君でなければ

 それは、何気ない問いから始まった。
「みつるぎ検事って、好きな女の人とかいないんですか?」
 御剣は思わず出された茶を吹き出しそうになった。その場に成歩堂がいなかったのが幸いだった。
 ある用件があって成歩堂法律事務所を訪ねてきた御剣だったが、成歩堂はあいにく留守だったために、待たせてもらっていたのだった。真宵がお茶を出してくれ、軽く礼を言ってから飲んでいた時に、突然そんなことを訊かれたのだ。
 御剣は努めて冷静に見えるよう湯飲みを置いて、真宵を見た。
「一体それは、どういう経緯で出された質問なのだ」
「ただの好奇心です。彼女とか、いないんですか?」
「まあ、今のところは」
 御剣はそう答えた後で、実のところほとんどないが、と心の中で付け加えた。一方的に女性から好意を寄せられることはあっても、それが双方の付き合いに発展することはなかった。
 真宵はふうん、と言った後で、首を傾げた。
「なんか、イメージと違うなあ。みつるぎ検事って、すごく女の人に人気ありそうなのになあ」
「そう見えるかね?」
「ええ、そりゃあもう! 違うんですか?」
「む、さてな。その辺りは、私の知るところではない」
 そう答えて、御剣は再び湯飲みを口につけた。それで少し喉を潤した後、御剣は反対に真宵に尋ね返した。
「そういう真宵くんはどうなのかね?」
「えっ。あたしですか?」
「そうだ。そういう感情を抱いた男はいるのか?」
 実のところ、この質問は御剣にとって綱渡りのようなものだった。真宵にほのかな感情を抱いている今、この質問は全ての綱を断ちきるか、それとも渡らせてくれるかを決める重要なものだった。
 真宵は考える仕草をして、唸りながら言った。
「ううん……あんまり、そういうことを考えたことはないです。男の人と会う機会も、ほとんどないし」
 やはり、と心の中で納得していると、真宵が付け加えた。
「でもまあ、そろそろ縁談とか来そうな気はしますけど」
 御剣は仰天した。真宵はまだ十九歳の、御剣にとっては少女である。そんな彼女に縁談が来ることなど、御剣は今まで想像したこともなかった。
 その後で、彼女は綾里家という旧家の娘であるから、確かにそういう話が来ても不思議ではないのだろうかと思い直す。御剣はいまいちその存在を信じ切れていないが、彼女は霊媒師なのである。おまけに彼女は次期家元だという話だから、その縁もあって見合いの話などはよく来るのかもしれない。
「それで、君はその縁談で満足して一生を送るつもりなのか」
 なんとなく冷たい物言いになってしまい、御剣は慌てた。だが真宵はその点は気にしていないようで、何の反応も見せなかった。代わりに、御剣の言葉の内容に反応した。
「でも、それはある程度仕方がないかなって思うんです」
「仕方がない?」
「仮に、あたしに好きな人ができたとして、その人を綾里家に巻き込みたくないんです。綾里家の人間は女性にしか霊力が現れないことになっているから、どうしても家の中では男性がないがしろにされがちだし……そのせいで仲が悪くなっていった夫婦を、あたしは何人も見ているから」
 真宵はそう言って目を伏せた。そういうわけだったのかと、御剣も合点がいった。彼女は全く何も考えていないわけではなかったのだ。
 しかしそれで、御剣は完全に納得したわけではなかった。御剣は真宵を真っ直ぐに見据え、言葉を発した。
「それは結構な心がけだと言いたいところだが、君は君自身のことは考えていないようだな」
「えっ、あたし自身?」
 真宵は顔を上げ、目を丸くした。
「そうだ。君はその、愛し合った男と一緒になりたいという気持ちが全くないわけではなかろう。その気持ちを押し殺してまで、家のために別の男と結婚する道を選ぶのか?」
「そ、それは……」
 真宵はそう言われて、上げていた顔を再び下げた。戸惑っている様子だった。あともう一押しだ。御剣は続けて、言葉を発した。
「それに、君がその男を愛していて、その男が君を愛してくれているなら、家のことというのは全く関係ないのではないかね」
「…………」
 真宵はびっくりしたような表情になって、まじまじと御剣の方を見つめてきた。御剣は自分の方が驚いて、真宵に尋ねた。
「な、なんだ。何か変なことを言ってしまっただろうか」
「あ、いえ、そういうわけじゃなくて。ただ、みつるぎ検事ってそういうことを語る人には見えなかったから」
「ム。確かに、らしくなかったことは認めよう」
 御剣はごまかすように咳払いをした。つい、彼女のことを思う気持ちの方が勝ってしまい、あんなことを言ってしまった。
 彼女の幸せ。それが一体何であるか、御剣には分からない。おそらく彼女にも分からないのだろう。しかし、彼女が望まない結婚をして一生を送ることに、納得する訳にはいかなかった。背負っているものが一般人と違いすぎるとはいえ、彼女にも一般人と同じ幸せを主張する権利はあるはずだ。
 真宵はしばらく考え込んでいたが、やがて御剣に笑顔を見せた。いつもの笑顔だ。御剣はなんとなくほっとして、思わず頬を緩めた。
「ありがとうございます、みつるぎ検事。あたしのためを思って、言ってくれたんですよね」
「ま、まあ、君は大切な人だからな。成歩堂の」
 とってつけたような『成歩堂の』の言い方に、御剣自身が辟易する。真宵がその真意に何も気付いていないらしいことだけが幸いだった。ただ、その大切な人という言い方に、引っかかりを覚えたようだ。
「あの、みつるぎ検事も誤解しているのかもしれませんけど、あたしとなるほどくんは何もないですよ。本当に!」
「い、いや、深い意味はないのだ。成歩堂は君のことを、一人の人間として大切にしていると、そう言いたかった」
