誰にも渡さない

 綾里真宵は、これ以上もないくらい気分が沈んでいた。
 何と言い訳すれば良いのか、そればかり考えていた。言い訳したとしてもどのみち彼を傷つけてしまうなら、いっそ言わない方が良いのだろうか。いや、しかし彼に隠し通せるとは思えない――真宵の考えは先程からぐるぐるとその辺りを回っていた。
 真宵は重い足取りで成歩堂法律事務所に入っていった。扉を開けると、デスクに座って書類を読んでいた成歩堂が顔を上げ、真宵に向かって笑いかけてきた。
「ああ真宵ちゃん、おかえり」
「うん。ただいま」
 真宵がぽつりとそう返すと、成歩堂は怪訝そうな顔をした。
「元気ないね。どうかした?」
「え、ううん、なんでも――」
 そう言いかけて、真宵は思いとどまった。彼を傷つけない方法。それがもしかしたら見つかるかもしれないと真宵は思ったのだ。この、目の前にいる彼に協力してもらえさえすれば。
「あのね、なるほどくん。驚かないで聞いてくれる?」
「ん? いいけど。何かあったの?」
「あのね、あたし、お見合いすることになったの」
 成歩堂は予想通り、目を丸くして真宵を見た。驚くのも無理はないだろうと思う。何しろ聞かされて一番驚いたのは、他の誰でもない、真宵自身だったのだから。
 成歩堂は少しの間言葉を失っていたが、やっと真宵の言葉が飲み込めたのか、真宵に尋ねてきた。
「それは本当なのかい、真宵ちゃん」
「うん。里帰りした時に親戚の人が強く勧めてきて、どうしても断れなくて。『綾里家には世継ぎが必要ですから』、なんて言われちゃって」
 真宵は微かに目を伏せた。成歩堂は困ったような表情になった。
 いつものように今の霊力を保つための修行をするべく、真宵は成歩堂に暇をもらって里帰りをした。その時、分家の人々が作り笑顔で見合いの話を持ち出してきたのだ。真宵が煮え切らない態度を見せていると、それを勝手に肯定と受け取り、さっさと話を進めてしまったのだった。
 分家の者は確かに家元にはなれない。しかし彼女らは自分の子供にその希望を託している。すなわち、自分の息子と家元とが結ばれ、その間に娘が生まれれば、分家とされてきた自分たちも本家の者として、堂々としていられるというわけだ。
 分かり易いように成歩堂には見合いとは言ったが、本当は分家の者が自分の息子を是非引き合わせたいと言ってきただけだった。かなり遠い親戚であるため、真宵はその息子とやらと顔を合わせたことはない。聞けば少し年上の男性という話だが、そんなことはどうでも良かった。
「それで、どうするの? 断るつもりなの?」
「うん。そうしたいと思ってる。だからね、なるほどくん」
 真宵は切実な目で成歩堂を見つめた。
「このこと、みつるぎ検事には言わないで欲しいの。絶対に」
「御剣に?」
「うん。心配、かけたくないから」
 真宵がそう言うと、成歩堂はすぐに了解してくれたようだった。成歩堂は御剣と真宵の仲を知っている。真宵が言いたくないと言ったわけも、すぐにわかったのだろう。
「分かったよ。真宵ちゃんがどうしたのか聞かれても、言わなければいいんだね?」
「うん、お願い、なるほどくん」
「ああ。それにしても、本当に大丈夫なの?」
「正直言って、まだわからない。でもなんとか頑張ってみるから」
 真宵はそう言って、成歩堂の不安を払拭するように胸の前で二つ拳を作ってみせた。成歩堂はそれを見て、わかっているとでも言うように笑みを浮かべた。
 本当は、今すぐにでも誰かに泣きつきたい気分だった。しかしそうしなかったのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。何事もなかったかのように、見合いの話を記憶から抹消するためでもある。
 絶対に断る。成歩堂の協力を得られたことで、真宵の思いは先程よりも強固なものになっていた。


 見合いの当日。真宵は倉院の里に戻っていた。
 成歩堂に絶対に御剣に事情を言わないようにと念押ししてあったのである程度心は落ち着いていたが、やはりきちんと断れるだろうかという不安は拭いきれなかった。
 初めて相手と顔を合わせる場所である控えの間に向かいながら、不安そうな顔をした春美が、真宵の機嫌を窺うかのように顔を覗き込んでくる。
「真宵さま、大丈夫なのですか?」
「うん、心配ないよ、はみちゃん。ちゃんとお断りするから」
「それにしても、みつるぎ検事さんは何もおっしゃらなかったのですか?」
