やさしさにつつまれて

 ある、寒い冬の日のことだった。
 真宵は一人、成歩堂法律事務所で留守番をしていた。成歩堂は午後から用があると言って一人で出て行ったのだ。成歩堂が出て行った後襲ってきた微かな眠気を抑えつつ、真宵は彼の帰りを待っていた。
 そうして二時間ほど経った後、成歩堂法律事務所の扉が叩かれた。成歩堂の散らかったデスクを片付けていた真宵ははあい、と声を上げ、小走りで扉の前まで向かった。
 依頼人だろうか。そう思いながら扉を開けたその先には、見知った顔の男が立っていた。
「あれ、みつるぎ検事じゃないですか!」
「真宵くんか。すまないが、成歩堂はいるだろうか?」
 男は御剣怜侍だった。検事局きっての天才と呼ばれる男であり、また成歩堂龍一の親友でもあった。当然、真宵も彼とは何度か会話を交わしたことがある。
 赤いスーツにヒラヒラと揺れるタイをつけているというのが彼の基本スタイルだが、今日は冬ということもあってか、黒いコートを身に纏っていた。そこにはいつもと違う雰囲気があった。真宵は眠気を忘れてその姿に見とれ、慌てて首を横に振った。
「えっと、すみません。今なるほどくん、調査って言って出かけちゃったんですよ」
「そうか。タイミングが悪かったようだな」
 御剣はしばし思案の表情になった。そんな彼を見て、あの、と真宵は声をかけた。
「もし時間があるんだったら、ここで待っててください。なるほどくん、もうすぐ帰ってくると思うんです。出かけてからだいぶ時間経ってるから」
「ふむ。そうか」
 御剣はもう一度考える表情をした後、深く頷いた。
「ならば、しばし待たせてもらうことにしよう」
「はい。あ、お茶淹れてきますね」
 そう言って、真宵は給湯室に引っ込んだ。何度か依頼人をもてなしたことがあるから、お茶を淹れるのは慣れている。温かな湯気を伴ったお茶をお盆に載せ、真宵は再び御剣のところに戻ってきた。御剣はコートを脱ぎ、いつも依頼人が座るソファに腰を下ろしていた。そうして、戻ってきた真宵の姿をちらと見た。
「はい。どうぞ」
「すまないな」
 御剣は机の上に置かれた湯飲みを持ち、軽くそれをすすった。真宵はその間に、御剣の向かいのソファに腰を下ろした。成歩堂のいつものポジションだ。
「そういえばみつるぎ検事、なるほどくんに何の用があるんですか?」
「ああ。少し伝えたいことがあって来たのだ。あやめさんの出所の日について、な」
「あやめさん……ああ、あの、葉桜院の」
 真宵は少し複雑そうな顔をした。あやめが捕まった例の事件は、あまり思い出したくないものだった。自分が綾里家の人間であることを、これほど嫌だと思ったことはなかった。
 その表情を察したのか、御剣は対応に困ったかのように少し顔をしかめつつも、言葉を続けた。
「成歩堂は彼女のことを気にかけていた。伝えておくべきだろうと思ってな」
「そうだったんですか」
 真宵はそう言ったきり、顔を伏せた。なんとなく気まずい雰囲気だった。御剣もこの雰囲気に困っているらしい様子だったが、それ以上何か話すべき言葉が見つからなかった。いつもなら、自分の中に話題は山ほど湧いてくるというのに。
 そのまま少し経った後、真宵ははっと気付いたように時計を見て、小さく溜息をついた。
「遅いですね、なるほどくん」
「うむ。時間がかかるような調査なのか?」
「うーん。あたしには何も教えてくれなかったんですよね。話を聞きに行くだけとか言ってたけど、長引いてるのかなあ」
 真宵は考える仕草をした。実のところ、本当によくわからなかった。何の話なの、と尋ねると、大したことじゃないから、と一蹴されてしまったのだ。それ以上問い詰めることもできず、真宵は成歩堂を送り出したのだった。
「もしかしたら」
 御剣がぽつりともらし、思わず真宵は御剣の方を見た。
「あやめさんに会いに行っているのかもしれんな」
「え! あやめさんに、ですか?」
「そうだ。奴はことさら、あの女性のことを気にかけていた様子だったからな」
 真宵は納得がいかないといった表情になった。
「でも、そんなことなら何も隠さなくても良かったのに」
 御剣はふむ、と少し考えた後、真宵に言った。
「君に知られたくなかったのではないか? 昔の恋人と会っていることを、な」
「ええっ! でもやましいことなんか、何もないのに。あたしとなるほどくんは何でもないんだし」
「そうなのか? 私はてっきり、君と成歩堂は普通の関係ではないのだと思っていたが」
 御剣が真面目な口調で言うので、真宵は仰天した。そんなふうに見られていたとは知らなかったのだ。
「ご、誤解ですよ! 本当に、何もないんですから!」
「そうだろうか。君の動揺ぶりを見ていると、とてもそうだとは思えないのだが」
「も、もう、みつるぎ検事、怒りますよ!」
 真宵が頬をぷくりと膨らませると、御剣は微かな笑みを見せた。
「これは失礼。少しからかってみただけだ」
 そうして、涼しい顔で茶を口に運ぶ。真宵はまだ御剣が本気で自分と成歩堂の仲を疑っているような気がして、動揺していた。春美ならばともかく、御剣が何故こんなことを突然言い出したのだろうか。人の色恋沙汰について口を出すような人には見えなかったのに。
 もう一度ちらりと御剣の表情を窺ってみたが、彼の表情は全く変わらず涼しいままだ。そこから何かを読み取ることは難しく、真宵はこれ以上考えるのをやめることにした。
