獲物を狙う鷹のような鋭い視線が交差する。
互いに互いの目を見つめ合い、まるで掴んで離さぬとでもいうように目に力を込める。少しでも視線を逸らせば負けを認めるのと同義だった。少しばかり前屈みになりながら、御剣は腕を組み、真宵は胸の前で拳を作っていた。
成歩堂の呆れたような視線と、春美の心配そうだが興味津々といった様子の視線に見守られながら、まず口を開いたのは真宵だった。好戦的な笑みを唇に浮かべ、御剣をじっと見つめる。
「いいんですか? みつるぎ検事。負けても言い訳はナシですよ」
「無論だ。言い訳も何も、これは公平な勝負。この私が、見苦しく言い訳などするワケがなかろう」
「それを聞いて安心しました。これからあたしが勝つんですから、言い訳されちゃったら困りますもんね」
真宵はやや顎を上に傾け、胸を張って自信満々と言った表情で御剣に視線を送る。一方の御剣もそれにたじろいだりはせず、むしろ冷静にその様子を見ていた。真宵のちょっとした挑発でも取り乱さないのは、踏んでいる場数が違うからであろうか。
「フム、それはどうだろうか。勝負の前からそのような宣言をしていると、負けた時に惨めな姿を晒すことになるぞ?」
「大丈夫ですよ。あたし、負けませんから」
姿勢を崩さない真宵を見て、ほう、と御剣は顎をさする。
「随分自信満々のようだ。その自信の根拠を聞いても良いだろうか?」
「だってあたし、負けたことがないんですよ。生まれてから一度も。だから今だって、勝つに決まってます」
自信に満ち溢れた口調で、真宵は言い放った。
御剣の口が有り得ない、と言葉を紡ぐ前に、慌てて出かかった声を喉の奥に押し込める。今までの彼女の人生の中で、こうした戦いは一度や二度ではなかったはずだ。それなのに全勝しているとは、よほど運が良いということなのだろう。確率的には決して有り得ない話ではない。彼女が嘘をついていないと信じるとして、それならば一層気を引き締めねばならん、と御剣は思い直した。
真宵は相変わらず余裕たっぷりの笑みを浮かべている。御剣は組んでいた腕をほどき、右手をぐっと握りしめた。果たして自分の手がどこまで通用するものか――こればかりは、いくら頭脳明晰な御剣とて操作のしようのないことだ。確率計算を頭の中でしてみても、何の意味もない。それはあくまで希望の数値であって、結果に結びつくものではないからだ。
「じゃあ、いいですか、みつるぎ検事?」
御剣はやや俯きかけていた顔を上げ、うム、と頷いた。
「やるとしよう」
腹をくくらねばならない。一度で勝負は決まる。無論引き分けになることだってあるだろうが、そのことは考えないことにした。
右手の指にかけた力を緩め、真宵と自分を隔てているテーブルの上に出す。真宵も同じように、自身の右手を出してきた。真宵の座っているソファの隣で、春美が視線を彷徨わせていた。この戦いがどうなるか、不安で仕方がないのだろう。
――耐えてくれ春美くん。一瞬で終わる。
「では、行くぞ」
ごくりと唾を飲み込む。自身の拳を見つめていた真宵の視線が、ちらとこちらへ向いたのに気付いた。それが合図とばかりに、御剣は声を張り上げる。
「じゃん」
「けん!」
「「ぽん!」」
はっ、と春美が息をのむのが聞こえた。いつの間にか成歩堂まで、デスクから身を乗り出して二人の手を見つめていた。
刹那、真宵の唇の端がきゅっとつり上がった。御剣は呆然として真宵の手を見つめていた。二本の長い指がぴんと立ち、まるで刃物を向けるかのように鋭く御剣の手を捉えている。御剣は自分の手へ視線を落とした。五本の指が太陽のように開かれ、真宵の手へと真っ直ぐに向けられている。
その様はまるで、残酷なる処刑人と処刑を待つ哀れな人間のようだった。
御剣の唇が震え出した。ばかな、ありえない。口の中で何度も繰り返した。確かに自分は、直前まで閉じられていた彼女の拳を見ていたはずなのだ。彼女に自分の手が読まれていたとでも言うのだろうか。否それとも、彼女には本当に幸運の女神がついているとでも言うのか――
「真宵ちゃんの勝ちだね」
成歩堂の声をきっかけに、張り詰めていた空気が動き出した。春美は我が事のように両手を挙げ、歓声を上げながら真宵に駆け寄った。
「おめでとうございます、真宵さま!」
「へへん。あたしが本気出したら、こんなもんだよ」
真宵は自慢げに胸を張る。春美は目を輝かせ、何か偉大なものを崇めるかのように真宵を見上げていた。
一方の御剣は茫然自失しており、言葉一つ発する気力さえ持ち合わせていなかった。何故負けた。その問いが御剣を責め続けた。自分の目がおかしかったのか、それとも彼女が全て読んでいたのか、それとも運命のいたずらか。三番目の可能性だけは、できれば考えたくなかった。およそ非科学的なものを全て嫌っている御剣にとって、運などというものは最も忌むべき事柄だったからだ。
「おい、御剣。お前、ショック受けすぎだぞ」
俯いたまま一言も発しない御剣に対し、成歩堂の苦笑した声が聞こえたが、御剣は聞こえないふりをして自分の思考に没頭した。何が原因で負けた。何が問題だ。自分は一体、どうすれば良かったのだ――?
