立ち止まらずに

「真宵ちゃん?」
 成歩堂に呼ばれて、真宵ははっと我に返った。
「え、な、なに? なるほどくん」
「さっきからどうしたんだよ。ぼうっとして」
「あ、え、ええと。何もないよ」
「本当に?」
 う、と真宵は言葉に詰まる。成歩堂の目が真宵をじろじろと眺めているのが感じられた。彼は人の嘘を見抜くのが得意だ。当然、先程の嘘も見抜かれただろうと真宵は思った。
 何もないわけがなかった。――そう、あれは今日の昼間のこと。御剣が『成歩堂に用がある』と言って、事務所にやって来たのだ。
 真宵はお茶を出した後、つい好奇心でとんでもない質問をしてしまった。その、真宵にとっては何でもなかったはずの質問があんな結末を招こうとは、一体誰が想像しただろう。
 ――みつるぎ検事って、好きな女の人とかいないんですか?
 その質問に対し、御剣は最終的に、その女性が真宵であるというようなことを話したのだ。
 真宵は驚き、言葉が出なかった。どう返せばいいのか戸惑っている間に、仕事が残っているからといって、御剣は事務所を出て行ってしまったのだった。
 それから出かけていた成歩堂が帰ってくるまで、真宵はずっとそのことを考えていた。あまりに突然すぎた。そして、心の準備をする間もなかった。自分は果たして、彼に何と返せばいいのだろう。彼は返事のことを気にしなくてもいいと言ってくれたが、そんなことはしたくなかった。
 そうして自分はいつの間にか、成歩堂の前でも思い悩んで、我を失っていたらしい。
 成歩堂に問いつめられたら、一体自分は何と言い訳すれば良いのか。真宵がそんなことを考え巡らせていると、成歩堂が微かに笑って言った。
「そんなに怯えたような顔をしないでくれよ、真宵ちゃん。僕は別に、君が思っていたことを聞き出そうってわけじゃないんだ」
「なるほどくん……」
「ただ、ちょっと元気がないように思ったから、心配になっただけなんだよ」
 成歩堂は笑いかけた。真宵も笑みを浮かべて、うん、と頷く。
「ごめんね、なるほどくん。でも、今はちょっと話せそうにないんだ」
「そうか。じゃ、無理には聞かないよ」
 成歩堂はそう言って、デスクの上に置いてあった書類を整え始めた。それを後ろの棚に入れる成歩堂の背中を見ながら、真宵は彼の名を呼んだ。
「なるほどくん」
「え? 何?」
 棚の方を向いたまま、成歩堂は答える。真宵は少しためらいながら、尋ねた。
「もしあたしがお見合い結婚したら、どうする?」
「……いきなり重たい質問だな」
 成歩堂は軽く笑って、続けた。
「そうだな。真宵ちゃんがそれで納得したんなら、問題ないんじゃないかな。そういうことは、僕がとやかく言うことではないからね」
「そっか……」
「それがどうかした?」
 成歩堂の問いに、真宵は慌てて首を振った。
「う、ううん。なんでもないよ。ちょっと訊いてみたかっただけ」
「ふうん」
 成歩堂は少しの間怪訝そうな表情をしていたが、それ以上何かを問い詰めてくることはなかった。
 成歩堂の答えは、御剣のものと明らかに異なっていた。成歩堂は全てを真宵に任せるといった発言をした。真宵が選択し納得したことならばそれで構わないだろうと言うのだ。
 もし決められた結婚相手が嫌だと言って、真宵が成歩堂に泣きついたとしたら、彼は何らかの対策を講じてくれるかもしれない。しかしそれは仮に真宵が泣きついたらの話であって、真宵が何も言わずに誰かと結婚すれば、彼はそのまま真宵の結婚を祝福してくれることだろう。
 しかし、御剣はどうだろうか。彼は明らかに、見合い結婚に反発を示した。流されるまま一生を終えるつもりなのかとまで問うてきた。その上、愛のない結婚はすべきではないという趣旨の言葉まで言ったのだ。
