御剣が成歩堂法律事務所を訪ねたとき、そこには助手の真宵しかいなかった。成歩堂は依頼人の家族の話を聞くため、外へ出ているのだという。
とりあえず、御剣は事務所で待たせてもらうことにして、革張りの高級そうな来客用ソファに身を沈めた。
しばらくすると、真宵がお盆にお茶を載せて持ってきた。慣れた手つきで、はい、と御剣に湯飲みを差し出す。
「みつるぎ検事、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
御剣は軽く礼を言って、早速お茶をすすった。だがそれは予想外に熱く、食道が焼け付くような感覚がして、御剣は眉間に皺を寄せた。もう少しゆっくりと飲むべきだったと後悔した。
そんな御剣の顔を、真宵はじっと見つめ、くすりと笑い声をもらした。
「みつるぎ検事。そんなに熱かったですか? お茶」
「む……まあ、少し、な」
「少し、って顔じゃなかったですよ、今の」
面白そうににやにやと笑う真宵を前に、御剣はむむ、と唸った。そして、今度は先程よりも慎重に茶をすすった。先程火傷したらしい舌が、ぴりぴりと痺れた。
真宵はお盆を机の上に置くと、御剣の隣に座った。真宵がソファに勢いよく座ったお陰で、御剣の身体まで跳ね上がり、危うく湯飲みを落とすところだった。
真宵は座ってすぐ、ふわあ、とあくびをした。直後、ため息を洩らし、事務所の壁に掛かっている時計を見上げる。
「なるほどくん、早く帰ってこないかなあ。眠いよ……」
「夜更かしでもしていたのか?」
御剣が尋ねると、真宵はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「昨日、映画、見てたんですよ。恋愛映画。見始めたら、止まらなくなっちゃって」
「ほう」
彼女はもっとお子様受けのしそうなものを好むように思えたが、やはり女の子なのだな、と御剣は認識を改めた。彼女くらいの年の女の子なら、恋愛に興味を持つのは当たり前のことだろう。
「あれ、すごかったなあ。もう、とにかく、彼氏役の男の人がかっこよくって!」
映画のことを思い出したのか、真宵の目は、きらきらと輝き始めた。
「親にケッコンを反対されて悲しむヒロインに、こう言うんですよ。『大切なのは親の言葉なんかじゃない――』」
「『――俺と君の、本当の気持ちだ』だったか」
御剣が台本を読み上げるように淡々と台詞を口にすると、真宵が驚いたように目を丸くした。
「えええーっ! なんでその台詞、わかるんですか!?」
真宵の反応を内心楽しみながら、御剣は唇の端に笑みを浮かべる。
「私も君と同じように夜更かしをしていたのだよ。まあ、私は映画を見るために夜更かしをしていたのではないが」
「え、それじゃあ……」
「昨日は家に持ち帰った仕事がなかなか片付かなくてな。息抜きにテレビを付けたら、ちょうどそのシーンだったというわけだ」
種明かしをすると、真宵はつまらなさそうな顔をした。
「なあんだ。みつるぎ検事がついに超能力でも使えるようになったかと思ったのに」
「残念だったな」
結局御剣はそのシーンだけ見て、くだらないと電源を切ってしまったが、真宵を驚かせることができただけ、見たかいがあったというものだ。
真宵の驚いた顔を思い返し、優越感に似た思いに浸っていると、真宵が思いがけない質問をしてきた。
「あの、じゃあ、最後のシーンはちゃんと覚えてますよね! ヒロインと彼氏の、あのシーン!」
「さ、最後のシーン……?」
御剣は焦った。例の台詞のシーンしか見ていないから、最後のシーンがどうなっていたかなど、御剣には知るよしもない。御剣の背に嫌な汗が流れた。当然知っているだろうと言わんばかりの真宵の瞳を見て、御剣は思わず目を逸らしたくなる。
「さ、さあ。何だったか……」
「ええええっ! 覚えてないわけ、ないですよね!? あんなにいいシーンだったのに!」
真宵の目が徐々に険しくなる。まるで尋問を受ける証人になった気分だった。いつもは追い詰める側であるというのに。
