光と闇

「知ってますか? みつるぎ検事。闇は光に、光は闇に惹かれるんですよ」
 突然飛び出した奇妙な表現に、御剣は思わず目を丸くした。
 読書を嗜むような文学少女がその台詞を口にするならまだしも、言ったのはあの真宵である。風邪でも引いたのではないかと、本気で心配する自分がいた。言葉を発することが出来ないまま、自信満々な笑みを浮かべている真宵を呆然と見つめていると、横から苦笑が聞こえた。
「また始まった。それ、ほんとに好きだなあ、真宵ちゃんは」
「なるほどくんには分かんないんだよ。この表現の繊細さは!」
「はいはい」
 成歩堂はすっかり慣れた口調で真宵をあしらう。成歩堂の方がよっぽどこの少女と一緒にいるのだ、嫌でも聞かされる機会が多いのだろう。だが御剣は初めて聞いたものだから、まだどう対応すれば良いのか決めかねていた。何事もなかったかのように話を変えるのが正解なのか、真宵の機嫌を損ねないように同調してやるのが良いのか。どちらにしても心労が増えそうな気がして、御剣は心の中でそっとため息をついた。
 そんな御剣の様子をちらりと窺った成歩堂が、たしなめるような口調になる。
「ほら、御剣が困ってるじゃないか。真宵ちゃんが変なこと言うから」
「違うよ、みつるぎ検事はきっと驚いてるんだよ。この表現があまりにスバラシイから。そうでしょう、ね?」
 真宵が同意を求めてぬっと自分の方に顔を突き出してきた。
「うおっ!」
 驚いた御剣は、思わず声を上げのけぞった。その反応に、真宵は大声を上げて笑い始めた。
 ややあって御剣は、自分が冷静さを欠いた行動をしてしまったことを強く恥じた。真宵の天まで届きそうな笑い声が、御剣の羞恥心を存分に刺激していた。家を出てきた時から一ミリもずれていないはずのフリルタイを直し、御剣はわざとらしく咳払いをした。
「……一つ、聞かせて欲しい」
 努めて冷静な声を出すと、真宵は笑うのを止めてそれに応じた。
「はい、なんですか?」
「君は、どこでそのような表現に出会ったのだ」
 御剣の問いを聞いて、待ってましたと言わんばかりに真宵は顔の端一杯まで唇を広げた。そうして事務所の机の上に置いてあった、白地に黒い題字だけが書いてあるシンプルな本を取り上げて、御剣の前に出した。
「ほらっ、これですよ! この間、買ってきたんです!」
 御剣は本の題字をまじまじと見つめた。『心の中の光と闇』――妙なタイトルの本である。いささか怪しげな宗教の匂いがしないでもないが、成歩堂が何も言わないのであればそういった本であるということもないのだろう。
「何だね、この本は。アヤシイ匂いがするが」
「全然、アヤシくなんかありませんよ!」
 首を横にぶんぶん振って否定する真宵の横から、成歩堂が口を挟む。
「まあ、占いの本みたいなものだよ。出してる人も、占い師の人らしいし」
「ほう……最近はこのようなアヤシイ占いが、人々の間で流行しているのか」
「だから、アヤシくなんかないですって!」
「で、どういった内容なのだ?」
 真宵の抗議の声をかわして、御剣は尋ねた。真宵は本を指さしながら、自信満々に答えた。
「この本によると、人間は光と闇、二種類に分けられるそうなんです。で、光の人間は闇の人間に惹かれ、闇の人間は光の人間に惹かれるんですよ!」
 ここでやっと繋がった。最初真宵が口にした妙な表現はここから来ていたのだ。
 それにしても随分ざっくりした分け方だな、と御剣は心の中で呟いた。占いは人の運勢を血液型や星座などで判断するものが主流ではあるが、統計学的に信憑性がないと言われているそれらの占いでさえ、最低でも人間を四つ以上に分類している。それなのに、真宵が持っているこの本は、人間をたった二種類で分けているというのだ。眉唾物にもほどがある。まあ、女性は占いが好きだと言うから、真宵が夢中になる気持ちも分からないではないのだが。
 御剣は占いなどというものを全く信用しない人間であったが、真宵の瞳があまりにもきらきらと輝いているので、一つ乗ってみることにした。
「それで? その光の人間と闇の人間とやらは、どうやって分けられているというのだ」
「あっ、良かったら、みつるぎ検事がどちらの人間か、今チェックしてあげますよ。どうですか?」
「ふむ……それでは、やってもらうとしようか」
「いいですよ! あっ、ちなみにあたしは、光の人間でした」
「僕も光の人間、らしいよ」
 成歩堂が苦笑混じりに言う。成歩堂も既にこの本によってどちら側の人間か判断されてしまったらしい。
 真宵は本を開いてページをめくり、あった、と呟いて御剣に視線を戻した。何故だかこれから尋問されるような気分になって、御剣は無意識に姿勢を正す。
「いいですか、いきますよ」
「うム」
 そこからは真宵の読み上げる問題に、はいかいいえで答えていくだけの単純なやりとりが続いた。その質問内容も、どうも誘導されているような違和感を感じるものが多かったが、ただの遊びだと割り切って、御剣は淡々と答えた。一つのチェックが終わる度、真宵の好奇心に満ちた視線に耐えなければならなかったが、質問以上のことは何も聞かれなかったのが救いだった。