 冷静に考えてみれば、御剣の言葉は彼の性格と照らし合わせるとあまりにもおかしい。客観に基づいた合理的な考えを示す彼が、あの時ばかりは感情論を持ち出してきた。愛などというあやふやで形のないものは、真宵の頭の中で、御剣怜侍という人間とは決して結びつかなかったものだ。
 彼は、もしかしたら焦っていたのかもしれない。このまま真宵が、周りに流されるまま見合い結婚をしてしまうことを恐れていたのかもしれない。そう思うと、切なくなった。御剣はそれほど自分のことを想っていてくれたのだ。
 そろそろ外が暗くなってきたので、真宵は帰り支度をした。そしてまだ書類の整理が終わらないらしい成歩堂の背中に向けて、別れの言葉を発した。
「じゃ、なるほどくん。あたし、今日はもう帰るね」
「ああ、もう暗くなるからね。気を付けて帰りなよ」
「うん。なるほどくんも。また明日ね」
 真宵は成歩堂法律事務所を出た。外は仕事帰りの人々でいっぱいだった。そんな人々の間に紛れ込み、真宵は自宅へと帰っていった。相変わらず、御剣のことを考えながら。


 次の日。
 昨日の御剣の用件とかで、成歩堂はまた出かけていた。昨日と同じく留守番を任された真宵は、何をすることもなく、ぼうっと事務所のソファに座っていた。
「真宵さま、真宵さま!」
 はっとして顔を上げると、そこには従妹の春美がいた。そういえば、今日は春美が遊びに来るという話だった。来たのに気付かないくらい、また考え込んでいたらしい。真宵ははあ、と溜息を吐いた後、春美を笑顔で迎えた。
「ああ、ごめん、はみちゃん。気付かなくって」
「どうしたのですか? ずいぶん、深刻そうな顔をされていましたけど……」
「え、あ、ううん、何でもないよ」
「まさか、なるほどくんに何かされたのですかっ!」
 春美は腕まくりをして叫んだ。真宵は微かにはは、と笑った。いつものことだ。春美はどういうわけか、成歩堂のことを真宵の恋人と勘違いしているのだ。その成歩堂に何かされて、真宵が悩んでいると解釈したのだろう。
 真宵は首を横に振って、春美に言った。
「違うよ、はみちゃん。なるほどくんじゃない」
「え? なるほどくんではない?」
 春美は怪訝そうな表情になった。続きを言おうとして思いとどまった後、言っても構わないか、と真宵は思った。彼女になら、話せるかもしれない。
「あのね、みつるぎ検事のことなの」
 御剣、と名前を言うだけで、顔が火照ってくるのが分かった。何故だろう、こんなことは一度もなかったのにと戸惑う。春美もその人物の名がここで出てきたのが意外だったらしく、口に手を当てて驚いた表情になった。
「みつるぎ検事さん、ですか?」
「うん。驚かないで聞いて欲しいんだけど」
 そこで一旦言葉を切って深呼吸してから、真宵は続けた。
「あたし、みつるぎ検事に告白、されちゃった」
「え、ええっ!」
 春美は飛び上がらんばかりの勢いで驚いた。無理もないと思う。彼の普段の姿を見ていれば、そんなこと想像もできないだろう。あの時は御剣が目の前にいて、直接言われたからまだ良かったものの、これが人づてに聞いた話であれば「嘘でしょ」で済ましていたに違いない。
 驚いた後、春美は思案するような仕草をした。
「で、でも、真宵さまには、なるほどくんが……」
「あ、あのね、はみちゃん。この際だから言うけど、あたしとなるほどくんは何もないんだよ。本当に」
「え、そ、そうなのですか?」
「うん。あたしも、ちゃんと説明しなきゃ駄目だったね。ごめんね」
 真宵が謝ると、春美は慌てたようにいいえ、と首を振った。そんなことは構わないと言ってくれているようだった。
「それで、真宵さまは、どうお返事なさったのですか?」
 やはり、次の質問はこれだった。真宵はううん、と唸って顔を伏せた。