 春美が少し怒ったような声を出したので、真宵は慌てて言った。
「みつるぎ検事は悪くないよ。だって今日のこと、何も話してないんだから」
「え! そうなのですか?」
 春美は口に手を当てて驚いた表情をした。真宵はうん、と頷く。
「こんなことでみつるぎ検事を悲しませるべきじゃないかなって思ったの。だって、あたしは最初から断るつもりだったんだもん」
「そうですか。なら構わないのですが……」
 春美は納得してくれたようだった。
 真宵は今一度気を引き締め直した。相手がどんな人間であろうと、結婚の話に応じる気はさらさらなかった。もし今から会う見合いの相手が御剣なら、結婚してくれと言ってくれる相手が御剣ならどんなに良かっただろう――そんなことをふと考えて、真宵は思わず顔を赤らめた。
 控えの間に着いた二人はふすまの前で静かに座り、真宵は中にいる人間に声をかけた。
「遅くなってすみません。真宵です」
 すると、待ちかねたとでも言うようにすぐにふすまが開き、中から今日の話を進めてきた女性が現れた。彼女はふっくらとした体つきで、口元に不自然な笑みを浮かべている。キミ子ほどではないが黒髪を小さな帽子のような形に結っていて、ほどいたらどれほどの長さになるのだろうと真宵は思った。
「あらあら、お待ちしていましたのよ! ささ、真宵さま、どうぞ中へ」
 彼女に背中を押され、真宵は強制的に部屋の中に入れられる。春美も後ろからちょこちょことついてきて、真宵の横に立った。そうして二人は、彼女の息子だという男性の姿を見た。
 彼はスーツ姿でどこにも隙がなく、いかにもエリートというような雰囲気を漂わせていた。その歪んだ唇で作られた笑みは母親と似ていた。相当自分に自信を持っているのではないかと真宵は直感的に思った。ナルシストという言葉が頭に浮かんだ。
 彼の母親に勧められ、真宵と春美は彼の向かいに座った。
「は、は、初めまして」
 真宵がぎこちなく挨拶をすると、彼は笑みをますます深めた。
「やあ、初めまして。貴方に会えるのを楽しみにしていましたよ、真宵さん」
 その気取ったような声が、真宵の気に障った。おそらく彼は真宵の名前も顔も母親から聞いて知っているのだろう。
 ふと隣の春美に視線をやると、春美は彼を睨んでいた。「真宵さまに手出しすることは許しません」と言いたげだった。本当に隣に春美がいてくれて良かったと真宵は思った。彼女はこの中で唯一自分の味方になってくれる人物なのだ。
「私、お茶を淹れて参りますわね。お二人でゆっくりお話しなさいな」
 そう言って、彼の母親は控えの間を出て行った。すると彼は突然身を乗り出して、真宵に迫ってきた。真宵は思わず体を引いて叫んでいた。
「きゃわわあっ!」
「ま、真宵さまっ!」
 春美が真宵を庇うように前に出た。その二人の反応を見て、彼はやれやれと首を振って、体を引いた。
「そんなに恐がらなくても良いでしょう。僕は何もするつもりはありませんよ、真宵さん」
 ――ウソばっかり!
 真宵は不信感を持った。突然口づけでもされそうな雰囲気が、先程彼の周りから漂っていたのだ。真宵は負けるまいと、もう一度体勢を立て直した。春美も元の位置に戻り、ますます鋭い視線で彼を睨み付けた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕は若宮成志(わかみやなるし)といいます。以後、お見知りおきを」
 そう言って、成志はにやりと笑った。その笑みも生理的に受け付けなかった。真宵はますますげんなりしながら、早く断る方法を考えていた。これ以上この男と一緒にいるなんて耐えられない。真宵は無意識のうちに御剣の顔を頭の中で思い浮かべていた。そうすると、少し気が楽になった。
「僕は襟糸大学を卒業し、現在は勇涼会社に勤めています。まさに家元であるあなたにぴったりの男だと、僕は自負しているのですが?」
 思った通りだ、と真宵は小さく溜息をついた。襟糸大学も勇涼会社もどちらも一流と称される有名なところだったが、それを鼻にかけているところがとてつもなく気に入らない。御剣さんは絶対そんなこと言う人じゃない、と、真宵は知らず知らずのうちに成志と御剣を比較していた。そうすると心が幾分か晴れるのだ。こうすることで、真宵は心の安定を保っていた。
 成志の自己紹介が終わった後で、彼は突然提案をしてきた。