 またしばらく二人の間で言葉が途切れ、その間真宵はちらちらと時計を見た。午後五時を過ぎた頃だ。秒針がカチ、カチ、という微かな音に合わせて動き、一回りしたところで真宵は溜息をついた。まだ、成歩堂が帰ってくる様子はない。
 その時、真宵の口から不意に欠伸が出た。それを見咎めて、御剣が言った。
「眠いのか?」
「うーん。昨日、トノサマンシリーズのDVDの新しいのが出てたから買っちゃって。夜遅くまで見入っちゃって、あんまり眠れなかったんです」
「なるほど」
 またしてもあくびが出た。瞼が今にも落ちてきそうだ。微かな前触れはあったが、こんなに急激に眠気が襲ってきたのが我ながら信じられず、真宵は驚いていた。
「あれ? なんか、すごく眠い」
「少し眠ったらどうだ。成歩堂が帰ってきたら、私が起こしてやろう」
「ええっ。でも、みつるぎ検事がいるのに、あたしだけ寝るっていうのも……」
「私は一向に構わない。気にしないでくれ」
「うーん……」
 実のところ、真宵は今すぐにも眠ってしまいたかった。成歩堂が出かけるというから、その間に客が来るかもしれないと思って、今まで起きていたのだ。だがもうこの時間になれば、さすがに依頼人は来まい。おまけに、御剣もいいと言ってくれている。
「じゃあ、いいですか? ちょっとだけ寝ちゃっても」
「ああ。もし客が来たら、私が適当に応対しておこう」
「はい。ありがとうございます」
 ふわあ、と真宵は再び欠伸をした。そうして、ソファにそのまま横たわった。御剣の前でこのような姿を見せるのは気が引けたが、しかし横になれそうな場所はここ以外になかった。
「おやすみなさい。みつるぎ検事」
「ああ。おやすみ」
 挨拶を交わして、真宵はそっと目を閉じた。暗闇が真宵を覆った。
 そうして、真宵の意識は奥へ奥へと落ち込んでいったのだった。


「――ちゃん、真宵ちゃん!」
「ん……」
 真宵は自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。すると目の前には成歩堂がいて、真宵の顔を覗き込んでいた。真宵はゆっくりと体を起こした。
「あ、あれ? なるほどくん、どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ。帰ってきたらソファに横になっていたから、何かあったのかと心配になったじゃないか」
「え、あ、そっか……」
 真宵は思い出した。自分が夕方、急激な眠気に襲われて眠ってしまったことを。そして自分の前には、成歩堂に用があると言っていた御剣がいたことを。
 真宵はそこまで思い至って、慌てて成歩堂に尋ねた。
「ねえなるほどくん、みつるぎ検事はどうしたの?」
「え、御剣? ああ、帰ってきた時に事務所の外で会ったけど」
「そ、そっか」
 真宵は小さく溜息をついた。成歩堂が帰ってくるまで、御剣はちゃんと真宵と一緒に事務所で待っていてくれたようだ。悪いことをした、と真宵は思った。
 その時、自分の体にかけられていた布に気付いた。何だろうと思ってよく見ると、それは御剣の着ていたコートだった。真宵は再び慌てて成歩堂に問うた。
「なるほどくん、みつるぎ検事、コート着てなかった?」
「着てなかったと思うよ。もしかして、それ、御剣の?」
 成歩堂も真宵を覆っていた黒いコートに気付いたらしく、そう尋ね返してきた。真宵はこくりと頷いた。その後真宵は無意識に、そのコートを手繰り寄せて顔に近づけていた。そのコートはとても暖かくて、毛布代わりにするのにちょうどいい代物と言えた。真宵は少ししてからコートを顔から離し、ぽつりと呟いた。
「なんか、みつるぎ検事の匂いがする……」
「え?」
 成歩堂が聞きとがめ、真宵は慌ててなんでもない、と首を振った。成歩堂は怪訝そうな顔をしていたが、それ以上何も追求してこなかった。
 真宵はまだそのコートを身から離したくなかった。確かに暖かかったからということもあるが、理由はそれだけではない気がした。しばらくぼうっとコートを被ったままの真宵を見て、成歩堂は苦笑しながら言った。
「そのコート、よっぽど気に入ったみたいだね。そんなに暖かいの?」
「うん。すっごく暖かいよ。やっぱりみつるぎ検事、いいもの着てるねえ」
「ははは。僕なんかには到底買えないような代物だな」
 成歩堂はそう言って、自分の薄手のコートを羽織った。もう事務所を閉めるつもりなのだろう。真宵も慌てて立ち上がり、ずり落ちそうになったコートをしっかりと受け止めた。その時、はらりと何かの紙切れが落ちた。何だろうと思って真宵はその紙切れを読んだ。紙切れにはこう書いてあった。
『君があまりにも心地よさそうに眠っていたので、起こさないでおいた。
 コートのことは気にしなくても良い。返してくれるのはいつでも構わない』
 御剣の字は綺麗で整っていた。真宵はそれを二度ほど読み返した後、たたんでそれを右手で握りしめた。
 御剣にコートを返しに行かねばならない。しかしもう夜だし、手紙でもいつでもいいと言ってくれているから、明日にしようと真宵は思った。真宵はその大きなコートを両手で抱えつつ、再びコートに顔を近づけた。
「やっぱり、みつるぎ検事の匂い」
 我ながら変な行動だとは思ったが、あまり気にしなかった。それよりもその匂いが何故か自分の心を落ち着けることに気が付いて、真宵は少し驚いた。
 ――みつるぎ検事って、本当はすっごく、いい男なのかも。
 何故かそんなことをふと考えて、思わず頬が熱くなる真宵なのだった。
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