「実は、まだ返事してないんだ。どうしようか、迷っていて」
「真宵さまはみつるぎ検事さんのこと、どう思っているのですか?」
「え……」
 真宵は顔を上げ、春美をまじまじと見つめた。春美の目は真剣そのものだった。
 そこで今一度、真宵は考えてみた。自分は御剣のことをどう思っているのだろうか。
 まず、言えることがある。嫌いではない、ということだ。確かに成歩堂の相手検事としての出会いだったため、最初の印象は悪かった。しかし様々な事件を経て彼の色んな側面を見るたびに、その印象は随分と変わった。今なら彼は根はいい人なのだと、自信を持って断言できる。
 だが、恋愛対象として見た時はどうだろうか。昨日御剣にも言った通り、そんなことは考えたこともなかったのだ。
 ただ、男性として惹かれる部分があるのは確かなのだろう。成歩堂と法廷で議論を交わしている彼の姿を、敵ながら格好良いと感じたことはある。常に冷静で頭も切れ、検事としての揺るぎない地位もある。自分には勿体ないくらいの良い男性だ。何故彼が自分を選んだのか、分からなくなるくらいに。
「好き、なんだと思う」
 真宵は思案した後、ぽつりとそう答えた。
 昨日以来、御剣のことを考えるだけで顔が熱くなった。彼のことを何も思わないならば、そんなことは起こらないだろう。だから自分もきっと御剣に惹かれているのだと、真宵は思った。
 すると春美は嬉しそうに笑って、真宵に言った。
「では真宵さま、みつるぎ検事さんにお話ししたらどうですか。ご自分の気持ちについて」
「う、うん。そ、そうだね。早い方がいいよね」
「そうです! それがいいですよ!」
 春美は自分のことのように喜んでいた。そんな彼女を見て、本当に自分は良い従妹を持ったものだと真宵は感じていた。自分を一心に慕ってくれ、自分が嬉しい時は一緒に喜んでくれ、悲しい時は一緒に泣いてくれる。綾里家の問題を考えると暗いものがあるのは確かだったが、自分と春美の仲はそんなものに汚されるようなやわな仲ではなかった。
「また、後で電話してみるよ。今はなるほどくんと会っているとこだろうし」
 真宵はそう言った後、春美に笑顔を見せた。
「ありがと、はみちゃん。やっと決心がついたよ。はみちゃんのおかげだね」
「そんな! わたし、真宵さまのお力になれて嬉しいです!」
 二人は楽しそうに笑い合った後、成歩堂が帰ってくるまでテレビを見ることにした。
 先週録っておいたトノサマンの新シリーズのDVDだ。春美も、何度も見たはずの真宵も、一心にテレビに見入っていた。アクションシーンでは一緒に息を飲み、最後のシーンでは感嘆の溜息をついた。そのうち、何故か真宵は、画面の中にいるトノサマンを御剣と重ね合わせて見ていたのだった。


「ただいま」
「あ、なるほどくん、おかえり!」
「おかえりなさい、なるほどくん!」
 テレビを消し、真宵と春美の二人は帰ってきた成歩堂を出迎えた。もう日も暮れかかっていた。成歩堂は事務所に入ったところで後ろを振り向き、御剣、と名を呼んだ。真宵と春美は一瞬びくりと反応した。すると案の定その後ろから、御剣の姿が現れた。
「渡したいものがあったからね。ここまで来てもらったんだよ」
 成歩堂は二人にそう説明して、その渡したいものとやらを探し始めた。その間、御剣と真宵、春美は近い位置にいた。だが、誰も話しだそうとしなかった。そうしてしばらくした後、御剣が先に口を開いた。
「真宵くん、昨日はすまなかった」
 えっ、と真宵は声をもらした。すまなかったという言葉が、昨日のどの行動と結びついていたのか分からなかったのだ。何も答えないでいると、御剣が言葉を続けた。
「成歩堂に伝言を頼んでいた件だ。きちんと伝えてくれたようで、感謝している」
「あ、い、いえ。そんな」