「そういえば、真宵さんはよく町の方へも行かれるそうですね。もし良かったらこれから、僕と一緒に外へ出ませんか?」
「え、えええっ!」
 真宵は大声を出して驚いた。
「こんな場所では退屈でしょう。せっかくこうしてお会いできたのですから、僕と共に素晴らしい時間を過ごしていただきたいと思いましてね。もう既に計画は練ってあるんです」
 成志は自信たっぷりにそう言った。真宵は嫌な予感がした。早く断らなければと思い、自然と口が動いていた。
「あ、あの、でも、あたしは……」
 しかし、口は動くものの上手く言葉を紡いではくれなかった。照れて戸惑っているのと勘違いしたのか、成志はますます笑みを深めて立ち上がり、真宵の横に立った。そうして少し腰をかがめ、真宵の手を取った。
「そうおっしゃらずに。この上なく素晴らしい時間をお約束しますよ、真宵さん」
「や、やめてください!」
 真宵は彼の手を振りほどいた。成志は驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑みを取り戻した。
「そのように照れなくても良いでしょう。まあ、僕は照れている真宵さんも可愛いとは思いますが」
 真宵は寒気がした。どこまでもプラス思考の人間のようだ。否、彼は他人の全ての行動を自分の良いようにしかとらえないのだろう。
 成志がふすまを開けると、そこにはちょうど茶を運んできた母親が立っていた。成志は怪訝そうな顔をする母親に、素早く事の次第を説明した。
「今から外へ出てくるよ。真宵さんともっと楽しい時間を過ごしたいからね」
「あら、まあ。それは良い提案だこと。是非行っておいでなさいな」
 母親も当然ながら乗り気であった。真宵はますます困ったが、とにかく断らねばという思いだけで、再び言葉を発した。
「あ、あ、あの!」
 その声で成志とその母親はくるりと振り向き、満面の笑顔を浮かべてみせた。
「何でしょうか? 真宵さん」
「どうされましたの? 真宵さま」
 断れば承知しないとでも言いたげな雰囲気が、彼らから漂っていた。真宵はその雰囲気に押され、口をつぐむしかなかった。何も言えない自分が悔しかった。
 事態は確実に悪い方向に向かっている。この問題は自分でなんとかするのだとさんざん誓ったはずなのに、自分は何も出来ていない。
 ――助けて……
 真宵は一度も心の中で呟いたことのなかった言葉を、切実な思いで発した。
 ――助けて、みつるぎ検事……
 この場に御剣が乗り込んできてくれればどんなに良かっただろう。まるでドラマや本の中の話のように颯爽と現れて、「真宵くんは私のものだ!」とでも叫んでくれたら、どれだけ嬉しかったことだろう。そんなことは絶対に有り得ないと分かっていながら、真宵はそれを強く願わずにはいられなかった。
 その時、今まで黙っていた春美が、大声を発した。
「おやめなさい! 真宵さまは、嫌がっておられ――きゃっ!」
 成志の母親が動くのは早かった。春美の口をふさいだのだ。そうして真宵に笑みを向け、後押しするように言った。
「春美さまは、私が見ておきますから。お二人で行っておいでなさい」
「は、はみちゃん!」
「さあ、早く行きましょう。時間が惜しい」
 真宵の方は、成志に強く手を引っ張られた。少しの間じたばたしたが、男の力には敵わなかった。引っ張られながら、真宵は何度も成志に訴えた。
「や、やめてください! こんなの、酷い!」
「どうしてですか? 僕と貴方は将来結ばれることになっているのですから、二人で出かけても何も不思議はないでしょう?」
「そ、そんな、勝手にそんな――!」
「真宵さん。あまりに内気すぎると、愛想を尽かされてしまいますよ」
 真宵の抵抗さえ、嫌がっているのではなくただ単に内気だからそうしていると捉えているらしい。真宵は途端に力が抜けた。今の彼に、この話は断ると言ったところで無駄なような気がしてきた。きっとその申し出さえ、『内気』の一言で済ませてしまうのだろう。
 真宵は成志の車の助手席に強引に乗せられ、町に出る方の道を行くことになった。真宵は泣きそうになりながら、顔を俯けていた。一体どうすれば良いというのだろうか。このままでは、自分の身さえ危なくなるような気がする。
 その時、真宵の携帯電話が震えた。真宵はびくりとして、携帯電話の画面を見た。画面には「成歩堂 龍一」と表示がされていた。真宵は驚くと同時に嬉しくなり、成志がいるのも構わず電話を取っていた。
「な、なるほどくん! なるほどくん!」
