その声が聞きたくて

 闇が空を覆う夜。御剣怜侍は自分の部屋で一人、次の事件に関する資料をまとめるため、パソコンのキーボードを叩いていた。
 キーボードを叩く無機質な音だけが、静かな室内にかたかたと響いている。
 少し打って、傍らに置いた紙の資料を見つめる。その内容を確認した後、もう一度タイピングを再開する。
 それを何度か繰り返した後、突然、御剣の携帯電話が鳴った。
 御剣はパソコンから離れ、充電器に差し込んでいた携帯電話を取り上げると、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あっ、怜侍さん。あの、今、忙しい?」
 相手は真宵だった。今は倉院の里で、御剣とは離れて暮らしている。
 遠慮がちに尋ねてきた真宵に、いいや、と御剣は言った。
「構わない。何だ?」
「今週末のこと、なんだけど。次は、ええと……どっちが行くんだっけ?」
「次は私だ。私がそちらへ帰る」
「あ、それで良かったんだね。ちょっと、確認しておこうと思って」
 真宵は安心したように言った。
 御剣怜侍と綾里真宵は婚姻関係にある。だがお互いの事情で、今は離れて暮らしている。初めは、二人とも一緒に暮らせる道を探すつもりでいた。だが、御剣が倉院の里にいては検事の仕事ができないし、何より霊媒師に対する御剣の感情は複雑なもので、倉院の里に住むことにずっと抵抗を感じていた。かといって、真宵が倉院の里を離れるわけにはいかない。彼女は倉院流霊媒道の家元なのだ。
 二人は話し合いに話し合いを重ねた。その結果、別々に住むことに決めた。その代わり、週末には交代で、お互いのもとを訪問し合おうと決めたのだ。
 結婚しても一緒に住まないということに、御剣は初め、抵抗があった。だが、それももう慣れた。週に一度真宵に会える日が、何よりの楽しみになった。仕事で辛いことがあっても、その日のことを考えれば、御剣の心は晴れた。
「そうだ。怜侍さん、何か食べたいもの、ある?」
 電話越しに、真宵がうきうきとした声で尋ねてくる。御剣はしばし思案した。
「ム……改めて訊かれると、迷うな」
「なんでも好きなもの、作ってあげる。だって怜侍さんが帰ってくる日だもんね」
 真宵は本当に嬉しそうだ。御剣も口元から笑みをこぼしながら、答えた。
「なら、君のみそラーメンが食べたい」
 みそラーメンは真宵の大好物で、かつ、真宵の作る料理の中で、最もおいしいものだった。御剣も何度か、彼女の作ったみそラーメンを食べたことがある。あの味を思い出し、御剣は思わず唾を飲み込んだ。
「ふふっ。じゃ、楽しみにしててね。腕にヨリをかけて作るから!」
 真宵の張り切った声が、御剣の耳の中で響く。ああ、と御剣は答えながら頷いた。
 週末の楽しみが、また一つ増えた。真宵のみそラーメンを食べること。
 楽しみが増えるたび、御剣は、真宵に会いたくて仕方がなくなる。ホームシックとはこういう気分のことを言うのだろうかと、御剣はぼんやり考える。
 繋がったままの電話からは確かに真宵の声が聞こえるけれど、それだけでは明らかに足りないのだ。
「真宵。寂しくはないか?」
 御剣が確認するように尋ねると、元気な声が返ってきた。
「ぜーんぜん! ヘイキだよ。あっ、もしかして怜侍さん、あたしに会えなくて寂しいの?」
「ム、そういうことではないが……だが、寂しくないなら良かった」
 御剣は安心してため息をついた。だが、同時に、どこか寂しい気分に襲われる。
 そんなはずはないと分かっていても、湧き上がる思いがある。もしかしたら、真宵には自分がいなくてもいいのではないかという考えだ。
 馬鹿げた考えだ、そう思っていても、一度浮かんだ考えは、簡単には消えない。