 全ての問題が終わってから、真宵は集計をし始めた。真剣な表情で一つ一つ数えていた真宵が、やがて嬉しそうに表情を緩める。本から顔を上げたかと思うと、大きな声で高らかに結果を告げた。
「みつるぎ検事は、闇の人間です!」
「闇……」
「へえ。お前、闇の人間だったのか」
 成歩堂がにやにやと笑いながら視線を向けてくる。御剣は眉根を寄せた。なんとなく成歩堂や真宵とは違う種類の人間であるということは自覚していたが、どうも“闇”などという言われ方をするとあまり気分が良くない。
 闇と言われれば、確かにそうなのだろう。あまり感情を表に出す方ではないし、小難しい表情で考え込んでいることが多い。前向きな考え方をすることもほとんどなく、どちらかといえば物事を悲観的に見ている。底抜けに明るく前向きな真宵たちとは、明らかに違っていた。
 だが、自分と彼女らの性質が明らかに違っていることは、以前からわかりきっていたことだった。今為されたことといえば、それらの性質をただ単純に“光”と“闇”に命名しただけのことである。
 時間を無駄にしたような気分だった。ため息をついて、腕時計に目をやる。六時半。事務所の窓から見える景色も、濃紺に染まり始めていた。不意に夜闇という言葉が頭の中に浮かび、御剣は顔をしかめた。
 御剣は脱いでいたコートを羽織りながら立ち上がると、成歩堂に言った。
「そろそろ帰るとしよう。成歩堂、邪魔をしたな。真宵くんも」
「ええっ、もう帰っちゃうんですか?」
「ああ。闇の人間は、闇に還らなければならないからな」
 唇の端に皮肉めいた笑みをにじませながら、御剣は窓の外へ視線を移す。つられて真宵も視線を向け、御剣の言わんとすることを理解したようだった。
「それでは、また」
「ああ、気をつけて」
「また来てくださいね、みつるぎ検事!」
 別れの挨拶を交わし、成歩堂法律事務所を出た。黒いコートの首元をくっと掴み、冷気が入らないようにすると、御剣は夕闇の中へと溶けていった。


 自宅のマンションに帰ってから、御剣は考え込んでいた。あの時はただの占いだと一蹴していたはずなのに、一人になるとまた、光と闇という性質について考えている自分がいた。
 ふと、真宵が最初に言っていたあの言葉を思い出す。『光は闇に惹かれ、闇は光に惹かれる』――自分が真宵や成歩堂のような光の人間に惹かれるのかと言われれば、確かにそうなのかもしれない。どんな窮地に陥っても前向きな考えのできる彼らを、ある意味羨ましいと思ったこともある。
 それに――と、御剣は思った。彼らのおかげで、自分が精神的に救われたところもあったのではないか。御剣がどんな疑いをかけられようとも、最後まで自分を信じてくれた成歩堂。自分の身も顧みず、御剣の窮地を救ってくれた真宵。彼らの行動力は、時に御剣の冷静な論理を遙かに超えた結果を生み出すものであったように思う。彼らの考え方は御剣にとって理解しがたいものでもあったが、それ故に気にかかるものでもあった。――特にあの少女のものは。
 綾里真宵という少女は、一言で言えば奇妙な少女だった。紫色の装束に身を包み、古めかしく髪を結ったその姿だけでも奇妙なのに、更に自分は霊媒師ですなどと言う。まともな神経を持つ人間が見たら、頭のおかしい少女だと思うだろう。
 だが彼女には不思議な魅力があった。底抜けの明るさと芯の強さを持ち合わせている彼女は、時に現実を見つめ過ぎて悲観的になりがちな御剣の思考を、解き放ってくれたこともある。何より誰かに何かをしてもらった時、謝罪する言葉しか知らなかった御剣に、『感謝』という新たな言葉を教えてくれたのは、真宵だった。
『そういう時は、ありがとうって言うんだよ!』
 そうして再び浮かび上がる、真宵の言葉。『光は闇に惹かれ、闇は光に惹かれる』。自分は彼女に感謝している。それは間違いないのだが、そればかりか彼女の光の部分に知らず知らずのうちに惹かれているとでも言うのだろうか。人間的にというのはもちろんそうだが、女性としてという意味では――
 ――まさか。バカな。そんなこと、あるはずがない。
 御剣は苦笑して、その考えを頭の中から振り払った。自分でもあまりにも馬鹿げた考えだと思った。


 再び真宵と会った時、それは裁判所の食堂だった。裁判が終わって空腹を満たそうとやって来た御剣は、一人で難しい顔をして座っている真宵の姿を見つけたのである。
 彼女の前に置かれているオレンジジュースは、全く減っていないようだった。珍しいこともあるものだと、御剣は彼女のところへと直行した。
「真宵くん」
 名前を呼ぶと、真宵は驚いたようにはっと顔を上げた。
「あ……みつるぎ、検事」
「どうしたのだ。成歩堂は?」
「なるほどくんは、調べ物があるからって。あたし、ここで待ってるんです」