『ごめん、真宵ちゃん! どうしても隠せなくて、御剣に君のことを話してしまったんだ!』
「あ……」
 真宵は力が抜けた。御剣にこのことを知られてしまった。隠し通すつもりだったのに――。
 しかし、と真宵は思った。御剣はこのことを知った。もしかしたら真宵のところへ来てくれるかもしれない。そう思うと希望が湧いてきた。ひたすら謝り続けている成歩堂に、真宵は言葉を残そうとした。少しでも自分の居場所を知らせられればと思ったのだ。
「なるほどくん、あのね、あたし、あたし――」
 その時、車が急ブレーキをかけてとまった。真宵は突然のことに反応できず、体が前のめりになる。その瞬間、真宵の手に強い力が加わった。見ると、成志が真宵の携帯電話を取り上げていた。
「あ……!」
『真宵ちゃん!? 真宵ちゃん、どうし――』
 ピッ、と音を立てて、電話が切られた。真宵はますます力が抜けていくのを感じた。最後の希望が、断ちきられてしまった。
「仮にも僕の目の前で、他の男と喋るのは止めて欲しいですね。これは将来の夫となる、僕に許された権利です」
 成志は冷たく笑った。真宵の目から涙がこぼれ落ちた。もう、おしまいだ――真宵はそう思った。自分はこの男の望むままにされてしまうのだ。非力な自分では決して抵抗できないだろう。
 成志は真宵の携帯電話を置くと再び運転を始め、ぽつりと呟くように言った。
「これでは、予定を変更するしかありませんね。最後にとっておこうと思っていましたが」
 真宵は嫌な予感がした。これ以上ないくらいの嫌な予感だった。成志が何をするのか、真宵にはうっすらと見当がついた。彼は真宵の体すら、自分のものにしてしまうつもりなのだ。
 真宵は自分の肩をぎゅっと掴み、震えていた。嫌だ、嫌だ――心の中で何度叫んでも、誰も助けには来てくれない。自分にテレパシーがあればと、これほど強く願ったことはなかった。
 ――そうだ、お姉ちゃんを……!
 真宵は姉の千尋を霊媒する方法を思いついた。真宵は一心に千尋に向かって呼びかけた。しかし、心が乱れていて上手く集中できず、霊媒は失敗に終わった。もっと心を落ち着けなければと思うのだが、そう思えば思うほど焦って集中できなくなってしまうのだ。
 ついに、全ての希望は潰えた。
 真宵は体の力が抜け、椅子にもたれて目を閉じた。自分の人生の全てが終わる――真宵はふと、そんなことを思った。真宵は涙を流しながら、自分に関わった全ての人々を思った。千尋。成歩堂。春美。そして、御剣。
 ――ごめんなさい、みつるぎ検事……
 そう思った途端涙が溢れ、止まらなくなった。全て、自分の責任だ。一人でなんとかできると思って、こうなることを少しも予想しなかった。自分はあまりに非力だったことを今、嫌と言うほど思い知った。真宵は自分の力を過信していたのだ。
 車は冷酷にも、その場所へ向かって走り続けていた。真宵は目を開け、ただ流れていく景色を見ていた。その瞳は、何も映してはいなかった。


「さあ、着きましたよ」
 予感の通りだった。ホテル街の一角に車は止められた。成志はさっと車を降り、真宵のいる側に回った。そしてドアをゆっくりと開け、気味の悪い笑顔を浮かべて真宵に手を差し伸べた。
「行きますよ。あなたには埋め合わせをしてもらわねばなりません。僕の前で他の男と喋ったことに対しての、ね」
 真宵はぎゅっと体を固め、その場にじっとしていた。成志が何度も促すように手を動かしてきたが、真宵は応じなかった。これが今の真宵に出来る、精一杯の抵抗だったのだ。
 しかし、その抵抗は無駄だった。痺れを切らした成志が、強引に真宵の腕を掴んだのだ。真宵は抵抗する間もなく引っ張り出され、その勢いで地面に放り出された。
「きゃあっ!」
「全く、頑固なお嬢さんだ。しかし、それでこそ僕のものにしがいがあるというもの」
 成志は冷たく笑った。真宵は再び腕を引っ張られ、立たされた。真宵は必死に抵抗した。
「いや! やめて、やめて!」
「無駄ですよ。貴方にもよく分かっているはずでしょう」
「助けて! 誰か、誰か! 離してっ!」
「無駄だと言っているだろう。大人しくしろ!」
「いや、いや……誰かっ! み、みつるぎ検事! みつるぎ検事!」
 真宵の口から、無意識のうちに御剣の名がほとばしっていた。しかし体は真宵の思いに反して成志に引きずられていく一方だ。もう駄目だ、そう思った。中に入れば、いよいよ助けは呼べなくなる――。