御剣に聞いても仕方がないと判断したのか、ピン、と人差し指を立てて、真宵はその答えを言った。
「キスですよ、キス! ケッコンが決まって、コイビト同士としての、最後のキスをするんですよ!」
「き、きす……」
それが魚の種類を表す単語でないということは、御剣にも分かった。
真宵の目が再びきらきらと輝き始めたのを見て、真宵にとってはキスという言葉がとても甘い響きに聞こえるのだろうな、と他人事のように想像した。そんな彼女を、初々しくも思った。彼女はどう見ても、恋愛経験が豊富なようには思えない。
「キスシーンって、すっごいドキドキしますよね! あたし、あんなにドキドキしたの、初めてだったなー」
「そ、そうか」
自分は何もしていないはずなのに、何故か、御剣の顔が熱くなる。
御剣とて、真宵のことを馬鹿にしていられる立場ではない。彼女とは年が離れているが、自分の恋愛経験も、決して豊富といえるものではなかった。
「ね、ね。みつるぎ検事は、キスしたことありますか?」
真剣な表情で質問してくるものだから、はじめ、その質問がとんでもないものであるということに気付かなかった。そのまま答えそうになって、直後、質問の内容に気付き、大きく咳払いをした。
「ゴ、ゴホン! ま、真宵くん。何なのだ、その質問は」
「え? 何って、そのままの意味ですよ。……もしかして、みつるぎ検事、キスしたことないんですか?」
「なッ!?」
あまりの衝撃に、再び湯飲みを落としそうになる。御剣は持ったままだった湯飲みを慎重に机の上に置いた後、真宵に向き直った。
「真宵くん。その質問は、私に尋ねるべきものではないだろう」
「どうしてですか? ほんとにキスしたこと、ないんですか?」
御剣は咳払いをすると、迫ってくる真宵をやり過ごし、茶でからからに乾いた喉を潤した。
答える気はない、といった御剣の反応を見て、真宵はつまらなさそうに頬を膨らませる。
「なあんだ。みつるぎ検事、したことないんだ。どんな感じか、聞きたかったのになー」
彼女に勝手に解釈された上、つまらなさそうな顔をされるのは不本意だが、仕方がない。とりあえず、追及は終わったかと、御剣は息をついた。
だが、直後、真宵のとんでもない提案に、ひっくり返りそうになるのだった。
「じゃあ、今、しましょうよ! どんな感じか」
「ゴホン! ま、真宵くん。君は自分で何を言っているか、分かっているのか」
「わ、分かってますよ! もちろん。キス、しましょうよ、みつるぎ検事!」
御剣はめまいがした。ああ、このめまいが続いて、いっそ気を失ってしまえればどんなに気が楽か。だが、御剣の意識は思いに反していやにはっきりしていた。心臓の鼓動が速くなっていくのが分かる。
――わ、私が、真宵くんと……だが……
今まで、彼女を"成歩堂の助手"として以外の目で見たことはなかった。だが、目の前にいる彼女を見ていると、何故か心に、果物を頬張ったときのような甘酸っぱい気持ちが満ちるのだった。
彼女はもうすぐ二十歳の女の子だ。子供だと言って退けるのは、あまりに彼女をないがしろにしすぎているように思う。
「本気なのか?」
尋ねると、真宵はこくり、と頷いた。その表情は真剣そのものだった。彼女は彼女なりに、覚悟を決めているのだろう。ならば、御剣も腹をくくるより、仕方あるまい。
「いいのだな、本当に。後悔しないか」
「はい、し、しませんっ」
やや声が裏返っている気もするが、それはきっと真宵が緊張しているからだろう。
真宵は目を閉じることなく、しっかりと御剣を見つめていた。やりにくいような気もしたが、そんなことで悩んでいても仕方がないと、ゆっくり、顔を近づけていった。
真宵の髪が、御剣の額にかかる。もうすぐ唇が触れるというところになって、急に真宵が大声を上げた。
「あっ! ま、待ってください!」
御剣は驚いて、顔を引き戻した。真宵は顔を真っ赤にしたまま、申し訳なさそうに御剣を見た。
「あ、あの。ごめんなさい。や、やっぱり、やめましょう。キスなんて」