「そうか。ここ、座ってもいいだろうか」
「あ……はい」
 真宵が頷いたのを確認して、御剣は彼女の前の席に座った。真宵は浮かない顔をしていた。今日の彼女はおかしい。いつもの笑顔はどこへ消えてしまったというのだろうか。
「何か悩み事か?」
 単刀直入に尋ねると、真宵はびくりと肩を震わせた。
「あ、ううん、そういうわけじゃ」
「だが、今日の君はいつもより暗い。何かあったと考える方が自然だと思うが」
 真宵は小さくため息をついた。その後、御剣の方を上目遣いに見た。
「あの、みつるぎ検事は、占いなんて信じないですよね」
「ああ……まるで信憑性がないからな」
 妙なことを訊くな、と思いながら御剣は肯定する。すると真宵は、少しばかり身体を乗り出してきた。
「あの、じゃあ、あたしに言ってみてください。『占いなんてくだらない、そんなもの信じるな』って」
 御剣は目を丸くした。彼女の言うとおりにすることは簡単だが、それよりも何故彼女がそう言ったのか知りたいと思う気持ちの方が勝った。
「何故だ? 何か理由があるのだろう」
「ええっと、それは……」
「……もしかして、あの光と闇の本か?」
 真宵の肩が再びびくりと震える。図星だったらしい。真宵もあの占いの本で何か思い悩むことがあったのだろうか。御剣は詳しく訊いてみることにした。
「あの本に、何か悪いことでも書いてあったのか?」
「う、ううん。違います」
「ならば何か、予言めいたことが書いてあったとか」
「そうじゃなくて……」
 真宵は言葉を切って、御剣から視線を逸らした。
「あ、あの本のこと考えてると、変な気持ちになる、から。それまで何ともなかったのに、急に……」
 真宵は再び身体を乗り出した。
「み、みつるぎ検事はそんなこと、ありませんよね。だって占い、信じてないんでしょ」
「それはそうだが、少しは考えていたこともある」
「えっ?」
 真宵が意外だとでも言うように目を見開いた。
「私の闇の部分と、君の光の部分について。君の底抜けの明るさには、随分助けられたこともある、と」
「ほ……ほんとうに……?」
 御剣はああ、と頷いた。
「君の前向きな考え方は嫌いではない。むしろ、そうだな、好ましく思っていることもある、と」
 真宵の頬がほんのり赤らんだ気がした。直後真宵はぶんぶんと首を振り、俯いて呟くように言った。
「そ、そんなこと、言わないでください。変なこと、考えるから……」
「私は君を好ましく思っている、と言っただけだが」
「だ、だから、そういう言い方は」
 相変わらず頬を赤らめて戸惑っている様子の少女の姿から、彼女の心情を推察することは難しくなかった。かつて御剣が考えていたようなことを、真宵は今考えている。御剣は馬鹿げた考えだと言って流してしまったが、彼女は案外真剣に受け止めているようだ。そんな素直な彼女を可愛らしいと思いつつも、心の中へ浮かび上がろうとした新たな感情に気付き、御剣は慌ててそれを取り消す。


「すまないが、ハンバーグ定食を一つ」
 隣を通りがかった店員を呼び止め、御剣は注文をした。真宵があんぐりと口を開けて、御剣を驚きの目で見つめた。
「みつるぎ検事、結構がっつり食べるんですね」
「空腹に耐えられないものでな。君も一緒に食べるか?」
「あ、あたしは、いいです」
「珍しい。君は食べることに関しては人一倍執着を持っているように見えたが」
 唇の端に笑みをにじませると、真宵が少し怒ったように頬を膨らませる。
「あ、ヒドイ! そんな言い方。確かに、食べることは好きですけど」
「フッ。まあ、じっくり悩めばいい。君には時間があるのだから」
 お冷やで喉を潤し、御剣は他人事のように言った。再び、戸惑いの視線。念を押すように、御剣は同様のことを口にする。
「考えて、悩んでから結論を出せばいい。真宵くんは私と違って、まだ若いのだからな」
「……占いは信じるなって、言ってくれないんですね」
「信じすぎるのも良くないが、占いもたまには良いことに気付かせてくれるということだな」
 真宵はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げて、御剣を真っ直ぐに見つめた。
「そうですね。もうちょっと悩んでみます」
「うむ、それがいい」
 途端に、真宵の表情にいつもの笑顔が戻ってきた。御剣は内心安堵している自分に気付く。やはり彼女が悩んでいるのは似合わない。この太陽のような明るい笑顔に、自分は惹かれているのだから――
「じゃあ、あたしも何か食べようっと。お腹空いてきちゃった」
「今日は私が奢ろう。何でも好きなものを食べるといい」
「やったあ! じゃあ、みそラーメン、一つ!」
 人差し指を立てて、元気よく注文する。
 そんな真宵の笑顔につられるように、自然と御剣の表情も緩んでいた。
(2010.2.3)
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