたらしい。
 レオンはゼロにありがとうと礼を言った後、ヒノカの方に向き直った。ヒノカは息が上がっていることを悟られまいと無理矢理呼吸を調節しようとしたが、レオンにはとっくにお見通しのようだった。
「ヒノカ王女。申し訳ありません……あなたの手は煩わせまいと思っていましたが、僕が不覚をとったせいで、あなたの体力まで消耗させてしまった。何とお詫びしていいか」
 レオンが申し訳なさそうに俯くのを見て、ヒノカはようやく口を開いた。
「レオン。お前が詫びるのはそんなことではないはずだ」
「え……」
 レオンが顔を上げる。ヒノカは感情を出すまい出すまいと思っていたが、思わず声が揺らいだ。
「あまり……私を心配させないでくれ。すぐに塞がったから良かったが……」
 ヒノカは言いながら泣きそうになるのを慌てて堪えた。レオンは驚いたように目を見開いていた。自分を気遣うような言葉を掛けてもらえるとは思っていなかったのだろう。
 ヒノカは感情の揺らぎを吹き飛ばすように、大きく息を吐いた。
「放っておけるわけがないだろう。レオン、お前は私の……夫、なのだから」
 そう言って、ヒノカはレオンに背を向けた。レオンが鋭く息を呑む気配が伝わってきた。
 これ以上、見極める時間など必要ない。ヒノカの心は、彼に寄り添うことを選んだ。
 昨日の傷が完全に癒えたわけではない。それでも、ヒノカは、レオンを完全に捨て去ることなどできやしないのだ。
「作戦変更だ。私は空から遠くの敵の動きを見て指示を出す。アサマ、セツナは無論、オーディンやゼロも指示に従って欲しい。あまり前線に出るのは得意でない者達が多いから、私が先導しよう」
 部下達を見回し、彼らが頷くのを確認してから、ヒノカはレオンの方を向いた。
「レオンも、地上から彼らを先導して欲しい。それと――もし、私が暴走して、先へ先へと行きそうになったら、その魔道書を使ってでも、止めて欲しいのだ。これはお前にしか任せられないことだからな」
 敵の動きを見るために先導し、深追いしそうになって彼に止められたことが、これまでに何度あったことだろう。彼は暴走しがちな危なっかしい自分をずっと近くで見ていてくれた。自分の背中は彼にしか任せられない。否、彼にしか、任せたくないのだ。
 レオンの表情が引き締まった。
「無論です。その役目だけは、誰にも渡したくありません」
「ありがとう」
 ヒノカは僅かに頬を緩めた。
 それと呼応するように、緊張しきっていたレオンの表情も、ほんの少しだけ和らいだような気がした。


 レオンの作戦は果たして、成功と呼ぶに値するものだった。
 軍内で大きな損害を出すことなく透魔の森を踏破し、その先に現れたアクアの母の姿に驚きを隠せないながらも、一行は再び疲れを癒すべく、星界の拠点へと帰還した。
 ヒノカとレオンは無言のまま、自分たちの部屋へと戻ってきた。寝室のシーツは侍女たちが綺麗に取り替えてくれていたが、微かに残るバニラの香水の香りが昨夜の出来事を思い起こさせ、ヒノカは複雑な表情になった。それはレオンも同じだったようだ。ちらりとヒノカの表情を窺った後、皺一つないベッドを見つめて言った。
「ヒノカが嫌なら、ここを出ても良いと思う」
「え?」
「違う部屋へ移ってもいい。ここを壊して、竜脈で新しい部屋を作れば……」
 レオンの提案に、ヒノカは首を横に振った。
「私はここで構わない。お前と夫婦生活を始めた部屋だから。思い入れはあるんだ」
 バニラの匂いは未だ鼻腔内に留まり続けていたけれど、もう、ほとんど気にならなかった。
「なら、僕も異論はないよ」
 レオンはベッドに腰掛けた。ヒノカがほんの少し躊躇っていると、レオンがおそるおそるといった様子で手を伸ばしてきた。自分に拒絶されるかもしれないと考えているのだろうか。そう思うと、少し微笑ましい気持ちになった。
 ヒノカは躊躇うことなく、レオンに自分の身を委ねた。
「ん……」
 レオンと口付けを交わすのは、随分久しぶりのような気がした。前回交わしてから、一日も経っていないのに。