「みつるぎ検事!」
いつの間にか、真宵が自分の顔を至近距離で覗き込んでいた。さすがの御剣も冷静に対処できず、
「うわあっ!」
と太い声を出してのけぞった。その反応があまりにおかしかったのか、真宵はくすくすと笑い出した。心の奥底にあるプライドを傷つけられたような気がして、御剣はすぐに姿勢を立て直し、なるべくそこにいる人々に目を合わせないようにしながら、何事もなかったかのようにフリルタイを締め直した。
真宵はテーブルの上に置かれていた、トノサマンのイベント限定フィギュアを抱き上げると、御剣に向かってにこりと笑った。
「じゃ、みつるぎ検事、これはもらっていきますね。いいよね、なるほどくん?」
「ああ。真宵ちゃんが勝ったからね。好きなようにするといいよ」
元の持ち主の許可を得た真宵は、今まで以上に喜び、フィギュアを持ったままその場で飛び跳ねた。
「やったーっ! イベント、行きたかったのに行けなかったんだよねー。いやーホント、あたしたちが荷星さんと知り合いで良かったね」
「ああ。荷星さんが最後に残ってたヤツだからってくれたものだからね」
荷星とは、初代トノサマンを演じていた男である。数年前無実の罪で逮捕され、裁判にかけられた際、御剣は検事として彼の罪を追及していた。偶然にもその時、彼の弁護士として現れたのが成歩堂であった。成歩堂は見事彼の無実を証明し、それ以来荷星とは良好な関係を築いているようだった。真宵が今抱き上げているフィギュアも、成歩堂が彼からもらってきたのだという。
密かにトノサマンのファンである御剣も、そのフィギュアに興味がないわけがなかった。だが大切な裁判がイベントの日と重なり、フィギュアを買いに行くことができなくなってしまったのだ。身近にトノサマン好きの友人でもいれば買い物を頼めただろうが、あいにくそのような友人は一人もいなかった。そもそも御剣がトノサマンのファンだという事実は、御剣本人以外誰も知らないはずだった。
泣く泣く諦めた御剣が今日偶然にも成歩堂法律事務所を訪れ、テーブルの上にフィギュアが綺麗なまま無防備な状態で置かれていたのを発見した時は、夢でも見ているのかと思った。
「そ、そのトノ……奇妙な人形は、一体誰のものなのだ」
御剣がなるべく無関心を装いながら尋ねると、成歩堂はあっさりと答えた。
「ああ、それ? もらったんだよ、昔の依頼人から。荷星さんって覚えてるだろ?」
覚えていないわけがなかった。過去のトノサマンシリーズに出ていた俳優は、全て完璧に把握している。何より自分は彼の事件を担当していたから、覚えていて当然だった。
「それで、これはキサマのモノなのか」
「いや、僕はあいにくトノサマンには興味がないからね。真宵ちゃんにあげようかと思ってるんだ。あの子、トノサマン大好きだから」
何と言うことだ、と御剣は内心頭を抱えた。真宵の手に渡れば、もう御剣のものにはならなくなってしまうのだ。今は手を伸ばせば掴めるくらい近い距離にあるというのに。
たかがフィギュアで、と世間の人々は言うかもしれない。だがこれは先日のイベント限定で販売されたフィギュアであり、今は決して手に入らない幻の品である。一般人に価値が分からなくとも、ファンにとっては喉から手が出るほど欲しい品だ。
御剣は少しの間躊躇っていたが意を決し、成歩堂に向かって言葉を発した。
「その、成歩堂。相談なのだが……」
「ん? 何だ?」
「あの人形を、その、私に譲ってはもらえないだろうか」
成歩堂は驚いたように目を丸くした。
「御剣に? そりゃ構わないけど、お前、トノサマン好きだったっけ?」
「ち、違う! 断じて、そういうワケではないッ!」
御剣は思わずムキになって反論していた。
身体を引き、ますます面食らった顔をしている成歩堂を見て、冷静になった御剣は慌てて咳払いをして誤魔化した。あんな語調で言えば、自分がトノサマンファンだと自ら告白しているようなものだ――御剣は後悔したが、幸い成歩堂は、その事実に気が付いていないようだった。
「そ、そうか。じゃあ、どうして?」
「その、私の同僚にはトノサマンの好きな子供がいるそうなのだが、その子も確かそのフィギュアを欲しがっていたのだ。だから私に譲ってもらいたいのだが」
あまりにも苦しい言い訳だった。自分の真意がばれやしないかと御剣は冷や冷やしたが、成歩堂は深く追及することはなく、ふうん、と言って納得したようだった。御剣は内心ほっとため息をつきながら、成歩堂の出方を窺った。