御剣は目を見開いた。あんなにキスをしたがっていたのに、この心変わりは一体何だというのか。
覚悟を決める前の御剣なら、それでいいとあっさり引き下がっていたところだが、なまじ覚悟を決めてしまった後だったものだから、理由もなく引き下がることはできなかった。
「今更どうしたのだ。私では、不満か」
「そ、そうじゃなくて。あ、あの。やっぱり、キスって、本当に好きな人とするものだと思うから……」
真宵は視線を斜め下にやった。その顔は、みるみるうちに熟れたトマトのように赤くなる。御剣は真宵の顎に手をやり、逸らされた顔を無理矢理こちらに向けた。
「私が、君を」
彼女の揺れる瞳を見つめた途端、御剣の口から言葉が飛び出していた。
「君を好きだというだけでは、不満なのだろうか」
直後、自分は一体何を口走ったのだろうと、御剣はぼんやり考えた。だが、言葉を撤回する気はなかった。真宵の目がゆっくりと見開かれる。瑞々しい色の唇が、微かに震えた。
「そ、そんな、聞いてないよ……っん……」
御剣は真宵のその、柔らかな唇に口付けた。
彼女は頑なに口を閉ざしたが、抵抗する素振りは見られなかった。御剣も気遣って、真宵の唇を貪るような真似はしなかった。だが、触れているだけなのに、その場所から艶めかしい音が響いた。
顔を離して真宵の表情を窺うと、真宵は未だに顔を真っ赤にしたまま、御剣を見つめていた。
「さ、さっきの、ほんとう、ですか……?」
「私が、嘘を言うような人間に見えるのだろうか」
「でも、し、信じられない。みつるぎ検事が、あたしのこと……」
無理もないだろう。御剣だって未だに、自分の気持ちが驚くほどするすると口から出てきたことが信じられなかった。それを自分の本当の気持ちだと自覚したこともほとんどなかったのに、だ。
正直、驚いている。だがそんなことよりも、御剣には訊きたいことがあった。
「それより、君はどうなのだろうか。私は、君の本当の気持ちが聞きたい」
「あたし……」
真宵は言葉に詰まった。瞳を動かして、考えているようだった。考える時間はたっぷりある。御剣が手を伸ばし、真宵の前髪にそっと触れた時、真宵はぱっと目を開いて、御剣の顔を見つめた。
「あたし……好きでもない人と、その、キスなんて、できないと思います」
十分すぎる答えだった。
「そうか。安心した」
真宵の前髪をさらりと撫でると、真宵が、あの、と遠慮がちに声を出した。
「み、みつるぎ検事。あの……もう一回、してもいいですか?」
「……ああ、いいとも」
真宵の申し出に内心驚きながら、御剣は快諾した。
だが、そのまま顔を近づけてきた真宵を、待った、と手で遮った。
「君がしてくれるということは、思ってもいいのだな? 君が私と同じ気持ちでいると」
「あ……はい、たぶん……」
「なら、これは儀式だ。君と私が、今までの関係を終えるための」
「今までの、カンケイ……?」
瞳の中に疑問を宿す真宵に、御剣はああ、と頷く。
「君は昨日見たのだろう。コイビトを終える、最後の口付けを」
「あ、はい……」
真宵が見たという映画のラストシーンを思い浮かべながら、御剣は言葉を続けた。
「ならば、私と君は……そうだな、友人ということにしておくか。その友人という関係を、今から終えるために、口付けをするのだ」
「お、終わったら、どうなるんですか?」
「新しい関係になる。それを、君が気に入るかどうか、分からないが」
新しい関係、すなわち恋人同士、ということになるだろう。御剣の言葉に、真宵はこくりと頷いた。その表情に、迷いはもう見られなかった。
「じゃあ、してもいいですか……?」
「ああ」
真宵の顔が近づく。そして、互いの髪が額に触れて、唇から微かな水音が響いた。
それは、永遠の時間のように思われた。学校行事で壇上に立った校長の話を聞いている時に感じるくらいの、長さ。だがそこに、気だるさは感じられなかった。ただ心に翼が生えて、鳥が青い空へ飛び立つかのような、明るいイメージが浮かんでいた。