 口付けの後は、レオンに思い切り抱きしめられた。まるで離すまいとするかのように、強く。呼吸ができなくなるのではと思うほどだった。腕の力は強いのに、ヒノカの背に添えられたレオンの指先は、微かに震えていた。
「昨日は……本当にごめんなさい。僕の勝手な思い込みのせいで、あなたを酷く傷付けてしまった。許してもらおうだなんて、虫の良いことは思っていない。でも……どうしても、あなたにきちんと謝っておきたかったんだ」
 レオンの指に少し力が入った。ヒノカを自分の側へ更に引き寄せようとしているようだった。
「一つだけ、聞いておきたいことがある。私とリョウマ兄様の関係を誤解したのは……やはりお前が、カミラ王女に特別な思いを抱いていたことがあったから、か?」
 言葉を選びながら、ヒノカは尋ねた。レオンが息を呑む気配が伝わってきた。
 はっきりと聞きたくはない。でも、きっと、確かめておかなければ、この後も後悔するに違いない。そう思った。
「……そうだよ」
 レオンの答えは、思った通りのものだった。ヒノカは複雑な思いを抱きながら、一方で、どこか安堵する気持ちが生まれていた。
「暗夜王国にいた頃、僕の周りに今のような仲間はいなかった。誰が仲間で誰が敵なのか、考えるのも大変だったし、煩わしかったから。きょうだいと部下しか、信じられるものがなかったんだ。中でも姉さんは小さい頃から僕の母親代わりになってくれていて、僕はずっと、姉さんに依存していたんだと思う」
 レオンがぽつりぽつりと話すのを、ヒノカは黙って聞いていた。カミラに聞いた話の内容と一致する。今まで知ることのなかったレオンのもう一つの一面を、垣間見られた気がした。
 レオンの声が、少し震えた。
「だから、僕は……あなたがリョウマ王子に憧れていたって話を聞いていたから、この間の会話を聞いて、僕のような思いになることも有り得ない話じゃないと、そう思ってしまった。あなたが他の誰かのものになってしまうんじゃないかと思うと、怖かったんだ。僕がリョウマ王子に勝てることなんて、何一つない。だから……」
 そこまで一気に言って、レオンは酸素を求めるように深呼吸をした。最後は少し消え入りそうな声になっていた。
 レオンは一人で思い詰めていたのだ。ヒノカはもう、彼を責める気持ちはなくなっていた。母親が子どもをあやすように、とんとんと、レオンの背を優しく叩いた。
「レオンには良いところがたくさんあるじゃないか。仲間の力を冷静に見極めて、今日のような作戦を立てて、きちんと成功させられるのだから」
「それは……でも、それとこれとは……」
「関係は大ありだ。私はお前のその冷静な判断力に何度も助けられた。いわば命の恩人と言ってもいいだろう。そんな男に惚れる女がいるのも、珍しい話ではないと思うが?」
 ヒノカは微笑んで、複雑な表情をしているレオンの後ろ髪をつまんだ。
「それだけではないがな。お前のここ、寝癖がついたままだ。大方、朝、整えるのを忘れていたのだろう」
 あっ、とレオンは頬を赤らめる。結婚してから分かったことだが、彼は少し抜けたところがあって、服を裏返しに着たり、きちんと留め金をつけるのを忘れていたり、こうして寝癖をそのままにしていたり、ということがよくあるのだ。その都度ヒノカが気付いて直してはいたが、今日の朝はヒノカがいなかったから、寝癖がついたままなのにも気付かなかったのだろう。
「最悪だ……」
 深く溜息をつくレオンを見て、ヒノカはくすくすと笑った。
「だから、お前のことを放っておけないのだ、私は」
 レオンがはぁ、ともう一つ溜息をつくのを聞いて、ヒノカはますますこの男が愛おしくなった。
 大方、格好悪くて最悪だ、などと考えているのだろうが、欠点があるからこそ、彼という人間に魅力が出て来るのだ。ただ、あまりそれを語ったところで彼のプライドはきっと傷ついてしまうだろうから、ヒノカはそれ以上は何も言わないことにした。