するとその時、成歩堂法律事務所の扉が前触れもなく開いた。成歩堂と御剣が同時に振り返ると、視界に二人の少女の姿が映った。
「ただいまー!」
「ただいま戻りました、なるほどくん」
「おかえり。買い物ご苦労様」
少女たちは真宵と春美であった。噂をすればなんとやらである。
彼女たちは抱えていたスーパーの袋を御剣の目の前のテーブルに置いたところで、来訪者の存在に気付いたようだった。
「あっ、みつるぎ検事! 来てたんですね!」
「う、うム。お邪魔している」
まずいことになったな、と内心思いつつも、表情には出さなかった。真宵が帰ってきた。ということは、すんなりあのフィギュアを渡される確率はゼロになった、ということである。
案の定、真宵はすぐに例のフィギュアを見つけてはしゃぎだした。御剣は気まずい思いになりながら、成歩堂が真宵に今までの話を伝えるのを、黙って横で聞いていた。
聞き終わった途端、真宵は御剣に視線を向けてきた。それは普段の真宵とは違う、完全に敵意のこもった視線であった。同好の士は、時に敵にもなり得る。御剣は腹をくくった。
「みつるぎ検事も、これ、欲しいんですか?」
「う、うム。正確には、私の同僚の子供さんだが」
「どうしても、ですか?」
「う……うム。どうしても、だ」
「じゃあ、仕方がないですね。勝負です」
真宵は好戦的な笑みを浮かべ、片腕を差し出してきた。御剣は突然のことにきょとん、とする。
「な、なんだ?」
「決まってるじゃないですか、みつるぎ検事。ジャンケンですよ、ジャンケン!」
真宵は高らかに宣言し、かくして戦いの火蓋は切られたのである――
その勝負も真宵の完全勝利で終わってしまった。もう為す術がない。御剣はため息を一つついた後、ソファから立ち上がった。
「すまない、私は帰らせてもらう。邪魔をしたな、成歩堂」
「ああ、残念だったな、御剣」
「別に構わん、私が欲しいのではないのだから。それではな」
最後に負け惜しみの嘘を吐いて、御剣は事務所を出て行こうとした。すると真宵が立ち上がり、御剣の背中に声をかけた。
「みつるぎ検事! あたし、下まで送って行きますよ!」
「あ、ああ……」
別にいい、と言う前に、真宵は御剣と一緒に外に出てきて扉を閉めた。戦利品のフィギュアを抱えたまま、御剣ににこりと笑いかける。御剣は真宵の意図が掴めず、ただ呆然として真宵を見つめていた。
「みつるぎ検事って、ホントはトノサマン、好きなんでしょ?」
唐突な問いに、心臓が飛び出る思いをした。御剣は慌てて咳払いをする。
「ゴホン! 真宵くん、それはどういう――」
「隠してもダメですよ。だって、あの時のみつるぎ検事の目。ホンキだったもん! 誰かにあげるためだけなら、あんなホンキの目、しませんよ」
御剣はあっけにとられて真宵を見つめていた。
「ね。あたし、名スイリでしょ」
完全に何も言えなくなってしまった御剣を見て、真宵はにこりと笑った。
御剣は一瞬の後、大きくため息を吐いていた。その顔は笑っている。やられた――真宵は御剣の事情を全て見通していたのだ。不完全で苦しい言い訳だというのは自覚していたが、まさか彼女に見破られるとは思いもしなかった。
「降参だ。君には敵わないな」
「隠し事はムダですよ。だってあたしもトノサマン好きの一人ですからね!」
「そうか、その通りだな。私が甘かった」
御剣はもう一度ため息を吐いた。完敗だった。
彼女はお気楽な性格に見えるから、一見このような鋭い感性は持ち合わせていないように感じる。だが、その見方は誤りだったらしい。
何より彼女は“あの”成歩堂の助手であるということを、完全に失念していた。成歩堂の奇跡のような逆転劇を隣で見守り、支えてきたのは、いつもこの少女だったのだ。こういう時に鋭い勘が働いたとしても、不思議ではない。
「みつるぎ検事、これ、事務所に置いておきますから。いつでも見に来てくださいね」
真宵は同好の士にだけ通ずるような笑みで、御剣に合図をする。御剣はその合図を受け取り、唇の端に微笑みを浮かべた。
「ああ。君さえよければ、また見に来させて欲しい」
「はい!」
真宵の快い返事を受け取り、御剣は彼女に手を振った後、背を向けて去っていった。
去り際に見せた御剣の顔には、滅多に見せない微笑みが浮かんでいた。