 確認の意味も込めて、少し、驚かせてやろうか。御剣はすぐ、浮かんだ考えを実行に移した。
「やはり、今週、そちらに帰るのをやめようか」
 案の定、驚いた真宵の声が聞こえる。
「えっ! な、なんで?」
「君は、私がいなくても寂しくないのだろう?」
 携帯電話を耳に当てたまま、御剣はデスクに戻った。資料たちは作業中のまま、御剣の帰りをじっと待っている。今日は木曜日。明日仕事に行けば、次の日は休みだ。
 御剣はいたずらっ子になったような気分だった。自分はどちらかというと、今まで真宵の一挙一動に戸惑うことが多かったが、たまには真宵を戸惑わせてみるのも悪くはない。
「な、なんで、そんな意地悪なこと、言うの」
「私は君に、意地悪をしているつもりはないのだが」
 白々しい言葉だ。真宵がうう、と唸る声が聞こえる。
「やだよ、怜侍さん。帰ってきて……」
 少しの間の後、絞り出すような真宵の言葉が聞こえてきて、仕掛けた側の御剣も少々驚く。
「全然寂しくないなんて、そんなことない。あたし、いっつも週末に怜侍さんと会うの、楽しみにしてるんだもん」
「本当に?」
「ほんとだよ! だって、そうじゃなきゃ、電話なんかかけたりしないよ!」
 涙混じりの声で、真宵は訴えるように言った。
 少しやりすぎたようだ。御剣は一つ咳払いをして、真宵に謝った。
「すまない。君が全然寂しくないと言うから、つい意地悪をしてしまった」
「じ、じゃあ、ちゃんと帰ってきてくれる? 約束する?」
「ああ、約束する。私も君と会うのを、毎週楽しみにしているのだ。会わないなんて言うはずがない」
 御剣ははっきりとした声で言った。すると電話口の向こうで、真宵が安堵のため息をつくのが聞こえた。
「良かった……じゃあ、週末。ちゃんと帰ってきてね、怜侍さん?」
「うム、もちろん。君のみそラーメン、楽しみにしている」
「うん。おいしく作るからね!」
 真宵の声が、やっと普段の声に戻ってきた。御剣は安堵しながら、先程の自分の行動を少し反省した。
 やはり彼女は元気なままいてくれるのがいい。彼女の元気さ、明るさが、御剣の心の暗い部分に光を与えてくれるのだから。それに気付いたからこそ、御剣は彼女と契りを結んだのだから。
「じゃあ、また週末に。それでは、……そうだな、君から切りたまえ」
「えーっ、なんで。怜侍さんから切ってよ」
「いや、君から……」
「ううん、怜侍さんから――」
 そう言いかけた真宵が、言葉を止めて笑った。
「あははっ。なんだか、あたしたち、コイビトみたいだね。電話、切りたくないから、相手に切らせようとするの。ドラマで、よくあるよね」
「確かに、そうだな」
 夫婦の契りを結んだはずなのに、と、御剣も思わず笑う。
「じゃ、分かった。あたしが切るね。いい?」
「うム。……その、真宵」
「なに?」
「愛している」
 一瞬間が空いて、真宵の声。
「あたしも大好きだよ、怜侍さん。じゃあね」
「うム」
 今度こそ、ぷつんという音がして、電話が切れた。
 御剣は携帯電話を充電器に差すと、デスクに戻って作業の続きを始めた。
 作業をしながら、ふと、真宵のことを考えた。真宵の声が、耳の中で蘇って響く。先程聞いたばかりなのに、急にまた真宵の声が聞きたくなった。
 ふとディスプレイの端に表示された時間に目をやって、御剣はため息をつく。午前零時をまわったところだ。真宵はもう、眠っているだろう。今から電話をかけても、真宵はきっと出ない。
 気晴らしに音楽をかけてみたが、御剣の気が紛れることはなかった。美しい音楽よりも何よりも、御剣の心に直接響く、真宵の声が聞きたい。
「あと一日、だな」
 御剣は机の上に置かれた卓上カレンダーを手に取ると、今週の土曜日のところにペンで大きく印を付けた。
Page Top