 御剣が言い訳すると、真宵はほっとした表情になった。
「そ、そうですか。だったら良かった」
「え?」
「あ、な、なんでもないんです」
 そう言って、真宵は笑った。それがなんとなく、御剣にはとってつけたようなものである気がした。何かが不自然だった。そうは考えてみても、何が不自然なのか、そこまでは分からなかったのだが。
 その後で、真宵は何かを思いついたように手を打ち、御剣に言った。
「それより、みつるぎ検事。今、彼女いないんですよね?」
「む。ああ、そうだが」
 また自分が追いつめられるのだろうかと危惧しつつ、御剣は残っていた茶をすすった。その後、真宵は考えるような仕草をしながら、とんでもないことを言い放った。
「じゃあ、あたし、立候補しちゃおうかなあ」
 御剣は再び茶を吹き出しそうになった。口元を手でぬぐい、真宵を見た。
「な、何を言い出すのだ。いきなり」
「どうですか、みつるぎ検事! あたしじゃ駄目ですか?」
 駄目な訳がない。そう答えようとして、御剣は危うく思いとどまった。それではあまりにもストレートすぎる。その言葉を出そうとしただけで喉が焼き付きそうだ。ならば何と答えれば良いのか。ここは冷静を装って、本心にもない言葉を言うべきなのか。
 御剣がしどろもどろになっていると、急に真宵が弾けたように笑い出した。御剣はぽかんとした。真宵はひとしきり笑った後、まだ状況の掴めていない御剣に言った。
「あはは、冗談ですよ、冗談。ごめんなさい、ちょっとからかってみただけです」
 途端に、御剣の体から力が抜けた。
「なんだ。そうなのか」
「だって、あたしとみつるぎ検事じゃ、きっとつりあわないですよ。みつるぎ検事にはもっとキレイなオトナの人が似合うんじゃないかなあ」
 真宵は手を顎に当てて、自分が今言った言葉の内容を想像しているようだった。御剣の体に、何か寒気のようなものが走った。真宵が今想像していること。それはなんとおぞましいことなのだろう。彼女の想像の中で、自分はきっと真宵以外の女性と微笑みながら立っている。そんなことは考えたくもないことだった。
「真宵くん」
 彼女の想像を邪魔しようとして、御剣は口を開いた。真宵は驚いたように飛び上がった。
「え? な、なんですか?」
「もし、私が君でもいいと言ったら、どうするかね」
 しまったと思ったが、もう後の祭りだった。喉が焼けこげてしまいそうなくらい熱かった。真宵は案の定、今までにないくらい目を大きく開き、口も少し開けた。
「え、あ、あの。冗談ですよね?」
 こうなれば、もうヤケだった。御剣は真剣な瞳で真宵を見つめ、静かに言った。
「冗談ではないとしたら、どうする?」
「あ、あの、それって、本気で言ってくれてるってことですか?」
「私の表情を見て判断してくれ」
 ずるいと思いながら、御剣は全ての判断を真宵に委ねた。真宵は戸惑ったような表情でじっと御剣を見つめた後、頬を少し赤らめて、小さな声で言った。
「えっと……あの、もし本気で言ってくれたんだったら、あたしは嬉しいけど……でも、本当にあたしなんかで?」
 真宵は自分の価値を疑っているような言い方をした。御剣は小さく溜息を吐き、真宵に言った。
「真宵くん。君は、考えたことがなかったのか。君でなければならないと思っている男が、君の周りにいるかもしれないという可能性を」
 真宵は少し黙り込んだ後、目を伏せて首を横に振った。
「ううん。なかった。そんなこと、考えたこともなかった……」
「ならば、はっきりと言うべきなのだろうな」
 御剣はそこで一呼吸置いた後、言葉を続けた。
「私が、そのように思っていた男の一人である、と」
「み、みつるぎ検事……」
 自分ですら想像もしなかった告白の仕方であると、御剣はぼんやりと思った。「好きだ」「付き合ってくれ」「愛している」――今まで御剣の頭の中を回っていた愛の言葉たちが、一気に霧散した。ストレートな言葉なら、自分の思っていることをいとも簡単に伝えることが出来る。だがその裏で、ストレートな言葉だけでは伝えられないこともあるということを、御剣は今更ながらに感じていた。
 目の前の真宵は、未だに惑っている様子だった。御剣はソファから立ち上がった。つられて、真宵の視線が自分の顔に移動していくのが分かった。なんとなく、それが心地よかった。
「私ももう、仕事に戻らねばならん。すまないが真宵くん、後で電話をかけてくれるよう、成歩堂に伝えてくれるだろうか」
「あっ、ははは、はい!」
 真宵はどもりながら、勢いよく頷いた。御剣は微笑して、その後顔をきりと引き締めた。
「真宵くん。先程言ったことは、私の本心だ」
 あ、と真宵の口から声がもれる。
「だが、君が過剰に気に病む必要はない。無論君が嫌なら、返事を強制する気もない。ただつまらぬ男の戯れ言として、聞き流しておいてくれれば良いのだ」
「あ、でも、みつるぎ検事……」
「それでは、またな」
 御剣はそう言って、早々に事務所の扉を開けて外へ出た。一気に、肩の荷が降りた気がした。自分は言うべきことを言ったのだ。成すべきことを成したのだ――そんな小さな達成感が、自分の中に生まれる。
 御剣はズボンのポケットに手を入れ、駆けるようにして通りへと出た。人々の喧噪がまとわりついてきたが、気にすることはなかった。何故だかは分からないが、とてつもなく自分が上機嫌であることは確からしかった。
 ――逃げたように、思われただろうか。
 その後で、先程のことを少しだけ後悔した。それでも御剣の気分がさほど変わることはなかった。
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