「それより、私も結構落ち込んだのだぞ? カミラ王女と比べて、私はあまり魅力がないと思い知らされた気がしてな。私にはあんな包容力はないし、胸やお尻もあまり大きくないし、その、女性的な魅力は、どう考えても劣っているだろうから、とな……」
 言っていて、少し惨めな気持ちになってきた。ヒノカが気付かれないように小さく溜息をつくと、突然、レオンはがばりと顔を上げ、ヒノカの唇を、やや強引に奪ってきた。
「ん! ん……む……」
 今までになかったような、少ししつこいくらいのキス。唇を擦り合わせ、唾液を混ぜ、舌が入り込んできて、何度も何度も歯列をなぞられた。くすぐったくて離れようとすると、許さないとでも言いたげに更に唇を絡められ、ヒノカは息ができなくなった。
「っ、ふぅっ、レオ、ン……!」
 途切れ途切れに彼の名を呼ぶと、レオンは荒く息を吐き出しながら、怒ったように言った。
「僕は確かに、姉さんにそういう思いを抱いていたことはあった。でも、ヒノカと姉さんを比べたことなんて、一度もない! ヒノカにはヒノカの良さがある。芯の強いところも、優しいところも、その綺麗な身体も、胸も、お尻も、それ以外のものも、全部だ!」
「レ……レオン……?」
 急に態度の変わったレオンを、ヒノカは驚きの目で見つめた。レオンはしばらく膝を立てて肩をいからせていたが、やがてふつっと冷静に戻ったのか、しゅんとその場にへたりこんだ。
「ご……ごめん。僕は何を言ってるんだか……」
「い、いや。私としては、その、嬉しかったんだが、少しびっくりしたというか……」
 苦笑混じりに言うと、レオンは真剣な表情でヒノカの顔を見つめた。
「でも、さっきの言葉は本心だ。あなたがいなければ、きっと僕は……」
 その先は言わずに、レオンはヒノカを背中向きに自分の側に引き寄せると、両手でヒノカの胸を掴んだ。小さく悲鳴を上げたも束の間、彼の手に胸を揉みしだかれ、ヒノカの心は昂ぶり始めた。
「あっ、ん……レオン……」
「ヒノカの胸は僕の手にちょうど良く収まってる。大きすぎず、小さすぎず。これって、きっと相性がいいってことなんじゃないか?」
「そ、そう……なのか……? よくわからないが……んっ、あぁんっ!」
 人差し指の腹でくりくりと突起をこね回され、ヒノカは嬌声を上げた。身体が熱くなる。少しずつ、彼と繋がる準備をし始めていた。
「勃ってきた……可愛い、ヒノカ。もう我慢できないよ……あなたと一つになりたい」
 レオンの声に少しずつ余裕がなくなってきた。ヒノカとしても異論はなく、こくりと頷いた。
「よかった」
 心底、安堵した声。
 互いに少しずつ服を脱いで、ベッド下に折り重なるように捨てていく。二人はもう一度キスをして、それからヒノカは、新しいシーツの海へと押し倒された。互いの息は上気して、白く濁っていた。
 レオンは自分の指を、ヒノカの茂みへと押し当てた。それだけで、ヒノカの身体は敏感に反応した。んっ、と小さく声を上げると、レオンは心底嬉しそうに微笑んだ。
「もうこんなになってるよ、ヒノカ……すごく濡れてる」
「あ、あんまり、言わないでくれ……恥ずかしい……」
「いいじゃないか。僕を受け入れる準備をしてくれてるってことなんだから」
 それはその通りだ。ヒノカの身体はレオンを欲しがっている。切望している。さほど前戯を必要としないくらいその場所は潤んでいると、ヒノカ自身にも分かっていた。ただ、それを正直に指摘されてしまうと、凄まじい羞恥心に襲われてしまうというだけの話だ。
 彼の指が中へ入り込んでくる。昨日のように荒々しくではなく、いつものように優しく。そして強く、情熱的に。レオンは中の感じる部分をすっかり把握していて、的確にその部分を刺激してくるのだった。
「あぁん!」
 ヒノカが快感に身を仰け反らせた。レオンは息を吐き出しながら、ヒノカの反応を満足そうに見つめた。
「可愛い、ヒノカ……僕の姫……」
 戦姫と呼ばれたことはあるが、ただ姫と呼ばれたのは一体いつぶりかと思うほど久しぶりで、ヒノカの心臓が大きく高鳴った。
「挿れてもいい? ヒノカ……あなたが欲しい。僕、もう、我慢できない」