 真宵は妙に慌てて言った。自分の頬が熱くなっているのが分かった。御剣にそれを知られたらどうしようと、真宵は思った。
 その時、横にいた春美が真宵をつついてきた。真宵がさっと振り向くと、春美が小さな声で言った。
「みつるぎ検事さんに、お話ししなくてもよろしいのですか?」
「う、そ、それは、そうなんだけど」
 今言うのはためらわれた。いつ成歩堂が戻ってくるか分からないし、そばには春美もいる。その様子を察したのか、春美は再び真宵に言った。
「わたし、なるほどくんをお手伝いしてきます。ですから、その間に」
「あ……は、はみちゃん!」
 春美はそれでは、と言って二人に礼をし、成歩堂のところへ行ってしまった。その場には御剣と真宵だけが取り残された。真宵はかなりの気まずさを感じていた。人と一緒にいる時に、これほどの気まずさを感じたことはなかった。
 しかし、せっかく春美が作ってくれた時間だ。無駄にはできない。真宵は決心を固め、御剣の顔を見上げた。
「あ、あの、みつるぎ検事」
 事務所を見渡していた御剣は、真宵の声に反応して真宵の方を向いた。何だろうか、と問わんばかりの視線だ。真宵はう、と言葉に詰まりながら、なんとか言葉を紡ごうとした。
「えっと、あの。き、昨日のことなんですけど」
「ああ」
 御剣は何もないかのように言った。真宵はそんな彼の態度に戸惑いながら、言葉を続けた。
「お話し、したいことがあるんです。あの、ええと、あたし、みつるぎ検事のこと――」
「ま、待ちたまえ真宵くん」
 急に、御剣の制止がかかった。真宵はきょとんとして御剣を見る。御剣は大きな息を一つ吐いた後、すまない、と断って、真宵に続きを促した。真宵は頷いた。
「あたし、み、みつるぎ検事のこと、す、好き……です」
 しどろもどろになりながらだった。昨日の御剣は、驚くほど堂々としていたように感じた。それなのに、自分は――真宵は自分が情けなくなって、思わず俯いてしまう。
 その場に沈黙が舞い降りた。真宵は既に、御剣の顔を直視することはできなくなっていた。もう、何も見たくないとさえ思った。
 その沈黙を破ったのは、御剣だった。
「真宵くん、顔を上げてくれ」
 真宵はためらったが、少しずつ、少しずつ御剣の顔に向けて視線を上げていった。御剣の口元が見えたところで、真宵は顔を上げるのを止めた。それ以上は上げることができなかった。
「それは、君の本心からの言葉だと、そう解釈しても構わないのだな?」
「あ、はは、はい」
 真宵は慌てて頷く。そうか、と御剣は今度は小さく息を吐いた。
「ならば、私はいても構わないのだろうか。君の傍に」
 御剣がじっと真宵を見つめてくる。その瞳に胸を射抜かれた感覚がし、真宵は思わず頷いていた。
 途端、御剣がとてつもなく大きく見えた。彼の視線にどきりとした。自分の感覚が全て新しく塗り替えられていくような気がして、真宵は戸惑いつつも、少し嬉しかった。
「あたしも、みつるぎ検事と一緒にいてもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
 御剣は微かに笑みを浮かべた。良かった、と真宵は安堵の溜息をついた。そうして、真宵は自然と御剣の手に向かって自分の手を伸ばしていた。ぎゅっとその大きな手を掴む。御剣の手は少しひんやりとしていた。それが心地よくて、真宵はその手を何度もさすった。すると御剣が反対側の手で、真宵の手を包んでくれた。
 真宵は顔を上げ、御剣に笑顔を向けた。
「みつるぎ検事。あの、これからも、よろしくお願いしますね!」
「ああ、こちらこそ」
 御剣も笑って頷いた。
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