「そこまでだ!」
 その時、聞き覚えのある声が響き渡った。成志も真宵もはっとして、声の主を捜した。声の主はすぐに見つかった。二人の後ろ側に立っていたのだ。
 その姿を見た途端、真宵の目から再び涙が溢れ出した。それは嬉し涙だった。切望し続けた、しかし無駄だと諦めていた展開が、今になってやって来るとは――。
 それは御剣怜侍その人だった。御剣は成志をきっと睨み付け、こちらへ歩いてきながら口を開いた。
「手を離したまえ。さもなければ、キサマを逮捕する」
「う、うるさい! 警察でもないくせに、偉そうな口をきくな!」
「ふむ、聞く気はない、か。ならば仕方がないな。イトノコギリ刑事!」
「はッ! 連行するッス!」
 御剣の後ろから、糸鋸が現れた。糸鋸はずんずんと二人の方に向かってきて、強い力で成志を真宵から引き離した。成志は抵抗していたが、成志より明らかに体が大きい糸鋸から逃れることは不可能だった。
「ぐっ、離せ、離せ、この!」
「逮捕するッス!」
 糸鋸は力強く叫び、成志の手に手錠をかけた。成志はしばらく抵抗を続けていたが、すぐに他の警官も助けに入り、完全にその力は抑えられた。
 呆然としている真宵のところに、御剣が近づいてきた。真宵はぼんやりと御剣を見つめた。涙のせいで、御剣の顔がよく見えなかった。
「大丈夫か、真宵くん」
「み、みつるぎ検事……みつるぎ検事いっ……」
 真宵は御剣の胸に飛び込んだ。御剣はしっかりと真宵を抱き留めてくれた。
「こ、怖かったよ、怖かったよお……」
「よく、頑張った。助けが遅れてすまなかった」
 その時、真宵の頭にふと疑問が浮かんだ。真宵は涙を拭いて、御剣の顔を見上げた。
「みつるぎ検事、どうしてここが?」
「成歩堂に聞いたのだ。電話をした時に君の様子が怪しかったことや、電話を切られたことをな。それからすぐに糸鋸刑事に連絡をとって、君の現在地を調べたのだ」
「え、で、でも、あたしの現在地なんて、どうやって……」
「GPSというのを聞いたことはないかね?」
「じーぴーえす?」
「まあ、細かいことは省くが、君のおおよその現在地を割り出すことのできるシステムのことだ。君の携帯電話にはそのシステムが搭載されていた。だからすぐに分かったのだ」
「そ、そうだったんですか……」
 GPSというものはよく分からなかったが、とにかく携帯電話のおかげで自分は助かったらしい。真宵はほっと息をついた。それは安堵の溜息だった。
「あ! そういえば、はみちゃんは!?」
 倉院の里に置いてきてしまった従妹の春美のことが心配になり始めた。すると御剣は首を振って、大丈夫だ、と告げた。
「私との電話を切った後、成歩堂がすぐに君の故郷の方へ向かったようだ。先程春美くんは無事保護されたと連絡が入った」
「そ、そうですか、なるほどくんが……」
 真宵は今度こそ、大きな安堵の溜息をついた。もう心配は何もなくなった。
 再び御剣にもたれかかる。御剣は真宵の背中をさすってくれた。たったそれだけのことが嬉しくて、真宵はまた涙が出てきた。
「もう、駄目かと思った……あたし、このまま、あいつのいいようにさせられるんだ、って……」
「もう、大丈夫だ。君を傷つけた男を、私は決して許さぬ」
 御剣の声は低く、思わず震え上がりそうになるほど怖かった。御剣は相当成志に対して怒っているようだ。しかし真宵にとっては、その怒りがむしろ頼もしかった。
 真宵は御剣から離れ、御剣の顔をじっと見つめた。御剣も同じように視線を返してきた。真宵は涙を拭い、はっきりとした口調で御剣に言った。
「あたし、もうお見合いなんて絶対にしません。みつるぎ検事以外の男の人となんて、結婚したくないもん」
「ま、真宵くん……」
 御剣は少し驚いたようだが、すぐにうむ、と頷いた。
「それは、私も同じだ。君が他の男の手に渡るなんて、とても耐えられない」
「うん。あたしだって、やだよ。みつるぎ検事じゃなきゃ、絶対にいやだ」
 御剣は真宵の肩に手を乗せた。そして、その手に力を込めた。
「君のことは、誰にも渡すつもりはない。君を手に入れようとする男が現れたら、私は全力でそれを阻止するつもりだ」
「うん、ありがとう、みつるぎ検事」
 真宵は再び御剣の胸に顔を埋めた。御剣も先程より強く、真宵を抱きしめた。まるで、決して離すまいとするかのように。
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