 入り口に自身をあてがいながらも、そのまま挿れることはせず、今日はきちんと聞いてくれた。いつものレオンが戻って来てくれた――ヒノカは安堵し、微笑みながら頷いた。
「私も、お前が欲しい……」
「ヒノカ……」
 レオンは嬉しそうに頷くと、ぐっと腰を押しつけた。
「ん、っ……!」
「くぅうっ……!」
 レオンが、ヒノカの中を押し広げながら入ってくる。最初は少し痛みを伴いながら、それはすぐに快感へと変わっていった。
 ほぼ同時に、レオンの表情が恍惚へと変わる。彼も感じてくれているのだ。ヒノカは胸が熱くなった。
「動くよ……」
 レオンの腰が、ほどなくしてピストン運動を繰り返す。奥まで差し込まれるたび、ヒノカは身体を海老のように仰け反らせ、喘いだ。
「んっ! んんっ! あっ、レオン、ああっ……!」
「ヒノカ……僕はあなたが欲しい。あなたを誰にも渡したくない、僕のものにしたい――!」
 彼の渾身の願望は、ヒノカ自身も望んだことだった。身も心も彼のものになりたい。彼に染まりたい。この部屋の香水の残り香を追いだしてしまうほどに、二人の匂いだけでこの寝室を埋めたい――ヒノカは快感の海で喘ぎながら、レオンの言葉にこくこくと頷いた。
 レオン自身が自分の中で、ますます熱く硬くなっていくのを感じた。ヒノカはその熱を受け止めきれなくなり、大きな叫び声を上げて、絶頂を迎えた。その瞬間、何かが弾け、ヒノカはそれが発した光に思わず手を伸ばしていた。
「ああぁっ――!」
「くっ、あ……ヒノカ……!」
 少し遅れて、中に熱い液体がぶちまけられる感触。彼も絶頂を迎えたようだった。
 二人して荒く息を吐き出しながら、それでもしばらくは繋がったままでいた。レオンはゆっくりとヒノカの身体に覆い被さり、口付けを落とした。甘くて濃厚なそれは、少し冷静になりかけていたヒノカの心を再び熱くさせた。こんなものでは、足りない。
「もう一回……」
 ヒノカが無意識に呟くと、レオンは目を丸くし、そして苦笑した。
「今、イッたばかりなのに?」
「う……いや、私は、無理にとは……」
 ヒノカが真っ赤になって顔を背けると、レオンはヒノカの頬に口付けを落としてきた。
「僕だって、無理とは言ってない。それに、ヒノカにそんなことを言われたら……また、興奮してきたじゃないか」
 ヒノカの下腹部で、レオンのそれが、再び熱を持ち始める。
 二人はもう一度、ベッドの上でもつれ合った。


 隣で寝そべっていたレオンの腹が、ぐう、と鳴った。
 外はすっかり暗くなってしまっている。
「そういえば、夕食……忘れていたな」
 夕方拠点に戻ってきてすぐにこうなったから、もうとっくに夕食の時間は過ぎていた。今日の食事当番には今更頼めまい。
「私が作ろう! などと言えないところが悔しいところだが……」
 ヒノカは自分の料理の実力をよく分かっていたから、自分だけが食べるならともかく、それをレオンに食べさせようなどという気は微塵も起きなかった。レオンもそれはさすがに否定せず、曖昧に笑って頷いた。
「ヒノカをいっぱい食べたから満腹だよ、とでも言えれば格好良かったのかもしれないけど」
「……いや、それはさすがに恥ずかしいぞ……」
「はは。まあ、そういうわけにはいかないし、現にお腹は減ってるしね。どこか食べに行こうか」
 レオンが身体を起こすのにつられて、ヒノカも被っていた布団をはね除ける。
 床に折り重なって落ちた衣服を身に着けながら、ヒノカは妙な高揚感を覚えていた。レオンと二人きりで仲間達のいない場所に出かけることはこれまであまりなかったから、余計にうきうきとしてしまうのかもしれない。
「楽しみだな」
 ヒノカがそう呟くと、レオンも服を着ながら頷いた。
「僕も楽しみだよ。何を食べようか」
 白夜料理と暗夜料理のどっちがいいかなどと考えながら、二人は手を繋いで部屋を出て行った。
 寝室には、二人が乱れ合った後の濃密な匂いだけが残されていた。
(2016.7.23)
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